人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

寝るか目覚めるか

2022-06-29 10:16:16 | 覚醒
まるで梅雨が明けたかのような猛暑が続いてると思ったら、ふ~っという間にホントに開けてしまいました! 
そんなんで、いきなり危険レベルに! 皆さん熱中症には呉々も気を付けましょう!
私も二度ほど罹ったことありますが、手足とか後頭部の辺りがつまるような感じになったら、それは前兆ですので、無理をせず涼しいところで(なるべくなら横になった方がいいです)休みましょう。
そうすれば、自然に眠たくなります。寝て起きたら大概すっきりしているでしょう。
思考も覚束なく、体もいうこと効かなくなり、意識が遠くようになったらもう手遅れですよ! 人の助けが必要です...。
前にも書きましたが、これと私が”神の手がかかる”と呼んでいる状態は、実によく似ているのです。この場合は、後頭部ではなく、ヒタイとか前面の方に異変を覚え、つまるというよりシビレる感じか...って、これはとても微妙な違いなのですが、大きな違いは熱中症にみられる、体の苦しみ、シンドさといったものはあまりなく、何よりも眠気を感じないことです。
それもそのはず、覚醒体験のようなものを伴ったりするのですから!...こりゃ、寝てる場合じゃない!
この二つのことが同時に起こる、という話はほとんど聞いたこと無いですが、その可能性は無いとは言えないでしょう。
熱中症から覚醒体験に移行してしまうケース...多分、意識が遠く時がその分岐点でしょう。
ただ、熱中症に罹ると多くの場合、神サマじゃなくて、医者が面倒を看ることになるからメンドーなことになるのです!
”僕は目覚めたのです!”、なんてこと聞いてくれるはずもなく、点滴とか睡眠剤の注射して、寝かされてオシマイでしょう。(いや、睡眠中でも覚醒状態が続くということもあるかもしれませんが...)
おまけにちょっとヘンなこと言ったら、意識障害だとか言って、別の専門医の厄介にされることだってあり得ます。
北米、南米のネイティブたちの伝統では、メディシンマンと呼ばれて、医師は精神世界の導師も兼ねた存在だそうです。
意識の変容の事態を病理学のみに結びつけようとする、現代医学は重大な病理を抱えているとしか言いようがありません!
少なくとも、それが寝ずにはいられないことなのか、寝てなどいられないことなのかは、当人がよく知っていることでしょう。どちらも自ずからそうなることなのだから...
いずれにしても、何やら意識が常態のままでいられなくなりそうなことを想起させる、この夏の到来であります。
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どうにでもなれ!

2022-06-27 11:31:57 | 独語
暑い!...暑すぎる!...
まだ六月だってのに、聞いてない暑さだ!
全く、どうにでもなれ、という暑さ!
何も考えられない!
諸々の思考から離れて...何かが開かれる...
何かが臨んでくる!
いや、そうじゃない!、唯々暑くて何も考えられないのだ!...
心なしか、いつもの耳鳴りも遠くの方から聞こえてくる...
愛?、平安?...
いや、特にそういうものは...
特に苦しみというのも感じられないが...
これが、平安とか苦しみとか、私が在るとか無いとか相対性を超えた、究極の境地?
ウソをつけ!
こんなのがずっと続くのか?...そう思っている私も居ない?
ずっと寝てるのか、起きてるのか分からない...
これが得たり、失ったりしない、本来的幸福?
ウソをつけ!
誰がこんな状態など望むだろうか?
といって、どうこうしようという意欲も起きてこないのだが...
こんな状態望んでも居ないが...
ふ~っ...
もういい!...どうにでもなれだ!
***
あれ?
来た、来た~っ!
じんじんと!
何かが開かれた!、臨んで来た!、幸福ともに...
何もしてないぞ!
だから分かっていた...こんなのはずっと続いたりはしないんだって!
あ...何もしてない?
ウソです!、これを書いてました!
だから、書いているんだ!、書けばどうにかなる!
いや、書いていなくてもこのものは、”どうにでもなれ!“でどうにかなるだろう...
だから、そういうことを書かなくちゃ!
この先が思いやられる暑さも、諸々のことも...
どうにでもなれで、どうにかなるだろう...

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目の当たりの私

2022-06-26 09:21:18 | 求道、探究
「私たちには恋しい人を熱愛するように、生涯をかけてめぐり会わなければならない、たった一人の人がいます。それは誰かといいますと、本来の自己、私の自分で、自分自身に会っていただかなければなりません」
(原田雪渓ー曹洞宗師家ー「The .禅ーダルマは世界を駆けるー」.柏樹社刊)

たとえ、究極の真理を究めようと、無上の悟りに到達しようと、そこに自己なるもの、“私はここに在る“、という、その...
いや、これから先のことは、私にはどうしても言葉に言い表すことが出来ません!
本当の自分に会うこと、真我の実現...こう言い表すことは出来ます。それは、真実に実存的問題なのでしょう?
しかし、それが真我に“ついて“、実存についての、お話に終始するだけなら、自己自身からいつまでも切り離されているだけでしょう。誰が何を語っているのでしょうか?
そうですね、私はここで自己と、それが神であれ、真理であれ、ある対象との二元的在り方を超えた、非二元的な在り方について語っているのでしょう。
しかし又、何かについて語るのなら、二元だろうと一元だろうと何らの変わりなど無いでしょう。
これは、何についてではなく、正しく意識の在り方の問題なのです!
語っている私は居ない?...私は全体と一つになった?、ニアヴァーナに達した?...誰がそう言っているのでしょう? 本当にそうなってしまったことなど一体誰に語り得ようか?!
死んだら自分がどうなってしまうのか分からない、死後のこととか、自分が本当に無に帰してしまう境地(境地すらあり得ないが...)のことなど、誰にも語り得ないことはどうでもいいのです!
この私...私の“こと“でない私!...私がここに生きている...生かされている!...目の当たりの私!
ああ...どうしても、どうしても...この私自らは語ることは出来ません!

最愛のあなた...あなたが語ってくれなければ!...
近い、近すぎる!...そんなに迫られると息も出来なくなりそう!
気が遠くなってどこかに消えてしまいそう!
あまりにも幸福すぎて!...
だから、言い表さなければならない!
すべてで一つのことなのだから...

私とあなた...本当に一つになってしまうのか?!

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たましい

2022-06-24 10:10:14 | 哲学・思想
たましい...魂って何だ?!

これを真我、本当の自分と結びつけて捉えている人も多いことでしょう。
実存的な問題ですねえ...
魂、真我、実存...その実体は分かりません。
ただ、魂というのは幾分、実体あるものであるかのように思われているようです。
それは、”○○には魂がある“、とか“○○の魂”など、より一般に浸透した言葉であることからも来ているのでしょう。
だから、逆に“魂?、そんなものは無い!”と、簡単に否定しようという向きも多いのではないでしょうか?...実体ありそうなものほど肯定も否定もし易い…。
そしてこのことは、死して後に生命はあるか?、という問題と絡んでいるように思われます。つまり死んだ後存続しているのが魂なんだ、と。...魂を否定したい人というのは、このことも神様も否定したいのでしょう?
これに関して、死んで肉体から分離して、その魂のような霊的実体として独在したであろうものを霊魂と呼んだりしますね。
それは又幽霊、死者の魂と結びつけられたりします。これに私は違和感を覚えずにおれないのです!
これは、あくまでも私の仮説(通説?)ですが、幽霊というのは、一種の思念体?のようなもので、人間存在の核のようなもの、本来的な人格(人核?)を欠いた、それから分離した残留思念(幽霊の実体をこう呼ぶ通説もある)なのです。
だから、それは魂を有していないのです!...あれは霊魂じゃなく、”亡“魂なんだ!、生命無き魂など無いのだ!...
と...私はさりげなく魂の何たるかについて、魂をこめて力説しちゃったじゃないの?!
勿論、本当のところは分からないですよ。永遠の生命などあるかどうか分かりません。
しかし、実体は何か分からないけど、私が私であること、私の核のようなものは、どうしたって否定など出来ないのです。それは後天的に思われた、思わされた私が消えてもなお失われることの無い、本来的自己に他なりません。
これは、ある意味で思われた私は死んでも、私は在り続けるようなことでしょう。
魂、真我...実体は分からなくても、あるいは無かったとしても、それは何人も感じているはずです。でなければあなたは一体何なのか?!
魂は、分けても幽霊の如き実体、実存無きもの、生命感無きものに接したことで反照されて認知される、実体無き実体と言えるでしょう。
この現実世界にあって、人々の魂は失われつつある一方で、内側から呼び覚まされつつあるものを感じないでしょうか?
魂は、黙ってはいない!
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四位一体?

2022-06-22 10:20:04 | 現臨、ハタラキ
現臨というのは、厳密にどういう意味があるというものでなく、主にキリスト教で神の、キリストの、聖霊の現臨という風に説かれているものから借りているのです。
それは霊的なものです。...といって私は、”それはある種の霊体をともなった、守護霊のようなもので...”、というようには説明することは出来ないし、そのつもりもありません。
分からないのですから...分からないから霊的なものなのです。
キリスト教では聖霊というものが父なる神、キリストと三位一体のものとして説かれていますが、各々違うものなのか、同じものなのかよく分かりません。
ただ、それは分けられないものということは伝わってきます。だから”分からない!”
聖霊のことを抽象的な神学に絡めて説かれることはあっても、”それは自然霊でも先祖霊でもない、高級神霊だ”、などと心霊学的に実体論として説かれることはほとんどありません。
神、キリストと不可離なのでオソレ多いからでしょうか?
いや、それよりも自己自身、実存と不可離のものだからだと私は思います。直接そういう表現は使われていなくても、何となくそう伝わって来るものがあります。
私自身に直接関わるものなので、他人行儀な二元的実体論ではそういうものは伝わらないからでしょう。
つまり何だか分からないけど、それを受けると素晴らしいことに与れる、という響きが感じられるのです。
神学の聖霊論などちんぷんかんぷんですが、私は主として手島、小池両先生からそういうものを感じ取らされているのです。
それが神でもキリストでも(クリスチャンはそうは思わないでしょうが...)阿弥陀様でも守護霊でもいい!...上記のことの裏返しみたいですが、説明的なことは何でもいいでしょう。いちいち囚われてなどいられない!
思いを超えた、霊なるものと直接つながることが最重要なことなのです!
そして、それを受け入れ、我が内に浸透することで、私は思い描いていた私ではなく、もっと私そのものになってゆく...実存と切り離されないとはこういうことに他なりません。
もし、キリストが神我、真我というのなら正しく神、キリスト...いや我は?、我無くして何になろうか?...四位一体ではなかろうか?(小池先生もそういうことを言ってました)
この意味で、あまり実体論に囚われなければ、五井先生の”守護霊というのは、神の分霊である自分自身の分かれである”、という説明も肯けるものがあります。
何にしても、父、キリスト、聖霊であっても自己実存と切り離されたものは、生きた、リアルなものとはならないでしょう。
現臨...“現存”でも、“プレゼンス”でも何でもいいですが、こういう響きを感じるままに伝えている次第なのです。
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