人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

負の感情が起きてきたら...

2024-09-13 09:43:50 | スピリチュアル?
いやあ、九月も中旬だというのに、いつまでも真夏の酷暑が続いてますねえ。
当たり前の話、肉体があるから暑いと感じるんです。
それを、短絡思考の宗教、スピの信者がいくら”人間の本体は肉体じゃない、霊身なんだ!”、と信じようとしても、現実に暑いと感じているんだから、それは誤魔化しようのないことで、認め、受け入れないとなりません。
又、普通に生きてる人間なら誰しも、気に入らないことでもあれば、”こんちくしょう!”、と不満を抱いたり、負の感情に囚われたりしますね。
先の人たちなんかは、こういうことにはなおさら、”人間は、本来神と等しい存在なのだから、そういう悪い感情は無いんだ!”と、それを認めまい、受け入れまいという感情に囚われてしまうものです。
特に長い間、信仰、修行をやり続けている人などは、”こんなにやり続けているのだから、そういう思いは克服されてないとイケナイ!”、と懸命に思おうとして、それを否定し、自己の内面に押し隠そうとするのです。
で、”本来悪は無い!”と自分の心の中の悪は否定したつもりになったとしても、世の中で悪いことに暗躍しているであろうような、正体の分からない、サタンや闇の勢力などに実体を思い描いて、その感情を投影していたりするのです。
ギラギラ照りつける太陽をどうすることも出来ないように、悪感情を自分の思いで否定し、消し去ることなど出来ない、自分でそれを克服することは出来ないのです。
私なんかは、これまで何一つ克服したことなどありませんよ!
とにかく、自分の思いで自分の思いはどうすることも出来ない、ってことぐらいは、分からなきゃダメです。現実にでけへんのやから!...
しかし、自分からは分からない...けど、分かるもんがある!...
これが分かるということは、”自分を超えたもんがある”ということが分かるはずなんです。
だから、自分にはダメな肉体感情、悪感情、負の感情があることが分かる、受け入れられるのです。受け入れられたら、消えるというか、少なくともその感情から離れられます。
そういうものは出て来る、感じてしまう、現実にそうなんだからしょうがない!、だけどこういうことで、そのことを引きずらなくなるのは確かなことです。
それを自分で克服しようとして、中々そう出来ない、そうならないことで、”ああ、ダメだ、ダメだ!、こんなことでは!”と、今度は、罪意識という負の感情が積み重ねられてしまうのです。
だから、負の感情が起きてきたなら、自分でダメな自分を克服したり、どうこうしたりしないで、”克服せしめる、超えせしめるもの”に意識を向けたらいい、そう、祈ったらいいのです。
これは、散々自分を変えようとして、どうにもならない苦しみを味わった、という私の経験から言えることなのかもしれませんが、一にも二にも、”神的なものありき”ということに尽きるのです。
これは、肉体がある、負の感情がある、ということよりもハッキリ感じられることです。だからそれから離れられるのでしょう。
増して、思おう、信じようとする、自分の信念みたいなことなんか涼風が吹けば、消え去ってしまうようなものではないか!...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本来の“本来性“

2024-03-05 09:39:20 | スピリチュアル?
こんなことは、いちいち説明するまでもないことなのですが...
私は本来性に帰ることについて書いていますが、それは現実に人間の原始本来の姿に帰るということを言っているのではありませんよ。
例えば、例の反面教師画伯は、“不食“の実践によって、人間は本来食べないでも生きていける、という機能を取り戻せるとか自身のブログで書いていますが、それだったら人間は、原始の狩猟生活に戻らなきゃならないと言っているようなものではありませんか?(第一、飢餓という極限状態をしのぐことが、何で即本来性の回復につながると言うのでしょうか?)
この御仁は、あまりに本来性というものを肉体、物質次元に結び付け、囚われ過ぎているのです。だからもう言っている、やっていることが現実離れしていて、普通人の在り方から倒錯していると言う他ありません。
勿論、そうしたこと自体、身体の鍛錬とかの意味で否定さるべきではないでしょう。(これをやるかどうかは全く持って人の好き好きですが...)
そして彼は、信奉する五井先生の言葉を借りて、“人間は本来神の分霊“などと言及していることから、その“肉体、物質次元を超えたところから出されることと、それに囚われたことが、どうもごっちゃに理解されているようなのです。
要するに、この御仁、意識次元に開かれるということ、人間の本来性とはそこに根差したものであることがまるで分かってないようなのです。だから肉体を自分の力でどうにかしよう、とかこの“見た目“本来性から離れた現実世界をどうにかしよう、ということにずっと囚われ続けているのでしょう。
“人間の本来性を取り戻すことは並大抵ではありません!“、だと、あったりめ~だろ!...現実に出来そうも無いことなど!...精々最後まで努力精進したらいいでしょう。即身仏(生きたままミイラになること)になる日も近いことだろう...
私がここで言っている本来性に帰るということは、何ら無理の無いこと、自然にまかせることがあるだけと言ってもいいのです。
“意識的になる“という。それは誰しも“本来“から自然になされていることです。意識してみたら分かるでしょう?
何度も言うように、それは自分が思い、為すことではないのです。
それを超えて、在らしめよう、なさしめようというハタラキがあり、それにゆだねたらいいと言っているのです。
努力精進しないと回復できないもの、獲得しないとならないもの...それはここで言っている本来性とは何の関係もありません。
このありのままの自分から一時たりとも離れてあるものでは無いのだから...

前回書いたように、私の精神的な歩みの原点は、五井先生の教えにあると言っても過言では無いのです。
だから、普通に先生の本を読んだりして、共鳴して、何であんなヘンな方向にズレてしまうのかが、アタシャ、テンデに理解出来ません!
先生の教えの中心は、祈りと全託の道にあると言っていいでしょう。
私は普通に、自然にそのように導かれたのですが!...
何度思い返してみても、原点という意味合いでも、そこに本来性に帰らざるを得ないものを感じられてなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のリアリティと事実

2024-02-03 09:43:07 | スピリチュアル?
神的なものと共にあることは、愛、平安、リアリティに与ることと言ってもいいでしょう。
しかし、このことは証明出来るものではありません。
愛、安らぎというものからしてそういうものであるのは言うまでもないですが、ここで言うリアリティというのは、普通“考えられている“、現実、事実とは違うもので、前のものと切り離されないもので同じことなのです。
言い方を変えれば、たとえこれらのことが証明されたとしても、あなたはそれに与ることは出来ないのです。
これが神的な、霊なるものと共にある、一つになるということなのです。
然るに、何故に宗教やスピ界隈には、神、霊なるものがあたかも証明出来るような事実として語られたりしているのでしょうか?
その存在性が証明されようと、あなたの内的実存とは何の関係も無いであろうのに!...
神のリアリティは、自己実存に照らせば自明のことなのですから!
この傾向の多くは、宗教的狂信者、カルト信仰などに見られるものです。
彼らは、信じている神、教え、陰謀論などの真実性を客観的事実に求めようと躍起になっているのです。
沈着冷静に科学的事実を証明しようとする学者たちに比べると、はるかに理性は飛んでしまい、肝心のその真実性のことも実はどうでもよくなって、ただ自分が信じたいこと、妄念のトリコになってしまうようです。
妄念とは、有るか無きか、分からないことを有ると頑なに信じ込むことであり、必ずと言っていいほどその出所は、自分が信じている誰かの言葉に過ぎないのです。
要するに、彼らは真実に神的、霊的なリアリティというものを知らず、それと伴う実存的意識というものにも目覚めていないのです。
だから、容易く他人の言動に追従、隷属してしまうのです。
観念に強固に囚われることにかけては、ある面で所謂唯物論者以上かもしれません。
ずっと理性的で、より内的に深まる可能性もある、実存的に神、霊を信じない人間も多く居るだろうから...
だから、たとえ神、霊のことが語られようと、観念の奴隷と化した者ほど、真の宗教、スピリチュアルの道に遠いものは居ないと言うのです。
彼らがどんなに瞑想を、祈りの行を、信仰生活をし続けようと、その形を真似ていても何にもならないのです。
出発点からしてズレてしまっているのでしょう。
このことに意識を向けられないのでしょうか?
言い換えると、ここでは神、霊なるものとは自分自身にとってどういうものなのか、ということを問うてみることです。そうすると、意識的になったりするのです。
自分が自分に...というのが難しいのであれば、そう、神に問えばいい!
勿論、誰かが言ってる神じゃなく、あなたの神に!
祈りも瞑想もこのことからズレてはあり得ないでしょう!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

囚われなければいい!

