人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現象と現実

2024-09-21 09:38:53 | 意識、照明
人間にとって意識というもの、意識的であることが如何に重要であるか、ということは再三言って来ました。
意識したままが自己であり、人生であり、世界であると言っても過言では無いのです。
ですから、人生観とか世界観とか言うけれど、それをどう考えるかというより、すでに意識下では観られていると言ってもいいのです。
であるからして、意識次元で自分という個人は居ない、肉体は無いと感じたらそれは無くなるのです。...って、そんなことはなかろう!...
あなたは、”私は居ない、肉体は無い”、なんて言っている覚者気取りの人間を前にして、現にその存在を見ることが出来るのですからね。
”世界というのは、実は無いのですよ!”、...つったって、どの世界で言ってんだ!、ってもんでしょう?
だから、そういう”ナイ、ナイ”信仰を信じようとしたり、妄想したりするのは、ただそう思っている、思考次元のものに過ぎないのです。
しかし...これが意識次元でそう感じられたなら...それは例えば、自分という個人は居ない、と感じられたら、現実にそう感じられるのです。世界についてもそのように感じられてもおかしくありません。
ここでいう現実という意味は、先の現象として在るように感じることとは根本的に違います。
といって、これはもう、言葉では言い表せないもので...直に、目の当たりに、アリアリと...実存する、現存する...と、こういう風に言い表すしかないようなものです。これがリアリティというものなんだ!
これは、しかしこのように客観的存在について言われるものでなく、主観的な世界のものとして片付けられても仕方ないものではあります。
だけど、よく考え、そして感じてみて下さい。あなたが客観的に見て、感じているものに、あなたは本当にリアルな現実というものを感じられるでしょうか?、その存在は、本当に疑うことが出来ないものなのでしょうか?
本当にリアルな現実の前では、消え去ってしまうように感じるものではないのか?
本当にリアルに感じられなければ、一体何が、どこに現実があるだろうか?
意識次元で感じられる現実は疑うことが出来ません。それが取りも直さず、思考次元を超えているということに他ならないのです。
又、通常現象的なものとして理解されている現実と、意識的な現実とは違うと言いました。しかし私はそこに現象化の可能性は秘められているように感じてならないのです。そのすべてが、あるいはどの部分が、ということは分からないのですが...又(これは、ベルジャーエフも同様のことを言っていましたが)、その意識下で感じたままが現れるとも思えないのですが...何にせよ、現象と現実は一つになるかもしれない、ということです。これは、普通に理解されている現実化ということでしょう。
それは、おそらく”意識に感じたものは、消え去るものでない”、というリアル感から来るものでしょう?
それをもたらすものは、言うまでもなく、私、我々ではありません。それは、我々を超えたもの、神のみ手にゆだねられているのでしょう。
そして又、私はそういうものの意志を感じて、かく言うのです!
ついでに言おう!...”お前が感じたままが、人生、世界なのだ!”、と、私を超えたところからこのように示されているのをいつも感じているのです。それは私の自由と切り離されてはいないのです。
そして私の自由意志的なものは、神的な意志へと向かわざるを得ない!...
自己実存と神的現存は一つ!
そこに現象と現実の秘密が隠されているのでしょう!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識が向いたままが人生

2024-08-11 09:43:51 | 意識、照明
意識するとか向けるとか、いつも言っておりますが、人間の在り様は、思考するか行動することしかない、と強く思っている向きには、一寸分かりにくいでしょう。
それは単純に言えば、あなたの気というもの、そう、“気が向く“とか“その気がある“、“本気“というものの根っこにあるようなものです。
やる気というものとはちと違いますよ。やろう、為そう、しかして得ようということとは、直接結びつかないのですから!
思おう、為そうとするパッションが大勢な人には分からない!...例えば、私がチョイと知っている、長年五井先生に従って宗教、祈りの道を歩んでいるという、反面教師の画伯などはどうもそういう傾向が強く感じられます。1ミリ先でも前に進むように為そうと努力するんだそうです。暑いのにご苦労さんなことです。
私なんかには、何故そういうところに宗教、祈りの道が開かれて来るのか?、てんでに分からないのですが...きっとこれまでの人生で自分が思い、為すことで挫折を味わったことが無いのでしょう?
それが幸福なことなのか、そうでないのかということは、他人の私には分からないし、どうでもいいことなのですが...先のこともあって宗教、祈り、特に五井先生絡みでつい余計なことを言いたくなる次第なのです。
もっとも、この御仁、最近そうやって、あっちに脱線、こっちにスコタン、と色々なカルトっぽい教えなどを信じ、やって来たものの、どうやらそれが迷いだったことに(ようやく)気付き始めたようなのです。でもやっぱり何かを為すことに飽くなきパッションは持ち続けているのでしょう?
そうしたい、そう望んでいるのだから、こればかりはしょうがないことなのです。(他人や、世の中や、サタン、闇の勢力のセイにするなよ!...本気で神サマのセイにしたら?、天国か地獄かどっちかだろう!)
気がある、向くということは意識がそうなっていることに他ならないのです。
そうなっていないことは、人間何も赴かないし、行動出来ません。
例えば、神を求める、神と一つになりたいと望む...漠然と思っているだけじゃなくて、本気で望む。
それに対し“本気出せ!“、なんてのは余程ズレた物言いですよ。それは、実に主体的な在り方なのですから!
その本気というのは、どこから来るのか?...そこで、思っているだけじゃダメだってんで、神を求めて、何かの修行を始めたりする、つまりやろうとする...
しかし、どうもその修行には気が向かなくなるかもしれません。それでも目的はその先に見据えられているんだからとやり続ける...何かを得られるまで!...
そうやって、ずうっと修行をし続けてる人って居ないでしょうか?
気が向かないことをいくらやっててもしょうがない。形式化、惰性に流れるだけでしょう。そおして、先にあったものもいつしか見失い、脱線し始めるのではないですか?
だけど、あなたにはその神を求めることの最初から、そこにそう求めてやまないものを感じているあかもしれません。
それがそう意識が向けられていることに他なりません!...そこに、何がしかの愛、安らぎというものが感じられないでしょうか?...これがそう向けせしめるものなんだ!
で、何かの修行をやって何を求めているのでしたっけ?...それを求めても得られないものは、既に与えられていることに気が付かなければなりません。
それが意識的になることなのです。そのことをもっと深く意識する、味わう...その他に何かの方法なんてあるか?!...で、こういうことは、思い、為そうとする自分だけからは絶対に出て来ない、開かれて来ないことは言うまでもありません。
“いや、そんなことではダメだ、行動しなくては?“、と思いたがる、やりたがる向きは、思考を超えた、意識次元が開かれることがどういうものなのか分からないのでしょう。
それも、本人がそうなってんだからしょうがありません!
そうなっているまま生きているのが、その人の人生なのだから!
意識が向いたままが人生なのです!...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上から示されて分かること

2024-08-07 09:46:22 | 意識、照明
私は生来から自意識が強く、自己中心的、エゴイストなんです。
これまで、どれだけ他人を苦しめ、傷つけてきたか分かりません。
だけど今は、それを克服して、調和の取れた生き方が出来るようになりました...な~んて、そんなこと言える訳ない!
しかし...これは自己義認的、保身的な言い方になりますけど、私はそういう私のエゴイストであることを自覚している(つもり)です。
だから、そのエゴというものが、どういうものかが分かっている(つもり)なのです。
それは、まず反面教師だとか、他人のアラを探してたら分かるんですよ!..“.ふはは、ああなっちまったら、オシマイだ!、オレは、アイツとは違うんだ!“って、ホラ、エゴだろう?
そうです、そういう人間をミセシメにして、エゴの何たるかを見ているのです。
エゴは、自分の正しさ、優秀さといったものばかり意識していて、その闇の部分、欠点を見ようと、受け入れようとしません。そうやって、自分も他人も欺く。
そこが私とは違うんだ!...私は出来ちゃうんですよ~...って、出来ないですよ!、出来たタメシなどありません。
これはね、私が思い、為そうとすることからは、絶対に、ゼッタ~イに出て来るものじゃないのです。
それは、自覚するしないに関わらず、私を超えたものからの光のようなもの、照明が当てられることによるのです。
その場合は、他人、ミセシメは関係なく、どこまでもその闇の部分も含めた私自身に当てられるのは言うまでもありません。
他人を見て、比較しているのは、勿論エゴですよ!(分かっているでしょう?)
どうしてそのように、ありのままの自分を受け入れられるかというと、ここがもっとも肝心なことで、そこに愛、安らぎが感じられるからです!
もう、神的なものから来るものは、すべてがそういうものと言っても過言ではありません!
これが、おそらくありのままの自分を受け入れられない人間が感じているであろう、神が自分の闇、悪、ダメさを暴き、裁くものでしかなかったなら、そこには地獄に落ちるような恐怖でしかないでしょう。
生来のエゴイストである私が受け入れられる訳など無いではありませんか?
その自分のエゴに対し、悩み、苦しみを感じている人、その闇から抜け出したいと望んでも、そう為そうとする自分の無力さを感じている人は、その愛、安らぎというものが、又その重く、苛む思いの絡みから解放されるとは、どういうことかが分かるのではないでしょうか?
上から示されて初めて分かる!
そう考えると、自分がエゴイストだろうとなかろうと、それを克服しようとしまいと関係ないではないか?
神のあの、すべてを見透す光の前には皆同じではないか?
というか、このバカバカしい世の中に生まれ、生きてきて、エゴイストでない人間など一人も居ないのではないでしょうか?



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向き合うこと

2024-06-16 09:35:07 | 意識、照明
意識的になる、意識を向ける...
毎度のことながら分かりにくいですね。
我々にとり、まったく当たり前すぎるように根本的な在り方であるにも関わらず..
では、意識的でない在り方がどういうものかについて示してみましょう。
その典型的な例は、スマホとかに夢中で前を見ないで歩いていたりすることです。
スマホに意識が行ってるから前を見てないということでもありますが、そんな分散した在り方はとても意識的なこととは言えません。
第一、意識的になっている、向けるなんて言うまでもなく、それは前を向いているということじゃありませんか?
これは、物理的に前を向くということだけでなくて、”向き合う”ということなんです。自分に向き合う、神に向き合う...
本当の自分が、神が何かは分からない...だったらその分からないことに向き合う...
私は一寸”神に意識を向ける“とか、よう向き合えないことを言い過ぎたかもしれませんが、言わんとしていることはそういうことです。
そうすると、分散的でない、分別的でもない、観念に浮いたものでない、何かに根付いたもの、落ち着くもの、自己と一枚になっているものが...その、つまり意識されてくるのです。(イヤ、もう当たり前すぎること、根本的なことは説明出来ないんだって!...何かを指し示す説明が答えになってしまう!...)
だから、意識的になるもならないも無い...なっているのです!
これはですね...これが又、そうならないと分からないことなのですが、そうさせるものがあるからそうなるのです。
だから、そうさせるもの(これを神、神的なものと言っているに他なりません)に向き合えばいい!...
要するに、そうなんだ!...向き合うということは、こちらとあちらが向き合うということなんです!
これは、勿論思考を巡らす、考えることじゃありません。考えたって分からないし、そのものに向き合うということがありません。
分からなくたって、向き合える、意識的になれる...否、なってくる!
これは、ほんの端緒として、意識的になろう、向き合おうという意志想念に働きかけるということがあるだけで、すぐに自動的な意識に移行してゆきます。
自分に向き合う、神に向き合う...んん...どうしても切り離されない!
これに特別な教え、メソッド...別に仔細は無い!

町を歩いていて、もう本当にゾンビが歩いているように意識的になっていない人を多く見かけます。
段々人間が人間で無くなって行くのでしょうか?
いいや、見える世界は確かにそのように映るのかもしれません。
しかし、私は数年前まで上記のようなことなどとても語ることなど出来なかったのです。
段々私は自分、自己実存に又、神的なものに向き合えるようになってきたのです。
これは、修行などとは無縁な私の何かでそうなるなんてことで説明がつかないことですよ!
自分に、神に向き合えば...一方で今が“そうなってくる、なっている時代“であることをヒシヒシと感じずにおれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

持続的な幸福と意識の流れ

2024-05-12 09:45:22 | 意識、照明
昨夜は、思いがけずに“持続的な幸福“が顕わになるということに与ったのでした。
一寸、楽屋話みたいで分かりにくいかもしれませんが、発端は、いつもコメントを下さる「のしてんてん」さんのブログで、至福感が消えてしまう、持続的な幸福というものはあるのか、という話で共感するものがあり、私は“人間存在は、表層の思いと内奥的な意識の間を生きているもので、そこに意識を向けることにヒントがあるのではないか?“、というコメントをしたのでした。
ところが、それから私のブログのコメント欄を交えて、何度かやり取りを重ねているうちに、次第にその私が提起した問題から逸れて、何だか抽象的な言葉のキャッチボールをやっているような様相を呈して来たので、“幸福が逃げてゆく...”というような感じたままの詩文を書いたりして、見解の相異もあるようで仕方ないな、と感じていたのでした。
ところがNさんも、実は先の共感点を持ち続けておられ、いつの間にかそこから逸れてしまったことに気付かれ、再び互いの接点を持ち合えたこと、そのことを確認することが出来た、というところからそういうことに与ったという次第なのです。
私は否応なしに、表層の思いと内奥的な意識の間に立たされたという感じになりました。
すると忽然と泉から水がコンコンと流れ出て来るようにも、持続的な幸福の意識の流れのようなものを感知したのでした。
これは、米国の哲学者ウィリアム.ジェイムスが説いていた、“意識の流れ“ということと関わるものと言えるでしょう。
それは、一時の有頂天のような歓喜の爆発のようなものでなく、それは確かに例えば泉からの水の表れが、その地下では絶えない水流を感じさせるような、持続的なものだったのです。
私は正にこうしたことに触れようとしていたのです。そして、ここから意識が逸れると、その幸福感から遠のいてしまうということも!
先の発端となった私のコメントは、覚醒体験のようなものに伴う、至福感というものとの関連で述べたものだったのですが、ここではそれと切り離しても理解出来るでしょうが、ちなみにそういうものは先の爆発的なものなので、消えてしまうように感じるものだ、ということを言い添えておきましょう。
そして留意して欲しいことは、ここでは、“如何にして幸福を持続させることが出来るか“、という話をしている訳ではないということです。
それに従うなら、そうやって持続させようという思いに囚われるから、その幸福の意識の流れが途絶えてしまうのだ、ということも又言い添えておきます。
事実は、表層の私がそのことを忘れていようと、消えたように感じていようと内奥の意識下では絶えずそうした意識の流れが続いているということであり、大事なことは、そのことに気付いているかどうかということでしょう。
それを捉えようとするのではなく、気付き、感じていたらいいのです。
又、Nさんは、幸福を感じているのは、表層の私か内奥の意識的な実在(?)か、ということを問題にされていたようなのですが、勿論意識下の、その別なる私のようなもののことは分からないのです。
それが顕わになることにより、表層のみに囚われている私では知覚出来ない、その思いを超えたものの消息を感じることが出来るということです。
これから得ようとするのでなく、すでに流れているものがあるから意識が向かうのです。
そして、そこには幸福が持続されているのです。
(以上のような貴重な経験に与る機会も、のしてんてんさんとのやり取り無しには出来得ませんでした。この場を借りて感謝申し上げます)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする