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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

身体運動と瞑想

2017-03-30 10:42:30 | 祈りと瞑想
いいかげんにスブドのネタから離れたいと思っているんですが、これが又次々に芋ヅルのように出てきてしまう次第でして…いや実にスブドの呪い?というものは恐ろしいものです。
何しろ、閉じようとしてもどうやって閉じていいか分からないとキテます。
私はとっくにそこと離れているのです。だけどねえ…そのラティハンという身体運動というのは受けようと思えば今でもどこでも受けられるのです。(閉じられません!)
これが呪いというものなのか?…この忌まわしき運命というものを…
心底感謝しなければならないだろう…(皮肉抜きで!)
あのヴァイブレーション、ハタラキというもの、それが意識の目覚めをもたらすものだ、という事もそれ以前から知っていましたが、あの身体運動が発現したのはラティハンを受けてから、というのは確かな事です。
前回の記事で”ラティハンは普遍的なもの”という事を言ったのは、スブドとは全く別のところでも発現するからに他ならないからです。
それは無為自然なるハタラキによるものであり、ただそれを受け、お任せするしかないものです。しかし、それはいかなる形、やり方といったものとも関わらないもの、という事を付け加えたいと思います。
その呼び名とか方法とかそれにまつわる教えといった、人間的なものがそうなのでなく、そのハタラキ自体がそうなのだと言いたいです。
この点でスブドには、自派に伝わるラティハンを特別視し、瞑想などの他の行法を止めるように指示するなど、他流との混在にとても慎重だったようです。
これは混乱を避ける意味で私も分からないでも無いですが、一方ではスブドのやり方(ラティハン)のみが正しいとは全く思っていません。
やり方というのは、スブドのラティハンには”立ったままの姿勢で行う”ように定められているのです。
これが身体運動を誘起しやすくする動因となっているわけですが、しかし、あの自然なるハタラキというのは千変万化…いつ、どこに、いかなる状況で発現するか分からないものです。
いつも私が書いているように、意識が向いたところにハタラクものなのです。
従って決まったやり方に捉われる必要は無いのではありませんか?
私はスブドから離れてからは坐ったままの姿勢で行う事が多くなりましたが、これだとラティハンのように動き回れるような空間を必要とせず、大っぴらにやってオカシナ人と思われて、面倒なことになる心配もありません。
といってもイロイロな瞑想法のように、テクニックとか特別なメソッドなどは何も付け加えず、ただポカーンとハタラキに心身を任しているだけです。
(ちなみにスブドでも、テクニックを用いるとか人為的な修行をラティハンにミックスすると、ラティハンが止まってしまう、と言われていますが、私の経験でもこれは本当で、ヴァイブレーション自体の感受が一時失ってしまう感じになってしまいます)
どちらの入り方がいいかという事は一概に言えませんが、私が気づいた範囲では、坐った姿勢のものでは、立姿勢のように飛んだり跳ねたり、顕著な身体運動に移行することはあまりなく、雑念とか思考がすぐ抑えられられにくい面もありますが、その反面意識がより内面に向けられ易くなる感じがします。
あくまで私の短ったスブドの実習を通じての感想に過ぎないのですが、意識に深く浸透するのを覚えることはあまりなかったのです。
おそらくそれだけ意識が分散されがちにならず、フォーカスされやすいためではないかと思います。(これは以前にも書いている通り意念で集中するという事でなく、自ずと意識が集まってくる、という事を言っています)
何にせよ、姿勢というものは本質的な事では無く、生命力、ハタラキを受けること…受けなければ何も始まってこないのです!
瞑想というと巷では、前記したテクニック、メソッドというものが付きもので、人間的な意志的な努力によって開発、増進されてくるものと認識されていて、その主流となるものはインドのヨガ瞑想でしょう。
私はある日無為的瞑想で、太古の昔インドを初め普遍的に広まっていたのは、この”おまかせ”の瞑想であり、それが廃れた後今日のヨガなどの自力的修行が生まれたという直観が、太極拳に似た自動運動に揺られながら、与えられた事が有りました。それは何の根拠も無いことで確かな事は言えないのですが、ただ自分は相対的なやり方、方法というものを超えて、普遍的なものに開かれているという実感は否定しようが無かったのでした…。



