人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宗教の帰結するところ

2024-11-11 09:47:49 | 宗教
宗教の世界などには、原理主義と言われるものがまだ根強く存在しています。
それを熱烈に信じ従う者は、”この教えこそが最高のもので、何も付け足すことも変えることも無い”、とその教えが伝えられてから何十年もその言葉で表されたものにトラワレ続けているのです。狂信、盲信者と言われる人たちです。
一体、彼らは宗教に何を求めているのでしょうか?
悟り?、神と一つになること?、救い?...そうだとすれば、それはその言葉の概念を超えなければとうてい叶わないものだ、ということが何故分からないのでしょうか?、それが分からないということは、まったく救いようの無いことですよ。
こういう人間にも、某画伯のように、”私は完全覚醒を目指していつも修行しています!”、なんて宣う者も居るのですが、笑止、狂気の沙汰でしかありません。
形に表された教えに固執することは、精神的目覚めの道を自ら閉ざしていることと同じことじゃありませんか?、それは強固に思念にトラワレていることなのですから!...
それはどっかで手放さない限り、絶対にそういう道が開かれることは無いのです。というよりも、そういったトラワレからすっかり自由になることが、その長い眠りから覚めることでなくて何なのか?
もし、彼が信従している教師がホンモノの導師なら、一時の方便ならともかく、絶対に信者にそういうことを課すことは無いでしょう。(○○先生はするのか?!)
言葉、概念というものは、あくまでそれを指し示さんとしているもののメタファー、表徴であることを理解しなければなりません。
その言葉自体が真実かどうかは分からないし、その修行法といったものが現実に自分に合ったものかどうかも分からないのです。
自分自身の霊性を開くものは、神、真我しか無いでしょう?...いやだから、こういう言葉にひっかかっちゃダメなんですって!
だからだから、どういう言葉でもいいってんです。付け足そうが、削ろうが、変えようが自由ではないか?...それは、自分の思い思い、自分免許でいい!...とは言いませんよ!
どっかで、自分の思いを超えたもの(要するに神、真我とはこれの表徴のようなもの)に全託しなければならないようになる、ということ...すべての宗教は、ここに帰結するはずなのです。
イエスの教えもブッダの教えも○○先生のでも、その言葉、形を超えたものを指し示しているものでしょう。それは自分自身から切り離されたものでは決して無いはずです。
自分以外のものを神の如く無上なるものとして奉ることに固執する者は、いつまでも橋の無い川で向こう岸を眺めているだけのようなものでしょう。
方便として宗教的な教えもあってもいいでしょうが、もう方便の時代はとっくに終わったように感じてなりません。


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相対的なものと絶対的なもの

2024-08-27 09:58:53 | 宗教
宗教やスピリチュアルの道には、数多の異なる教えや方法があります。
言うまでもなく、そういう精神的な道であっても人間がやっていることには変わりない訳で、違うのが当たり前なのです。それが良いも悪いもありません。そうなっているのだから!
これは、我々のそうした相対的現実というものを表しているのです。だから、違って当たり前であることを弁えなければならないでしょう。
しかし、そうした比較論の中には、自分が信奉している宗教、思想をことさら特別視、絶対視し、その他に比して如何にそれが優れたものであるか、について挙げつらっている向きもあるものです。
私にはこれがもう、違和感を覚えてならないのです。そこに感じられるものは、その信じる対象への固執、我執の念といったものでしかありません。
それがその方便的な教えなり方法といった、相対的な人間の有り様についてのものならまだマシなのですが、もっと直接な神、霊なるものに関してのものならば、もうムシズが走るほど反感を覚えずにおれません!
キリスト教の神とイスラム教の神とはどう違うのか?...神を説かない仏教とはどう違うのか?...んなもん、知るかってんですよ!
キリスト教というのは、ただ世間常識で、”聖書を、イエスを救世主と信じ...等々がキリスト教”と認知されているものに信じ従っているだけのもので、実質その信徒たちが直接、実存的に関わる神的存在については、その各々の内的現実に帰されるべきものでしょう?
そこで、ベラベラと厚かましくも、”へ理屈”を並べられる人間というのは、神、神的なハタラキのことなど何も分かっていないのです。
もし、そういうものに出くわしたならば、自分の思いは超えられ、如何なる先入観、固定観念も消え去り、真っ白、真っさらな心的状態にならされるはずなのです。
つまり、自分を超えたものについては、あれこれ挙げつらうことなど出来ないし、それは極めて不遜な精神的態度と言えるでしょう。
このように、我々が直接関わり、交わる神というものは、何教、何神と名付けることの出来ないものであり、それは絶対的なものと言うことが出来るでしょう。思いを超えているということはが絶対的なことなんです!
そういうものを対象化し、比較したりするのは、ナンセンスの極みと言う他無いでしょう。
然るに、相対的なものを絶対視する人間には、相対的なことと絶対的なことの区別がつかず、混同しているのです。
大体、かかる歪んだ精神は、強固な思念に支配されていて、それから自由になること(それは思いを超えたハタラキに依るしかないだろう...)が困難なようです。
そこに、相克的現実というものを見せられるばかりです。そこに神という言葉は如何に語られていても、神の臨在、その現実というものは何一つ感じられません。
逆説的ですが、我々一人一人が絶対的なものを内に頂くことが出来れば、真っさらな心で、我々の相対的現実を受け入れることが出来るでしょう。
人類の相克対立の歴史の要因は、相対的なものと絶対的なものとの混同ということに尽きるでしょう。
そして、真に普遍調和世界をもたらすものは、我々が信じる神でなく、我々の思いを超えて神が顕わになることなのではないでしょうか!...


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本心開発と宗教の終焉

2024-06-18 09:35:02 | 宗教
“あの先生の教えを信じ、従って来たが、一向に悟りの道が開かれてこない...“

宗教、スピに関わることで、このような感想を持つ人も多いことでしょう。
何度か触れているように、これは信じる方にも教える方にもその心的態度に問題があるのです。
その教師は、自分が研鑚して得られた境地を教えやメソッドとして表し、説いているのでしょうが、信者には当然向き、不向きがあり十把一絡げに適応される訳ではありません。
しかし、“これが無上の真理、メソッドなんだ!“、なんてことを言うもんだから、その圧に屈したりしてしまうのでしょう。
信者は教師に依存しているのは勿論ですが、教師もより多くの信者に依存したいからそのように誘導しているのです。その集団は共依存の関係でなっているのです。
これは集客、利益の獲得につながる訳ですが、それだけじゃなく、そういう教師は、間違いなくそのように認めてもらいたい欲求が強い、エゴが肥大した人間なのです。
そうでなくても、その集団の取り巻きにそのような精神が支配しているのです。
信者の依存心理は改めて言うまでもないですが、思いは集団的思念に支配され、教師の方にばかり向けられ、自分自身に向き合うことが出来ません。
自己の内奥に向き合わずして、悟り、目覚めの道が開かれる訳が無いではありませんか?
だから、これらのことを自分の本心に聞いてみたらいいんです。
ン十年も教えを教えられた通りに信じ、修行してきたが、ちっとも愛や安らぎ、幸福に与ることは無かった...この教えでないと叶わないので、本当は気が向かないけど続けるしかない!...
気が向かない、意識が自ずと向かないことが、如何に自分の本心を偽っていることが分かりませんか?
もう分からなくなってしまったほど、それは曇らされ、フタをされてしまっているのですか?
だったらあなたの神に祈るしかないでしょう?...自分で自分自身のことが分からなければ自分を超えたものにゆだねるしかありません。これは、信者の依存感情とは違います。本心を表すということなのです。
間違っても、あの先生が、集団が説いている神ではありませんよ!
本心を覆い隠したままで、悟り...いや、それは本心開発なのでしょ!、あり得るはずが無いではありませんか!

今までもそういう言葉は知っていたけど、ここ最近突然私の意識に登り始めた、この悟り~本心開発という言葉...
本来の宗教とはどういうものだったのか?...本心に照らせば...こんな自明なことは無いではないか?!
もう、宗教世界に蔓延している他に教え、広げ、支配し、信じ、従い、依存する...デキアイ、ナレアイ関係は、一人一人の本心が顕わになり、それに照らされることにより終焉を迎えることになることを強烈に感じてなりません。









