「わが神、わが神なんぞ我を見捨てたもうた…」
イエス・キリスト十字架上の最後の叫びですね。
この言葉に対し、「イエスのような神と一つになった聖者がこんな言葉を吐くはずが無い…誤伝に違いない」という観方もあります。私も以前は”そうかな”と思ったこともありました。勿論本当のところはわかりませんが、最近の私はこれはイエスの最後の言葉であった、と取りたいという気持ちに傾いています。
人々からは救世主として崇められていたイエス…彼は世の中はおろか自分自身も救えなかった!
ブッダの最後は、人から貰った豚肉だかキノコだかを食べて食中毒で死んだと言います。
覚者ともあろう御方のこれはまた何という”不覚”…
私はこういう記録こそありのままの真実であってほしいと願っています。
いいや、これこそはあなたと私の真実に違いないのです!
救世主、聖者、覚者…凡俗の我々とどこが違うのでしょうか?
いや彼らは凡俗以下なのではあるまいか…
イエスは犯罪者でした。経緯は色々あったけど、自ら犯罪を認めたから極刑を受け入れたのです。
ブッダは実に薄汚い身なりをしていたという…腐臭漂う墓場の死人の衣をまとっていたといいます。
乞食以下じゃないですか!…落ちてる物を拾って食べてたら、そりゃ食中毒にもなるでしょう。
救世主、究極の悟達者…人生の勝利者とは程遠く、まるで敗残者じゃありませんか?
これは巷に溢れる、夢想的で光眩く、人間離れした超人みたいな事ばかり言っている、スピ界隈の言説への強烈なパラドックスですね。
人間はどこまでも人間…私は手放しで、無批判に”人間は神と一つのものだ…”などと言うつもりはありません。スピ界隈では、そういう観念ばかりが独り歩きしているのです。
理想のイメージばかりが先行して、無理に何かの教説を信じようとすれども、それは所詮観念の中の堂々巡り…
上ばかり見ていないで、自分の足元を見やると…どうにもならない現実が…
現実の前に我々は厳かな審判を受け入れなければならないのです。
イエスやブッダの最後は、この現実の前に屈した、敗北した我々の姿そのものじゃありませんか?
同時にその生き様は、夢想家が夢見る眩い彼方の世界で無しに、この迷える人間の営みのど真ん中に、人間を超えた次元~喜ばしきおとずれが開かれる、という事を証しているのではないでしょうか。
それはこのダメな、ミジメな生の現実を受け入れたところに始まるのです。
それはどんな境遇にあろうとその契機がある、ということに他なりません。
現実を受け入れるとは、又”分からないものは分からない、信じられないものは信じられない”という全く構えや諂いや飾りの無い、ありのままにゆだねるという事でもあります。
誤魔化しの効かない厳しさの反面、ある意味こんな楽な事は無いでしょう。信じなければならない事からの解放…これは正しく救いに違いない!
一方、無理に何かの観念に自分を合わせよう、信じ込もうとして、信仰の呪縛にハマり…進むことも引くことも出来ず、どうにも立ち行かなくなって…ご苦労なことです。聖者に肖ろうと何ものかになろうとしたって、誰にもなれやしないのに…あなた以外には!
イエスやブッダの道とは、皮肉にもキリスト教や仏教など宗教信仰というものを丸ごとひっくり返すようなものだったのです。
それは彼らが何であったかで無しに、我々が何であるかという事を伝えているのでしょう。
イエス・キリスト十字架上の最後の叫びですね。
この言葉に対し、「イエスのような神と一つになった聖者がこんな言葉を吐くはずが無い…誤伝に違いない」という観方もあります。私も以前は”そうかな”と思ったこともありました。勿論本当のところはわかりませんが、最近の私はこれはイエスの最後の言葉であった、と取りたいという気持ちに傾いています。
人々からは救世主として崇められていたイエス…彼は世の中はおろか自分自身も救えなかった!
ブッダの最後は、人から貰った豚肉だかキノコだかを食べて食中毒で死んだと言います。
覚者ともあろう御方のこれはまた何という”不覚”…
私はこういう記録こそありのままの真実であってほしいと願っています。
いいや、これこそはあなたと私の真実に違いないのです!
救世主、聖者、覚者…凡俗の我々とどこが違うのでしょうか?
いや彼らは凡俗以下なのではあるまいか…
イエスは犯罪者でした。経緯は色々あったけど、自ら犯罪を認めたから極刑を受け入れたのです。
ブッダは実に薄汚い身なりをしていたという…腐臭漂う墓場の死人の衣をまとっていたといいます。
乞食以下じゃないですか!…落ちてる物を拾って食べてたら、そりゃ食中毒にもなるでしょう。
救世主、究極の悟達者…人生の勝利者とは程遠く、まるで敗残者じゃありませんか?
これは巷に溢れる、夢想的で光眩く、人間離れした超人みたいな事ばかり言っている、スピ界隈の言説への強烈なパラドックスですね。
人間はどこまでも人間…私は手放しで、無批判に”人間は神と一つのものだ…”などと言うつもりはありません。スピ界隈では、そういう観念ばかりが独り歩きしているのです。
理想のイメージばかりが先行して、無理に何かの教説を信じようとすれども、それは所詮観念の中の堂々巡り…
上ばかり見ていないで、自分の足元を見やると…どうにもならない現実が…
現実の前に我々は厳かな審判を受け入れなければならないのです。
イエスやブッダの最後は、この現実の前に屈した、敗北した我々の姿そのものじゃありませんか?
同時にその生き様は、夢想家が夢見る眩い彼方の世界で無しに、この迷える人間の営みのど真ん中に、人間を超えた次元~喜ばしきおとずれが開かれる、という事を証しているのではないでしょうか。
それはこのダメな、ミジメな生の現実を受け入れたところに始まるのです。
それはどんな境遇にあろうとその契機がある、ということに他なりません。
現実を受け入れるとは、又”分からないものは分からない、信じられないものは信じられない”という全く構えや諂いや飾りの無い、ありのままにゆだねるという事でもあります。
誤魔化しの効かない厳しさの反面、ある意味こんな楽な事は無いでしょう。信じなければならない事からの解放…これは正しく救いに違いない!
一方、無理に何かの観念に自分を合わせよう、信じ込もうとして、信仰の呪縛にハマり…進むことも引くことも出来ず、どうにも立ち行かなくなって…ご苦労なことです。聖者に肖ろうと何ものかになろうとしたって、誰にもなれやしないのに…あなた以外には!
イエスやブッダの道とは、皮肉にもキリスト教や仏教など宗教信仰というものを丸ごとひっくり返すようなものだったのです。
それは彼らが何であったかで無しに、我々が何であるかという事を伝えているのでしょう。