2023-12-02 09:28:47 | スピリチュアル?
瞑想修行などでは、クンダリーニと呼ばれる、ある種の生体エネルギーやチャクラと呼ばれる、そのエネルギーの焦点のようなもののことが取り沙汰されています。
それを意識すればいいのだとか?...私はそういうものに携わっていないのでよく分かりません。
ただ、一説ではクンダリーニは、寝ている間に自然に表れ、上昇するらしいのです。それにより体温も上昇するのですが、それ自体は、クンダ...云々ということでなくとも生体科学などでは普通に言われていることです。
そして、ある種のバイブレーションが発動することで、得も言われぬ至福感を覚えるのだとか?...単にストレスが発散するためだけではないらしい?
一方、チャクラというものに関して、それはエネルギーの共鳴が起こる場所なんだとか?
これは今も盛んに鳴り響いている耳鳴りなどは、正にそれらしいのです。
それは又、守護霊などが感応しているシグナルみたいなものだ、ということもスピの世界ではよく言われていることです。
こういうことは、私もずっと前から知識としては知っています。
“だから、そういうものに意識を向けていればいい!“...という訳ではありません!
むしろ、知ったらそうしないですよ!
だって、それは私が思い、為そうとすることでしょ?、意識するとか言うけど、自分の意志想念でコントロールしようとすることでしょ?
寝て起きたら、体が温まっている、体だけじゃない、霊体も?、いや何だか分からないけど、そういう分けられない一体的なものに暖かさを感じます。
そういう場合は勿論至福感が伴っています。これは間違いない!
そうでない場合は、冬でもないのにやたらと寒かったりします。悪い夢でも見たんでしょうか?
又、耳鳴りというのは(これは勿論、高音の“き~ん“の方)、意識がより明晰になっている状態のバロメーターみたいなものです。これも間違いない!
しかし、こういうことはあくまで付随的なことなのです。
そういうエネルギー的なものに意識を向けるのではありません!
神的なものに向ける(向けるというのは、やはり適切ではありません、向けられるんです!)...神はイコール、エネルギーではないのです!、もっと包括的なもののことを言っているのです。
まず、何よりそれは愛である。エネルギー自体は様々だし、常に愛が伴っているとは限らないし、どう変質するかも分かりません。
そして神は、意志想念で操作など出来ないのは言うまでもありません。
朝起きたら幸福感でいっばいだった、ということも、耳鳴りはその臨在の印であることも間違いないのは、そこに神的なものを感じているからなのですよ!
クンダリーニでもチャクラでも(名称は色々あるんでしょうが)本末を間違えなければ、とても参考にはなります。要するに囚われなければいいのです。間違いない!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真の神通力

2023-11-14 09:33:48 | スピリチュアル?
神通力というと、天眼通とか天耳通、他心通など常人には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、人の心が分かったりするなど、所謂超能力として語られていることが多いようです。(仏教から来ているのに神から来るみたいですね?)
だけど、この言葉通りに受け取ると、神に通じるということもあるでしょうが、私には“神が通る“というニュアンスが強く伝わってきます。
神から来て通る力...それは、超能力でよく、語られるような得たり、自分のものにするというものでは無いということです。
道元禅師も「正法眼蔵.神通巻」の中で、(そこでは勿論仏道との関連で説かれているのは言うまでもないですが)「色彩や形態の世界に入っても、それに惑わされず...」「、「(六)神通とは、六根にあとをとどめないものとして明らかにすること」と述べられています。
見えたり、聞こえたりする感覚があったとしても、そのあとを残さないということなのです。
キリスト教では、“聖霊の賜物“と言って、予言や異言、癒しなどの力が与えられたりします。
これも又読んで字の如く賜物なのであることを忘れてはなりません。
小池辰雄先生もそれは決して私物化など出来ないものとして強調されていました。
このように、常人の力を超えたことばかりに囚われがちになるものですが、囚われたら、とどまっていたら通らないのです。通らないものは神通ではない!
悟りというものでも同じことでしょう。神から来なければ、そこを通らなければ悟りではない!(先の道元禅師の場合は仏から...)
神の力が通るということ...その根底にあるものは、愛、安らぎでなくて何であろう!
何も奇をてらうものなどありゃしないではないか!
こう言うと、すべてが神から来て、通ると言ったらそうなのでしょう?
又自由というものがある。通るということは、遮るものが無いということなのだから...
今、通っている!...これを“私は得た、私の力だ!“、と囚われた途端に無くなるか、外道、別のものに変質するだけですよ!
だから、私は“与る“という言い方をするのです。
通るということは道がある、回路みたいなものがあるということです。
それはやはり“ここ“にある。それは開かれなければならないのは言うまでもありませんが、一度でも神の力が通れば開くのです。
何事でもそうですが、それはやはり望まなければなりません。祈りをもって...神が臨むのを!、神の力を!...思い、為そうとする自分でなく、自分の力でなく、神の神通力によって開かれるのです!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする