人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

死んでもいい!

2022-04-29 09:20:22 | 詩的文章
僕は一瞬、このまま死んでもいいと思った!
あの至福に与ったときだった...
死にたいではなく、死んでもいい...
もし、あんなのがずっと続くのなら...
間違いなく死んでしまうと思った!
いや、思うのでなく感じたのだった...
何も考えられなかったのだから...
死の恐怖はどこへ行ったのか?
だったら、何を恐れるのか?
何も恐れるもののない人生?
いや、こんなんでは、もう普通に生きては行けない!
それでも構わないと“思った”!
僕は神に捉えられた!
いや、それはもしかして死神?
何だっていい!
何?、何?、何?...
何もかもない!
それがあるだけ!
でも...
それも束の間...
そんなんは続く訳がない...
別の恐怖がやってきた...
このまま戻れなくなるかもしれない...
恐怖と共に思いが戻ってきた...
わが神よ、あなたは死神ではなかったのですね!
これがあなたのみ心なのですか?
それとも...僕の本心?
そして...
帰ってきたよ!...バカバカしいシャバよ!
これでよかったのか、どうか?...
”死んでもいい、という君、どうなんだい?“
”お前が又そうなってみろ!“
だってさ!...




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現臨と現実生活

2022-04-27 10:14:37 | 現臨、ハタラキ
今、私は”現臨にある”状態になっています。
度々触れていますが、この状態は、思考機能や為そうとする力は後退しているとは言え、失うまでには至っていない段階のものでして、だからこうして書いていられる次第なのです。
これから書くことを理解するには、私が“神の手がかかる”と言っている、それらを失う状態とは区別する必要があります。この状態にあっては日常生活を送るのは、ほぼ不可能と言っていいでしょう。
一方、現臨にある状態、現臨感覚は、歩いていても、動画を観ていても、読書(この時が特に多い!)をしていても感じられるのです。
ただ、パニくっている時とか、ケンカとかHなこととかで、コーフンしてる時にはそれは感じられませんが、失う訳じゃありません。
失った時は、テキメンに感じられます。一番最近は三年程前、肺炎みたいな症状に見舞われた時でした。そうですねえ、あん時は、まるで私の当たり前の日常が失われたみたいだったですよ!
エエッ!...もしかして私は、この何かが来ては、去ってゆく、移ろいゆく現実生活にあって、驚くべきことを言っているんでしょうか?
日常、現実...現臨にある状態は、日常茶飯事...飯を食ってたってそれは在る!...いやあ、あのですね、現臨の無い現実生活など無いと言ってもいいくらいなのですよ!
それは、私自身の現実、実存在らしめているものなのだから...といって、うまく説明出来ないのですが...ダラダラと、ヒマを持て余している現実よりかは、はるかに現実感覚を覚えているのは確かなことです。(余分な時間は沢山あってもそんなヒマは無い!)
このようにこの感覚は、現実生活と一枚になっているのですが、そうです、それは私がそのように霊的に進化したからであって...そおじゃないんですよ!
これは、どんなに私がとち狂ってようと、おバカなことをしていようと私の思いを超えたところにそのものが現れる通路、回路が開かれている、ということなのです。
私って人間は、昔からそんなに変わりゃあしない!...私からは変われない!...土台が変わった別の私がお目見えしない限り...
私がこういう風に言うのは、そのものに”手をかける“ことをしたくないからです。
私の思念、意志力で、そのものの実体はどうだろう、こうだろうと分かったように決めつけたり、コントロール出来るように錯覚しないためです!
理由は、分かり切ったことです!...そのものを失わないため!
これは、あの御方自らの戒めでもあります。
それでも、このバカバカしい現実生活にあって、ある程度そのものに働きかけることは可能です。
それは、祈ることと言ってもいいでしょう。
祈りを通して、あの御方との密なつながりを覚えることが出来ます。
それによってあの回路が開かれたのに他ならないのだから...
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幸福でない幸福

2022-04-25 12:06:54 | スピリチュアル
“のしてんてん”さんという、ご自分の世界観を文章は勿論、絵画に表すなどされている方のブログは、私もとても共感を覚えているのですが、最近の記事で悟りについて言及されていました。
それによると、悟りには至福に与ることがあるが、それにとらわれ、同一視したりすると、方向を見誤る、という旨のことを述べられておりました。
このことに関して、まずその渦中にあった時には...私の経験では、前回も触れたように、至福にとらわれる(捉えられてしまうのです!)ことも、そこから抜け出すことも、そこから別の次元を目指すことも不可能なのです!
すべての為そうという思い、意志、力を失ってしまうのだから...
問題は、それらの機能が戻って、再び現世での生活を営むことになってからの話になるでしょう。
これは、私にも強くあったと言わねばなりません。それが元の黙阿弥になってしまって...“あの至福にもう一度与りたい!”
有り体に言って、”悟りだ、真理だ、霊的進歩だののことはどうでもいい!...ただ、あの至福がああ...”というものだったのです!
それほど幸福というものと結びつけられていたのです。このように、現実に離れてしまったものを、与らなければ得られないものを追い求めることは、やはり執着ということになるのでしょう。
もっとも、これは悟りや霊的進歩に置き換えても同じことでしょうが...思念を強めることはそれにつながるのです。
このように、幸福を追い求めることから、どういうイメージを持たれるでしょうか?
至福体験に酔いしれる...自分だけに与り、自分だけ感じている幸福...そこには他者とそれを分かち合うという道は開かれないのか?...いつまでも、ずっとそんな境地に留まり続けている...利己的な在り方...
しかし、渦中にあった時、目の当たりにしたものは、自分だけの幸福など存在しない、ということだったのです。
その至福をもたらしているものは、あらゆる他とのつながり、普遍的なるものとの一体感と言ってもよかったのです。
そして、ずっと同じところに留まっているものなど何一つありません。絶えざる創造(それには為そうとする私は何も関与していないのは言うまでもありません)...何もかもが劇的!...それでいて先とは違った意味の恒常的な静寂、平安...
要するに、そのすべての面で至福が感じられたのです。
精神的道には、私の与りしれない領域というものがあるかもしれませんが、少なくとも私には至福と切り離された、精神的目覚めというのは考えられません。
二元的現実世界では、別々のもののように考えられ、感じられるものでも、そこでは不可離のように感じられるのです。
しかし...よ~く考え、感じてみて下さい!...例えば、自分の幸福のことより、他者の、愛する人のために、時には自己犠牲とも思えることにも赴く時の心境のことを!
そう赴かせるものは、ある種の幸福感ではないでしょうか?
そうでなきゃ、私などアホらしくてやってられませんよ!
表層では幸福だとは思えない、感じない、だけどもっと奥の方の現実では...意識が自然と動いていたりするのです!
結局、そうなっちゃう...ということはそれにゆだぬるしかない!
人生の表側だろうと、裏側だろうと幸福というものは、思いを超えたところからもたらされるのでしょう。
そして、それは与えられるものだ、ということ...元々与えられているのかも分かりません。
表層で捉えようと、とらわれているから分からないのでしょう。
だから...断念したら、何かが開ける...かもしれない...。
コメント (8)
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覚醒と断念

2022-04-24 09:46:27 | 覚醒
“求めるべきは悟り、完全覚醒!...その境地を目指して!”...
とか言ったって、それは意志力、思考マインドが働いているうちの話です。
それが残っているうちは、中途の段階だとは一応は言えるでしょう。
だけど、こういう言葉はけっして軽い気持ちでは言えないものです。理由は先の言葉をよ~く考えてみたら分かるでしょう?
一体誰が自分の力だけで中途の段階から先へ行くことが出来る、というのでしょうか?
これは全く持って、思いを超えた神的な図りに依るとしか言いようが無いのです!
そもそも、そうした思いを超えたものからの促し、後押しのようなものに依らなければ、そのステージに立つことすら出来ないでしょう。
この事実を何も分からないものがそれを目指そうなど、実に身の程知らずという他ありません!
中途の段階で留まっているのが神慮なら、それに甘んじているより仕方がありません。
つまり、断念しなきゃならないのです!
もし、そこが超えられてしまったなら...何をどうすればいいのか?...いや、だからどうしようもないんだってば!...ゆだねるしかありません!
思考を働かすことは出来ないけれど、意識はあります。ゆだねられるもの、導きというものは感じられます。すべてはこのものに依っているのです!
こっちの思いも力も明け渡される、ということはそこで、そこに落ちてしまう、落ち着くということです。
何故、そのように導かれてしまうのか?、これはいつも言っているように、愛、平安が感じられるからなのですが、そこでもたらされる至福に落ち着くと言ってもいいでしょう。
これについて、“その境地に留まっていてはならない、まだ先の境地があるのです!”などと言ったりするのは、全く的が外れていると言う他ありません!(よく考えてみて!)
ただ、思いを超えた意志のようなものは感じられます。それにゆだねるしかありません。
そう、最初から最後までゆだねるしか無いのです!
ということは、中途半端な自分の思惑とか欲望とかは入る余地など無いということです!
このことは考えられるうちは、よく考えた方がいいでしょう。
ハナっから自分は、本当に悟りたい気持ちなどあるのか?、ということも...人より高い境地を目指して優越感に浸りたいだけなのか?
そういうことなら神かけて言います!...中途半端ならおやめなさい!
マトモな人間に戻ることも出来なくなってしまうでしょう(いや、ハナっからマトモじゃないだろ!)。
まあ、人間は皆中途半端な生き物なんでしょうけど...分からないことは分からなくていい、なれないものにはならなくていい...やっぱり何ごとも断念して、ゆだねるしかない...何ごともそこから開かれることもあります。
それに安んでしまいます。特別なことは別に無いのですがねえ...。

コメント (2)
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意識の動きにウソは無い!

2022-04-23 09:33:12 | 意識、照明
意識が向くとか向いちゃうとか、意識がおのずと動くということをいつも書いていますが、これはただ心が何かの対象に向かうことを言っているのではありません。
と言って、それと全く無関係という訳でも無いのですが...
単純に言えば、表層で思っていることと、もっと深い意識の次元の違いと言うことになるでしょう。
例えば、自分にある信条などがあるとして、それに合わせようと心を傾けたりする...しかし、どうも何かが滞って、あるいは、意識がある中心に集まる感じがしなくて、散漫になるなどで、す~っとそっちに通って行かないことがあったりします。
自然とそうならないものが感じられる...これが意識の動きの消息を伝えるものに他ならないのですが、表層と深層とにズレが生じたりすることがあるものです。
その理由は、その信条が現在の自分とマッチしなくなったことに依る場合が多いのでしょうが、信条~信じなければならないという思いが強く、固執したりすると中々そのことに気が付かないで、いつも心のどこかにす~っとしない感じを抱えてたりしてしまうものです。
心は容易に本心を欺くものです。しかし、意識の動きにウソはありません!
そしてそれは、信仰だとか思想だとか、あらゆる相対的なものを超えたものなのです。
意識の動きに合わせてたらラク~になれるのに!
このように、表層の思いというのは、いつも変わったりするものですが、もっと根本的な意識の動きはいつもおのずとそうなるのです!
要するに思っていることと、意識に感じていることが合っていたらいいのです!
でも、自分で自分の心の奥を知ることは容易ではありませんね。知ろう、知ろうと思っているだけだったりして。(笑)
そこで祈りというものがあるのです。
最初は神的なものを対象にするということはあります。考えている自分が祈るということもあるでしょう。
しかし、いつの間にか、おのずと心が向いてしまうということがあります!
これは、もう意識が向いちゃうと言っていることと同じなのですが...
意識が向くとか、ある対象に向けられるようなことを言ってますが、正確な表現でなく、そういうものはあるようで無いのです。それは見えない、捉えられない現臨だったりするから...
向くも何も、元々根付いているのでしょう。
何に?...多分、私の知らない私か、私自身の神でしょう...。
コメント (4)
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