人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

絶望迷言

2021-05-30 11:13:11 | 雑感
「将来に向かって歩くことは僕には出来ません。将来に向かってつまずくこと、これは出来ます。一番うまく出来るのは、倒れたままでいることです」(フランツ.カフカーNHKラジオ深夜便.絶望名言よりー)

私は、覚えている限り中1の頃から、ラジオをつけっぱなしで寝る習慣があります。
だって、ラジオでもつけてないと、絶望と不安でやりきれなくなりそうじゃないですか?...なーんて、いつもそういう訳じゃないですが、習慣というものは恐ろしいもので、多分つけてないと寝られなくなるでしょう。
それもここ30年くらいは、NHKの「ラジオ深夜便」という番組なのですが、これはあまり騒がしくないというのが一番の理由です。
この中で、毎月午前4時過ぎに流れてくる「絶望名言」というコーナーが大のお気に入りで、聞いているうち寝入ってしまうケースも多いのですが、"自覚意識があるうち"は聞くようにしているのです。
これは、実に当ブログのトーンに通うものがあると感じずにおれません。
立ち上げた当初、ブログ画面の絵柄をどれにしようかと思ってたら、すぐ私の目に飛び込んで来たのが、この夕焼けか朝焼けかどっちか分からない、暗ーいバックに淡い日の光が隠れている絵柄なのでした。こういう紫の世界にとても惹かれてしまうのです。
すべてが明るい表通りのような人生などには全く縁がありません。いつも日陰で生きてきたような気がします。
私にとって絶好の日柄というのは、晴天に恵まれた日じゃありません。曇りの日に他ならないのです。
印象に残っている風景というのは、曇りの日ばかりだった...だって晴天だと風景が日光で消されてしまうけど、曇天だとそれが浮き出して見えるから...明るければ、物事がハッキリ写し出されるとは限らないのです。
しかし、雨は絶望的だi、 屋外では...しかし、屋内では最高だi、あらゆる外の雑音を消し去ってくれるから...
いつも書いていることは、所謂"リア充"的なものとは全く関係ありません。そういう人生を歩んで来なかったのですから...
"今までは不幸な人生だったけど、こうこうして、幸福になりました"、何てことはほとんど書いていないつもりです。
幸福を手に入れたことなど一度だってあっただろうか?...幸福は手に入れたと思った瞬間に逃げてゆく...
このように人からはネガティブに映るような性格を変えよう、克服しようと思ったこともありましたが..."ポジティブであれ、明るく笑ってi"、という言葉にどれだけ苛み続けられたことかi
自分の持って生まれた性格は変えられるものでないi...諦めてます、絶望的でありますi
だけど、自分がかく思う、かく為した、というそれだけが人生のすべてではありません。
絶望名言で語られることというのは、"絶望だけ"、というものでは無いのです。
「死と同じように避けられないものがある、それは生きることだ」(チャーリー.チャップリンー同上ー)
そこに垣間見れるものは、絶望を通して知られる隠された生の輝きといったものでしょう。
あの絶望的なまでに美しい紫の世界は、どうしたってこの思われた私からは作り出せることは出来ないのです。
私がどうなっていようと、日は暮れるし、又昇るだろう...(ブログの最初の記事からこういうことを書いていたのです)
絶望から開かれるものがある...
"もう、どうしようもないi、考えることも、為すことも出来ない、ここから逃れることは出来ないのだi...この絶望的状況を受け入れるしかないi...すると、人生の裏側は開かれる..."
いやあ、名言だなあ...
なーんて調子こいて書いていたら、ハチが部屋に迷い込んできたので、フマキラーで"しゅっi"、とやったら、開運と書いてある神社の絵札に落ちて、息絶え絶えになってしまったのでした。"あー、ハチ君、すまんなあ...すぐ側の窓を開けとけば良かったんだ...迷っている私の部屋に迷い込んだのが運のツキだったなあ..."




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意識的な祈り

2021-05-29 09:59:05 | 祈りと瞑想
"意識を神的なものに向ける、意識的になる..."
こうしたことは、私の精神生活のベースそのものと言ってもいいほど重要なものなのにも関わらず、毎度のことながら説明するのが困難なのです。
これは多分、近年流行のマインドフルネス瞑想などで説かれる、"今ここにあることに気づく"、ということと関係があると思われますが、あまりそちらの修行的な面は少なく、他動的に(神的なものによって)なされるという感じが強いのです。
とにかく、そこからしか何も開かれてこないし、深まってもきません。
意識を向けるというと、向けられる対象というものがある、とフツーは考えられるでしょう?
確かにそういう感じではありますが、そうとは言い切れません。仮にその対象となるものは何かと強いて言えば、身体的に覚えられている、神的なものと共にある感覚と言ってもいいでしょう。
だから、向けるとほとんど同時に私の意識が動き、開かれてゆく...対象と私に分離感は感じられないのです。
何度も言っているように、これは私の思念、意念的な働きかけを介さないことなのです。ほとんど自然(じねん)に向けられる...
勿論、こういうことは最初から感じられていた訳じゃないですよ。
覚えている限り、はっきり感じ始めたのは40年も前のことで、途中で"消えたi"と感じたこともありましたが、定着するようになったのは、23年くらい前からです。
それ以前でも朧気ながらも感じるものがあったのです。
それは何を通してかと言ったら、祈りによるものなのでした。
それじゃあ、ここで語るだにややこしい話は抜きにして祈りをしましょうか? (フツーにですよi)

"神様、姿の見えない神様、あなたはどのようにして、私にあなたの存在を示されるのですか...
あなたが本当に居られるのでしたら、どうかハッキリと私に示して下さい..."

何の神に祈るのか、って?...だったら、"あなたはどういう神なのか、示して下さい..."、と祈ればいいでしょう?
考えていたらダメですi...あなたは考えるのか、祈るかどっちかしかないのです。
考えない、と言っても、祈っている最中に絶えず考え、雑念が出てくるからそれをやめよう、とか出来もしないようなことじゃないですよi
考えていたいのなら、それでどこに行き着くのか知らないけど、死ぬまでそうしてたらいいでしょう。
祈ることは、どこまでも考え続ける二足生物に見切りをつけることです。
出来ないから祈る...自分に絶望するから、祈り心が生まれる...本当に絶望したら祈るしかない...神、思いを超えたものに心が開かれるということになるのです。
そうなると、自分にとって、神というものがどういう御方なのかが分かってくるでしょう。それはどっかの宗教で信じられている神だろうか、人がそう言っている神なのだろうか?...
いいや...それは、自分にとり最愛の御方であるということが知られてくるでしょう...何故ならば、正に心が開かれる...惹かれてやまないという感じになってくるから...
これは私自身がそうとは知らずに、こういう道に導かれたことを言っているのです。
段々そうして、神というものを意識し始めたのです。神は私を私たらしめるものに他ならない...。
こうして、我が道は祈りから開かれたと言っていいのです。祈りが意識的になる...
そこには祈る私も対象としての神も無い...。
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体験は必要か?

