人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

聖者と凡俗

2016-10-30 18:00:37 | 雑感
「わが神、わが神なんぞ我を見捨てたもうた…」

イエス・キリスト十字架上の最後の叫びですね。
この言葉に対し、「イエスのような神と一つになった聖者がこんな言葉を吐くはずが無い…誤伝に違いない」という観方もあります。私も以前は”そうかな”と思ったこともありました。勿論本当のところはわかりませんが、最近の私はこれはイエスの最後の言葉であった、と取りたいという気持ちに傾いています。
人々からは救世主として崇められていたイエス…彼は世の中はおろか自分自身も救えなかった!
ブッダの最後は、人から貰った豚肉だかキノコだかを食べて食中毒で死んだと言います。
覚者ともあろう御方のこれはまた何という”不覚”…
私はこういう記録こそありのままの真実であってほしいと願っています。
いいや、これこそはあなたと私の真実に違いないのです!
救世主、聖者、覚者…凡俗の我々とどこが違うのでしょうか?
いや彼らは凡俗以下なのではあるまいか…
イエスは犯罪者でした。経緯は色々あったけど、自ら犯罪を認めたから極刑を受け入れたのです。
ブッダは実に薄汚い身なりをしていたという…腐臭漂う墓場の死人の衣をまとっていたといいます。
乞食以下じゃないですか!…落ちてる物を拾って食べてたら、そりゃ食中毒にもなるでしょう。
救世主、究極の悟達者…人生の勝利者とは程遠く、まるで敗残者じゃありませんか?
これは巷に溢れる、夢想的で光眩く、人間離れした超人みたいな事ばかり言っている、スピ界隈の言説への強烈なパラドックスですね。
人間はどこまでも人間…私は手放しで、無批判に”人間は神と一つのものだ…”などと言うつもりはありません。スピ界隈では、そういう観念ばかりが独り歩きしているのです。
理想のイメージばかりが先行して、無理に何かの教説を信じようとすれども、それは所詮観念の中の堂々巡り…
上ばかり見ていないで、自分の足元を見やると…どうにもならない現実が…
現実の前に我々は厳かな審判を受け入れなければならないのです。
イエスやブッダの最後は、この現実の前に屈した、敗北した我々の姿そのものじゃありませんか?
同時にその生き様は、夢想家が夢見る眩い彼方の世界で無しに、この迷える人間の営みのど真ん中に、人間を超えた次元~喜ばしきおとずれが開かれる、という事を証しているのではないでしょうか。
それはこのダメな、ミジメな生の現実を受け入れたところに始まるのです。
それはどんな境遇にあろうとその契機がある、ということに他なりません。
現実を受け入れるとは、又”分からないものは分からない、信じられないものは信じられない”という全く構えや諂いや飾りの無い、ありのままにゆだねるという事でもあります。
誤魔化しの効かない厳しさの反面、ある意味こんな楽な事は無いでしょう。信じなければならない事からの解放…これは正しく救いに違いない!
一方、無理に何かの観念に自分を合わせよう、信じ込もうとして、信仰の呪縛にハマり…進むことも引くことも出来ず、どうにも立ち行かなくなって…ご苦労なことです。聖者に肖ろうと何ものかになろうとしたって、誰にもなれやしないのに…あなた以外には!
イエスやブッダの道とは、皮肉にもキリスト教や仏教など宗教信仰というものを丸ごとひっくり返すようなものだったのです。
それは彼らが何であったかで無しに、我々が何であるかという事を伝えているのでしょう。





















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真のコトワリ

2016-10-29 19:41:56 | 独語
「沢山のさまざまな真理のあろうはずが無い
いくつもあるのはただ世間で、永遠の真理だと思っているものがあるのに過ぎない
人々は色々の根拠の無い考え方を組み合わせて
”これは真理だ、あれは虚偽だ”とこの二つのことを並べて言っているのである」
(スッタ・ニパータ第四章)

私の真理、あなたの真理
異なる見解…こちらが真理で、あちらは虚偽になるだろうか
無数の真理の主張…全ては虚偽ではないだろうか
そこに有るのはただ…我見への固執
真理を論証しようとする妄想
立証、確証…真理の武装
心は常に戦々恐々…どこに平安などあるだろうか
頭は納得しても、存在はちっとも頷いてはくれない

由々しき虚偽、異端邪説を暴いてやろうと、躍起になって…
お前も火の中へ飛び込むつもりか
自分だけはこの火炎地獄の業苦から免れているとでも…
此岸から対岸の火を見てるフリをしていまいか
何かを悟ったフリして…
ああ…涼風恋し…

何が真理で何が虚偽かは、あの”お照らし”にゆだねよう
照らされるままに映し出される真理、虚偽
虚偽は光に照らされて、隠れた真理を映し出す
真理、虚偽どちらも我が暗部を照らし出す
真理の太陽は無数の格子窓を通して各々を照らす
誰もがその恩恵に預かる
だが…真理は誰のものでも無い…誰も握ることは出来ない…
それは照射、反照されるのみ…
真理の太陽は我々のところに引き下ろすことなど出来ない
これこそが真のコトワリではないか
プルトニウムよりも恐ろしきは…身の程知らずの固執された我見…
我々の世界は真理のために燃え尽きてしまうのか

記録破りの高温続きの秋…
明日は寒風吹きすさぶとか…


コメント (2)
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生まれながらの宗教

2016-10-27 16:43:44 | 宗教
私は物心ついた時から人間というものは死なないものだと思っていました。
どうしてそう思っていたのかは全く分かりません。
とにかくこうして生きていることが、死と共に終わってしまうという事がどういう事なのか全く理解出来なかったのです。
それが5歳くらいの時、父の「人間は死んで灰になって、なにもかもオシマイ…」と幼い私の感受性にこれでもか、これでもかと無慈悲な宣告を告げるような死についての説明を受けた時は”僕の世界は終わった…”、”どうも生まれた世界が違う”ように感じたものでした。
私の”信仰”が最大の危機に見舞われたのですが、ずっと今に至るまで”死んで終わりの宗教”に改宗した覚えはありません。
又、これは多分に宗教的だった母の影響だと思うのですが、神様というものが居て、いつも守られていると信じていました。
全く自然に受け入れられていたのです。多分これは上記の私の古来伝来の?”死の無い宗教”とつながりが有ると思います。
ずっと後にこの古代宗教の起源らしきものを垣間見た事が有りましたが…
誰でも幼い頃こういうものが芽生えていたのではないですか?
これが家庭や学校などで、頼みもしないのに科学やら倫理社会やらの新手の信仰の強要が始まり、心象に自然に根付いていたものは、そうであるべきものに取って代わられるに至ってしまう訳です。
やがて人によっては、人生に苦難、問題、疑問などから所謂宗教に関わるものも居ることでしょう。
そこには物心ついた時から根付いていた信仰の香りも伝わっているかもしれませんが、自分自身が自由に感じ、信じられていたものが退けられ、周囲の声に従う事が当たり前の事のように慣らされてしまうところから、信じなければならない権威におもねることになってしまうのです。自己信頼の欠落と共に…
このように元々心象に根付いているものと、他から付加されたものとはまるっきり違います。
前者には確たる対象が無い(という事は自己と切り離されていない)ので、信じ込み、従う必要がありません。特定の宗教思想、イデオロギーに依らず、各宗派のような分離した形になることも無く、個々の内面に根差したものなので、共同的なものになり得ても集団化することは有りません。(この違いは微妙なもののようで全く違う事です)
このように我々が”後天的”な宗教に依拠してしまうのは、確固たるものに従いたいという要求からでしょう。だが他から与えられた確固たる信仰には生き生きとした精神というものがありません。
信じなければならないものとは、自体がアヤフヤなものだからこそなのでしょう。
そして信じ込むことで、生きた精神は変質したり、冷却したりします。
私が学生時代M教団に入信した時、ボンヤリと心根にあった神様が、確固たる教義として語られていることに、”そうなっていたのか…”という集団連帯感からくるような満足感、安心感も一時は有りましたが、本当の魂の平安というものは一度も感じたことはありませんでした。
やがて、そうした信仰生活に疑問、苦痛を感じ初め、本当の意味で求道を始めるようになったのは、私の心根に”先天的”な信仰が息づいていたからだと思います。
それは忘れられた魂の故郷からの音信でしょうか…
真の宗教信仰はその内なる楽園への回帰を呼び起こすものでしょう。
その感じ方、理解の有り様はそれぞれでしょうが、外から付加され、信じ従うものと違い、誰もが元々つながっているものです。
魂の無い人間は居ないのですから…
宗教も、信仰も数多有れど、こことつながらない如何なる宗教信仰もいたずらに自己の真態から切り離されるばかりです。
これからの宗教はその本来性に帰り、一人一人のものに還元されていくでしょう…。






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無の福音、普遍的福音

2016-10-23 11:59:00 | 人生の教師
ありし日の福音集会…
その場は聖霊のたぎる白熱の様相を呈していた!
檀上の人はうめくように呟いた…
「主様!…私はもう、これ以上語れません…」
そして…ただひれ伏しているのみだった…

私はこの光景が目に焼き付いて離れません。
キリストの霊に捉えられた小池辰雄先生の姿…
そして…このことを思い起こされた今…そうです!、この今…
言い表し得ない現臨の迫りを感じています!

ある人は言った「ただ意識を向けただけで、ある種の神的エネルギーに預かってしまうのですか、あなたは…あなたのように出来る人はいいですよ…」と…
違う!違う!違うっ!
私は全く取り柄の無い、何一つまともなことも出来ない人間なのです!今も。年が年だし、ずっとそうでしょう…
劣等感が強く、自意識過剰な私はいつも人の目ばかり気にしていました。
このダメな、デキソコナイの自分を変えたい…と望んでも、いつも虚しい空廻りばかりしていました。
そんな暗闇に喘いでいた私に光が差し込んで、”あるがままでいいんだよ…”という抗し難い力と共にある、声なき声に促されるままに委ねるだけだったのです。
私自身は何も出来ない…すべて上よりの力、恩寵に依っていたのです。
これは、ある意味、自分は為すことが出来、一歩一歩成長していって、霊的にも進化して行く道の放棄です。
世人は言います。”己に打ち勝て、持てる力を出し切ってこそ人生の勝利が有る”と…
だが…これは敗者の道とも言えるでしょう。これが勝利を目指している人にはどうしても伝わらないのです!どうしても”ヤル自分、為す自分”が居ないと気が済まないらしいです。だからいつもこうなる
”やってみれば…”
又こうも言う、”自分を見つめ直す”あるいは”本当の自分を探す”とか…これは私にしてみたら、ますます自意識の雁字搦め地獄にハマりそうな話です。どこまでもギューギューと自分に固着し続ける思い…自己そのものは限りある自己からはたどり着けない…目の当たりに出来ないものです。自己を超えて現前に臨むものに依らない限り…そして自我の絡まりから解き放たれ、目の当たりにするは”我ならぬ我”…真我…キリストと一なる我…
”主(子)に依らなければ誰も一者(父)につながることは出来ない”
キリスト教聖職者たちは鬼の首を取ったように”イエス・キリストを信じなければ天国に行けない…”などと言います。
ナニやカニを信じる前にそう信じているあなた自身を信じられますか?…とても暗くて、呪わしくて目をそむけたいですか?
しかし、その門を通らければ光に預かることは出来ません。これは如何なる信仰の話などじゃありません。
いやこれも出来る、出来ないの話じゃない…愛なる主の導く”十字架”の門です。
十字架…私にはずっと異邦人のように躓きでした。一体なんの贖罪信仰なのか…
私は長い間、この事をどこか傍観していて自分自身の問題になっていなかったようです。
「十字架と聖霊は切り離すことが出来ない」
こう語っていたのは、信仰万能のキリスト教界に有って「私には信仰なんてありません」と公言していた小池先生です。
頑な自我を砕き、主と共に新らたなる我へと通ずる門…これは如何なる宗教宗派の違いを超えて、普遍的人間の実存に通底することではないでしょうか?
自己を何ものともしない…無、ゼロ地点…これは逆説的ですが、どんなダメな、惨憺たる自分だろうとそのままだという事です。
無になる事とはまるっきり違います。そしてこの無は無限と相即しているのです。
これはキリスト教でない、普遍的福音ではないですか!

私は小池先生との出会い無くして、目覚めの契機に導かることも無く、たとえ預かったとしても、己を何ものかになろうとして、肥大した自我に押しつぶされていたことでしょう…
先生のあの姿こそ主の現前に有る者の姿としか言葉が見つからないです…。



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思いは消えて行く

2016-10-21 11:13:12 | 人生の教師
関西時代に知り合った知人Tさんは、定期的にミニコミのような通信を出していて、それで最近初めて知ったのですが、彼は学生時代私と同じく五井先生にハマっていたのです。
それも一日に何百回も、何千回も「世界平和の祈り」をしていたというのだから、私とは比べものにならないくらい熱心だったようです。”ええっ! 私と違って?クールなあの人が!…”
ところがTさんは、ある時からパッタリそれから離れてしまいます。その理由は「この世のあらゆる苦しみは消えて行く姿である」という、五井先生の説き方に違和感を覚えたからだそうです。
彼は、その教説から”苦しみや自分に都合の悪いものが消えて行けば、自分も世界も平和になる…”、という風に受け取ったらしいですが、彼はどうも曲解していたようです。五井先生が言わんとしていたのは、”苦しみや障りとなるもの、それ自体が消えて行くんじゃない、消えて行くのは、それにまつわる思いである…”ということです。それも思いというのは苦しみとか悪いことばかりじゃない、”自分でいいと思っていること”もなのです!…五井先生の縁者にはこういう曲解をしている人が結構いるようです。
何十年も信者を続けている人でも、長年、白光会で講師をしていた人でさえも…曲解どころか、消えて行くはずの妄想がどんどん増幅されていくようです。”世界はフリーメーソンに牛耳られているので、高次元の光でその陰謀を阻止し、消し去らねばならない…”こういってのける人というのは、たった一人の生身のフリーメーソン会員なりを知っているのでしょうか?…見たことも確かめたことも無いアヤフヤな事を信じ込むのが妄想です。
Tさんは、こうしたことを先般の相模原障害者殺傷事件の容疑者を引き合いに出して指摘しているのです。
この容疑者はハッキリ陰謀論やオカルトにカブれていましたが、その手紙の文末で「世界が平和になるように」としたためているところから、五井先生を信奉していた可能性は高いです。(Tさんは決めつけていましたが…)どっかに実体として実在しているサタンや闇の勢力、地獄…消えて行く姿の教えというのは正にこうした妄念に捉われた人たちのために有ると言ってもいいでしょう。(とりわけそれは罪の意識に苦しんでいる人たちへ向けられていたと思います)…だのに何が悲しくって、いつも頭の中で闇の勢力と戦い続けているのでしょうか? ひょっとしてフリーメーソンもイルミナティーも”救世の大光明”(そういうものがあるとして)の別動隊か裏部隊って可能性だってあるのに…
このように思いというものを実体あるものと混同して、自分の思いの中の善悪二元論に走ってしまう危うさ…彼らは来るべき光一元の世界を信じ続けています。そこには、”闇の勢力などあっちゃならない…同じように神の子、神の分霊である自分に悪、罪などあっちゃならない…それらが消えなければ自分も世界も平和にならない…しかし、そう信じたいという強い思いとは裏腹に内心に根差しているこの黒く、ブキミに蠢いているのは…そういうものは見ないフリ、無いことにするに限る…”
そうして行きどころが無くなった思いが、サタンや闇の勢力として投影されるのでしょう…ここにはキリスト教原理主義とそっくりな構図が見られます。原理主義はどんどん高じて行って、やがて自らがサタンという実体のようになって暴走してしまうのは、今の世界情勢に見る通りです。
こういう事は、消えて行く姿というのは、祈りと共にあるものであることが蔑ろにされて、自分の信念、思念、行などに知らず知らずに転化して行くからだと思われます。守護の神霊に委ね、その恩寵、ハタラキによって思いを祈りの中に入れていくという事から、信じなければならない、従わなければならない教えになり、そうした思いに捉われる事になってしまうのでしょう。
いいですか! 消えて行く姿の神髄というのは…実は…”知りません!”
イイカゲンにハマっていただけですから…ただ、祈っていたら、というか神的なものに意識を向けていたら、現臨が臨み、良いも悪いも思いというものが離れて行く、というのはいつも書いている通り分かります。
こういう捉えどころのない話を、現臨だとか全てを見通す目とか怪しげな言葉を交えず、誰にも分かるように述べていたのが五井先生なのです。良い思いも悪い思いも消えたら、相対を超えた調和世界が生まれる、というある意味ノンデュアリティの定番のような教えを分かり易く示されていると言っていいでしょう。
そこには「消えて行く姿で世界平和の祈り」というメソッドが打ち出されています。メソッドというのは向き、不向きもあり、曲解も形式化も付き物です。それは何より、より多くの人たち、大衆に向けられたものだったからです。それが先生の役目だったということですね。
大衆というのは思念の集合みたいなものでいつも迷って、漂っているのでどこに行くか分かりません。
しかし、そのように、広ーく撒かれた種の一粒が私の日陰の泥土に発芽したのか、求道が始まったのです。
ま…”こういう事もあるのか”というつまらぬサンプルに過ぎません…。






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