人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

帰依

2019-05-31 11:48:26 | 宗教
宗教というものは、人間の歴史と共にあるものです。
それくらい、神仏への帰依というのは、人間の本質に関わっているものと言えるでしょう。
しかし、それはこれまで如何に我々の外から強制するものとして、足かせのように精神を縛ってきたことでしょうか?
本来、神仏への帰依により、我々はもっと自由にラクにならなければオカシイのですi
私は母の影響に依るものか、幼い頃から宗教的な人間だったと思いますが、誰に教わるでもなく、自然と神に祈り、感謝を捧げることが出来ました。(他からの強制のようなそれはうっとおしくて仕方無かったですが...)
人間誰しも神的なものに触れるならば、自然とそう心が赴くものなんじゃないですか?
これは、我々の琴線に直接触れてくる神のことを言っているのであって、宇宙の法則とか善悪の裁定を司るなど、理念上の神のことではありません。
ある理念を信じるのではなくて、我がうちに感じられてこそ、本来の帰依感情というものが生まれるのです。
これは何がそうさせるのか...愛、平安、リアリティ...何度も言うように、これらに惹き付けてやまなくなるのです。
神は存在するか、どうかということがいつも問題にされるものですが、極論を言ってしまえば、このように我々に直接開示される神しか存在しないということが分かるでしょう。
逆に言えば、神について我々が抱いてきたのは、ほとんどが他から借りた観念ばかりだったということです。
実に実存的な神の出現は、固定観念の神の消滅を意味しています。
この実存的な帰依に根差さない、どんな悟りや覚醒体験も自己の限界を示されることなく、自我性に絡められ、宙に浮いたものとならざるを得ないでしょう。
思われた自己は神的なものにあって、自己を超えることが出来るのです。
神は全き超越者だから...
これにより、宗教が長きに渡って神仏への帰依を伝えてきた理由が実によく分かります。
そして、自己に纏わる思いが超えられて始めて分かります。神は何と自己に、いや自己以上に近しいものだったかということが...
自己の内奥に生き続けている...自己そのものである。
"私は神である"という信仰命題をいくら信じたって、観念が植え付けられるばかりで、そういう実感は生まれません。
すべては、思いを超えた神的実在と出会うことから始まるのです。
神とは恐ろしいものなのでしょうか、それとも愛してやまないものなのでしょうか?
あなたの本心に尋ねてみるべきです。本心に...ウソ偽りでなくi

宗教は、人間が存続する限り廃れることは多分無いでしょう。
しかし、その内実が顕わになるにつれ、信じる宗教から感じる宗教へ...
宗団本位の在り方から、個々の自由な在り方へと変貌してくるのではないでしょうか?

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神の解放

2019-05-28 12:17:10 | 
いつも言うけど、もうとにかく耳鳴りが大変なことに...
静かなところに居ると、耳鳴りしか聞こえない時もあります。
しかし、これ耳から聞こえてくる訳じゃないし、どっから聞こえてくるのかしらん?
どっからか分からないけど、ハッキリ聞こえる...幻聴じゃないよi
私はここんとこ耳鳴りは、神鳴りに通ずると感じているのですが、神(的なもの)もどこに居るのか分かりません。
けど、それは現臨と言ってもいいのですが、ハッキリと感じられます。リアリティはある、いやリアリティそのものと言っていいけど、捉えられないのです。
実に捉えられないということこそは救いなのですi 内外には何とトラワレで溢れかえっていることかi 中でもその神に囚われるほど救い難いものはありません。
何故、この不可知のものに囚われてしまうのか? 観念、思念に取り込まれるためでしょう。
"特定の神を信じなければ救われない"
"神を信じず、従わないものは、罪を着され、地獄に送られる"
"神は我々のはるか遠くにお在し、余程の信仰、修行に勤しまなければたどり着けない"
これまで神を我々に、何か恐ろしいもの、遠いもののように囚われさせているのは信じる宗教の存在でしょう。
しかし、宗教は我々に幸福をもたらすどころか、相克、不調和の種になるばかりであることが暴露され、信頼を失い、最近のスピなどでは神のことは説かれないものも多いようです。
神そのものは(諸々の不充分な、歪められた神の観念は存在しても)、一度も明らかにされたことは無かったにもかかわらず...
その一方、神的なものを蔑ろにした精神的な道では、自己に囚われ始めます。
悟りや覚醒体験といったものですら、自我性に絡められるのです。
これまで、宗教、スピで伝えられてきた悟りとか救いとはどういうことなのでしょうか?
勿論、簡単に言えることではないですが、一つの大きな実感を伴う様態は、あらゆる囚われからの解放というものでしょう。
精神的にも囚われの身になったことのある者ならお分かりでしょうが、自らはそこから解かれ放たれることは出来ないのです。
我々をそこから自由にさせてくれるものがあるのですi これを神的なものと言っているのです。
最近、色々な人の覚醒、一瞥体験の模様について目にすることがありましたが、このものに触れているものが実に少ないのが不思議でしょうがありません。まあ、思議を超えたものには違いないので、それもそうかなとも思えますが...
この場合は我々を超えた、超越者、絶対他者というニュアンスをよりもたせていますが、それは"捉えることが出来ない"のです。
捉えざるものと共にある時、我々は"放たれる"と言ってもいいのです。神こそは"解放者"なのですi
こう考えると、我々が幸福に与る上で今もっとも必要なことは、神を信じる人間も、信じない人間も神についての諸々の先入観、固定観念から離れること、言い換えると我々の観念から神を解放することではないでしょうか?
神の解放こそは、人間の解放に他なりません。それには神に親しむことから始めたらいいでしょう。
神は肉親よりも、この自分よりも近いものなのだから...


