人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

好きなことが高じると...

2021-01-31 10:05:28 | 雑感
ずっとこのブログを読まれている方ならお気付きのように、自分で言うのもおかしいですが、結構色々人の知らないことを知っています。何の役に立つのか知らないですけど...
どうも"オタク"と呼ばれる人種らしいです。イヤな言葉ですが...
こういう人は、自分が好きなこと、関心のあることしか知りませんし、知ろうともしません。ということは一般常識的な知識には疎いところがあるのです。
"いつもスピ界隈には足の付いてない、頭でっかちのヤツが多いi"、な~んて、エラそうなこと言ってますけど、私のそっちの知識ってのも相当なようでして(?)、きっと自分がそうだからそういうことが目についちゃうのでしょう。
しかし、知識には頭で思い描いているしか方法のないことと、自分の足とかで確かめられることとがあります。
好きな音楽なら自分の耳で聴いてみるに如かず、なんてのは当たり前のことだし、誰も知らない、今は道路の下になってしまった川~暗渠に実際に行ってみたい衝動に駆られる向きもあろうというものです。
この源はどこにあって、末はどこに落ちているのか?...ということに夢中になってる所謂"暗渠ハンター"の気持ち分かりますねえ...。
そのように私は、昔から可能であるならば、自分で確かめずに居れなくなる性分がありました。
だから、精神的な道においても、自分の因って来る源を探り当てようとして、"人生の裏側"へと足を踏み入れてしまう...
ということは要素としてはあったでしょうけど、ただ覚醒とか、ぶっとんだ体験を追い求めるだけのスピ.オタクのようなことになってたらと思うと、背筋が寒くなる思いがしてきます。
私がそっちの道への探究へと突き動かしていたものは、ごく単純に神信仰にあったのです。
そうして、いくつか宗教、スピ関連の団体とも関わってきた訳ですが、神についての教えを信じることに終始するだけでは到底満足することなど出来ません。
団体、教えを通して示される神ではなく、私に直接触れてくる神でなくてはならないi
私は幼いころから、"私だけの神信仰"というものがあったのです。
こういうことが高じてしまったのは確かなことのようです。
それが高じてしまうと、神についての知識というものほどバカらしいものは無い、ということが分かってきます。
ということは、昔から(多分に母の影響があったのですが)神様が好きで、惹かれてたまらないものを感じていた、ということなのです。
だから、あまり直接的でない信仰や修行というものが私に根付くことが無かったのです。
そして、"あ、そこの曲がると坂道になってる、行ってみようi"、となって抜き差しならぬ(?)世界に踏み入れてしまう....そこは天国か地獄か? 一度踏み入れたら二度と戻ることは出来ない..."
神の道は、好きなのでやめられないのは同じですが、他の知識の道とはかなり赴きが違います。
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上高田の曲がり角

2021-01-30 11:23:23 | 雑記
"上高田"...って聞いてもピンと来ない人も多いことでしょう。
都内でもどれだけ知られているのか分かりません。
しかし、お寺、歴史、暗渠(!)好きな人には結構有名なようです。
西武新宿線の新井薬師駅から西側、南は中野北口へと通ずる早稲田通りまで、北は哲学堂公園辺りまで広がる、中野で生まれ育った私には思い入れ深い町なのです。
先日、原付を手放すことになった私は、その新井薬師から中野駅の方へ歩いて行こうと駅前商店街を南へテクっていたら、昔のクセが出て、途中そこから西へと通ずる、「上高田本通り」商店街に気まぐれに脱線したのでした。
そこからさらに路地に入って...と、こうなると、もうすっかり昔の"ウオーキン.マン"に戻ってしまった感がしてきました。
そして、少し進むと..."あ、ここだi"...電撃のように記憶が甦ったではありませんかi
昭和52年晩秋の頃、五井先生の本を読んでいて、思わず涙が溢れてきたという、おそらく私が神に捉えられることになる端緒となったであろうことに与った、メモリアルな小さな公園ではないかi...「上高田こぶし公園」だって。しかし、もっと広かったと思いましたが...
そして、そこからさらに坂道を下ってみました。とにかく私は昔からそういう習性があるのです。
"ワクワクするなあ...坂道を下れば川があるんだi"...上高田には西隣の新宿区の間を妙正寺川が流れています。だが、方向が違う...川なんて無いぞi...いや昔の地図にはハッキリと記されているi...つまり暗渠です。
何川だか知りません。名も無い小川でしょう。しかし、"暗渠探検隊"(?)というヘンな人たち(私はさほどコアじゃないけど、その端くれかもしれない)からは、「上高田支流」と命名されているらしいのです。アチコチにある妙正寺川の支流の暗渠の一つです。(こういうとこを探索してたら、必ずと言っていいほど野良猫に出会えますよi)
で、その坂下から西へと向かう路地に出てみると..."あ、ここだi"
商店街ってほどでなく、疎らに店が点在しているヘンな一角...ここは小学5年のやはり晩秋の頃、クラスの悪ガキと一度だけ来たことがあります。先の公園と同様、どうやって行ったか分からなくなっていたのです。
そうだ、確かここへは、上高田3丁目にある、"垣根の垣根の曲がり角~"の童謡「焚き火の歌」のモデルになった屋敷から歩いて来たのだった...やはりもっと広いイメージがあったのだが...
急に「ヴィレッジ.シンガース」の「バラ色の雲」と、「中村晃子」の「虹色の湖」(GSテイストの強い曲)というヒット曲を思い出しました。
つまり、昭和42年晩秋のその頃、この界隈で聴いた記憶があるという訳です。(GSブームだったよなあ...)
ところで私はどこを目指していたのか?...そう、中野北口なのでした。それには新井薬師と早稲田通りをつなぐバス通り「柳通り」に出ればよい...だから...坂道を上って行けば、すぐ出るはず...そして、以外と遠かったけど、出たi、裏側でない表通りに...
"あれ、違うぞi...こりゃ、もみじ山へ通じる通りではないかi"
だから...人生と同様、ウオーキングは思い描いた通りには行かなくて面白いのですi...しかし、遠回りだなあ...
この他、上高田は、特に南の早稲田通り沿いにやたらと寺が多いので有名です。
先の上高田本通りを西に抜けたところにある「万昌院功運寺」には吉良上野助の墓があるらしいです。原付飛ばしていつも通りがかっていたけど、ちっとも知りませんでした。
とにかく、私は、思いがけなく、気まぐれから一度に約40年ぶり、50年ぶりに謎のスポットを訪れることが出来たのでした。感激i
"チョイとそこの曲がり角を..."これは又クセになりそうだ...
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私が歩く人間だった頃

2021-01-28 11:39:31 | 回想
愛用していた原付の"くーちゃん"を手放すことになった私は、先日、所要で電車にして二駅ほどある駅まで歩いて行くことにしました。
"ああ、めんどくさi"...と最初は思ったのですが、歩いているうちに段々昔の記憶が、"足元から上ってくるようにも"甦ってきました。
"私は、とにかく歩く人間、歩くことが好きな人間だった...I was a walkin' man"
間違っちゃいけないi "ワーキン マン"("働く人間"...それは絶対無いi)じゃない、"ウオーキン マン"(歩く人間)ですi
特に40年くらい前はやたらと歩いていたものです。
お金が無くて交通費を浮かせよう、ということもありましたが、自然と足がそっちに赴いてしまうことしばしばでした。
当時中野に住んでいたのですが、一番よく行ったのは確か池袋か? そこへは何かの目的があったこともありましたが、練馬、板橋のどっか...池袋までの道を間違えて行ってしまったことも含め、大体目的なんか無かったですよ。
今日は北、明日は南、そんで東、西と...全く気の赴くままです。(何故か、自然と北へ行く傾向は今でもあります)
原付を飛ばすことを考えると、何という効率の無さ、時間と体力の無駄であろう...一体、私は当時どういう生活をしていたのであろう...
しかし、時間の無駄ってなんだi...もう、にわかに頭の中から何かが抜け落ちたみたいです。
時間に追われ、縛られることが時間の無駄なのではないのか?
私は何故40年前、しばしばウオーキングに駆られていたのか...アリアリと思い出しました。
じっとしておれなかったi、歩き出さずに居られなかったのですi こうなると、時間に追われるというヒマな時間をもて余してなど居られません。何で時間の経過など惜しんで居られようかi
何故って?...喜ばしいことに、幸福に感じてしまったから...どうして?
さあ?...当時、よくウオーキングに付き合ってくれたヒマそうな友人も「何で、どうなったら、そういうことになるんだ?」と首をかしげていましたが、当時は私にもよく分かりませんでした。
本を読んでいてそうなるというのはよくありましたが、今から思えばこれは自明のことです。
意識が何かに向いちゃっていたからですi
時に、高揚とした気分になって、どこをどう歩いていたのか記憶に無くて、気が付けば家に戻っていたということもありました。(我ながら、ホントにヘンな人間だったみたい...今でも?)
思えば、私の精神的な歩みというのは、こんな風なことのようです。
気が付けば、"人生の裏側"に足を踏み入れてしまった...
気が付けば、愛、平安、リアリティに与っていた...そこはホームなのだろうか?
あれは本当に40年前のことなのか?
何だか、じっとしておれなくなってきたが...
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さよなら、くーちゃんi

2021-01-26 09:49:38 | 独語
ついにこの日が来てしまったのかi
もう、そろそろだろうと覚悟はしていたけれど...
一昨日までの、長い冷たい雨に持ちこたえられなかったのだろう...
"ウイン、ウイン、ウイ~ン"...まではよかったが...
"プスンi"...事切れたi...
"プルルル...ブルンッ"、の命の脈動は二度と戻らなかったi
その手を左右に動かせば..."くー、くー"と悲しい鳴き声だけがする...

"くー、くー"...すごく愛らしい鳴き声なので、"くーちゃん"と名付けた
どこへ行くのも君と一緒だった...
色んなところへ連れていってもらったなあ...
お陰で随分と視野が広がった
時間がとても短く感じられた
風が当たってとても気持ちが良かった
アブナイ目にあったことなどほとんど無かったが...
僕自身も一度だけ軽傷を受けた数年前の日、一度だけ倒して傷つけてしまった...
ごめんよi
もっと大事にするんだった...
ケアに心がけるべきだった...
"この冬ぐらいが限度じゃないか?"、と診断を受けたのが一年前...
しかし...今年の冬は乗り越えられなかったi
おつかれさんi
今まで有り難うi..."くーちゃん!"

昨日も、明日も、ホンダの 原付"Today"のくーちゃんi
コメント (2)
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思いを超えたものの味

2021-01-24 10:01:59 | 意識、照明
いつも言うように、"意識を神に向ける"というのは、ホントは言葉で説明することが困難なことなのです。
言葉通りに取ってしまえば、"向けよう、向けよう"と、自分の意志的な行為みたいに思ってしまうでしょ?
これは、普通に人為的なことを言っているのですが、"神に向ける"、というのはほとんど自然に向いちゃうということ、無為的なことを言っているんです。
といって、無為というのは、全く何もしないという訳でもなく...しかし、何かをする訳でもないしなあ...要するにこれが意識的な有り様ということなのです。と、こんな具合で説明すると訳が分からなくなるのですよ。
これは、人間の世界では行動するか、考えるかしか知られておらず、心の底の意識の次元のことは、ほとんど知られていないから無理もないことなのでしょう。
しかし、誰でもこの消息のことは自然にやらされているはずですよ。
子供にチョコレートとかお菓子の臭いを嗅がしたら自然とそっちに意識が向いちゃうでしょ? これには欲求とか色んな要素もあるんでしょうが、元にあるのは意識に根付いたものがあるからでしょう。子供はね、オイシイ味をシメているんですよ。
私も実は...(ひっ、ひひひ)そうなんですよ。何も無けりゃ向いたりしません。パブロフの条件反射みたいなものです。(犬か、オレは?)
神的なものがどういうものか味を知っているのです。そこには愛、平安、リアリティという他の何ものにも代えられないものがあるi
だから理屈とか考えている次元を超えてしまうんです。意識を集中しようとしなくても自ずと集まってくるのです。
"思いを超えないと悟りや救いには与れない"、ということで、古来よりそのための方法が試みられてきました。
呼吸法とか、意識を体のどっかの部位や、何かを型どったシンボルに集中させるとか...人それぞれなので、私は別にそういうものを否定したりはしませんが、私には根本的に合わないのでやりません。ハッキリ言って、やるのが困難、苦痛なのです。
だって、オイシイ味が一つもしてこないぞi
苦しいことを"うん、うん"唸りながらやるよりも、"パッ"と、思いを超えて、向いちゃったらどうするんですか?
もし、苦しい修行を続けることにマンネリとか、億劫に感じている人が居たらこのことをよーく考えてみたらいいと思います。
人は、幸福に感じられる時に思いを超えることが出来るのです。誰もが知っているはずですよ。
パッとなるのはその端緒みたいなものなのですが、それが深まると一切の修行とか、人為的にやることを手放さざるを得なくなってしまいます。
これが私が"神に捉えられる"という事態のことなのですが、これはまさしく断念...思いが断たれることを意味しているのです。
といって、普通は一時的なもので、その後もずっと何も考えられない状態が続くという、世捨て人みたいになる訳ではありません。
こういうことは、すべて意識が最愛なるもの(即ち幸福に感じられるもの)に向けられることから始まるのです。
私の思いや力がそうさせるのではなく、そのものの方が導くのです。
何故人はこんな簡単で、自然なことにではなく、難しいことに赴いてしまうのでしょう。何か難しいことをやらなければそれに与れないかのように...
正に簡単、自然過ぎて気が付かないのでしょう。そんなことでそんなことになる訳無いと...(そういう人はそうなったことが無いのですi)
どうしたら神的なものの味をシメられるのか? 簡単でしょ? ものは試しに最愛なるものに手を合わせてみれば...
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