人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

PRESENSE OF THE LORD

2021-08-30 10:07:02 | 映画・音楽など
「僕はついに生きるべき道を見つけた
前には出来なかった
僕には多くは与えられない
しかし、どんな扉も開けられる
誰もがその秘密を知っている
誰もがそれがどういうものか知っている...そう、そう、そう...
僕はついに生きるべき道を見つけた
主のみ顕れの中で...
Presense of the lord (by Eric Clapton)」

先日、私が昭和46年、中3の頃買おうと思っていた(というから50年越しiで)、ロックのレコードを買いました。
それは、アート.ロック(死語。それがどういうロックを指していたかは、よく分からなかったですが、当時はその呼称が通用していた最後の頃だったと思います)の騎手「クリーム」の「エリック.クラプトン(g)」と「ジンジャー.ベイカー((ds)」、同じく「トラフィック」の「スティーブ.ウインウッド(vo、kb)」と後よく知らない「リック.グレッチ(b)」らにより1969年に結成され、スーパー.グループとして話題になった「ブラインド.フェイス」が残した唯一のアルバムです。
当時、そういう触れ込みのこともありましたが、その"アート"しているレコジャケに引かれたところもあったと思います。
で、聴いてみると、やはりというかクラプトンとウインウッドの個性が微妙なバランスで溶け合っているという感じで、同時にこりゃ長くは続かないな、との感も伝わってくるものでした。
その中で一際耳に残ったのが「プレゼンス.オブ.ザ.ロード」という曲で、クラプトンの自作で、その後の彼の持ち歌としても知られているらしいです。
ロックの曲の題名など「世界の終わり」だろうと、なんだろうと気にならないのですが、じーっとその英語のスペルを追っていたら...
おおi..."主の臨在i"...これは、ヤバいi、シビレる~...じんじん、と...
そりゃあ、クラプトンの泣きのギター、ウインウッドのソウルフルな歌も勿論シビレますけど...このタイトルから"来て"しまったのですi
音楽を聴いていてこんなことになるなんて無いですよ。フツーはありません。
キリスト教の集まりにも行ったことあり、こういう内容の讃美歌を歌ったこともありますが、わざとらしいし、そういうのは頭の方で先にセットされてしまうのか、そんなことになったことなどありません。
ロック音楽は、一寸不意打ちだったってことでしょうか...予想だにしてませんでした。
こうなってしまうのは多分私だけでしょう。"主の臨在i"..."現臨"でも何でもいいですが、これは、強力なマントラに違いないi
もっとも我々日本人と違って、欧米の人には別にスピリチュアル、宗教的なニュアンスで無くともこういう言葉は使われるようで、クラプトンなどは、"神とかは関係無くて、新居を買った時の喜びを歌ったんだ"、とか言っているらしいです。ホントかなあ?
多分、盲信(ブラインド.フェイス)と思われたくなかったんじゃないですかねえ...
全くアカの他人を寄せ付けない、私だけの理屈抜きに惹かれてやまないものとの交流、これをホントの盲信と言うのだろう...
(それにしても、個人的にはスティーブ.ウインウッドの歌の方がいいですi)
コメント (4)
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言い逆らいの証

2021-08-28 09:24:12 | 独語
何がやって来るって?
そいつがやって来たらどうなると言うんだ?
そんなに有難いことなのか?
こちとら有難いことなんか何にもありゃしないi
こんなご時世に何とお目出度いこったi
感謝しろ、だなんだって、有難くもないのに、有り難がることなんて出来るかi
そういう心だからダメだなんて、そういう心なんだからしょうがないi
ひん曲がった心をまっすぐにするのは、ユリゲラー(超能力者)でも出来やしないi
やって出来そうなことで、何一つ出来たことなどないi
何が出来る?
やらなきゃ仕方のないことならいつだってやっている、デキルi
出来るともi...機械並みにね...
いやあ、そろそろスクラップかな?
"やります、デキます"...そしてポンコツ...
有難い話などもう沢山i...サッサと消え失せろi
でも、そいつはやって来るんだって?...頼みもしないのに?
有難迷惑i
そいつが来たら有り難くって、感謝の気持ちが溢れてくるのか?
そんな心になんてなれないものがそんなことになってしまうのか?
出来ないことでも出来てしまうのか?
そんなことにでもなってみろi
太陽が地球を回るだろうよi
コペルニクスが皇帝になるだろうよi
このオレが大地にひれ伏して、感謝の涙で濡らすだろうよi
...
こういう言葉ならいくらだって出てくるさi
なーに、みんなデタラメi
どっかから出てくるものに任せてるだけだよi
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生まれつきか生まれ変わりか?

