人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

それが生きている!

2024-04-29 08:26:02 | 詩的文章
神は私を超えた向こうにいるのか?
私の中にいるのか?
それとも...
ただ、いないのか?、ないのか?...
ただ、音がする...
何かが鳴っている、響きがする
何かが鼓動している...
それは、私を超えた向こうから?
私の中から?
いつから鳴っているのだろう?
私の気が付く前からのような気がする...
私の前から?
気が付いたら...
私がいた!
私の向こうだろうと中だろうと...
鳴っている、鼓動している...
私はどうやら生きているらしいが...
自ら鳴ってはいない!、鼓動してはいない!
それが生きているのだ!
それなしでは...
私はいない!...


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本来は問題無い!

2024-04-28 09:06:23 | 求道、探究
ある宗教的な目覚め、超越的体験に与っても、数日して元の黙阿弥になるという経験をした人は私だけではないでしょう?
私の場合、それ以前に神的な現臨感というものを覚えていたのですが、それもある時から消えてしまったことがあるのです。
それが実に平安、幸福感を伴うものだけに、何とか取り戻そうと思うのですが、こちらからはどうすることも出来ないのです。
まあ、“祈るしかない“ということは、一つには言えるのですが...その時の私はあまり思いつかなかったのです。何でそんなことになってしまうのか?、ってことも!...
これは、今の私にはハッキリ分かることです。
この考え、為そうとする私が、そういう体験をしよう、感覚を得ようとしているからですよ!そういう思いに囚われてしまっている、ということなのです。
そうではなく、自己と神的なものと切り離されていない状態に本来性があった。それが私の実存的な原態であったのです。
だから、私“が“、私“から“、という線に思いが囚われると、その状態から切り離されてしまうのも当然のことだったのです。
“すべては、神あってのものであった!“...それ無くして愛、平安に与ることが出来ないのならしょうがないではないか?!
もう、追体験を求めるのは諦めよう!、その飽くなき苦闘から解放されるのだ!(この究極とも言える逆説、お分かりですか?)
このことに気付いてみたら...それは決して失ってなどいない、ということが分かったのでした!...無くなった、神から見捨てられた(?)と感じていたのは、表層的な考えている私だったのです。
今の私はねえ、常に神と一つ、現臨にある状態なんですよ!...って、そんなことは言ってません。以前と何も変わらない、相変わらずバカな、ダメなことばかり繰り返していますよ!
そして、あの愛、平安を失ったようにも...ここが違うのです!
確かに表層的な思いの次元では失っていて、色々バカな、トッチラかったようになっていますよ。しかし、それも神と共にある原態という土台の上でのことに過ぎないのです。
つまり、問題は問題であっても、問題は無い!...本来は問題無い!
意識が思い、為そうとする自分だけになってしまったとしたら、それが大問題なのです!(しかし、相変わらずバカな、ダメなままというのも問題ではあるかなあ?)
しかししかし、段々私はその本来性に帰ってゆく、否その本来性の方が顕わになってゆくのを日に日に覚えるばかりなのです。
これは、もう本来からどうしようもないことなのでしょう?...


