私は年々、ユダヤ人哲学者マルティン.ブーバーが「私はもう神を第三人称で語ることが出来ない」と言っていたことにとても共感せずにおれなくなって来ました。
自分自身に示されること、スピ界隈に他山の石のように写し出される、思いを超えた領域のことを自分の思いで分かったつもりになり、それに取り込んでしまうという、惨たんたる有り様を見るにつけそう感じざるを得ないのです。
こういう人たちは、例えば神のことが本当に分かるのでしょうか?
だとしたら、きっと彼らは神になったか、あるいはそれ以上のものになったつもりでいるのでしょう。実にお気の毒な人たちです!
"神のことは分からない"
マイスター.エックハルトが言うように、分かったような神は神ではありません。少なくともここで語っている神については...
"神は唯一のものである、いや、多神である、ある救世主を通じて現れるものである、宇宙の法則である、あるいは又人間の苦悩や恐れをエサにしている宇宙存在である..."
さも真理を悟った、神が分かったかのように語る人間は、このように第三人称、他人事のように平然と神を言い表します。
彼らは直に、全く真向かいに、到底他人事のように語ることの出来ない、神(的なもの)を知らないのでしょう。いや、それは決して主我的な思いで"知ること"は絶対に出来ないのです。
そうして思いを巡らせていても、いつまでも頭のベルトコンベアが回り続けるだけで、どこにも行き着けず、着地することが出来ないのです。
そしてどこまでも何かを捉えようとして、トラワレ続け、決して神的なものに"捉えられる"(こうなることで無限ループから抜け出せる)ことがないのです。
私は何度でも言います。"神のことは分からない" ...それは思いを超えたものだから...
だけど、思いを超えたところから愛、平安がもたらされることは分かります。いや、ここではそう感じられると言った方が適切でしょう。
又こうも言える。感じられる、ということは頭で分かるよりも分かりすぎることである、と。
それは、リンゴは食べてみれば分かるようなことだから。
しかし、実は...それが神から来るか、どうかということは分からないのです(な、なんだi)。少なくとも私には。
神はひょっとして我々を愛してくれないし、救い、守ってくれないのかもしれないのです。
だから信仰熱心な人のように、"神に救われました~"ということに殊更拘る必要もないのでしょう。
だけど、それが何だか分からないが、キョーレツにそういう風に感じて、随喜の涙が溢れることもあります。
そう感じたなら、素直にそのことを受け入れるしかありません。いや、受け入れているからそう感じるのでしょう。
これが本当に、本当に救いなんだからしょうがないi ...分からない人は、きっとこの世に生きることの重圧、苦しみに打ちひしがれて涙したことがないのでしょう。このどうしようもない際から光が差し込む...
もし、そのことになおもツベコベ理屈をつける向きは、さっさと宇宙のチリとなるか、神と呼ばれる彼ら"宇宙存在"のエサになったらいいでしょう。
私がいつも神(的なもの)と言っているものは、この"人生最大のオドロキ"という事態から導き出されることに他ならないのです。
これがオドロキでないというのなら、"自分の力で自分の思いを止めてみろi"、と言いたいi
そして、"ああ、こういうことは神のなせる業なんだなあ..."、ということになる訳です。
分からないということは、あまりにも自分に近すぎる、直のものであるからでしょう。他人行儀で居られる訳がありません。
そして思いがそっちに向けられ、開かれてくるのも、この幸か不幸か、考えなければ生きて行けない人間の、(ラマナ.マハルシならそう言うであろうように)ごく自然な本性なのではないでしょうか...。
自分自身に示されること、スピ界隈に他山の石のように写し出される、思いを超えた領域のことを自分の思いで分かったつもりになり、それに取り込んでしまうという、惨たんたる有り様を見るにつけそう感じざるを得ないのです。
こういう人たちは、例えば神のことが本当に分かるのでしょうか?
だとしたら、きっと彼らは神になったか、あるいはそれ以上のものになったつもりでいるのでしょう。実にお気の毒な人たちです!
"神のことは分からない"
マイスター.エックハルトが言うように、分かったような神は神ではありません。少なくともここで語っている神については...
"神は唯一のものである、いや、多神である、ある救世主を通じて現れるものである、宇宙の法則である、あるいは又人間の苦悩や恐れをエサにしている宇宙存在である..."
さも真理を悟った、神が分かったかのように語る人間は、このように第三人称、他人事のように平然と神を言い表します。
彼らは直に、全く真向かいに、到底他人事のように語ることの出来ない、神(的なもの)を知らないのでしょう。いや、それは決して主我的な思いで"知ること"は絶対に出来ないのです。
そうして思いを巡らせていても、いつまでも頭のベルトコンベアが回り続けるだけで、どこにも行き着けず、着地することが出来ないのです。
そしてどこまでも何かを捉えようとして、トラワレ続け、決して神的なものに"捉えられる"(こうなることで無限ループから抜け出せる)ことがないのです。
私は何度でも言います。"神のことは分からない" ...それは思いを超えたものだから...
だけど、思いを超えたところから愛、平安がもたらされることは分かります。いや、ここではそう感じられると言った方が適切でしょう。
又こうも言える。感じられる、ということは頭で分かるよりも分かりすぎることである、と。
それは、リンゴは食べてみれば分かるようなことだから。
しかし、実は...それが神から来るか、どうかということは分からないのです(な、なんだi)。少なくとも私には。
神はひょっとして我々を愛してくれないし、救い、守ってくれないのかもしれないのです。
だから信仰熱心な人のように、"神に救われました~"ということに殊更拘る必要もないのでしょう。
だけど、それが何だか分からないが、キョーレツにそういう風に感じて、随喜の涙が溢れることもあります。
そう感じたなら、素直にそのことを受け入れるしかありません。いや、受け入れているからそう感じるのでしょう。
これが本当に、本当に救いなんだからしょうがないi ...分からない人は、きっとこの世に生きることの重圧、苦しみに打ちひしがれて涙したことがないのでしょう。このどうしようもない際から光が差し込む...
もし、そのことになおもツベコベ理屈をつける向きは、さっさと宇宙のチリとなるか、神と呼ばれる彼ら"宇宙存在"のエサになったらいいでしょう。
私がいつも神(的なもの)と言っているものは、この"人生最大のオドロキ"という事態から導き出されることに他ならないのです。
これがオドロキでないというのなら、"自分の力で自分の思いを止めてみろi"、と言いたいi
そして、"ああ、こういうことは神のなせる業なんだなあ..."、ということになる訳です。
分からないということは、あまりにも自分に近すぎる、直のものであるからでしょう。他人行儀で居られる訳がありません。
そして思いがそっちに向けられ、開かれてくるのも、この幸か不幸か、考えなければ生きて行けない人間の、(ラマナ.マハルシならそう言うであろうように)ごく自然な本性なのではないでしょうか...。