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霊的礼拝を貫くもの

2017-03-28 05:46:21 | 祈りと瞑想
私がスブドに対し信頼を失ってしまっても、しばらく続けられたのは、その霊的修練ラティハンからは実害を被ったことはほとんどなく、それ自体善も悪も無い、ニュートラルなものと認識していたからです。
ところが…やがてその本来”受けるだけ”のものであるラティハンにも疑念がもたげるようになってしまいました。こうなると私の退会も時間の問題となってしまったのですが…
その疑念というのは…スブドに入り、ラティハンを受ける人には、何故こうもイスラームに感化されてしまうように見受けられる現象が生じるのか?ということです。
実際割礼までしてイスラームに入信してしまう人も居たし、そのラティハンの実習中にイスラーム風の礼拝を自動運動の過程でやり出す人、これはある種の異言現象と観てもいいかもしれませんが、それ風の祈りの言葉(多分本人は習っていないであろう異国語)を発する人が多く見られるのです。
私はこれはイスラーム=バパ教?がはびこり出したことと無関係じゃない、といった了見がもたげてきて、さらにスブドに対し疑心暗鬼になってしまったのでした。
ただ私自身にそういうものが発現したことは一度もありませんでしたが…
もっとも、こういう事というのは、所変われば、綽変わるじゃないですが、各宗教的背景に応じたヴァリエーションが見られるものです。
私が初めてこの種の霊的礼拝に接した、キリスト教の聖霊のバプテスマを強調する集会には紛れも無い本家?の異言(何語か所説が有る)が見られました(そもそもの異言の名の由来は新約聖書の使徒行伝やパウロの書簡に由るものです)。ついでに言うと私がもっと魂消たのは、自然発生的に誰がリードしているのか、統制のとれた異言的コーラス!が起きた事でした。
又、神道系の(これはずっと穏やかな、和やかなムードで行われる)礼拝では、帰神した祭主から自ずと口を切られるのは当然のことながら大和言葉の歌です。周囲からそれに応えるかのように(霊なる返し歌?)口が切られたりします。
世間では奇異に感じられるであろう、こうした霊的礼拝(総称してこのように呼ばせて頂きます)というものは、表向きの宗教に隠れた裏側の礼拝?として広く息づいているものなのです。
これには上記したような自然的、無為的身体運動、発声などが表れるのが特徴と言えるでしょう。(あくまで付帯的に表れるのであって、現象面に捉われるべきではありません)
では、ラティハンによく似た我が国に生まれた活現などの健康法では何故、異言現象などは見られないのか?(”ウー”とか”オー”とか擬音以外私はそれらしきものに接したことがありません)単純に考えればそれは宗教的背景を有していないからでしょう。
(私の場合、特定の宗教を奉じていなかったためか、スブドと同じくその色?を持ったものの発現は無かったのです。今のところ)
という事は…見えない領域に根差したものと言えど、見える世界の宗教と同じくそこには相対性というものがある、という事を物語っているのではないでしょうか? そしてそこにはそれらを越えるものが有るという事を示唆していると言えるでしょう。
よくよく考えてみれば、これは我々の意識の有り様に応じてヴァリエーションが表れている訳で、その表れの根底に一つに貫かれているものを見出すことが出来るでしょう。それはヴァイブレーション、命のハタラキであったり、諸々の心身の締め付け、縛りからの解放感であったり、本来の自分らしさの回復であったり…するでしょう。
これは、相対的な観念的な次元を超えて、誰でも感受出来るものです。
これはやはりニュートラルなものだと言わざるを得ません。ここに普遍性というものが開かれているのです。(これは往々見られるのですが、あまり自派の相対的特性を強調するとこの事を見えなくしてしまうでしょう。前記したことでも私はあまり本質的でない事に捉われていたと言えます)
それは又、一人一人に道は開かれているという事です。(この事はスブドでも強調されていたハズなのです)
何にせよ意識の有り様というものが実に重要と言えます。
そして、内なるものに意識があれば、つまるところ真我というか、”我ならぬ我”といったものに結びつかざるを得ないでしょう。(感じ方はそれぞれですが…)
生けるハタラキは自己の現存を照らし、浸透してゆくものだから…





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スブド❻ースブドとの闘争ー

2017-03-26 13:55:27 | 秘教、その他団体
私がスブドとの関わりの中で受けた学び、気付きというのは、そりゃもう、実に計り知れないものが有ります。
皮肉に聞こえる?…そうですね…皮肉かも知れない…逆説的です。
ただ、見たまま、思われたままの中にも、見えない導きというものを感じずに居れないものが有るのは確かな事なのです。
私はこのブログで、何度となく触れている幾つかのテーマ、それらはずっと私の内部に息づいているものなのですが、実はスブドとの関わりに依っているものも少なくないのです。
このことは改めてスブドに向き合うまでは、今まであまり気付かされなかった事です。
ただし、それらの多くはスブドから直接来ているのではなく、スブドに纏わるものへのある意味の反感、私にもたげてきた内的闘争(!)から浮き彫りにされたものだったのです。闘争という言葉は適切でないかも知れませんが…
例えば私はある時から人間の真実の有り様、人間の本質的なものを明らかにしたい、という思いに駆り立てられました。これはもうお気づきかと思いますが、”人間的な、あまりにも人間的な”霊的進化論、それに感染して同様な事態に陥っているのを目の当たりにしたところから私の内部に起こってきたものです。私はこの問題を主としてベルジャーエフ(私は彼ほどこの問題を追及し、そこに取り巻く諸々の障壁の超克を示した人間を他に知りません)に求めたのですが、これは昭和62年夏頃暫く念頭から離れていたものが突如浮上してきたものなのです。
しかし、私がハッキリ闘争的な事と結び付けて言葉にしていたのは、次のような事です。(これを知っているのは2,3の親しいスブド会員でしたが、それを聞いていた彼らの呆れたような表情が今も思い浮かびます)
スブドはその創始者バパ・スブーがそうであったように、イスラームというものがバックボーンにあるのは事実です。
だからと言って会員がそれに倣う理由など全く無いのであって、各人はその信仰も思想もそのまま、又特定のそうした依りどころが無くとも、自由にラティハンを受けられるのです。これはどの入門書でもそういう事を謳っている訳です。
ところが私の周りにお節介なイスラーム教=バパ教?のプロバガンダが表れ、(間接的とはいえ)改宗を迫るような言辞をするようになり、とてもうっとうしく感じ初めたのでした。(誤解して欲しくないですが、私は別にイスラームがキライという訳でなく、押しつけがましい言辞が大キライなだけです)これが私に直接向けられていたら、ただでは済まなかった!…かもしれない…
そしてこのイスラーム軍団(霊団)?に対抗すべく私に呼びさまされたものが、忘れかけていた神道を中心とした日本的霊性の復活なのでした。
それからずっと私の内に根付くことになるこの精神も当初は、本来のそれとは似ても似つかない、実に内的武装?を伴ったキナ臭いトーンで彩られていたものだったのです。
これを読んで、何とも私が”面白いゲームだかに首を突っ込んでいたのだなあ…”と思われる方も居られるでしょうが、ハイ、全くその通りです(笑)
本来的でないものに本来的でないもので対抗していたのです。

私の中の名伏(なふす)国防長官はこう息まいていました…
”わが軍は真珠湾のテツは踏むまい…先制攻撃は絶対にしまい…しかし、敵のアラブ軍が不可侵条約を犯そうものなら、容赦はしないつもりだ!”
そこで私は字和(じわ)陛下の次の”おことば”を彼に伝えました。
”朕は如何なることに直面しようとも、平和裡に事を進めることを希望する”
すると国防長官はこんな不気味な事を言い放ったのです!
”では、とっておきの”原始”爆弾をお見舞いして、無益な闘争を終結しましょうか!”
彼はおそらく、我々を超えた、とてつもないシロモノにゆだねようとしていたのかもしれません…

このように”霊的国防”という側面があった、私の中の日本的な道でしたが、忘れもしない平成の幕開けの時、”私が生まれ育った持前に息づいている霊性にもっと深く接木されねばならない”と突如、より精神を深化させる意識が芽生えたのです。
日本的な道、霊性とは神道とか特定の伝統的な道というよりは、普遍性、寛容性に根差したもののことです。
これは勿論、スブドから離れて”武装解除”した後でも、ずっと息づいているものです。

お気づきのように、私はこの4年もの関わりの中で、スブドにもバパ・スブーにも信頼を失ってしまいました。
だが、私は何とこの内的闘争から気付きを受けてきたことでしょう…
私がここで書いているのはあくまで私の観方、感じ方が反映されたものに過ぎないのは言うまでも無く、何が善で何が悪であるか、何が真で何が偽であるかは、あの全てを見通す目にゆだねばならないことでしょう…。
だが人が相対的にせよ、闇と感じているもの、悪、偽り、苦しみ…私はこのネガティブと思しきものの意味というもの、それと向き合う事で見えてくるもの…その闘争のプロセスは、その人に隠れされたあるものを呼び覚ませずに居れないことを痛切に感じています。

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スブド❺ー人間的な、あまりに人間的なー

2017-03-23 00:05:34 | 秘教、その他団体
私がスブドから離れて26年にもなります。
この間、この奇妙な団体に本当の意味で向き合ったのは多分初めてだと思います。
何だか、うっかり関わるとあの禁断のフタが開いて、どんな災いを呼ぶものが飛び出すか分からない…パンドラの箱のように思えて…
しかーし…”ここにある”禁断の箱の中身には、何と計り知れない学びと気付きが眠っていることでしょう…。
という訳で、ほんのちょっと寄り道するはずが、中々終わらせてくれないのです。(何時終わるのか分からない)

バパの霊的進化論にまつわる教説というのは、入会する以前から知っていましたが、私はずっと何かの象徴だと思っていました。
コモン・センスを身に着けている者だったら、あんな人間モドキみたいなことを真に受けて現実の場で語られたりしたら、全くオカシナ事になるでしょう。
ところが…入会して一年ぐらい経った頃でしょうか、”誰某は植物的段階から動物的段階に移行したようだ…”この言葉を実際に聞いた時は本当に我が耳を疑いました。
その他、”我がスブド同胞会はようやく植物的段階に達した…”これは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか…スブドの機関紙はスブド外秘扱いでホントによかった、と思いました。
もし、”私は真人間になりました”という人が居たら、”お勤めご苦労さん、出所おめでとう!”と言ってあげたらいいでしょうか(笑)
又、全国大会か何かで、ある会員はすぐ怒声を発するなど混乱に陥っているようでした。ラティハンの修練にはこういう事は付き物ですが、彼はこの教説に捉われる事でその問題が広がっているように見受けられました。
私はこの教説がその空気を支配しているのか、多くの人が本当の平安に導かれることなく、どこか戦々恐々としていて、落ち着かない状態になっているのを感知しました。(これは私自身もそうなっていたという事です)
多くの人は真の自分の依って立つところ、自己の帰趨点がどこにあるのか示されず、何処へ行くとも知れない魂の進化を目指しているようでした。
キリストやブッダに、神になろうとしているのか…だが、ホントは石ころか植物、動物だったとしたら…暗黒思想が周囲に漂う…
しかし…おそらくそういう人間には誰一人お目にはかかれないでしょう。私は人間にしかお目にかかれないハズなんです! そして自分自身にしかなれない…そうでしょ?
人間以下になるのと同じように、神とか人間以上のものになるというのも私はオカシイ事だと思います。
私は全く疑念の無い、至福そのもの、普遍性、魂の故郷といったものを目の当たりにしたことがあります。(スブド外のことだったので、会員にはあまり参考にならないかも知れません。又感じ方は人それぞれなのは言うまでもありません)
だけど、それはこの個我そのままの私がそうなった、という事ではないのです。つながっているという言い方は出来るでしょうが、そういうものに乗っかっている、それに包まれている、という感じなのです。これは正しく個我を超えているという事を言い表している訳ですが、もし個我の私のままがそうなるのであれば、その内実性は失ってしまうことになるのです。これは体験は無くともよく考えれば分かることです。
もっとも、このような事は今の私が言っているのであって、あの渦中にあった私には閉ざされていて、言い表せなかったのです。
そうなのです! 私がどうしてあの感覚を失ったようになったのか?…どうやらこの辺に理由が隠されていたようです。
私も周りの人々も個我の呪縛に捉われていたのです!
バパが説いていた霊的進化論には、おそらく低次の諸力から自由になって真の人間性に目覚める、という道標が据えられてあったのでしょう。
だが、私には容易くその教説に確固たる信仰のように捉われてしまう事自体が、内なる真我から外なるものに隷従させてしまう事を意味しているように思えました。
しかし…そのように見えたのは、覆いが被さった私自身の目からではなかったか?
人々は自我に捉われ、そこから脱出しようともがいていた…あの混乱した人もその叫びを訴えていたのでしょう…
あの奇妙な世界は、この世の縮図のように思われました。
あんなにも人間らしさがムキ出しになった世界を私は知りません…。
そして…”この世が終わらないうちに、ここから抜け出さねば…”そんな思いが過り出したのでした…。
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悪魔のささやき

2017-03-21 11:11:51 | 独語
肝心なことは何かと封印しようとし、
勿体ぶって隠匿しようとし、
人には”アイツには何か秘密があるに違いない!”と…
思わせぶりを抱かせ、いつも一人ほくそ笑んでいるお前が、
近頃、どういう風の吹き回しか、
”ついにベールが開いて、秘密が開示される”…みたいなことをほざいているらしいが…
おい、あれはどうした! どこにも見当たらんぞ!
まさか、まだお前の闇の秘密結社のサガで封印しようとしているのではあるまいな!
まさか…あれを避けて通って、”おひらき”になるとでも思っているのか!
いいや、隠してもみんな分かっている…私の目は全てを見通す…
お前は本当はあれをぶちまけたいんだろう…
ぶちまけて、あの”ノタウチ、ドタバタ”運動の後のように、スッキリしたいんだろう…
おい、ほら、とっておきのシロモノがあったではないか!
決して日の目を見る事の無かった、読むだに背筋が凍りつくブラックなお話の数々…

「はやく人間になりたい!」ー(「妖怪人間ベム」と「フランケンシュタイン」にモチーフを借りたお話。”完全なる人間”の創造を意図して作られた人造人間は世にもおぞましい、人間であって人間でない怪物だった!彼は健気にも人間に近づこうとするが、ますます向こうは遠ざかってゆく…)
「もはや人間に非ず!」-(南洋に人間の真実に根差した理想社会が有ると聞いて天竺からやってきた求道者が見たものは…人間を石ころ、植物、動物に規定しているカースト制よりもおぞましい全く自由であることが許されない社会だった。求道者は「これが真の人間の姿だというのなら、私はになろう」と決意したのだった…ブッダをモチーフにしたお話。)
その他、「素人道と悪態生活」(ズブドー・アンド・”アクティブ”ライフ)、「悪奴の素人道」(ズブドー・イン・ザ・”ワルド”)…

いや、あれは全く”人間的な…あまりに人間的な”ネタの宝庫だ!
お前にドストエフスキーのような才能があればな…
このシロモノが本当に日の目を見るのかどうかはお前の心象次第だが…
何だって! あんまり大っぴらに言うと、ヤツらに”ハチの巣”のようにされかねないだと!
あのなあ…誰がお前のことなど覚えているもんか! 誰が知っているだろう…
あの”痛み”の街にもいやしないだろう…
第一、あれ自体、穴だらけでハチの巣みたいなもんじゃないか!
クモの巣かマンホールのフタ(コイツが開くとドエライことになる!)のようなシンボルマークなら知っているが…
ハチってヤツは実にヤバイ、アブナイもんだ…
だが、思い切ってその巣に踏み込んで、手をのばせば…
この世のものとは思えない甘美なる密の味…
だから…
何を躊躇している…ぶちまけてしまえ!
いくら閉じようとしても、”おひらき”にはならないんだぞ!

「我々はOpenする方法は知っているが、Closeする方法は知らない」
                  (”バパ”ムハマッド・スブー)
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