人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主にあって

2018-11-28 18:02:32 | 雑感
私は、スピ関係の記事を書いている時は、一頃いっぱしのスピ.メッセンジャー気取りでいたこともあります。
そういう風なことも表すこともあるし、こうして他に向けて発信していること自体、多少なりともメッセージ性が現れてしまうものですが、今はごく個人的なスピ覚え書きみたいなのを書いているというつもりでやっております。
他に向けて発信するということはね...色々自重しなきゃならないことも多いですからね。
"あんな人がこんなになちゃった..."
愛と調和と平安を説くメッセンジャーがトンデモナイことに走っている...ストーカーされた、恐喝された...もうアチコチに見聞されます。昔から宗教の教祖さん、先生にもそういう話は付き物です。何でそーなるのi
ああ..だから外に向かってキラキラしたことを発してないで、目立たないところで好きなことを好きに書いてりゃいいんですi
なんつって...私は人一倍エゴ性が強く、何時人生を踏み外してもおかしくない人間なんです。
だからこそ、肝に銘じていることがあるのです。
と言うより、それは全くその人生の裏側の真実に導かれ、与ったことのありのままの実感であり、今も変わらないありのままの日常そのものなのです。
私はいつもバカバカしくも、性懲りもなく生きているだけのただの人間に過ぎません。実に当たり前の事です。
これは何度も言わなきゃならない...この私が何かになった、何かの境地に達したということは何も無いのです。
心をより高い次元に向けて、邪念を退けようと志したこともありません。そうしようとしたって、どうともなりません。
ただ言えることは、どこまでも、どこまでもこういうことは"我が主"の成さしめることということです。
思われた自己が超えられて、意識に変容が、上よりの力が、智恵がもたらされた...愛、調和、平安...ことごとくが"主にあって"のものなのです。
この限りある私に帰せられるものは何もありません。
そういう心境になれないものを、無理して高い、清い境地に達した人間のようなフリなどしたってクタビレるだけです。
そういう風になったとしても、それは"主にあって"そうなっているまでです。
"主にあって"私は本当の私に化せられる...それは"我ならぬ我"。
この事が抜け落ちた時、この問題だらけの自分が直ちに何かに成った、達したという顔をし始めるのです。
常に悟った自分、正しい自分、清められた自分でなければならず、内心ではそうならない自分と葛藤が生まれてきます。
主の中でしていること...その感じから離れると、自らを袋小路に追い込んでしまう感じになってしまうのです。
どんどんエゴが増幅して行くか、虚無のうちに消えてしまうかしそうです。
そうあるべき自分を否定されるようなことがあれば、あるべき自分が特別と思えば思うほど、その反応、言動も度を過ぎたものにもなってくるのでしょう。でなきゃどっかへフェイドアウトか?
フツーにバカをしてるどころじゃなくなってくるようです。
主にあることはエゴの落としどころなのです。何事も主に帰して行くことが如何に大切なことでしょうか...

ホント、所謂スピルチュアルってのは、得たいの知れない世界ですね。
自重の意味でこういう事を書かざるを得ない気持ちです。
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始めにロゴスありき

2018-11-26 12:28:32 | 現臨、ハタラキ
「始めに言葉(ロゴス)あり。言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。この言葉は始めに神と共にあり、萬のものこれによりて成り、成りたるものに一つとしてこれによらで成りたるはなし」(ヨハネ伝第一章)

クリスチャンならずとも、この一節は馴染みがあろうかと思いますが、この"言葉"と普通に書き表しているものの原語はギリシア語のロゴスです。
ロゴスなる言葉を初めて使ったのは、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスとのことです。
彼は「ロゴスはプシュケーであり、それ自身増大してゆく」と言う...それは生成してやまない生命、ハタラキ的なものといったものであり、「けっして没することのないものを前にして、人はいかにして身を隠すことが出来ようか」と、すべてを見透してやまない神的な光ーすべてを照らす真の光(ヨハネ伝)であることが既に思念されていたのです。
これが何と主流のキリスト教では、聖書の"み言葉"に置換されて解釈されていることでしょう。いや、キ教に限らず多くの宗教では、始めにその宗派の、宗祖の"言葉ありき"になっているのではあるまいか?
始めとは原初のことです。我々は出来上がった言葉によって生まれ出でたとでも言うのでしょうか?
我々は"この肉体がある、考えることが出来る、動くことが出来る"と、既に出来上がったものを知ることが出来ますが、それらの始源のことは知ることは出来ないのです。
それらは一体何によってもたらされたのか...
そしてその後天的な知恵によって随意に"み言葉"を選び取り、従っているに過ぎないのです。
このロゴスの消息は、西欧キリスト教を中心に言い伝えられている教説ですが、東洋的仏教ではどうなのか?
ブッダは、一般に自らの修行によって悟道に導かれたと、特に多くの西欧的キリスト者からは、そのイエスの導かれ方との対比から理解されているようですが、形なき命ーダンマがブッダに顕わになった、という原態があったことはあまり認識されていないようです。
ブッダには、長年の修行の積み重ねという道程があり、それがダンマに預かる下地となったのは間違いないでしょうが、このブッダの原態に着目された玉城康四郎先生は「一歩内面の領域に立ち入ってみると...いったい超越者絶対者に対してブッダとイエスの間でどれほどの違いがあるであろうか」(玉城康四郎「仏教の思想第二巻.大乗仏教」/法蔵館)と述べられ、ロゴスとダンマとの同質性を強調されています。
それはどこまでも動的生命であり、静的に出来上がったものではないので比べ、区別することは不可能なのです。
そして、問題は二千年前の聖者、聖典についての学びに留まっていて済んでしまうことなのでしょうか?
一人一人の内面の領域と関わることでなくて何であろう...
我々にとって原初のものとは何でしょう。
その音信は、特殊な縁に生まれた者でない限り、宗祖の教えに触れるなど、初めて神的なものに触れた契機にあるのではないでしょうか?
それは形ある言葉を通して、言葉を超えた生きたもの、理屈無しに惹かれてやまないものを示されることに他ならないでしょう。これが動的な事態に与っているということです。
言葉を超え、理屈でないということは、アタマに訊いても分からない、そうなっていること以前の消息です。
言葉は真に神と共にある...神と共にある時、石のように動かない金科玉条のごとき、閉ざされた"み言葉"自体をおろがむようなことは本末転倒と言わねばならないでしょう。
原初のものへの誘いは、形あるものを取っ掛かりに、どこまでも形なきものへと開かれなければならないでしょう。
それは形なき、見えざるものが形ある、見える我々に生成してくる、成ってくるということと付節を同じくしているのかもしれません。





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想起

2018-11-25 09:49:46 | 詩的文章
"思い出したi"

いくら思い出そうとしても、思い出せなかったのに...
思い出せないはずだ...
私は誰がしという、ん十年に渡って性懲りもなく生きてる一個人に過ぎない
生まれる前のことなんか思い出せる道理など無いi
いや、それは生まれる前のことなのか?
遥か昔に生きていた...今現在生きている...そしてこの先にも行き続けるであろうものが、
思い起こされたのではなかったか...
生きとおしのものと共にあること...
かつて確かに共にあったのだ
かつてあったものは、ここにある...
その思い起こしは、火を起こさずにおれない
たゆまない生命の生成を...思い出したi
忘れていたi
この忘却は死に等しい...すべては死滅するi
思い起こされない魂は死んでいる
そして、甦ったi
思起こそは、甦り...
思起は、思い起こすことではない
私は自ら思い起こすことが出来ない
未生の記憶は閉ざされている
ここから過去に、未来に記憶を取りに行くことは出来ない
ここから叡智の玉座を目指して近づいて行くことではない
思起とは、思起させる力...
思起はそれ自体の顕現
思起の中で私は帰って行く...
懐かしい...すべての懐かしさはここにある
過ぎし日も来る日も、とわの中に帰り行く
生きとし生けるものは、ホームを目指す
引力の法則に従うように、何ものかに誘われて...
ホーム...約束...
私はどんなに恋い焦がれていても、どうしても思い出すことが出来なかった...
でも...覚えられていたi...約束...

"思い出したi"
思起こそは救い...





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転がる石のように

2018-11-23 04:13:15 | 映画・音楽など
昭和45年の今頃の時期、私は勇気を持って、レコード屋さんに行きました。
中学二年の頃のことで、二千円ばかしという私の全財産ともいうべき"大金"で買い物をするというのは、大変勇気のいることだったのです。
そして、買おうと思っていたもの..."これに手を染めてしまって果たして大丈夫なんだろうか?、呪いが降りかからないだろうか?、マトモに生きられるんだろうか?...おそらく不良になっちまうに違いない..."決心するには勇気が入ったのですi
目指したものは、ローリング.ストーンズのベスト.アルバムi
これが自分が買おうと強く意識して、自分が自由に出来るお金で買った初めてのLPレコードだったのです。
同時にそれは約一年という私の短い"シングル盤時代"の終焉であり、以降長期に渡る表面、裏面(シングル盤ではロクな役割しかなかった)のある"LP時代"の幕開けなのでした。(こういう話自体ピンと来ない向きもおられるでしょうが)
ところで、何故ストーンズだったのか?、よく覚えてません。私はほとんど曲を知らないし(曲とアーティスト名が一致しない例が沢山あった)、知識もほとんど無かったのです。
ただ何となく、メンバーが謎の死を遂げたとか麻薬で逮捕されたとか、不吉な良からぬニュースは伝わっていたのです。メンバーの顔もよく知らず、ミック.ジャガーの名前だけは知ってるという状態だったのです。
確かクラスで、ビートルズの話で盛り上がっていて、一人だけ女の子だったか「私はストーンズの方が断然スキi」と熱を込めて言っていたことが気になったのを覚えています。
で、別の男子が"ジャカジャーン、ジャカジャーン、バリ、ソー、ラィー..."と私の聞き覚えのある一節をヘタクソに口ずさみ出したので「そりゃ、何て曲だ?」「ジャンピン.ジャック.フラッシュだ」「おお、そうかi」...これで決まったんだと思います。
そして、禁断の領域にいよいよ足を踏み入れてみると...「サティスファクション」これは知ってる...俺は満足出来る...
その頂点に達したのは「黒くぬれi」で、もうトリハダものでした。この数年前リアルタイムで街中に流れていたものです。
"何ちゅー、風変わりなメロディー、サイケデリックな曲調("全部、黒く塗りつぶしたい"と歌う逆説i)..."(この衝撃は恐ろしいもので、今でも私のカラオケでは定番になってます。もう、呪いという他ないか?)
こうして曲名とメロディー、メンバーの名前と顔(ビートルズと違って誰もマトモな顔してない?i)が一致するようになったのです。
しかし、ずっとストーンズのファンだったという訳ではなく、その後の音楽鑑賞傾向は目まぐるしく変遷して行きました。
私の中には、このことに限らず、進取性に富んで目まぐるしく変節するところと、感激したことをいつまでもずっと変わらず覚えているところという両面があるのですが、こういう変音を奏でながら、あの音盤にも似た年輪を重ねてきたのでした。
(CDの時代になっても、私のLPの呪いは続いていて、例えば20曲入りだったら前半10曲までがA面、後半10曲までがB面という数え方を今でもしています)
思い返してみると、正直言って試行錯誤の連続のようにも思えます。昔は"評論家"という神サマのご託宣におもねってしまうこともあったし、私の背伸びしたがる、人の知らないものに手を出したがるという、イヤラシイ、イビツな根性に委せてしまうこともありました。
だけど、何だろうと自分がホントに気に入る、惹かれるものこそが自分にとってホンモノである、という当たり前のことに落ち着かざるを得ないのは言うまでもありません。

石は動かないままなのだろうか?
それとも、その回りが変わって行くのだろうか?
いや、石は動かないように見えて転がり続けているのだろうか?
石も回りも転がり続けているのだろうか?
いやいや、ずっと静かに変わらないままのようにも見える...
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ヴァリスーサイケデリック秘密教典ー

2018-11-21 12:17:21 | 人生の裏側の図書室
秋の夜長の読書に相応しいのか、どうか分かりませんが、とりあえず読み終えたばかりの本を取り上げてみます。(読後の夢が悪夢となるか、至福となるかは分かりません)
作者フィリップ.K.ディックは、SF小説ファンなら知らない人は居ないでしょう。
私は、その分野というより、小説というもの自体それほど熱心に読んでいる訳でも無いので、ディックとの出会いは初めてでした。
ファンの間で"ヴァリス三部作"と呼ばれているものの最初の作品とのこと。
これはしかし、SFという言うには、哲学的、神秘主義的な色合いが強く、ディックの読者の間でも評価が別れているらしいです。
それもそのはず、これは自身の神秘体験に基づいて書かれているのです。
実のところ私がこの作品を読みたいと思ったのは、巻末に載っていた「秘密教典書」なる文章にあったのでした。
何だか、現代版ヘルメスの啓示書=エメラルド.タブレット(古代より西欧神秘思想、錬金術、魔術などに影響を与えた文書)とも、クンダリーニ.ヨガの指南書とも、ニューサイエンスのテキストとも通うものがありますが、私の"書かれざる「秘密教典」"とも通じるところもあります。

「ひとつの精神が存在する。しかしそのもとではふたつの原理が抗争する」
「宇宙は情報であり、われわれはその中で静止しているのであって、三次元内にも空間内にも時間内にも存在しない。われわれは送り込まれた情報を現象界に実在化する」
「グノーシスーさらにふさわしい言葉を使うなら想起(忘却の喪失)ーによる救済が必要である」

ディックが神秘体験を持ったのは74年のことで、彼がその少し前米国西海岸を中心に隆盛した人間性復興運動、ヒッピー運動、ポップ.オカルトなどの洗礼を受けているであろうことが、この作品に垣間見れるように想像されますが、彼がその体験を契機として、主として探究にのめり込んで行ったのは所謂"グノーシス主義"なのでした。
これがこの作品にとどまらない、ディックの晩年の精神世界を紐解くキーワードでしょう。
1~3世紀、キリスト教の成立過程で欧州地中海地方を中心に派生したというこの思潮ですが、正統派キリスト教と違って、独立した主義、学統というものがあった訳ではなく、正統的でない多様なキリスト教的思想の総称のことです。オリエント、古代宗教などと混稽しているのが特徴で、このために正統派から異端とみなされたのです。
グノーシスとは知識という意味だそうですが、それは聖霊の取り成しによって開かれる叡智といったものでしょう。これが上記の情報のことだと読み取れます。
ディックは、正統派は決して認めないであろう、聖霊による洗礼を受けたのでしょうか?...
その核心部分は、別の彼自身の語るところに接してみなければ何とも言えないですが、読み終えてみて、共感出来る部分もありますが、"踏み込みたくない"部分も感じます。うっかり深みにハマるとクスリで前科者になりそうだし、"人工楽園"(ボードレール)から永久に脱け出せなくなりそうです。
どうも西海岸周辺にはクスリ~人工による創造、想像といったイメージが払拭出来ないものが感じられます。
何か本当に超智的なものにゆだねきれていない、超智がすぐ頭脳知に取って代えられてしまうような、何か暗いカオスの中で救いと転落の狭間でもがいているような感じがします。
ああーっと...これは文学作品について書いているんでしたね...
そういうものこそが、小説の面白さなのでした。だったら神もあれば悪魔もありです。それも私のポテンシャルな部分にはあるに違いありません。(ふたつの原理の抗争)
ストーリーは一寸トリップしてるというか、パノラマ式に展開するのでよく覚えていません。
主人公(=ディックか?)は、女友達が自殺してしまうところから狂気に陥る...人気ロック.ミュージシャン製作の映画を見せられ、そこに出てきた「ヴァリス」という、宇宙的人工的情報システム?が自分が受けた現実とも幻想ともつかない体験とダブってしまう...
要するに哲学的、神秘主義的なテーマを持った作品としても、ビート世代の幻想小説としても読めるのです。
それにしても、謎の共同体(秘密結社?)の存在がとても気になったのですが、尻すぼみな感じで物足りませーん。
色々登場人物が死んでしまう中で猫が事故死してしまう..."猫を安易に死なせてしまう小説などもう、読まんi"と、一時は思ったのですが、実はずっと物語全体に渡ってひきづっている...。ディックは、大の猫好きに違いないi リンダ.ロンシュタットも...カリフォルニアですi

「ヴァリス」(創元推理文庫)
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