人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あんなこともこんなことも"O"の中に...

2018-12-30 11:46:30 | 雑感
今年も暮れようとしている中、"あんなことも、こんなこともあった"と一年を振り返ったりするのですが...
どうも良いこと、悪いことと単純に分けて、思い返すことが出来なくなってしまいました。
現象的に何があっても、無くても、あの"O"があれば、それで悪くなることは無いのです。
"O"...もう意識するだけで耳鳴りキンキン、身体はジンジン、心はシンシン...
それで不幸になってることなど絶対にありませんi
これに与れないというのが不幸なことなのですi
で、本当に記憶されていることと言ったら、こうなっていることしかないのです。
年が暮れて、来年になっても多分そうでしょう。
これは決して数多のあんなことやこんなことの一つのようには認識されません。
"ああいうことがあった、こういうことがあった"...そりゃあ、あるだろう...
嬉しいだろう、悲しいだろう、大変だろう...
そういうのが無かったらそんな起伏、変化の無い人生なんて平板で、死ぬほど面白くないでしょう。
又、"O"が無かったら現実に起きることに圧倒されてホントに死んじゃうかもしれません。
私はこう見えて(見えないか)感情の起伏の激しい人間で、とても"この世はマヤ、幻想なんです~"なんて澄ましこんでなど居られません。
しかも欲望の塊ときてるi 一日最低一回はバカを見ずに居れないくらいです。
この世がマヤなら、何でこの隙間風が漏れる部屋でガタガタ震え続けにゃならんのか?
冬はリアルに寒いもの...当たり前のことですね。
"この世に起こることは、スクリーンに映し出されていることみたいなものなんですよ~"って、スクリーンから北風がピューピュー吹いて来るかってんだi
苦しいこと、悲しいことはリアルにそうです。少なくとも私には。
もう、感情を押し殺して悟ったフリして、やせ我慢などしたくありません。
ただ、そう感じてたらいいんじゃないでしょうか?
そうですi そう感じなければ"O"に与ることも出来ませんi
厳しい北風も見る間に和らぎ、雲間から暖かい日の光が...悴んだ手にも温もりが...
化してゆく...
このすべて丸ごとがただ自然(じねん)に、リアルに感じられます。
変化や起伏があり、不変、普遍、常住のものがある...そのどっちかが本当で、どっちかが幻想なら...誰もこれを書くことも、読むことも出来ないでしょう。
ただ言えることは、年々、段々と、この人生の深奥に息づいているものが顕わになってきているということです。
それは意識する、しないに依らず、ずっとずっと息づいていることが自覚されてきます。
そのことを際立たせているのは、諸々の"あんなことやこんなこと"でしょう。
それも、みんな"O"の中に...



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢の街

2018-12-27 11:45:16 | 創作
暖冬とは言えど、やっぱり師走は寒い。
空っ風がスカスカ、ヨレヨレの着こなしにこたえる...空も心もどんより...
ホッと一息着きたいところなんだが...
あ、そう、そう...確かこの近くに古びたアーケードの商店街があったはずだ。
平板な道にやっと起伏らしいものが感じられてきた...ゆったりとした坂道。下って行くだけで何だかワクワクしてきた。
橋に差し掛かる。これは何という川だっけ...神田川? いや、も少し小さく親しみが感じられる。カモも人懐っこく、橋の上で眺めている私の方に寄ってくる...。
と、見る間に雲間から夕日が差し込む...と同時に風も穏やかになってきた。
それにしても、都内の川はみんな知っていたと思ったんだが、何故思い出せないんだろう...
橋を跨ぐと段々店も増えてにぎやかになる。さらにワクワクしながら坂上を目指すと、高台に氷川神社がある。氷川神社でいいんだろう...川辺にあって、この階段を登って神殿を望む佇まいはそうに決まってる。
ここで祭られるスサノオノミコトだか牛頭天王は、どこともなく現れる放浪の神様。冷たい川から流れてきて、この地でホッと一息着いたのだろうか? 
夕日に誘われるように、ネコたちもどこからか出てきた。日溜まりで寝てたり、飛び回ったり...何て相反することが自然に身に付いているんだろう...。
この社を真ん中にして商店街が開けている。人通りはさほど混んでもなく、まばらでもなく丁度いい。ただ昭和30、40年代ぐらいから時間が止まったようにレトロである。
ここはずっと、駅前再開発とも大型商業施設とも無縁だ。毎年馴染みの風物詩、歳末の活気も今年も健在。
かつての私の優良商店街の三点セット、古本屋、中古レコード屋、セルフでない喫茶店も健在。楽しいi
お気に入りの、入ると床がきしむ音がする喫茶店に入る。アンティーク?...いや、単にオンボロなだけだろう。
ここは何がいいって、いつも聴きたい音楽が流れるのだ。ジャズ、ラテン、タンゴ、60年代ロック...そうみんなレトロだ。こういうのが一定のサイクルで取っ替え、引っ替え流れてくる...飽きないi
そして哲学やら宗教やら文学やら好きな本に読み耽る...さして金もかからずに何という贅沢だろう...だからビンボー貴族趣味はやめられないのだi
こんなありきたりなことが一番得難いのだi 幸せ過ぎて気を失いそうになったこともある。
そんな時はもうジッとしていられなくて、あてどもなくほっつき歩いて、どうやって家へ帰ったか分からなくなってしまうのだが...
ところで...
私はこの街に一体どうやってきたんだっけ? 寒さをしのごうと表通りからここへ入ったまでは覚えているが...
ここの最寄りの駅はどこだ? 普段バイクで移動するからピンと来なくなっているのか?
分けの分からないことを考えているうちに、心地よくなったためか寝込んでしまった。
...
目が覚めたら部屋の中だった。
あの街からどうやって帰ってきたのだろう...
あの街?...何度も訪れている気もするのだが...
私は一度も訪れたことは無い...。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震えて眠れi

2018-12-24 10:49:17 | 詩的文章
朝の目覚め
目が覚めたのである...
毎朝、毎朝の繰り返しだけど...今日は目覚めたi
これでいいんだi
目が開いている時、何てあーでもない、こーでもないことに引っ掛かっていたんだろう...
あーしよう、こーしようと、もがき続けていたんだろう...
すっかりそんな"くびき"など外されていたi
何て爽快なんだろう...敷居も壁も窓ガラスも無くなったよう...
どんなに瞑想の真似事をやっても、こんな風にはなったことが無いi
こんなになっているのが本当の自分?
本当の自分、ウソの自分、エゴの自分...どれも皆自分じゃないかi
エゴは捨て去って、真我になろうとか、
何かの境地に達したであろう自分を設えて、そこを目指そうとか...
何にもなれず、どこにも達し得ないのに...
真我らしきもの、より高い境地とやらに固執する
それが"くびき"になっているとも知らずに...
どうにもならない自分が、世の中をどうにかしようと、
さらにくびきは重く、絡まりだす
ああ...こんな果ての無い迷いから離れたい...
でも、この曇りガラス、あっちとこっちとを分ける敷居...如何ともし難い
外は北風、隙間風...如何ともし難い
震えながら眠るしかない
曇りガラスも敷居も暗闇の中に消えて行く...
夢の神殿でどんな秘儀伝授が行われていたかは分からないが...
ただ意識が自ずとどこかに収斂されて行く
全身に微細な震えを伴いながら...全部
あれも、これも全部がこれに貫かれ、包まれている...
なろうとすることも、得ようとすることも、正しいことも、ダメなことも...
夢も現実も...
疲れたら...
寝たらいい...寝たならば、目覚めることが出来る
生きるならば目覚めなければならないi
これが自然の摂理というもの...自ずと、そうなっている...
どうにもならない自分のことも、世界のことも放っといて、
寒い夜は...
震えて眠れi



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気が付いたらそうなっていたこと

2018-12-23 12:15:19 | 現臨、ハタラキ
私が好んで使っている現臨という言葉は、キリスト教神秘主義などで使われているもので、聖霊が臨んだり、内住することで感得されるようなことを言っているのです。
この聖霊というもの自体もそうですが、その他恩寵、上よりの力...これらも多くキリスト教で親しまれている言葉を借りているのです。
それで「あなたはクリスチャンなのでしょう?」と訊かれることもあったのですが...私はキ教特有の信仰の押し付け、ドグマの金科玉条を固守したり、あの高徳そうに取り澄ましたような態度などは虫ずが走るほど嫌いなのです。
クリスチャンになど絶対なりたくはありませんi
しかし...私はこの言葉に言い表せない、スピリチュアルそのものとも言ってもいい、リアルな生命の事態のことを、多くキリスト教的な思潮(それは決して主流のそれでは無かったですが)を通じて学ばされ、養ってきたのは確かなことです。
何故か?...理屈を超えて惹かれるものがあるから、と言ったらそれまでですが、それはより直接的なものを示唆しているからとも思います。
例えば、"恩寵に与るにはどうしたらいいのか?"と言った場合、私が育った精神世界ではそれが主流だったですが、インド教や仏教などに伝えられていたような瞑想修行に則る、ということが方法論として示されるのです。
私は極度のメンドクサがりでもあり、その気根も持ち合わせていないせいか、その手引き書を読む気持ちすら起きてきませんでした。
では、そうした修行系のみならず、精神世界そのものを敵視していたキ教の主流はというと、前記したように"みことばに従いなさい"だの、"十字架を仰ぎ見なさい"だの、信仰することを条件に付しているようなのです。だから単純に私はクリスチャン寄りの人間とは言えないのです。
単純に言えることは、全く単純に直接的に"あの息吹"が伝わるものに惹かれるということです。
私はいつの間にか、"あの感じ"が芽生え、年々深まり行くのを覚えています。それは何でか?
修行に勤しんだことも、"かく信じた"からでもありません。何もしてない?
いや、一つ...祈りというものはあります。それはしかし、形としてのそういう行があるというものでなく、意識が神的なものに向く、向けられる敬虔な心持ちといったもののことです。
それと、思い付くことと言えば、ごく限られたものですが、手島先生とか小池先生、ベルジャーエフなどそういう霊の息吹きが織り込まれた書物を読んでいたということはあります。そう、読んだだけです。
これらは先の単純に"あの息吹"を伝えているのが特徴なのですが、それだけで意識がもうやたらと高陽したことは何度もあります。(聖書のみことばというものでも、そういうものに触れることに意義があるのでしょうが、体系的な教義になったり、押し付けがましい決め事になってしまったら忽ち蒸発してしまうでしょう)
こういうことは、人によって何に共感するかは異なるでしょうが、誰しもが経験があるのではないでしょうか?
これは私がしばしば言っている"意識が向いたら、もうそこに現臨が..."という、摩訶不思議な事態のことを自分の実体験を交えて伝えているのです。
書物というのは一つの媒体ですが、それは何気の無い人との会話であったり、動物との触れあいであったり、契機となるものはアチコチにあります。その奇縁というのも人それぞれでしょう。
とにかく意識が向くこと、向けられること、現臨に包まれることが主眼なのであり、修行して、信仰して得られるであろう、何ものかに囚われていたら中々気が付かないでしょう。
捉えようとするのでなく、捉えられて分かる...それは全くこちらの思いを超えたところで進行するもので、気が付いたら思いがけないことになっていた、というようなことです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

騙されてもいいi

2018-12-22 11:47:42 | 求道、探究
「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」(親鸞)

今は人間もドライになったようで、この親鸞の先師、法然への絶対的信頼を吐露していると思われる親鸞の言葉もピンと来なくなってきているようですが、昔私が関わったことのある宗教団体でも、"OO先生に従って地獄に堕ちても構いませんi"という、熱心そうな信者の言葉を聞いたことがあります。
私は?...OO先生は今でも尊敬しているし、その縁に触れたことも感謝してますが...特別信者だったってことも無かったし、一筋にその教えに挺身してきた訳でも無かったし...何で地獄まで付き合わされにゃあならんのか...イヤなこったi(このバチ当りめがあ~i)
師弟愛というのは勿論悪くないですよ。でも何でもかんでも師に倣え、お追従なんてのはゴメンですね。
宗教の世界ではもうこういうの多いんです。外人の師がイスラム教なので、「今日からもう豚肉食べませんi」なんてそれに肖りにわかにその信者になる...急にインド風のサリーを身にまといだした...師が勧める本は読み、あまり評価してない本は読まない...主体性がなく、一体、誰がそこに生きているのか分かりゃしません。
良き信者とは猿真似上手なことなんでしょうかi
親鸞は勿論そんな皮相なことを言いたかった訳では無いでしょうが、この言葉は聞きようによっては盲信、盲従しているように感じます。
しかし、親鸞の生き方は法然にベッタリ従ってなどいなかったのですi
念仏という捉え方でも法然にはどこか、何万遍称えるとか、修行的な側面が伺われるが、親鸞にあっては本願的なものに重きが置かれ、形としての行には囚われていませんでした。
そして親鸞には、妻帯したことなど法然には見られない、徹底した還俗の姿勢がありました。
それらは、ある意味では先師への反抗、破戒ともとれるものでしょう。
でも、それはごくごく当たり前の人それぞれの道、生き方の表れだったとのでしょう。
法然、親鸞ともその置かれた生の有り様で仏道を示したのです。
お追従ばかりの、長いものに巻かれるばかりの信者には、このそれぞれの道というのが見えてこないのです。
では、何故親鸞はその先師への絶対信とも言うべき言葉を表明したのでしょうか?
私には師、法然の向こうにあるものがヒシヒシと感じられます。
親鸞は法然との縁によって、阿弥陀仏ー永遠の命、無量、無辺の光に合わされたのです。
この奇縁への絶対信だったのでしょう。
そう、このものに与れるのなら、地獄に堕ちても後悔などありませんi 絶対信i
私が生まれるのも、死ぬるのもすべてこのものに握られているのです。
私の場合は、特別な師を通じてのものではなかったですが、たとえそれがサタンのたぶらかしでも構わないです。騙されてもいいi、これがウソなら、すべての真実は虚しいi
この見えざる出会い無くして、宗教的師との縁も信頼も無いでしょう。
師に盲従し、肖ろうとするのは、全くこの第一義からはズレているのです。
私が一心決定するのは、どこまでも"皆が、周りが信じている"神、師ではなく、私自身の神、師なのです。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする