人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

決めつけないこと

2024-09-23 09:40:30 | 求道、探究
私は時にここで語調を強め、決めつけたことを言ったりすることもあるかもしれません。
言い訳がましいですが、他に向けて何かを発信するということは、どうしてもそういうこともあるものでしょう。結論みたいなこと言わないと閉めらんないし...
でも、私は自由な精神で書かせてもらっているんだし、読み手の方もあまり言い回しに囚われないで、書かれたものはあくまで参考くらいにして、自由な精神でお付き合いしてくれたら、と思います。
その点宗教の世界などは、そういう自由な精神はあまり生かされないようで、信者はただ教師の言葉に追従、鵜呑みにしているだけで、ちっとも主体的に真理の探求などに関わることが出来ないようです。
だからか、私は宗教信者が光明を得たとか精神的に目覚めた、という話はほとんど聞いたことがありません。
それもそのはず、例えば”人間には肉体を超えた霊体というものがある、死後の世界がある、いくつもの霊界の段階がある、前世というものもある...”、という風に頭脳知による知識だけで、先入観、固定観念が精神を支配してしまい、旧い水でいっぱいの器には、新しい水が注がれないように、自分の思いを超えたものからの直接的な”超智”を受けることが出来ないからです。
あなた自身が、本当に直観智で、肉体を超えた霊なるものとの関わりや、自分が元々神的なものと一つのもの、ということを感じたのなら、それは多分受け入れるしかないでしょう。
ただ、私の感じでは、そういうものは、何かの景色を見ているように、思い描いたような言語表現は出来ないのが普通だと思います。
これが言い換えると、決めつけたように言うことは出来ないということであり、そして人の思いを超えているということなのです。
光明を得た、という高僧だとか、ヒンドゥー教の導師の弟子、キリスト教修道士とかは居ます。彼らは例外なく、宗教的なドグマなどから自由であり、主体的に探求に関わっていたはずです。
又、デキアイの宗教信者だった人間でも、光明を得る契機にそれらから自由になったという例もあるでしょう。それもどこかにそういうものを待ち望む心持ちがあったのでしょう。
私はもう正直、何かの比喩的、象徴的な表現ならいざ知らず、見えない世界のことを見てきたように、他に信じ込ませんとばかりに、決めつけたように語られる言葉は、生理的に受け付けないものを感じてなりません。
要するに、思い、為す人間は、すぐ短絡的に結論を求めようとするもので、精神世界という実証することの難しい分野にもそれを求めようとしますが、分からないものは分からないままでいいのです。分からないものを分かったように思い込み、信じ込むから妄信がはびこるのです。
分からなくても、直接感じていたらいい、そういうものを求めたらいいのです。
それは...そう、愛、平安...そういうものでしょう?
今は、教師と信者のデキアイの関係が支配する、宗教世界の時代は終わりを告げ、各人がそれぞれ主体的に真理なり、神的なものを求め、直にその求めているものから光明に与る時代、その秋を迎えているのではないでしょうか?!...

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思いに先立つもの

2024-08-05 09:47:13 | 求道、探究
何度も言っているように、私には特定の修行法というものは身についていないのです。
今から考えると、これは実に簡単な理由からと思えるのですが、これまでの私の歩みの中で、そのことをあまり深く意識されることはありませんでした。
ただ、そういうことにはあまり関心が向かなかった、と感じていただけだったようなのです。
しかし、こうして今書いているだけですぐ分かってきますよ!
それは、始めに、何が最初に意識されるのか、ということに関わってくるのです。
言い換えると、“そのもの無しには何も始まってこないものがある“、ということなのです。
それは何かと言えば、そう、私を超えたもの、神的なもののことに他なりません!
そのものがここに臨めば、どうやって、どういう形で行うか、ということはどうでもよくなってしまうのです。
修行方法とかメソッドというものは、言うまでもなく私が思い、意志的な努力で“行う“ものです。それには、その私を超えた、神的なものにつながるためという目的が見据えられているかもしれません。これは、まあ分かる...ちゃんとまっすぐに意識が向けられているのであれば!...
だけど、多くの場合それは、“私が思い、為すこと“に向けられ、囚われてしまう傾向があると言えるし、それが又、例えば超能力の開発といったことに向けられてしまえば、いよいよ脱線、迷いに陥ることになるでしょう。
私を超えた、神的なものとつながる...思い、為そうとする私からは中々そう意識されないことは当たり前な話ですよね?
だけど、そういう願いはあるのでしょう?、ということはそれは祈りにつながるということです。
漠然と思うことじゃない、それはもっと意識的になることなのです。
そう願う、祈るということには、そのように意識が動くということが感じられないでしょうか?
感じられる人には分かるはずなのです。そのもの無しには何も開かれないものが、そこに開かれてくるということが!
そこでは、どういうやり方とか形、私が為す何かというものは、すべて超えられてしまうのです。
すぐには感じられない、開かれないかもしれません。が...それは当たり前と思う必要はありません。
当たり前だと思っている人は、ハナっから神のことなど信じちゃいないのです。私を、思いを超えたものが、そういうハタラキがあるということなど!
だから、誰かが、あるいは自分が考えたであろう、方法に頼り、囚われるのではありませんか?
何故、自分の思いに先立つものに意識を向け、そのハタラキを待ち望むことが出来ないのだろうか!...それは、思い、為そうとする主我的なものに意識が向けられるか、それを超えたものに向けられるか、という問題に尽きるでしょう!
ここを疎かにすると、この根本から外れ、色々な雑行に迷ったりして、何年も何十年も無駄なことを繰り返すハメになるのです!
私を超えたもの、それは私の命の大本に違いない!...それにつながりたいと願う、祈る...
“私の命の大本である御方よ、どうかあなたの御心のままに導き下さい!“...

昭和53年の今頃、私は入信していた教団を辞めて8か月くらい経ちました。
その頃には、あまり意識はされていませんでしたが、神的な現臨にある状態と言っているものの萌芽は確かに芽生えていたのでした。
そのように、神を待ち望む祈りが自然と身につくことによって!
このことが、ずっとここで、私には特定の修行方法は身についていないが、祈りというものはあった、と言っている所以なのです!...






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求めてやまないものがある

2024-07-14 10:04:11 | 求道、探究
何ごとにおいても、その気が無ければ求めているものに与ることは出来ません。
その気があるということは、意識がその求める方に向いているということです。
これは、”意識を集中しなければならない”、なんてことでなく、自然に向いてしまう、集中されてしまうということなのです。
悟りを開くという言い方はともかく、精神的な目覚めに与るような、神に捉えられてしまうような人というのは、話をしていたら大体分かるものです。
そこでは、宗教やスピ界隈で流布されている、例えば、悟るまでには何段階あるのか、とか神は何次元の存在か、といったような”お話”の数々のことは、まず語られることはありません。
それらはすべて、人伝に聞いた、観念に浮いた理屈に過ぎないのです。
そういうお話に夢中になっていることは、理屈を求めているのであって、ちっとも本当の、リアルなスピリチュアリティを求めている訳では無いのです。
自分は何段階にあるのか、とか何次元の神を求めているか、というようなことにトラワレているような人間は、すべてで一である現実に向き合おうとしていません。
何故、他人事みたいなことに構うのか?
それを受け入れるかどうかだけではないのか!
その気の無い人間は、いつまで経っても、あの教え、このやり方を求めて同じところを回り続けているだけなのです。
マニュアルみたいなものに従っているだけで、本当にその気が、求める気持ちが無ければダメです。
だから、求めなければならない!
だけど、その求める気持ちは落ちなければならない!、手放さなければならない!
いや、そうならざるを得ない!...
そうなのです!...神の手がかかるということは、恋に落ちることみたいなものなのです。
神に捉えられることは、愛に捉えられることと同じなのです。
だからだから、考えている自分からは決してそうなりません!
なんで、そこに段階、レベルなんてものがあり得ようか?
どんな理屈も、理論もヘチマもありません。何、マニュアルだと?...:ふざけんな!
本当にその気のある人なら分かっているはずです。
そうさせるもの無しにはそうならないことが!...
自分の内側から突き上げてくるような、そのものを呼び覚まさずにおれないもの...
つまり、自分が求めるというよりも、そこに求めてやまないものがあるということなのです。
こちらとあちらが、このリアリティの中で合う...
やはり神と人は愛によって結ばれることを感じてなりません。






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私自身の現実

2024-07-08 09:54:13 | 求道、探究
前回、行動の基準になるものとして、“愛、平安、リアリティ“を感じているかどうことを書いたのですが、そう感じないもの、いや真逆に感じるものというのも勿論あります。
顕著に感じるのは、“何か閉じられる、離れてゆく、落ち着かない...“といったものです。
従って、先の感じとは、“開かれる、収斂されてゆく、落ち着く“感じと言い換えてもいいのです。
こういうことをもっと分かりやすい、触覚的な感覚にそって言えば、“ジンジン“する感じと“ザワザワ“する感じと言ったりするのです。
その中で、“開かれる、閉じられる“、というのは、そうした意識の動きのことを言っているのです。向かう、向かわない...入る、入っていかない...
次に、“何かの中心に集まる、収斂されてゆくか、てんでばらばらに、遊離してゆくか“、ということも意識の集中してゆくかどうか、ということを表している訳ですが、何度か触れているように、それは意志想念の力でそうするのではなく、無為自然にそうなることなのです。
こう書けば、後の落ち着くということがどういうものか、ということは、説明しなくともお分かりになるでしょう。
これをもっともっと端的に言うことも出来ます。それは...私自身で居られるか、そうでないか...
“ああ、この本は全く私向きで無いわい、私には縁が無い!“、“この本は、私自身のことが書かれているではないか!“
私自身から離れてゆく感じを表すものとして、現実遊離した感じというものがあります。
これは、必ずしもその内容がそうであるということでなく、現界のことだろうと霊界のことだろうと、私自身の現実から遊離しているということを意味しているのです。
私自身の現実とは、私の自己実存、私がここに在る現実という他ありません。
そしてそれは、そう在らしめるもの、自己を超えたものが現臨、現前しているということなんです!
ああ...もう、この言葉を何回繰り返してもいい!...だって、それが愛、平安、リアリティに与ることなのだから!
これは、私が私を生きていること、私自身であること(それは神の現実と切り離されるものではない)がそうなのだ!、と言っているのですよ!
つまり、私自身であることが幸福なことなんだ!
何で、それを私が本当に、ホント~に、信じても、受け入れても、愛してもいない神やアヴァターなんかに求められようか?
何で、この現実から離れた、何次元の世界とか、来ない先の世界などに思いが飛んで行かなければならないのか?
そこに、本当に愛、安らぎはあるのか!
あなたの本心、あなたの神に聞いてみられよ!

いや、もうこの夏は、先が思うやられるほど、ハンパなく暑いです!
いつ、思いがどっかへ持って行かれるとも限りません。
それは、自分が自分で無くなるか、もっともっと自分自身になるかどうかの際に立たされている、この時代のことのようでもあります。

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どう感じているのか?

2024-07-07 10:00:40 | 求道、探究
あなたは、あれをしようか、これをしようかと迷っている時、何を基準に判断するでしょうか?、
例えば、本屋さんであの本とこの本のどちらかを選ぶか、というような場合です。
普通は、考えて判断するのではないでしょうか?
知識を深めるにはこっちが、実用的なのはあっちがいいとか...
私も勿論、そういうことも考えたりしますが、そこに何かを感じたならもう迷いはありません!、選択の余地は無い!
どう感じているのか?、“考えるな、感じろ!“
私には、そのあるものを感じるかどうかが最も重要な基準となるものなのです。だけど、最初からそういう感性に恵まれていた訳ではありません。
私が精神的な道に関わるようになった始めの頃は、もう知識欲、単純に興味が惹くような思いが大勢で、いつ本筋から脱線するか分からないような、アブナイ面もあったのです。
そおして、言わんこっちゃない!、ウカツにカルト宗教に近づいて、ヤバイことになりそうになったのでした。
それで、カルトのオソロシさ、オロカさが本当に身に染みて自覚され、それが免疫となり、以降、浮ついた思いでヘンなことに赴くようなことは無くなりました。
何度も書いているように、この苦い教訓からあの現臨感というものが芽生えたのです。
こう書いたら、もう分かる!...その時から行動の指針となるものが与えられたのです!
ただ、これまで漠然と、“あの、何というか、全身心にしゅんと筋が通るような感じ“という風にしか感じて無かったのですが...どう感じているか?、といっても根本的には色々な感じなんてのはありません。そう、愛、平安、リアリティといったものなのですよ!
要するに、本当に愛、安らぎが感じられるかどうか、ということに尽きるのです。
そんなことを改めて思った...こりゃ、驚くべきことじゃないか?!
これは、現臨感から来るものなんだ!、あの感じというのは、意識が自然と向いてしまうということなんだ!
逆に思ってしまいます。何故宗教、スピ界隈には、未だにカルト、オカルトなどの脱線路線に迷う人間が後を絶たないのか?、と。
あなたには、この思いを超えた導きを感じられませんか?
あなたの本心はどうなのか?
意識がそこにあるということが、精神的な道の本筋なのです。だから、邪さの道に迷うことは無い!
これは善悪とかモラルの問題じゃありません。カルトにハマる体質の人間は、何度もハマり続けるものです。存在レベルで免疫が出来ていない、又考えても分からない存在レベルの指針が与えられていないからです。
気安く、神を信じているとか祈っているなんて言うもんじゃない!
本当に神を自分の本心を信じ、受け入れるのなら、“あの感じ“に導かれざるを得なくなるのが本当ではないのか!

思い起こせば、ああいうハメにならなくても、私には“これではいけない!“、ということは分かっていたのです。本心では!
しかし、根本的体質改善には、苦い薬も必要だったということでしょう?...

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