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どっちでもいい

2019-05-26 11:35:56 | 覚醒
"あっちのスレはまるで宗教戦争みたいだi"
"一瞥体験"のスレは避難所となり得るか?

宗教、スピには原理主義というものが付き物ですが、非二元原理主義ほどナンセンスなものはありません。
原理主義というもの自体、二元的観方から生まれるものでしょうのに。
"ああ...ラマナ.マハルシの言葉ですら、彼らの正しい原理を立てる道具になってしまうのか..."
"疑う主体がなくなってしまった"というコメントに対し、"それは疑う主体がないと言っている主体がある、と言っているのではないか"と返したら、それはもう、そこでマトモに話す気がなく(誰がこうした話に応じられようかi)、自説に固執し、相手をやりこめることに意識が行ってしまったことの表れという他ないでしょう。
何がかくまで彼らを自我の消滅に駆り立てるのでしょうか?
本当に自我が消滅したらこうしてブログを書くことも、掲示板で議論を戦わすことも出来なくなるはずです。
自我はあっていい、いや無きゃオカシイのです。
"悟った人"気取りの人は、この当たり前のコンコンチキのことが分からないのか、そんな思いは自分と共にどっかへ消えてしまったのだろう...
私はむしろビギナー(不適切な発言、失礼)のコメントから学ぶことが大きいです。
彼らの発言から基本的なことに立ち返らせてもらえるからです。彼らは概してあの身体中が痒くなってくる、持って回った、取り澄ましたような悟った人っぽい言い方はしません。
彼らはごくシンプルに"悟りたい、覚醒したいi"ようです。
私も色々言うけど、それ自体悪い訳じゃありません。正直な気持ちの吐露なんですから...
いや、ホント、世の中生きづらいのか、悟り、覚醒、一瞥体験を求める人って多いですねえ...求めているのは、イチイチ言う必要もなく自我からです。誰もがそうだったはずでしょう...これはしょーがないことです。悟った人気取りも例外ではないはず...
ただ、その求めの裏側に"見えざる導き"が隠れてたりするのです。
そして、うんうん唸りながら瞑想してても、足がシビレるだけだったものが、"思いがけなく"全身心がシビレる事態になったりすることもあるのです。
覚醒とは自我が思いを超えたものの前に降参してしまうことに他なりません。
"思いを超えたものがある"...これを蔑ろにすると、自我がそれに取って代わるようになってしまうのです。
そして自我はそれ自体を消滅させるか、限りなく肥大化させるように駆り立ててしまうのではないでしょうか? 自我ばかりになってしまうことが問題なのです。
では、思いを超えたものとは真我なのでしょうか?
"自我を観照するものは、自我なのか、真我なのか?"...理屈から言えば、それを超えたものでなければ、照らされるということは不可能でしょう。
しかし、私はどっちでもいいと思いますよ...どっちでもいいとは理屈などどっちでもいいということです。(自我か、真我かと立てるところに"本当の自分になりたがる思い"が増幅してくるのでしょう)
もし、そういうことになっていたら理屈でなしに感じられるはずだから...
誰ぞやも言ったように、神でも真我でも感じるものなのです。
これを蔑ろにするから、どこにも行き着かない議論に明け暮れてしまうのでしょう。

スピ関係のスレは、中々平穏にはゆかないものです。
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自我か真我か

2019-05-23 12:14:20 | スピリチュアル
ノンデュアリティ掲示板がもう大変な盛り上がりようですi
一つ、ここの常連の投稿者は、私よりヒマな人たちだということが分かりました(笑)...最近、暑いですよねえ...
ここでは流行のノンデュアリティの紋切り型のバイアスが掛かっていない分、色んな観点からの発言があります。
ただ、ここ最近は自説の押し付け、それに基づいて他者を論破しようとする"荒らし"に近い傾向も目立つようになりました。
そんな中、ある人の覚醒体験についての投稿が目にとまり、私も投稿してみたくなったけど、やり方がよく分からないのと、"嵐"に巻き込まれるのがイヤなので、ヤメたということがあったのですが、それによると、その人は今まで誰にもその体験について話したことも、理解を得られたことも無かったが、真の非二元的境地に達したとおぼしき人から"お墨付き"のようなコメントをもらって感激していたのです。これは“ワロタi“
といって私はこの人をバカにしている訳じゃないですよi
かく言う私もそういうことがあった直後、自分の体験に確信がもてなくて、誰かにお墨付きをもらおうと思い立ったことがあるのです(笑)
そこで真っ先に白刃の矢が立ったのは、大調和協会の命位様なのでした。
その体験の一週間後、お会いしたのですが、しかし結局は「私はひょっとして悟ったのでしょうか?、それともあれは幻想だったのでしょうか?」と切り出すことは出来なかったのです。
だってねえ..."あんたバッカじゃないのi 覚醒とかなんとか言ってないで、さっさと夢から覚めなさいi"って言われるかもしれないじゃないですか?(ある筋の師家でしたらきっと"それは魔境だi"くらいは言うでしょう?)
そうしたら、あの至高の一瞬と思いたい気持ちは根底からグラつき、その体験は熱病に侵された(実際に高熱に苦しんでいた)結果だった、てことになるでしょうか?
それとも、その"私が覚醒体験した"こと自体は、グラついたとしても、私の自覚意識を超えても尚、そこにどうしても、こうしても揺るがない、疑いようのないものがあるのをどっかで感じているか、どうか...正師なら間違いなくここにつなげようとするでしょう。ここが実に肝心なことなのです!
私はこのブログを書きつつ、こう感ずるようになりました。
"悟った自分に固執するもの、自我が残存している?自分の状態を認めようとしないのは、そも何なのか?
それは又何が真我で、何が自我かを巡り、たどり着きそうにないその決着点に立とうと、他者を巻き込んでまでも駆り立ててやまない。
他者を巻き込むことは、その確信に対しての承認を求めているのではないか?"
これはねえ、自我なんですよ~...って、あーた、分かりきったことはもういいだろi
悪いか? 良いも悪いもありゃあせんi そうなってんだからしょうがないi 真我の承認などどうでもいいから、そっちを自分で認めるのが先決なんじゃないですか?
こう言ったからと言って先の掲示板に投稿した人の覚醒の内容は、自我意識から脱却出来ていないなどと決めつけている訳じゃありません。
いや、"決めつけられる訳ないだろーっi"...決めつけようとすること自体がそも、ナニなんだっつーの...もうキリがないからヤメi
何が真我で、何が自我か...肝心の"真我の神様"はどう仰せられるだろうか?
私にはこういうものしか感じられません。"どーでもええわi"
我々が何を考え、感じ、どんなぶっ飛び体験をしようが、他者を論破しようが、されようが、おバカなことをやっていようと、"私はここに在り続ける"もの、誰の承認も要らず、自体で充足し続けるもの...皮相的自己の根っこにそういうものが感じられる...これは特別な体験などなくとも感じられるはずです。それを感じられるのは、正にその皮相的自己ー自我あっての由縁ではないでしょうかi
勿論それもこれも、その奥に息づいている自己ー真我あってのものであるのは言うまでもありません。
そのものあっての、あんなことこんなことなのに...つい蔑ろになるのも分かっちゃいるんだけど...
"どっかで気付いていればいい..."との仰せです。



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分かっちゃいるけど...

2019-05-22 04:03:45 | 詩的文章
朝起きて...
例の耳鳴りがいつになく僕の内部に浸透してくる...
昨日のあの重たい、どこにも行き着かない思いは消えていた...
ヒワイなことにとらわれた思い...
分かっちゃいるけど...どうしようもないサガ
こんな時、あの"じん、じん"はどっかに行ってしまう...

主なるあなたよi
あなたは何が気障りなのかは何となく分かる
僕の何を求めているのかも...
あなたはひょっとして女神様なのか?
ひょっとして...
嫉妬しているのか?

"私だけを見てi
私だけにつながっていなさい!"

あなたは、そう告げているのか?
でも、この僕のどうしようもないサガ...
あなたはとっくに分かっている...

"どんなに一途に恋してる男でも、心のどっかでは、毎日違う女と寝たがってるもんだ...
男ってのはみなそういう生き物だよi"

ああ...男ってのは女に比べて、何と天国に遠いんだろう...
女だけだったら、核戦争の危機は生まれなかっただろう...
地獄は...そうだ、男が作り出したに違いないi
分かっちゃいるけど、どうしようもないこのサガ...
分かっているんだi 主なるあなたよi
あなたの側でずっと憩いたいi
絶対的な安息を求めて...

天国と地獄というのは...
何と隣り合わせのもの...

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