いいかげんにスブドのネタから離れたいと思っているんですが、これが又次々に芋ヅルのように出てきてしまう次第でして…いや実にスブドの呪い?というものは恐ろしいものです。
何しろ、閉じようとしてもどうやって閉じていいか分からないとキテます。
私はとっくにそこと離れているのです。だけどねえ…そのラティハンという身体運動というのは受けようと思えば今でもどこでも受けられるのです。(閉じられません!)
これが呪いというものなのか?…この忌まわしき運命というものを…
心底感謝しなければならないだろう…(皮肉抜きで!)
あのヴァイブレーション、ハタラキというもの、それが意識の目覚めをもたらすものだ、という事もそれ以前から知っていましたが、あの身体運動が発現したのはラティハンを受けてから、というのは確かな事です。
前回の記事で”ラティハンは普遍的なもの”という事を言ったのは、スブドとは全く別のところでも発現するからに他ならないからです。
それは無為自然なるハタラキによるものであり、ただそれを受け、お任せするしかないものです。しかし、それはいかなる形、やり方といったものとも関わらないもの、という事を付け加えたいと思います。
その呼び名とか方法とかそれにまつわる教えといった、人間的なものがそうなのでなく、そのハタラキ自体がそうなのだと言いたいです。
この点でスブドには、自派に伝わるラティハンを特別視し、瞑想などの他の行法を止めるように指示するなど、他流との混在にとても慎重だったようです。
これは混乱を避ける意味で私も分からないでも無いですが、一方ではスブドのやり方(ラティハン)のみが正しいとは全く思っていません。
やり方というのは、スブドのラティハンには”立ったままの姿勢で行う”ように定められているのです。
これが身体運動を誘起しやすくする動因となっているわけですが、しかし、あの自然なるハタラキというのは千変万化…いつ、どこに、いかなる状況で発現するか分からないものです。
いつも私が書いているように、意識が向いたところにハタラクものなのです。
従って決まったやり方に捉われる必要は無いのではありませんか?
私はスブドから離れてからは坐ったままの姿勢で行う事が多くなりましたが、これだとラティハンのように動き回れるような空間を必要とせず、大っぴらにやってオカシナ人と思われて、面倒なことになる心配もありません。
といってもイロイロな瞑想法のように、テクニックとか特別なメソッドなどは何も付け加えず、ただポカーンとハタラキに心身を任しているだけです。
(ちなみにスブドでも、テクニックを用いるとか人為的な修行をラティハンにミックスすると、ラティハンが止まってしまう、と言われていますが、私の経験でもこれは本当で、ヴァイブレーション自体の感受が一時失ってしまう感じになってしまいます)
どちらの入り方がいいかという事は一概に言えませんが、私が気づいた範囲では、坐った姿勢のものでは、立姿勢のように飛んだり跳ねたり、顕著な身体運動に移行することはあまりなく、雑念とか思考がすぐ抑えられられにくい面もありますが、その反面意識がより内面に向けられ易くなる感じがします。
あくまで私の短ったスブドの実習を通じての感想に過ぎないのですが、意識に深く浸透するのを覚えることはあまりなかったのです。
おそらくそれだけ意識が分散されがちにならず、フォーカスされやすいためではないかと思います。(これは以前にも書いている通り意念で集中するという事でなく、自ずと意識が集まってくる、という事を言っています)
何にせよ、姿勢というものは本質的な事では無く、生命力、ハタラキを受けること…受けなければ何も始まってこないのです!
瞑想というと巷では、前記したテクニック、メソッドというものが付きもので、人間的な意志的な努力によって開発、増進されてくるものと認識されていて、その主流となるものはインドのヨガ瞑想でしょう。
私はある日無為的瞑想で、太古の昔インドを初め普遍的に広まっていたのは、この”おまかせ”の瞑想であり、それが廃れた後今日のヨガなどの自力的修行が生まれたという直観が、太極拳に似た自動運動に揺られながら、与えられた事が有りました。それは何の根拠も無いことで確かな事は言えないのですが、ただ自分は相対的なやり方、方法というものを超えて、普遍的なものに開かれているという実感は否定しようが無かったのでした…。
何しろ、閉じようとしてもどうやって閉じていいか分からないとキテます。
私はとっくにそこと離れているのです。だけどねえ…そのラティハンという身体運動というのは受けようと思えば今でもどこでも受けられるのです。(閉じられません!)
これが呪いというものなのか?…この忌まわしき運命というものを…
心底感謝しなければならないだろう…(皮肉抜きで!)
あのヴァイブレーション、ハタラキというもの、それが意識の目覚めをもたらすものだ、という事もそれ以前から知っていましたが、あの身体運動が発現したのはラティハンを受けてから、というのは確かな事です。
前回の記事で”ラティハンは普遍的なもの”という事を言ったのは、スブドとは全く別のところでも発現するからに他ならないからです。
それは無為自然なるハタラキによるものであり、ただそれを受け、お任せするしかないものです。しかし、それはいかなる形、やり方といったものとも関わらないもの、という事を付け加えたいと思います。
その呼び名とか方法とかそれにまつわる教えといった、人間的なものがそうなのでなく、そのハタラキ自体がそうなのだと言いたいです。
この点でスブドには、自派に伝わるラティハンを特別視し、瞑想などの他の行法を止めるように指示するなど、他流との混在にとても慎重だったようです。
これは混乱を避ける意味で私も分からないでも無いですが、一方ではスブドのやり方(ラティハン)のみが正しいとは全く思っていません。
やり方というのは、スブドのラティハンには”立ったままの姿勢で行う”ように定められているのです。
これが身体運動を誘起しやすくする動因となっているわけですが、しかし、あの自然なるハタラキというのは千変万化…いつ、どこに、いかなる状況で発現するか分からないものです。
いつも私が書いているように、意識が向いたところにハタラクものなのです。
従って決まったやり方に捉われる必要は無いのではありませんか?
私はスブドから離れてからは坐ったままの姿勢で行う事が多くなりましたが、これだとラティハンのように動き回れるような空間を必要とせず、大っぴらにやってオカシナ人と思われて、面倒なことになる心配もありません。
といってもイロイロな瞑想法のように、テクニックとか特別なメソッドなどは何も付け加えず、ただポカーンとハタラキに心身を任しているだけです。
(ちなみにスブドでも、テクニックを用いるとか人為的な修行をラティハンにミックスすると、ラティハンが止まってしまう、と言われていますが、私の経験でもこれは本当で、ヴァイブレーション自体の感受が一時失ってしまう感じになってしまいます)
どちらの入り方がいいかという事は一概に言えませんが、私が気づいた範囲では、坐った姿勢のものでは、立姿勢のように飛んだり跳ねたり、顕著な身体運動に移行することはあまりなく、雑念とか思考がすぐ抑えられられにくい面もありますが、その反面意識がより内面に向けられ易くなる感じがします。
あくまで私の短ったスブドの実習を通じての感想に過ぎないのですが、意識に深く浸透するのを覚えることはあまりなかったのです。
おそらくそれだけ意識が分散されがちにならず、フォーカスされやすいためではないかと思います。(これは以前にも書いている通り意念で集中するという事でなく、自ずと意識が集まってくる、という事を言っています)
何にせよ、姿勢というものは本質的な事では無く、生命力、ハタラキを受けること…受けなければ何も始まってこないのです!
瞑想というと巷では、前記したテクニック、メソッドというものが付きもので、人間的な意志的な努力によって開発、増進されてくるものと認識されていて、その主流となるものはインドのヨガ瞑想でしょう。
私はある日無為的瞑想で、太古の昔インドを初め普遍的に広まっていたのは、この”おまかせ”の瞑想であり、それが廃れた後今日のヨガなどの自力的修行が生まれたという直観が、太極拳に似た自動運動に揺られながら、与えられた事が有りました。それは何の根拠も無いことで確かな事は言えないのですが、ただ自分は相対的なやり方、方法というものを超えて、普遍的なものに開かれているという実感は否定しようが無かったのでした…。