人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神との一体感

2023-05-30 09:17:00 | 
”私は、精神的な道において特別な方法などに依拠してこなかった。祈ること以外は!”
といつも言っていますが、これは明らかに、ただ”こちらの思い、力を超えたものに拠り頼むということだけがある”、ということをずっと言って来た訳です。
私が使役するやり方というものはない!...神的なもののひとり舞台である。
神が臨み、通り、生きて働かなければ、何も始まって来ないのであります。
神を抜きにしては、私自身が存在することも出来ないのです。
”あることで悩み苦しんでいるので、その問題を解決したい!...
あることが得られれば、幸福になれるので、それを手に入れたい!
究極の悟りを得たい!
宇宙の真理を知りたい!
平和な世界を実現したい!...”
私を在らしめるもの、そのものから離れて、一体何が得られるというのでしょうか?
どこに幸福が、平安を見い出すことなど出来るでしょうか?
何故、幸福になれないのか?、諸々の問題を抱えて生きなければならないのでしょうか?
目指す道を真っ直ぐ歩んでいるつもりがどうして、ズレ、脱線し、迷い道に入り込んでしまうのでしょうか?
神の臨在、共にあること、一如たらんことを願い、祈るのみではないか?
常に神の臨在に帰る...祈入、帰入(小池辰雄)
一如になるということは、けっしてこの私が神と一つになる、ということを意味するのではありません。
一個なる私がそうなるということは、そこで閉じられてしまうということ...通らない、開かれない!...それは神を無きものに、自らを無きものにするということでありましょう?
神と一つという同じような言い方でも、内実は丸っきり違います。
それは、神はわが内に、我は神の中に...という関係が一如になるということなのです。
そこに如実に神との一体感というものが生まれるのです!
”それでは、まだ神と自分が二元に分離している”、などと言っている人間には絶対に分からないでしょう。
神がここに現存している...そこには一元も二元も、如何なる概念も当てはまらない!...如何なる思いも超えられている、ということなのです!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通るものがある!

2023-05-29 09:43:37 | 仏教関連
「弥陀の五劫思椎の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)

当たり前のことながら、私には私以外の人間が何を思い、何を願って生きているのか、ということは分からないのです。
まして、世界人類のことなど!...
そういうことは抽象的にしか伝わらず、あっしにゃ、直接関わりのないことなのです。
私は、どこまでも私自身に示されたこと、与えられたことをしっかり感受していくのみなのです。
それは、全くもって私に即したこと、実存的なことという他ありません。
例えば、神的な現臨にあって、愛、平安、リアリティに与る、という...それを他人事、一般論のようなもののように言い表すことなど、出来ようはずなどないじゃありませんか?
これこれ、こういう法則、メカニズムみたいなもので、そういうことになるのか、どうかは知りません。
ただ、私は如何なる虚飾もなく(性懲りもなく)、ありのままを伝えるだけなのです。
仏教的には、私にはそういう宿縁があるということなのでしょう?
それはね、そうなっちゃったんだから、しょうがないってことです。
それは、五劫からなのかどうか?...もう気が遠くなりそうですよ!...この私にか!
何かの間違いなのかもしれないけれど...しかと感受しなければならない!
感受されたものは、通る!...それは”ここ”を通って行くのです。そうならざるを得ない。
縁というものは、私のもの、私だけのものというものは何もないのだから!...
阿弥陀如来というのなら、それは”無量寿、無量光、無礙光”なるもの...はかり知れない永遠の命、はかり知れない、どこまでも障りなく、普く通ってゆく光なるもののことです。
そういう縁に出くわしちゃったんだから、伝えなきゃしょうがないのです。
そういう一人の私において!...一人であっても、私個人だけということじゃないのですよ!
通るものがあるのだから!...神的な現臨にあるとは、そういうことなのです。
通ったものは、無辺に広がってゆく...
一つがすべて!...”ここ”から切り離された、世界人類などあり得ようはずがないのです!
だから、今日も...
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...
世界人類が平和でありますように...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思いたっただけで!

2023-05-27 09:18:30 | 祈りと瞑想
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(歎異抄)

韓国のことわざに「始まりが半分」というのがあるらしいです。
何かをやろうと思いたった時には、その半分は達成したも同然ということのようです。
親鸞さんに至っては、半分なんてもんじゃなく、念仏を称えようと思いたっただけで、阿弥陀如来の光、恩恵に与ることが出来るのだ、と言っているのです。
これは、五井先生が「世界平和の祈り」を祈ろうと思いたっただけで、“救世の大光明“の光につつまれ、平安に与ることが出来る、と述べられていたことと相通ずるものがあるでしょう。
救世の大光明というのは、何でもそういう救世のために結集された霊団のようなものらしいですが、勿論そういう存在があるのかどうかは分かりません。
あったとしても一宗派のみに働きかけているものではないでしょう?...五井先生も超宗派的なニュアンスで言われていたようです。
私は、その霊団のような存在はともかく、年々そうした見えない世界からの導きというものを感じてなりません。
とにかく、こちら側の意志努力、一日何時間、何年修行するとか、数多く祈るということじゃないのです!
祈らされている、祈ろうと思いたたされているのです!
思いたつだけで、何で平安に導かれるのか?...それが漠然と思い描くようなことじゃなく、意識を向けるということに結びつくのです。
こちら側のやり方でなく、あちら側のハタラキの方に絶大なものがあるということなのです。
このことを鎌倉時代の昔に親鸞さんは、弥陀の本願の教えなどと共に説かれていたのです。どんなに讃えても、言葉に窮してしまいそう!...
いや、言葉を失うしかないだろう!...思いたっただけで、意識を向けただけで、神的な現臨の光に包まれてしまうのだから!...
親鸞さんの言葉も、五井先生の言葉も何十年も前から知っています。
最初は、ああいうのは、忙しくて祈るヒマもないような人や、自分の信心の足りなさを悲観しているような人向きに気休めとして説いていたのだろう、ぐらいに思っていたものです。
しかししかし...これは一体どうしたことか!...そうした猜疑心など粉砕されてしまったではないか!
やっぱり、救世の(これは、わが身独りの救いと同じなんだ!)光のいや増しに強くなるのを覚えずに居れません!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二つなきもの

2023-05-25 09:28:12 | 詩的文章
最愛のもの...
それは眺めるように見ることは出来ない
目の中に飛び込んでくる
見ることだけがある
見てる私は居ない!

最善のもの...
それは善くても悪くてもいいもの
無条件なもの
そこに義理も、プライドも、功利も、意味付けも
如何なる思惑もない!

自分が最も求めているもの...
その前では中途半端でいられない!
中途半端には中途半端なものが寄ってくる
自分を偽れば虚実なものが寄ってくる
半分信じて半分疑い
半分愛して半分恐れる...
最も求めているもの...
その前には分裂はない!
二つはない!

最も求めているもの...
“それはこれだ!”
と思っているものじゃない!
それは、思いを超えている
それにあって、思いが超えられてしまうもの
出会った瞬間に分かる!
”思っていたものじゃなかった!“
思っていなかったものが中から湧き出てくる!
それは元々ここに、私の中にあるものなのか?
それはここにあるものと...
二つなきもの...







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然に...

2023-05-23 09:30:04 | 意識、照明
”神、神的なもの、最愛のものに意識を向ける”、なんてことを何度も言ってます。
でも、意識が向かなければ、やる必要ないですよ!
はあっ?...
私はどうも、実にトンチンカンな、不自然なことを言っているようです。
人間は誰でも意識が向くことをやって生きていて、向かないことはやらないものでしょう。誰に言われなくても!...
神という言葉には抵抗がある...それは、まあ分かる。それは私の場合です。
しかし、最愛のものに意識を向ける...向かないってのはオカシイですよ!、不自然!
だから、”向いちゃう”っていうのがホントなんです!
これは、ですからそういうことを意志努力でやろうとする、それに合わそうとすることとは根本的に違うことを言っているのです。
ただ、普通は、その意識的な事態、在り方というのは、”意識されていなくて“、漠然と思うことと一緒くたになっているので、そのように言い表しているまでです。
”意識しよう!、しなければ!“...それは、だからだから違うっつーの!
意識が自然に向けられる、動くのを感じていたらいい!
神的なものを意識する、というのは私的には、根本的に祈りと同じなんですけど、これは全く自然に、“じねん“に行われることなのです。
そういうことに向かない、向けなければ、なんていうのは、全くオカシイ!...やんなきゃいいだろ!、向かないんなら!...向くからやっている、やらされているのっ!
宗教、スピ界隈には、この道理がうやむやになっていて、“やらなければ、仕方なしに...“、なんてテライ多くないですか?...ああ、何という人生の無駄であろうか!
”この信仰、修行法でなければ!“...すべて、余計な虚言です。
“信じないと、やらないと救われないですよ!”
も、ホントに度し難い!...そういう言葉が飛び交っていること自体が救われない理由なんじゃないですか?!
やらなきゃならない?...ナンセンスなこった!...そんな実の無い、身につかないもの!
意識が向かないってのは、内実が無いってこと、ご本尊が、本心がお留守になっていることなんです!
神でなくても、最愛のもの...わかりやすく言うと、最愛の人、ペットなどに意識が向けられると、心が安まって来るでしょう。何だか救われる...
そうやって幸福を得る...いや、そうじゃなくて、そうやっている過程でそうなっているでしょう?
だから、最愛のものに意識を向けていて、幸福でない訳が無いのです!
最愛のもの...次愛以下のものじゃないですよ!...即ちおのずと意識が向いちゃうもの...やっぱり神ってる、神が舞い降りるようなものじゃないかなあ?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする