私は、スピ関係の記事を書いている時は、一頃いっぱしのスピ.メッセンジャー気取りでいたこともあります。
そういう風なことも表すこともあるし、こうして他に向けて発信していること自体、多少なりともメッセージ性が現れてしまうものですが、今はごく個人的なスピ覚え書きみたいなのを書いているというつもりでやっております。
他に向けて発信するということはね...色々自重しなきゃならないことも多いですからね。
"あんな人がこんなになちゃった..."
愛と調和と平安を説くメッセンジャーがトンデモナイことに走っている...ストーカーされた、恐喝された...もうアチコチに見聞されます。昔から宗教の教祖さん、先生にもそういう話は付き物です。何でそーなるのi
ああ..だから外に向かってキラキラしたことを発してないで、目立たないところで好きなことを好きに書いてりゃいいんですi
なんつって...私は人一倍エゴ性が強く、何時人生を踏み外してもおかしくない人間なんです。
だからこそ、肝に銘じていることがあるのです。
と言うより、それは全くその人生の裏側の真実に導かれ、与ったことのありのままの実感であり、今も変わらないありのままの日常そのものなのです。
私はいつもバカバカしくも、性懲りもなく生きているだけのただの人間に過ぎません。実に当たり前の事です。
これは何度も言わなきゃならない...この私が何かになった、何かの境地に達したということは何も無いのです。
心をより高い次元に向けて、邪念を退けようと志したこともありません。そうしようとしたって、どうともなりません。
ただ言えることは、どこまでも、どこまでもこういうことは"我が主"の成さしめることということです。
思われた自己が超えられて、意識に変容が、上よりの力が、智恵がもたらされた...愛、調和、平安...ことごとくが"主にあって"のものなのです。
この限りある私に帰せられるものは何もありません。
そういう心境になれないものを、無理して高い、清い境地に達した人間のようなフリなどしたってクタビレるだけです。
そういう風になったとしても、それは"主にあって"そうなっているまでです。
"主にあって"私は本当の私に化せられる...それは"我ならぬ我"。
この事が抜け落ちた時、この問題だらけの自分が直ちに何かに成った、達したという顔をし始めるのです。
常に悟った自分、正しい自分、清められた自分でなければならず、内心ではそうならない自分と葛藤が生まれてきます。
主の中でしていること...その感じから離れると、自らを袋小路に追い込んでしまう感じになってしまうのです。
どんどんエゴが増幅して行くか、虚無のうちに消えてしまうかしそうです。
そうあるべき自分を否定されるようなことがあれば、あるべき自分が特別と思えば思うほど、その反応、言動も度を過ぎたものにもなってくるのでしょう。でなきゃどっかへフェイドアウトか?
フツーにバカをしてるどころじゃなくなってくるようです。
主にあることはエゴの落としどころなのです。何事も主に帰して行くことが如何に大切なことでしょうか...
ホント、所謂スピルチュアルってのは、得たいの知れない世界ですね。
自重の意味でこういう事を書かざるを得ない気持ちです。
そういう風なことも表すこともあるし、こうして他に向けて発信していること自体、多少なりともメッセージ性が現れてしまうものですが、今はごく個人的なスピ覚え書きみたいなのを書いているというつもりでやっております。
他に向けて発信するということはね...色々自重しなきゃならないことも多いですからね。
"あんな人がこんなになちゃった..."
愛と調和と平安を説くメッセンジャーがトンデモナイことに走っている...ストーカーされた、恐喝された...もうアチコチに見聞されます。昔から宗教の教祖さん、先生にもそういう話は付き物です。何でそーなるのi
ああ..だから外に向かってキラキラしたことを発してないで、目立たないところで好きなことを好きに書いてりゃいいんですi
なんつって...私は人一倍エゴ性が強く、何時人生を踏み外してもおかしくない人間なんです。
だからこそ、肝に銘じていることがあるのです。
と言うより、それは全くその人生の裏側の真実に導かれ、与ったことのありのままの実感であり、今も変わらないありのままの日常そのものなのです。
私はいつもバカバカしくも、性懲りもなく生きているだけのただの人間に過ぎません。実に当たり前の事です。
これは何度も言わなきゃならない...この私が何かになった、何かの境地に達したということは何も無いのです。
心をより高い次元に向けて、邪念を退けようと志したこともありません。そうしようとしたって、どうともなりません。
ただ言えることは、どこまでも、どこまでもこういうことは"我が主"の成さしめることということです。
思われた自己が超えられて、意識に変容が、上よりの力が、智恵がもたらされた...愛、調和、平安...ことごとくが"主にあって"のものなのです。
この限りある私に帰せられるものは何もありません。
そういう心境になれないものを、無理して高い、清い境地に達した人間のようなフリなどしたってクタビレるだけです。
そういう風になったとしても、それは"主にあって"そうなっているまでです。
"主にあって"私は本当の私に化せられる...それは"我ならぬ我"。
この事が抜け落ちた時、この問題だらけの自分が直ちに何かに成った、達したという顔をし始めるのです。
常に悟った自分、正しい自分、清められた自分でなければならず、内心ではそうならない自分と葛藤が生まれてきます。
主の中でしていること...その感じから離れると、自らを袋小路に追い込んでしまう感じになってしまうのです。
どんどんエゴが増幅して行くか、虚無のうちに消えてしまうかしそうです。
そうあるべき自分を否定されるようなことがあれば、あるべき自分が特別と思えば思うほど、その反応、言動も度を過ぎたものにもなってくるのでしょう。でなきゃどっかへフェイドアウトか?
フツーにバカをしてるどころじゃなくなってくるようです。
主にあることはエゴの落としどころなのです。何事も主に帰して行くことが如何に大切なことでしょうか...
ホント、所謂スピルチュアルってのは、得たいの知れない世界ですね。
自重の意味でこういう事を書かざるを得ない気持ちです。