2021-05-26 11:54:29 | 覚醒
私がこのブログを始めた当初、どっかで外に向けて、悟りや覚醒体験といったものを推奨するようなことを意識していたところがありました。
それには、折から所謂ノンデュアリティなどの悟り系スピが隆盛になる兆しがあり、アチコチでそういう事例が報告されているという時流に乗っかった部分もあったのです。
しかし...ネットなどでそれらに当たってみて、如何にもその体験そのものが独り歩きして取り沙汰される傾向、又ある集会でその体験に与った人が、人前で突然、大声で笑いだしたりなど、一寸精神的にバランスが取れていない様に接し、そこに何かとても重要なものを欠いていることに気付き、"体験すりゃいいってもんじゃないi"、ということを身につまされて感じることになったのでした。
まず、悟り、覚醒というものに、自分自身のこととして意識を向ければ...これはそれをもたらす源泉、神的なものに目覚めることであるのは自明ではないかi...悟りや覚醒自体を問題にするのなら、ただぶっ飛んだという異常心理と大差ないではないか?...神に根差さない体験など何の意味があるだろうか? だから、そんなものよりも神がアリアリと臨むような、"神体験"をしなければならないのですi...
なーんてそんなこたないi
ああいう体験に与ることは、それを通じないと分からないことがある、つまり未知のものであるのは一面の事実です。
しかし、それはそれ以前から内心感じていたものであったのも事実なのです。
内心...普段は意識されていないということ、頭脳知では知られていないということ...つまりそこで呼び覚まされるものは意識する、しないに関わらず、ずっと我々の内に息づいているものに他ならないのです。
呼び覚まされる...その瞬間誰もが"そうだったのかi"、と全身心が頷かざるを得なくなるようなことです。
これは、ある意味で、失われた記憶の回復でもあるのですが、回復されるものは、いつだってここにあるのもホントのことではないか?
以前、私はそういう体験をしたいという知人に「どうして、あなたはそういう体験をしたいのですか?」と訊いたところ彼は「だって、それは今生で味わえないほど素晴らしいことなんでしょう?」というので、私はさらに「体験したこともないのに何でそんなことが分かるのですか?」と訊いてみました。
私がこういうことを訊きたくなったのは、彼が頭の知識だけで、そう言っているように感じなかったからに他なりません。
私の内部で同調するものがあったからなのですが、それは私自身あの体験のずっと前から内心感じていたことでもあったのです。
彼にはそういうものが感知されたのですが、又神への怖れ、罪の意識も感じられ、それが進一歩を躊躇っているように感じられました。(その後のことは久しく会ってないので分かりません)
体験というものを特別視し、それ自体に囚われると、この内奥に息づくものに中々気づくことが出来ません。
ああいうことが無いと愛、平安に与ることが出来ない...そんなことありません。
私はずっと感じていました。今でも...ですi いつだって体感出来ることなのです。
体験も無いよりはあった方がいいのかもしれませんが、もしそれが一時の爆発的発出にすぎず、そのまま消え去ってしまうものなら、いつも私の命の源に触れて、安らかでいられる方がどれだけ有難いことかと正直思います。
それは、普段当たり前に思っている幸福に意識的になってみる...広い意味での祈りを通じて実感されてくるでしょう...。
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覚醒の原点

2021-05-24 12:06:31 | 覚醒
悟り、覚醒、ワンネス体験...呼び名は何であれ、今日色んな人が色んなことを言っています。
前回も書いたように、各人は思考機能が回復したところで、色々考察を加えるなどして語っている訳ですね。
しかし、そこには多く異口同音に語られることがあるのも事実です。
そこにある普遍性を見い出すことも可能でしょう。
それは、正にそういうことに与っている渦中にあることを伝えている部分のことです。
それは生に、直にそのものに向き合わされ、純粋に感覚されていることであり、考察を加えたり、解釈をしてしまう余地の無いことに他なりません。
関心のある人なら、今さら言う必要の無いほど馴染みのあることですが、大まかに言えば次のようなものでしょう。
O自分という個人が無くなる、自他が分離していない感じ、一体感。
O自己を超えた大いなるものとの一体感、導かれている感じ。
O至福感。
すべての人に聞いた訳じゃないですが、大体はこうしたものに与っているのではないかと思われます。
感じられるものは、色々はありません。一つのことに帰してしまうのではなかろうか?...そう、分離してない。
そして、この直接的な純粋経験から日常の意識状態に戻って来て、各様の解釈が生まれてくる訳ですが、そこで得てして与ったことと、思考されたこととが混同されて語られることもあり勝ちのように思われます。
あの瞬間は確かにそう感じられたものでも、それで真理が分かったと今考えられているとか...
というよりも、ワンサカ考えさせられるのがフツーというべきでしょう。フツー考えられないようなことが起きてしまったら...人間は考える動物なんですから...
現実生活とのギャップから、頭が混乱したり、人生、世界の裏側を何か見抜いた気になったりしたり...
そして、又私もそうだったように、消え去ってしまった(ように感じられる)あの瞬間を取り戻したい、という思いに駆られたりするのでしょう。"そういうのは自我の思いなんだ"、とか何とか...ああ、メンドクサi
これ、すべて思いの世界でしていることじゃありませんか?
しかし、あの瞬間はそれは超えられていた...自由だったのです!
考えている自分からじゃない、すべて与えられたものだったのですi...故に"与る"というのです。
"それはどこからもたらされたのか?" このことが蔑ろにされた時、与ることと、自分に帰してしまうこととの混同が生まれるのでしょう。
与えられたものは、こちらで操作したり、こちらに帰したり出来ないものです。
そこには、どうしても私を超えた、その本なる源泉というものがあるi
私の本に帰る、その原点というものは、そこに求めざるを得ません。
前記したあの瞬間の感覚というものは、そのものあってのことであるほど当たり前すぎることは無いのですi
体験そのもの、そのことを頭で理解したことには求められないのです。
とはいえ、知らずにその与ったものを思念で取り込んでしまうこともあるかもしれません。
だから...どこまでも意識を本なるものに向けてゆきたい...そうならざるを得ない...
常に呼び覚まされるものを感じているから...
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言い表わせないことを言うこと

2021-05-23 10:11:05 | スピリチュアル
私が昭和58年夏、人生の裏側に足を踏み入れた時、思考機能が止まってしまった、ということを何度か書いています。
似たようなことはその後も数度あったのですが、そのように全く思い描いたり、追ったりすることが出来なくなってしまったことは、後にも先にもその時しかありません。
ということは、その状態のことをそのままで、あたかも見てきたように描写したり、言葉に置き換えて説明したりすることはとても困難なのです。
当然のことながら、そこで何が見えたとか、自分が異次元に移行したとかということは言い表せないのです。
しかし、そこから日常の意識状態に戻って、思考というフィルターを通し、類推し、解釈して表現することは可能でしょう。
それは、言葉で言い表わせないことを言うことに他ならないのです。
言うまでもなく、そこには多少なりとも、自分の思考によるバイアスがかかってしまうことはやむを得ないことです。
今日では、数十年前とは違って、かなり悟り、覚醒体験などの事例に接することが多くなってきましたが、それを説明しているものは一様でありません。各人各様の人生なんだから当たり前の話なんでしょうけど...
自分が信奉する宗教に結び付けるもの、霊的進化論のような精神科学的教説、量子力学などを借りたもの...これらはしかし、前記したことに照らせば、その根底にあるものはともかく、表現されたもの自体は、思考を借りた解釈と言わねばならないでしょう。
勿論私は、"それは間違っているi"などと決めつけるつもりはありません。誰だって自分の観方、感じ方に依拠しようとするのは自然な人間の在り方というものでしょう(言い換えれば、それが人間のサガというもの)。
要はこういうことを弁えた方がいいのではないか、ということです。
そこに間違ったものがあるとすれば、自説に固執し、絶対視し、他に押し付け、他説を一方的に否定してしまうような在り方でしょう。
しかしながら、こういう絶対視してしまう傾向というものもあり勝ちなことと言わねばなりません。
何故ならば、私なりに理解していることは、それは"神ったこと"(神がかったことではない)に関わることだからです。
神ったことというのは、当人には絶対的な意味を持っているのですi
それは思考を超えた、直接的なものからもたらされるものだから...言い換えると疑うことが出来ないものということです。犯すべからずもののように感じるものなのです。
各人にとって、そういうものなのであれば、お互いに尊重されるべきものでしょう。
他に強いたり、犯したりすることになれば、内なる絶対的なものは、極めて相対的な在り方に変質してしまうことになるばかりです。
私自身、思考を超えた事態のことを説明することもありますが、私の観方、感じ方が投影されることは免れないし、そこからズレたことを書いてしまうこともあるでしょう。
なるべく、頭で脚色することなく、感じた(感じることは出来る)ことをありのままに言い表すように心がけているのですが...
どう、感じるかはあなた次第です。
そうですi...これほどあなた次第のことは無いといっていいでしょう。
迂闊に他人があーだ、こーだ言っていることを信じ、迎合しちゃダメですよi
そういうのは参考程度にして、あなたが直接、絶対的なものに向き合うのが一番ですi
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