人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識と内なる世界

2024-11-21 09:19:19 | 意識、照明
あるブログで、意識は自分の内側、内的領域しか認識出来ない、という意味のことが書かれていましたが、そういうことは無いでしょう。
もっとも意識というものは、一般にまだ理解されていない部分が多く、決まった捉え方もなされていない(こういう現状でありながら私はやたらと意識という言葉を自分なりの理解のもとに使っているのです)ようで、同じ意識のことでもこのブロガーと私は、異なる意味合いで使っているのかもしれないのです。
私がいつもここで言っている意識というのは、思考、意志想念を超えた、あるいはその源となる精神領域のことなのです。
このブログ主さんは、自分の内側というものをどうも自分の肉体を境界にして、外側と分けて理解しているようですが、肉体があってその内とか外とか捉えていることは、私の理解では思考でそう捉えられている、ということです。
“肉体がある、脳がある、心は脳にある“、といった観念は言うまでもなく先入、固定観念なのです。勿論、その内の肉体感覚というものはありますよ。しかし、精神的なことになると...思考はともかく、意識は頭の中にあるという風に感じたことは私はほとんどありません。
そして思考が後退し、純粋な意識状態にある時は、肉体感覚も希薄となり、その内側、外側の境界もハッキリしなくなるのです。
ここで、自分の思いが超えられたように感じる訳ですが、それは思考についてもですが、空間的にも自分の外側という表現も出来るでしょうが、肉体を超えたものも認識されるはずなのです。
しかし、この自分の外に超えた感覚というのは、自分の内なるものと離れたもののようには感じられ無い、ということがここでの重要なポイントなのです。
即ちそれは、超越的にして内在的な自己というものが意識されるということに他なりません。
そこで、この内側、外側と区別される概念について、以前にも書いたことがありますが、私は
ほとんど肉体を境界にしたものとして、言い表すことはなくて、その場合の外というのは、自分以外の他者を通じてもたらされる知識、情報といったもの、言い換えれば、思考を通して伝わるものとしてそう言っているのです。
一方、意識的な状態というのは、人伝でない、直接性に拠るものであり、内的に感じられたものだろうと、先の意味で自分の外に、超えたものとして感じられたものだろうと、自分の中も外も内なる世界にある、という感じになるのです。
あたかも、すべてが神の現臨に包まれているように感じられるが如くです。
だからと言って、そのように自分の内なるものと外なるものの境界が無くなれば、いつも現臨に包まれて、愛、安らぎに与れるようになるとは限らないのですが...
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書かざるを得ないこと

2024-10-14 09:41:53 | 意識、照明
知ったことは、行いとして表さなければならない、と昔から世の中では言われたりします。誰かから圧を受けているように!...
中国の陽明学では、これに関連して”知行合一”と説いていました。
要するに、頭で考え、知ったりしていても何にもならないのだから、行わなければならないのだ、と。
しかし、何でも行動すればいいということにはならないですよ。
例の反面教師のように、”あ、やっちゃった!、軽はずみで不適切なこと書いちゃった!、削除しなきゃ!”、なんてのは、やらなければよかった、ってことになるじゃないですか?
こういうことは、考えることと行うこと(これ自体”行動パターン”として認識されているくらい、行動というものが重要視されているようであるが)しか認識されていない、世の中の人間の在り方に基づいた例と言えるでしょう。
ここには、いつも言うように、人間の在り方ということなら、もっとそれに直結した、根本的な意識的な在り方というものが蔑ろにされているのです。
例えば、幸福について考えるだけだったら、そう考えるだけですね。(ヘンな言い方ですが)
だから、それを得んがために何かをやろうとします。しかし、やんなきゃよかった、ってことになるかもしれないのです。
しかし又、考えなくても、行わなくても意識レベルで幸福に与っちゃったらどうしますか?
何かやり間違いにつながるような行動に移さなければならないでしょうか?
これは、自己の在り方として、既に決定されてしまっているのです。それは自分の意志を超えたところで、ということなのですが...
だから、考えなくても分かるではないか?...”幸福に与って在ること”が肝心なことなんだから、寝てようと、何かを始めようとどちらでもいいのです。
そんなことより、人間は何をしようかと考える、それを実行に移すことでなくとも、無意味でも何でも、何かをやっているものなのです。
意識的なことというのは、そういうあらゆる人間の在り方のベースとなるものなのであり、そこには、思考と行動という二元性は無く、その基層にあって統合されていると言えるでしょう。
つまり、意識レベルで幸福に感じているのなら、それについて考えているだけでも幸福なはずなんです。(皆さんもそういう経験あるでしょ?)
しかし、大体において、幸福に感じているのなら、ジッとしていられなくなるのが普通で、そうなると、何をやっても幸福なはずです。(でしょ?)
こうなると、”何かをやらなければならない”、なんて何かに縛られるような思いなどしなくても済むのです。(要するに思いの縛りから自由なことが幸福なことなんだ!)
先の陽明学の”知行合一”なんかは、(よく知らんけど)おそらくこういうことを言っているのではないかと思われます。
昔はとにかく、この意識のことは、よく知られてなくて、心とか精神のこととか、思考とごっちゃに理解されていたようです。
意識的なことは、在り方と直結していると言いました。だから、あなたが意識していることは、まんまあなたを映し出していると言ってもいいのです。(陽明学はこれを言っているのは確かなことです)
どうして、私は今日もこういうことを書いているのか?、んなことは分かりきったことではないか!
書いちゃうんだからしょうがない!...意識的なことは、”ねばならない”ことじゃなく”やらざるを得ない”、書かざるを得ないことなのです!...

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自覚と照明

2024-10-08 09:26:07 | 意識、照明
精神的な道においては特に、それのみならず日常生活の上で、自覚意識を持つことが如何に重要か、ということは論を待たないことでしょう。
自分が病気であるという自覚が無ければ、それを癒やすことが出来ないのです。
自分の性格の大きな欠点を自覚出来なければ、何かと生きる上で支障が絶えないでしょう。例えば自我性、エゴがやたら強いこととか...自覚出来れば歯止めがかけられ、修正が出来るのです。
しかし、よくよく考えてみれば、この自我性というのは分かりやすいですが、自我は自我を自覚することが出来ないのですね。自我に囚われていることは、言うまでもなくその限界を超えられないということなのですから!
自覚意識があるということは、それを超えたものから来るということに他ならないのです。
私はこれまで何度か、自己観察、自己をみつめることなどについて、それは自分を超えたものからの、私が”照明”と呼んでいるものから来る、ということを言って来ました。
この自覚作用は、より広い日常生活に溶け込んでいることであり、そのためか、私もこれまであまり気付くことが出来なかった(自覚出来なかった)ことなのです。
つまりそれは、我々が特に神的なもの、超越者といったものを意識せずとも、何気なく感じているもので、我々本来からあるものとして認識されているものなのでしょう。
だけど、それは我々の思いを超えたものに違いはないのです!...このことをもっと意識すれば、そのことが有りやかに、そう、自覚的に感じられて来るでしょう。
先のとおり、自覚があるということは、己の自我性を知ることが出来、それを克服することも出来るということでしょう。しかしそれは、正確には自己に照明が照らされることによってなされることなのです。
自我を克服しようとする人間は、反省、内省、自分をみつめることが出来ます。しかし、大抵それは、自分が自分をみつめることだと思っているのでしょう?
そうすると、元よりそれは出来ないことなので、出来ない自分にストレスを感じたり、自責の念に苛まれることになるのではありませんか?
しかししかし、それはあなたを超えたものからなされる!...これは、実に大きな福音と言わずして何であろう!
いやいや、”人間存在は、本来から一個なる自分を超えた、神的なものと一つのものであった!”、このことが福音なのではないでしょうか?
考える人間だけでなっている人間は、元より機能不全の自我性に支配されている状態だったのです。
いつも言うように、自分を超えたものに意識を向けることにより、いつの間にか、”自分には、いつも神的なものと共にあり、そこから光を受けて生きているのだ!”、ということを実感出来るようになるでしょう!...
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現象と現実

2024-09-21 09:38:53 | 意識、照明
人間にとって意識というもの、意識的であることが如何に重要であるか、ということは再三言って来ました。
意識したままが自己であり、人生であり、世界であると言っても過言では無いのです。
ですから、人生観とか世界観とか言うけれど、それをどう考えるかというより、すでに意識下では観られていると言ってもいいのです。
であるからして、意識次元で自分という個人は居ない、肉体は無いと感じたらそれは無くなるのです。...って、そんなことはなかろう!...
あなたは、”私は居ない、肉体は無い”、なんて言っている覚者気取りの人間を前にして、現にその存在を見ることが出来るのですからね。
”世界というのは、実は無いのですよ!”、...つったって、どの世界で言ってんだ!、ってもんでしょう?
だから、そういう”ナイ、ナイ”信仰を信じようとしたり、妄想したりするのは、ただそう思っている、思考次元のものに過ぎないのです。
しかし...これが意識次元でそう感じられたなら...それは例えば、自分という個人は居ない、と感じられたら、現実にそう感じられるのです。世界についてもそのように感じられてもおかしくありません。
ここでいう現実という意味は、先の現象として在るように感じることとは根本的に違います。
といって、これはもう、言葉では言い表せないもので...直に、目の当たりに、アリアリと...実存する、現存する...と、こういう風に言い表すしかないようなものです。これがリアリティというものなんだ!
これは、しかしこのように客観的存在について言われるものでなく、主観的な世界のものとして片付けられても仕方ないものではあります。
だけど、よく考え、そして感じてみて下さい。あなたが客観的に見て、感じているものに、あなたは本当にリアルな現実というものを感じられるでしょうか?、その存在は、本当に疑うことが出来ないものなのでしょうか?
本当にリアルな現実の前では、消え去ってしまうように感じるものではないのか?
本当にリアルに感じられなければ、一体何が、どこに現実があるだろうか?
意識次元で感じられる現実は疑うことが出来ません。それが取りも直さず、思考次元を超えているということに他ならないのです。
又、通常現象的なものとして理解されている現実と、意識的な現実とは違うと言いました。しかし私はそこに現象化の可能性は秘められているように感じてならないのです。そのすべてが、あるいはどの部分が、ということは分からないのですが...又(これは、ベルジャーエフも同様のことを言っていましたが)、その意識下で感じたままが現れるとも思えないのですが...何にせよ、現象と現実は一つになるかもしれない、ということです。これは、普通に理解されている現実化ということでしょう。
それは、おそらく”意識に感じたものは、消え去るものでない”、というリアル感から来るものでしょう?
それをもたらすものは、言うまでもなく、私、我々ではありません。それは、我々を超えたもの、神のみ手にゆだねられているのでしょう。
そして又、私はそういうものの意志を感じて、かく言うのです!
ついでに言おう!...”お前が感じたままが、人生、世界なのだ!”、と、私を超えたところからこのように示されているのをいつも感じているのです。それは私の自由と切り離されてはいないのです。
そして私の自由意志的なものは、神的な意志へと向かわざるを得ない!...
自己実存と神的現存は一つ!
そこに現象と現実の秘密が隠されているのでしょう!...
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意識が向いたままが人生

2024-08-11 09:43:51 | 意識、照明
意識するとか向けるとか、いつも言っておりますが、人間の在り様は、思考するか行動することしかない、と強く思っている向きには、一寸分かりにくいでしょう。
それは単純に言えば、あなたの気というもの、そう、“気が向く“とか“その気がある“、“本気“というものの根っこにあるようなものです。
やる気というものとはちと違いますよ。やろう、為そう、しかして得ようということとは、直接結びつかないのですから!
思おう、為そうとするパッションが大勢な人には分からない!...例えば、私がチョイと知っている、長年五井先生に従って宗教、祈りの道を歩んでいるという、反面教師の画伯などはどうもそういう傾向が強く感じられます。1ミリ先でも前に進むように為そうと努力するんだそうです。暑いのにご苦労さんなことです。
私なんかには、何故そういうところに宗教、祈りの道が開かれて来るのか?、てんでに分からないのですが...きっとこれまでの人生で自分が思い、為すことで挫折を味わったことが無いのでしょう?
それが幸福なことなのか、そうでないのかということは、他人の私には分からないし、どうでもいいことなのですが...先のこともあって宗教、祈り、特に五井先生絡みでつい余計なことを言いたくなる次第なのです。
もっとも、この御仁、最近そうやって、あっちに脱線、こっちにスコタン、と色々なカルトっぽい教えなどを信じ、やって来たものの、どうやらそれが迷いだったことに(ようやく)気付き始めたようなのです。でもやっぱり何かを為すことに飽くなきパッションは持ち続けているのでしょう?
そうしたい、そう望んでいるのだから、こればかりはしょうがないことなのです。(他人や、世の中や、サタン、闇の勢力のセイにするなよ!...本気で神サマのセイにしたら?、天国か地獄かどっちかだろう!)
気がある、向くということは意識がそうなっていることに他ならないのです。
そうなっていないことは、人間何も赴かないし、行動出来ません。
例えば、神を求める、神と一つになりたいと望む...漠然と思っているだけじゃなくて、本気で望む。
それに対し“本気出せ!“、なんてのは余程ズレた物言いですよ。それは、実に主体的な在り方なのですから!
その本気というのは、どこから来るのか?...そこで、思っているだけじゃダメだってんで、神を求めて、何かの修行を始めたりする、つまりやろうとする...
しかし、どうもその修行には気が向かなくなるかもしれません。それでも目的はその先に見据えられているんだからとやり続ける...何かを得られるまで!...
そうやって、ずうっと修行をし続けてる人って居ないでしょうか?
気が向かないことをいくらやっててもしょうがない。形式化、惰性に流れるだけでしょう。そおして、先にあったものもいつしか見失い、脱線し始めるのではないですか?
だけど、あなたにはその神を求めることの最初から、そこにそう求めてやまないものを感じているあかもしれません。
それがそう意識が向けられていることに他なりません!...そこに、何がしかの愛、安らぎというものが感じられないでしょうか?...これがそう向けせしめるものなんだ!
で、何かの修行をやって何を求めているのでしたっけ?...それを求めても得られないものは、既に与えられていることに気が付かなければなりません。
それが意識的になることなのです。そのことをもっと深く意識する、味わう...その他に何かの方法なんてあるか?!...で、こういうことは、思い、為そうとする自分だけからは絶対に出て来ない、開かれて来ないことは言うまでもありません。
“いや、そんなことではダメだ、行動しなくては?“、と思いたがる、やりたがる向きは、思考を超えた、意識次元が開かれることがどういうものなのか分からないのでしょう。
それも、本人がそうなってんだからしょうがありません!
そうなっているまま生きているのが、その人の人生なのだから!
意識が向いたままが人生なのです!...

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