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宗教の本筋に帰る

2024-03-15 09:53:23 | 宗教
今の時代は、例えば、“権威ある、エライ先生がこう言っている、経典にこう書かれているから”、というだけで鵜呑みにして、追従してしまうような心的在り方は、もう古いものになって、通用しなくなってしまったように思います。
宗教の世界などでは、今だにこの旧時代の在り方から離れられないようですが、これは、そこに支配している集団的思念の世界から離れて、我々一人一人に直接的に、宗教的真理に目覚められる土壌が育って来た、そういう精神が養われるようになってきたという傾向の現れということなのでしょう。
それが本来の宗教的、精神的な道なのです。
“この現実世界とは別に霊界というものがある、前世がある...“、こういう自分自身で確かめることの出来ない予断、予見を信じる在り方はもう時代遅れ、智恵遅れ(!)なのです!
だから、人間は、神から分かれた霊なんだ、だから本来神と一つなんだ!、なんて話はどうだっていい!...なんて...まるっきりそうだとは私は思っていません!
こういう教えは、神道で主に説かれていて、五井先生もよく説かれておりましたが、神の分霊云々というのは、我々凡人には確認の出来ない(ということは、否定も出来ない)説明的表現に過ぎません。
しかし、こういう“神の子観“的な教えで、五井先生などは、どういうことを伝えようとしていたのでしょうか?
それは、このここに生きている私は、一個の、ポツンとあるものでなくて、もっと大きな、深いもの、則ち神的なもの(名称はどうあれ)とつながって生きている、生かされている、ということなのではないでしょうか?(先の説明的表現も、その言葉自体に囚われることなく、このことを指し示す、ある一つの“メタファー~表徴“的な表現として捉えるのなら有効でしょう)
又、このことを実感出来るようになるには、祈りが必要なのである、と。
そうして祈っていると、いつの間にか本当にそうなるではないか!...そうなっている時、思いから離れることも出来るのです。
本当に大事なこととは、これからズレるようなあの世的な理屈を知ることでなく、これを意識に留めておくことでなくて何であろうか!
こうならないと、我々一人一人の実存世界に生きたものとはならないのです。
これが、あらゆる宗教、スピリチュアルの道の本筋であるはずです。ここからズレて、あの世的な、オカルト教説などにハマることなど本末転倒も甚だしいと言わねばなりません!
本筋というものは、自ずと帰る、帰らされるもの...何故ならば、そこにはあの世的な理屈からは与ることの出来ない、愛、平安、リアリティがあるから!
けだし、それが我々が本来から神と一つである在り方ということなのでしょう。
今や宗教は、その本来性、本筋に立ち帰る時を迎えているのではないか!...
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第一義のもの

2024-01-07 09:52:06 | 宗教
私のこれまでの読書傾向として、キリスト教関係のものが多かったように思います。
それらの信仰書とか直接の関係は無くとも、西欧の文学、哲学などはそれを背景に持ったものが多く、それを含めるとかなりの量にもなりましょう。
そして、それに多く共感を受けてきたのも事実です。
いくつかの集会にも出入りしたこともあります。
でも、私は一度もキリスト者を自認したことは無かったのです。
勿論私は聖書を片時も離さないような人間でも、時たまでも読んでる人間でもありません。
又、当たり前のことですが、キリスト教だからと言って、どんな本でも読んで共感を受ける訳ではありません。中には抽象的な観念ごとや、独善的な護教論に終始してたり、到底読むに堪えないものだってあるのです。
キリスト者を自認する人の多くは、その聖書、教会、教義などに賛同しているのでしょう。
そして、他宗教の本などには、深く追求したり、傾倒するということも無いのでしょう。
しかし、たまたまある契機に、他宗教のある教えに触れて、自分の心の奥に深く響くのが感じられたらどうするのでしょうか?...護教精神を脅かすものだからと、深追いしないように、避けてしまいますか?
これが肝心なことなのです。私にとっては、如何に自分の心奥に突き刺さるものがあるか、
魂を揺さぶり、自己実存を目覚ませるものがあるか...それに尽きるのです。
他に何があるだろうか!...それには、宗派の相異など問うところではありません。
何故、自分の魂、実存に関わることを宗教の諸々の決まりごとなどで覆い、壁を造らなければならないのですか!
例えば、何が原始のイエスの福音なのか、ブッダの原始の教えなのかを追究することも、こと自分の内奥を開くことに関して重要な意味を持つことでしょう。
だけど、それはあくまでそのことあってのものであるはずです。一体、何が取り換えの効かないくらい第一義のものなのか?
そこからズレてしまうことが無ければ、何が正統で、異端だろうと、どっちでもいいではありませんか?
大体そういうものは、どっかのエラそうな物言いが勝手に決めているものに過ぎないのですから!...(ただ、一つキリスト教関連で言えることは、その実存に迫る思想~実存主義の台頭には、かなりその影響が大きかったのも事実で、この部分が多く私の共感を呼んだのでしょう)

と、まあ、こういうのが私の精神的な歩みであったのです。
だから、“あなたは何教か?“、なんて訊かれても分からないですよ。
“本格的に“、こういうイイカゲンな道が始まったのは、そう、あの無名の、見えざる御方が私に臨んで来てからだ、とは言えるでしょう。
これからズレたことは一度もありません!...


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