2021-08-26 11:44:01 | 雑感
人間は生まれつき、生来から愛、平安に与れる神の子のような性質を有しているのか?
真我というものは、人間の本来性なのか?
最近の私は、ラマナ.マハルシがしばしば述べていたように、真我であることは、人間の自然な状態、本来性によるもの、というようなことに言及することが多いのですが...これは老子のタオイズムだとか、日本神道でも大体そのような言い方をしているようです。
しかし、キリスト教などでは、原罪というものと引っかけて、生まれつきの人間は、肉(自我)の思いから抜け出すことが出来ず、主なる神、キリストへの回心によって生まれ変わる経験を経なければ、そのような幸福に与ることは出来ないと説かれたりしているのです。
あ、そうそう...神、キリストというものは、生まれつきの人間から見れば"絶対他者"なのであり、"私は私でないほど私になる"、なーんてことも私は思い出したように書いたりもするのでした。
私のこうした二重人格のような矛盾性は、おそらく生来からのものでしょう?
だって、この相反するような言葉を発することに、何らの不自然さも感じていないのですから...
このことは、初めてあの恩寵の光を受けた時に、感じさせられたことがそのままが物語っていることなのです。
どっちも本当i...あれこれ、理屈を捏ね回してそういう結論を得たんじゃなくて、そう感じちゃったんだから本当ですよi
何度も言っているように、真我というものがどういうものかということは実は分からないのです。
これは光に照らされた時に、"思われた自分でない自分"に出くわしたことで感じさせられたものなのです。
それまでの思われた自分にとって、その自分は全く超越したものであり、未知のものなのでした。
しかし、同時にその自分はことごとくが既に知られていたのです。"思い出したi...これこそは本来の自分i...今、取り戻したのだi"、と...。
つまりは、生まれつきの思われた自分はそのままで、愛、平安、神と共にある幸福に与ることは出来ないのです。
ラマナ.マハルシでも、ある修練の必要性について説いており、その本来の自分は目覚めを通して開かれると述べています。
思われたままということは無い...思いは超えられなければならないのです。
しかし、又本来の私は、罪の子であることなど、我が主から示されたことなどありません。
"見よi、お前に現存しているものをi、そこに罪というものはあるのか?"
自然に主にある平安へと導かれてしまうのです。それが本来性というものでしょう。
そして、回心、目覚めへと赴かせること自体が、こういう本来性へと回帰させようとする見えない導きと言えるでしょう。
目覚めよう、帰ろうとさせる催しのようなものがある...それが本来から来るものであるからです。
真我的なものとは、未知のものであると共に既知のものであったのです。
もっとも、あなたにとってホントーに本当のことは、あなたの主に聞くことが一番です。それがもっとも自然なことでしょう。
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思いは神に帰す

2021-08-24 12:02:42 | 求道、探究
"私はいつもある修行をしているので、恐怖を克服したので、コロナに患かりません。自我も欲望もありません"
などと、平然と言っている人が居ますが、こういう人は自我というものが、どういうものなのかすらよく分かっていないのでしょう。
まず、そういうことを認めてくれる他者を想定しないと、こういう言葉は出てこないものでしょう。
"認めてもらいたい、自分を誇りたい"、という思いがどっから来るのか...
考え、為そうとする自分、思われた自分からは分かりようがありません。
そして、そういう自分が修行を志そうとするのですから、どうしてもそれにより何かを得よう、何かの境地を目指そうとする思いに駆られて行きます。
それで何かを得たり、何かの境地に達するのかもしれないが、思われた自分が超えられるということはないでしょう。
(おそらくは、"無"だとか"空"、といったことなどにも思いが馳せて、それを目指そうともするのでしょうが、多分、その内実も分からずにそう思い描かれているだけでしょう)
こういうことを何十年も続けていると、自分が如何に何かを得たか、進んだかといったことを誇りたい気持ちを捨てきれなくなって、ますます自我性を強めて行ってしまいます。
こういう人は、そんなものは、一瞬にして無に帰してしまうことがある、ということなど思いも及ばないことでしょう。
しかし...こうなってみて初めて"思いを超える"、ということがどういうことなのか分かる...かもしれません。
たとへ、何十年もの修行の成果がご破算になったとしても、得たことを失ったとしても、進化したことが元に戻ったとしても、"無になった"んだからいいじゃないですか?
別に、修行というものを否定している訳じゃないですが、こういう"裏側"の消息と隣り合わせのもの、ということを知っておいた方がいいでしょう。
"すべてが無に帰す"ということは、考え、為そうとする自分には、何も帰せられないということ...つまりは、思いを超えさせるもの、そういうものに出くわさなけりゃ、何も始まってこないということです。
そして、そういう恩寵の光を受けて、考える自分の限界が示されるのです。
自分に纏わる思いが無に帰すということは、神に帰す、神に帰るということに他なりません。
ちっぽけな自分が何を求めても何も始まりませんが、神(的なもの)は求められるでしょう。神でも仏でも聖霊でも、そういうものにより頼むことしか出来ないでしょう。
その気が無い人とというのは、いつまでも考え、為そうとする自分により頼んでいて、堂々巡りを繰り返しているのです。
それが人間のサガというものなのか、私自身も勿論克服出来たタメシなどありません。
いや、だからですね、自分で克服しようなどということは...反面教師殿の言行に習って、我が身を省みることが出来る訳で...というか、じんじんと思いを超えて臨んで来るものに迫られるし...
今の時節は否応なしに、そういう在り方を見つめ直す契機が与えられているのを感じずにおれません。
見つめ直すとは、我々の思いを超えた光に照らされるということでしょう。

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現存するものと現れるもの

2021-08-22 09:51:46 | 求道、探究
日本神道など、神々の世界のことに関わる道では、当たり前のようにその神が実在しているように語られるようですが、言うまでもなく本当に実在しているかどうかは分からないのです。
分からないものを"実在するのだi"、なんて決めつけたりすると妄想に陥ってしまうでしょう。
とにかく、神界でも霊界でもいいですが、思いを超えた世界のことは、何一つ決めつけられるものはない、というのが私の実感したことです。
神は実在するかどうかは分からないけれど、一つ存在論的に実在するというよりは、疑いようのない実存、現存、現臨(こういう風にしか言いようがない)というものがあるのです。
私など、これを仮に神と呼んだりするのですからイイカゲンな話ですね。(イイカゲンでいいじゃないかi、分からんのだから...)
仮に...ということは姿も見えない、名付けようのないものを、形をもったものとして、名前をもったものとして、それらをイメージ出来るものを"借りて"、"そういうものに見立てる"ということをしたりします。
神々というものは、太古の昔の人間だったのか、どうかも分からないことですが、我々人間の世界は、諸々の時所位などの縁故というものと関わっているものなので、それに応じたものを借りることで、より身近なものとして感じられるようになるのです。
人間はそもそも縁を借りて生まれ、生きているものでしょう?
私には、こういう理解の仕方というものは昔から常識です。この常識を弁えないから妄想ごとで頭が一杯になってしまうのでしょう。
このように、現存するものと、仮(借)に現(表)れるものとを区別することが大事なのです。
そのことがひいては思いの世界と、それを超えた世界との違いを弁えることにつながるでしょう。
だからと言って私は、現存するものの方が真実で、相対的現れの世界は、幻想だと言っている訳ではありません。
例えば、私にとっての主なる神をOOの神に"見立てた"として、それを幻想だと言い切ったり出来るでしょうか?
我が主は、(他の人にはどうか知りませんが)けっして幻想なんかじゃないですよi
これはどういうことかというと、主なる神に現存、現臨するものを感じるかどうかということ...言い換えれば、現存しない神は、私の主なる神ではないということです。(私の実存と直結しない他の神々のことは知りませんが...)
つまり、思いを超えた神的なものは、相対的仮現の世界をも貫いて現存、現臨するということですi
こういう実感は、おそらく相対を超えた根源の世界だけからはもたらされないだろうと思います。
私は相対的現実を背負って生まれ、生きているのだから...
ここに、相対的現実に絶対的神的実在が顕現するという予感がある...。









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