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根源的な一なるもの

2024-04-26 09:44:55 | 哲学・思想
私が生きているこの世界は何次元なのか?
三次元?...そう言われているらしいです。
線の世界が一次元で、面の世界は二次元で、この世界は立体をなしているらしいです。
しかし、現実に私はただの一度もそのように感じたことも、考えたこともありません。
そう感じない、思えないのです。(私だけか?)
見てる世界はなるほど立体的に見えます。しかし目をつぶればどう感じるでしょうか?...
ま、これは次元というものを理解する上で考え出されたものなのですね。そういうことらしいことと実際に感じることは別だ、ということなのでしょう?
何が何次元、どっから次元の段階が変わるのかはともかく、多次元構造というものがあることは一応分かります。
段々分化してゆくという考え方。そして、どうも多元化してゆくほど、高い(何が?)段階になってゆくように考えられているようなのです。高次元だとかね。
私には、これがどうも分からないのです。そう感じさせるものの一つとして、多元化する一方で、絶対に分化することの無い、一元というものがあるのではないか?、という感じ方があります。
この一元というのは、一次元、二次元と数えられるものでない、不変、普遍なる一元的なものです。
つまり何次元あっても、この一なるものと切り離されることは無いのです。あらゆる多次元世界に常に一元世界が隠れているのです。すべての次元を包括しているとも、それが貫いているとも言えるでしょう。
そうでなければ、“帰一“とか“合一“、“統一“、といったものは出て来るはずが無いのです。この根源的な一を欠いたら、調和というものはあり得ないでしょう。
そういう世界が何故高い次元などと言えるでしょうか?
私がここに生きている世界が何次元で、それが高いのか低いのかは知りません。
ここから離れて、それを霊界と言おうと、神界と言おうと高きに至ることは無いでしょう!
行ったことの無いの世界のことなど知りません。私は一元と切り離されない現界しか知らないのです。ここから離れたらそれは観念に浮くだけでしょう!
この現実世界は、三次元なのかもしれませんが、ある意味で一元世界とも言えるし、一元と多次元の二相があるという意味で(誰しもが感じてるであろう)、二元世界とも言えるでしょう。
つまりは感じ方は様々なんです。何で三次元だ、などと決めつけられなきゃならないのか?
一つ言えることは、このように根源的一なるものを欠いたらその世界は立ち行かなくということであり、今のこの現実世界の有り様は、その根源的な一なるものに意識が向けられていないということです。
この一元の世界は、断じて線だけの一次元世界である訳が無いのです。
一というのは、数字の始まりであり、最小なのかもしれませんが、すべての数字は一に還元されるものでもあるのですよ!
どうも、足し算とかけ算とが混同されているようなのです。
それだけ、この根源的一なるものは蔑ろにされているということなのでしょう。
だから、我々は、今日、このどうしようもない現実世界を目の前にしているのでしょう!...




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原体験と原態

2024-04-24 09:27:11 | 現臨、ハタラキ
私が精神的苦悩を抱えている時、“思い方を変えなきゃ!“、とか、そう、あれです...“神に意識を向けるんだ!、んんんっ!...“な~んて意志想念の力でどうこうしなくたって(意識的になることはそういうことではありません!)、自然に現臨にある状態になって、そういう思いから離れるようになります。
私は元々そんな感じなんですよ...って、そんな訳無いでしょ!
かつての私はそういう重く、絡みつくような思いに苛まれると、為す術無くズルズルとその思いに引きずられてしまうしかなかったのです。
だから、自分を律したり、思いを克服しようとする意志的な力の無力さは、イヤというほど知らされていたのです。
それがかつての私で今は?...何も変わっていませんよ!...
ただ、違うのは、“あれっ、という間にああなる“ことです。これはね、私の長年の修行の成果なのですよ!...そんな訳無い!
そんな修行などしたことも無いし、自分のやった何かを誇示するものなんか何もありません。(一つ言えることは、私のその自分の無力さを知っているという弱みが、自分を超えたものにすぐ意識が向けられるという強みになっていることでしょうか?)
ただ、私はずっと、神的なものと共にあることで、諸々の思いから離れられ、安らぎを覚え、幸福に与れるということは知っていたのです。
これは、つまりそういうものあってのことであるのは言うまでもないですが、そのハタラキが顕著になって来たということなのでしょう?
で、その神的なものと共にあることで幸福に与れることは、いつから知っていたのか?...これは、神の手にかかったりして、眠っていた意識が覚醒したりした原体験というものがある訳で...いや、その前からああいう現臨感覚というものはあった訳で...何でそういうものに導かれたかと言えば、そう、そういうものと共にあることは、幸福なんだ、ということを知らされていた訳で...え、何でそういう体験が無いうちから知っていたんだろ?...
そうです。私は最初から知らされていたのです。だからいつから?...だからだから最初から!
そうでなきゃ、最初から精神的な道など求めちゃいません!
こうして、意識とか難しいこと言わんでも神のことを思うでしょ!...それだけで幸福になるでしょ?
私はここに、神と共にあることが人間存在の原態であることを感じずにおれません。
原体験というものは、この原初的なものから来ているのでしょう?
もし、あなたが精神的な道、霊性の道を求めているのでしたら、どうかこのことに意識的になってみて下さい。
原初の記憶というものは誰しもが持っているでしょう。
あの私の数十年前の原体験にしても、それは単なる記憶で無しに、現在にその原態のことが鮮明に蘇ったということでもあったのです。
それは、一時の体験で終わるものではありません。原態的なことは本来からということです。
これから探し求めるのでなくて、いつでもここにあるもの、帰ることが出来るものなのです。
今は、その原初のものの方が顕わになって、我々にハタラキかけて来たのをヒシヒシと身に覚えています。...

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人間存在の原態に帰る

2024-04-23 09:28:59 | 求道、探究
精神的に落ち込んでいる、迷っている、トラブっている時など、ほとんどの場合、考え、為そうとしている自分だけに意識が向けられているようです。
言い換えると、そんな時意識は、神的なものと共に無く、その現臨に無い状態になっていることが分かります。
自分に意識が向けられている?...自意識?
自分自身に意識を向けることが大事だ、といつも言っていますが、こういう場合は度々触れているように純粋に自分自身を意識しているのではなく、他人、世の中の目に映り、判断されているであろう自分像に向けられているのです。
それが自我意識と呼ばれているものなのですが、その状態は、自分を超えたものと切り離されているのです。
本来、それ無しにはこの自分自体が存在出来なくなるものであるにも関わらず!...だから迷い、トラブるのも当然ではありませんか?!
そうでない時は、安らぎ、幸福で居られるのです。自我意識の思いから解放されているのですから!...(当たり前のような、驚くべきことを書いている気がするのですが!...)
それとも、ダメな悪い自分のままだと神の怒りに触れ、裁きを受けるのですか?
だから、誰がそう言っているのか、ってんです!
誰かから色を付けられたものでなく、そのまんまの、ありのままの自分を見て、受け入れるのですよ!(これは、何の色付けされていない、ありのままの神に置き換えてもいいのです!)
それが真我に目覚めることにつながるのです。ホントは真も、ウソも無いそのまんまがホントの自分なのでしょうが...
しかし、自意識でいっぱいの精神では、そのホントの自分を見ることが出来ません。
というか、自分で自分の顔、姿を見ることは出来ないのですね。これは実に大きな意味を持っていると言わねばならないでしょう。
自分という実体は本当は分からないのです。鏡を見れば分かるかって?
私は鏡に映ったものなんか、完全に信用出来ません!...それは反射された像なんだ!...他者に映った像と同じではないか?
何らの色付けされていない私。そこに実体はあるのだろうか?、映った見た目とは別に実存感覚というものはあるのではないでしょうか?
そして、そこには目には見えない、自分を超えたものも感じられないでしょうか?
ホントの私感覚は、そのものと切り離されていないのです!
しかし、それは見ることは出来ない!...しかし、しかし感じることは出来る!
自分で自分自身を見ることが出来ないし、そのためか意識することも難しいです。
だから、神に意識を向けたらいいのです。(というより、それはいつも自己に現前、現存しているのであるが...)
そのものと一つである私。もはや、考え、為そうとする自分だけの私ではない私。それは、全く自然に、無理なく、障りなく...そうあるべきように信じようとするのでもなく、そうなるもの...
これが本来の人間存在の原態なのではないか?
考え、為そうとする自分が居て、それから神とのつながりを求めるというよりは、その本来性に帰るということがあるばかりなのでしょう!...

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