人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

信じざるを得ない

2018-10-31 12:18:51 | 雑感
「見ずして信ずるものは幸いなり」と聖書にあります。
"神というものが見えるように現れたのなら信じます"という声も私は聞いたことがあります。
しかし、そういう人はたとえ神が見えたとしても、本当には信じることはないでしょう。
それは目に見えるモノを信じるということであって、神は物質的なモノとしか認識していないということだからです。
私は、どのように言い表していいか分からないのですが、時に神のように感じているものを信じています。
それは目に見えないものなので、モノではありません。
所謂心霊学などでは、何次元に居る霊だとか、前世の誰それの霊だとか、さも見たように見えない存在のことが語られますが、これは特殊な人でない限り、見えないものであっても、見えるモノとして思い描くこと(想像すること)でしか認識出来ないのは同じなのです。
私は数人の霊能的な人から「あなたは守られていますね」、「あなたという人は全然大したことないですが(そっか...)、あなたは大変な導きを受けていますね」と言われたことがありますが、自分でもそう思います。そう感じているから...
これがしかし、そう言われたことは無いですが、"それは何々という守護霊で、前世はこれこれで..."何てことを吹き込まれたら、多分今までの"信仰"はぐらつき始めるかも知れません。
まあ、そういうモノとしてしか認識出来ないものは、"消えてゆく姿"なんでしょうけどね。(こういうことが分からない、"囚われ人"もその界隈には随分と居るようです) 現臨が臨んだら、実際にどうでもよくなります。
現臨、聖霊、見えざる導師...どういう表現で言い表しても、それは何かは分からないのです。
もしかしたら幻想かもしれないし、エンドルフィンの作用かもしれないのです。
しかし、何であろうと私は信じざるを得ませんi
"あのね、そういう得たいの知れないものを信じる前にそのものの素性を調べる必要は無いか?" 何て言う人は、ある一瞬に思いを超えたものに捉えられたことが無いのでしょう。
ずっと思いの中でサニワの真似事でもして、いつのことになるのか、高次の神霊がかかるまで修行に勤しんでいたらいいでしょう。
もっとも生来私は疑い深く慎重な方なので、そういう自省というのもあるのですが(サニワということにも関連しますが、それは"照明"に照らされるということで、結局現臨の内にあることになってしまうのです)...しかし、たとえ幻想だろうと何だろうと、愛、平安、確信といったものは、そのものを通じてしか出くわしたことなど絶えて無かったのだから仕方ありません。
もはや、信じざるを得ないi もっと言えば、こちらが信じるより先に、そう信じさせるものがここにあるということなのです。
こちらが赴くより先に、ここに来ている...(小池先生ワールド全開という感じになってきた...)
同じ"信じる"ということでも、目に見えて証明出来るものを信じることや、誰かの教えなどに盲目的に信じ従うこととは天地ほどの違いがあると言っていいでしょう。
それは自己の内なるもの、実存が開かれるか、どうかということです。
信じざるを得ない事態というのは、信じるものと信じられるものとの共感、共鳴に基づいているということです。
自己の内なるものと外なるものとの結び付きであり、教えるものと従うものとの、支配したり、されたりの二元的な関係性はありません。
理屈を超えた同調関係、それが調和ということなのでしょう。
もう、何だっていいi 要するにそれは、あーだ、こーだ考え、思い描いた世界じゃないのですi
私は何度も言いたいi 神的なものとは思いを超えたものだということをi



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どっちもどっち

2018-10-28 11:56:59 | スピリチュアル?
宗教やスピには、昔から特定の教師を祭り上げるということが付き物です。
OO先生はシャカ、キリストと同格、あるいはそれ以上だとか、宇宙神にもっとも近い存在だとか...絶対視、偶像視してしまうのです。
肝心の自分自身の内なるものは、ちっとも開かれることはありません。
そもそもそれは、その教えにまつわる観念に囚われていることであり、いつまでも思いを超えたものにつながることが出来ないということなのです。
OO先生や神のことをいくら盛り立てても、自己の実存の開示とは何も関係がありません。
それはその意識の有り様が、二元的に偏っていて、奉じる教師なり、神なりが対象化され、全く自己と切り離された他者のままになっているということです。
そして悟り系スピでは、こうした傾向を二元、分離思考として批判し、非二元的な教えを説き始めたのです。
その物言いようは、個人は居ない、自由意志は無い、時間も、あらゆる変化も無い、すべては完璧...まるで神にでもなったかのようです。
すべてはそう成っているのだから、悟りや安心を求める必要も無い...と言いながらもシッカリとセッションや講演会などへと誘導しています。
そこでは超越的存在としての神など飛び越してしまい、いきなり宇宙的全体だかとつながってしまう...かのようなことが信じられているのです。
違う?...いや、信じようとしなければ、何か苦しい今の現状を変える何かがそこに無ければ、会場に足が向くことは無いってものでしょ...
(生活という切実な問題があるのなら、ご大層なこと言ってないで、"あなたも私も食わなければならないのは同じです。そこに教える、従うという二元性は無い..."とか、正面切って言える教師ならある部分すごーく共感しますが...)
つまり言っていることは、二元的だったり、非二元的だったりしても、教師と信者という構図は変わらないんじゃないですか?
自分が奉じている神は、自分とは関係の無い他者であったり、逆にそういうものがどっかへ飛んでしまい、いきなり宇宙と一つとなるものであっても、そこに本当に生きたものがもたらされているのでしょうか?
神は超越した自己と別在した他者なのか、自己に内在し、自足した直接存在なのか?
そういうことは、そのものに、我々の真の主体に訊かなければ分からないことでしょう。
すべては、そのものが顕現する...そのものあっての話なのではありませんか?
このことが蔑ろにされた時、決めつけた言辞が一人歩きし始めるのです。
そして、いつまでも教えようとする教師と、それに追従しようとする信者とのナレアイ、共依存がはびこり続けるのです。
つまりはどっちもどっちってことでしょう。そう、人間は誰かを担ごうと、何ものかになろうとしようと、教えようと、従おうとしようと所詮どっちもどっちにしかなれないのですi (私もエラそうに言ってますが...)
ある教え、道が始まった契機にはそのもののが現れるということも派生し、時には思い出したかのように、そのものの息吹がもたらされることもあるでしょうが、そのものが思いによって覆われ、主に取って代わった事態に陥ってしまう限り、全一なるものの現成は望めないでしょう。
そんな訳で私は宗教、スピ屋さんが居なくなることを願うばかりです。アーメン...
コメント (7)
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光の世界、ブルーな世界

2018-10-27 11:09:08 | スピリチュアル
人生の裏側に入り込むというか、ワンネスの世界というのは、光一元の世界であるように語られることもあるようですが、確かにあの光の照射を受ける時はそういう感じになりますが、ずっと取り巻いているもので思い起こされるものはそういうものではありません。
あくまで私の感じを言っているまでですが、闇というものが全く無く、絶えず光輝いているというより、色で喩えれると、ダークブルーとか紫の世界という印象です。
何か光と闇とが重なりあっているという感じなのです。
といっても実際にそんな色に見えたとかということでなく、そのときの感性というのも通常の有り様と異なっていて、思われた感情というものも無いのですが、少なくとも"すべてが楽しくハッピー"という感じのものではありません。
歓喜、至福感というものはありますが、それはある種の悲しみをともなっているという感じなのです。
これが歓び、至福を際立たしているようにも感じられるのです。
あの悲哀感というものをどう表現したらいいのか...得ようとして得られなかったこと、願っても叶えられなかったこと、中途で挫折してしまったこと...そこには私のごく限られた人生というものを超えた、生と死のドラマを目の当たりにしているかのようです。
それは人生の表側だけで知らされている、生と死とは別の様相が映し出されているのです。
そこには喩えようの無い悲しみは感じられるが...苦しみは無い...
苦しみはそこへは持ち越すことは出来ないらしい...何故ならば死は思われていた、それですべてが永遠の闇に消えてしまうような、我々の心に呪縛し続けるもののようには感じられないから...
その悲しみは幸福と裏表のようではあっても、現世のように重いくびきに捉えられるということが無いのです。
悲しみというものは、しばしば苦しみと結び付いてネガティブなものとして語れることが多いのですが、私のブルーな人生を思い返してみて、悲哀感、哀愁というもの自体に苦しみを感じるということはほとんどありません。
むしろ、そこには"すべてがハッピー"という、受かれた気分では味わえないような深い、じーんと染み透ってくるようなある種の幸福感が感じられないでしょうか?
これは私に固有のこうした、"苦しみなき悲しみ"に惹かれてしまう性向と結び付いているからなのでしょうか?
昔から音楽では例えばバラード系が好きでしたが、聴いていて幸福にはなっても別に苦しくなってきやしないです。あまり重たいのはイヤですけど...
すべてがハッピーな光一元の世界など、想像するだに...多分私の居場所は無いでしょう。
強制的にそんなとこ放りこまれでもしたら、無限地獄に落ちた思いにさせられるかもしれません。
もし、光一元の世界というものが苦難の無い世界という意味であれば、あるいはそう言い得るかもしれませんが、それは闇の世界というものが排除され、セパレートされているというよりも、闇、ネガティブなものと思われていたものが、そのままで苦しみなきものに化してゆくことがあるばかりなのではないでしょうか?
もっとも、これはいつもブルーな私の感じを言っているまでで、人それぞれに感じたままの世界が開かれるのでしょうけど...。

コメント (2)
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YOU LIGHT UP MY LIFE

2018-10-24 12:05:07 | 映画・音楽など
So many nights,I'd sit by my window (幾夜もずっと窓辺に座って)
Waiting for someone to sing me his song (歌を歌ってくれる人を待っていた)
So many dreams,I kept deep inside me (沢山の夢を暗い中で独り心の奥にしまっていた)
Alone in the dark,but now you've come along (でも、そう、あなたが私の下に来てくれた)

And you light up my life (あなたは私の人生を光輝かし)
You give me hope,to carry on (希望を与え続けてくれる)
You light my days and fill my nights with song(歌で毎日毎夜輝き、満たしてくれる)

Rollin'at the sea,adrift on the water(海にもまれ、水の上を漂っている中)
Could it be finally I'm turning for home?(ついに安息の地に向かってゆける?)
Finally a chance to say "hey I love you"(とうとう、これで"愛してる"と言える)
Never again,to be all alone...(もう、けっして独りぼっちじゃない...)

「YOU LIGHT UP MY LIFE(恋するデビー)」by Joe Brooks

1977年秋、私は精神面で大きな転機にあった時期でしたが、初秋から晩秋にかけて、ラジオからこの曲が流れない日は無かったように思います。
ところが、この年の全米ヒット.チャートを調べてみても、ベスト20にも入ってないんです。"んなアホなi" そんなの私は認める訳にゃいきませんi 確か連続10週一位の記録を作った特大ヒットだったのですから...
"エリック.クラプトン/ワンダフル.トゥナイト"、"イーグルス/ホテル.カリフォルニア(私は同時にヒットした"ニュー.キッド.イン.タウン"の方が好きです)"など、この年は洋楽の当たり年という記憶があり、ポップス史に残るような名曲が数多く生まれ、その時期にも"リンダ.ロンシュタット/ブルー.バイユー(これはカントリー.フレーヴァーとラテン.スパイスを隠し味にしたロイ.オービソンの名カヴァー)"、"ビージーズ/愛はきらめきの中に"などがチャート上位にありましたが、ついにその牙城を明け渡すことは無かったのです。
ただ残念なのは、その邦題「恋するデビー」で、おそらくそれを作った人はそんなにヒットするとは思っていなかったのでしょう。これが無ければもっとわが国で聴かれ、語り続けられていたかもしれません。
歌手デビー.ブーンは60年代初頭人気を博した、やはりポップス歌手だったパット.ブーンの実娘とは言え、ほとんど無名だったのです。
作者のジョー.ブルックスという人はほとんど知らないですが、職業ソング.ライターだったようです。し、しかし...
彼の晩年、末路については知らなかった方が良かったかもしれない...
ただ、この曲の素晴らしさは私にはずっと変わりません。(歌うのはサビはともかく、高いキーでスローに引っ張らねばならず結構難しいですが...)
元々はラブソングとして作られたそうですが、D.ブーンはあるところで、「"あなた"というのは、神のことじゃないかしら...」とコメントし、一部からそのズレた観方を指摘されたことがあったそうです。
まあ、親父さんがコチコチのクリスチャンだったことはあるにせよ...詩というものは、作られたもの以上に人それぞれの感性で膨らんでしまうもの...
It cant be wrong,when it feel so right...本当にそう感じたのなら、それで間違いではないでしょう。
Cause you light up my life...(それがなんであれ)人生を光輝かしてくれるのだから...





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化してゆく...

2018-10-22 12:04:08 | 詩的文章
いつまで続くのだろう...
忘れようとしても、吹っ切ろうとしても
思いはますます募るばかり...
一体、どれだけ心の蔵に思いが蓄えられているんだろう...
勝手に物語が紡ぎ出されてくる...
脚本、監督、主演...即製i これは泣けるi
ああ...又...忘れられない...
忘れようとしてかえっておかしな連鎖に絡まれる
執着...トラワレ...
そんなに無くさなきゃなりませんか?
手離さなきゃいけませんか?
在るものはそうは消えたりやしない
出てくるものはそうは止められやしない...

ああ...乾いた秋風が心に染みてくる...

在るものはどこにも消えてゆかない
出てくるものは止まらない...
でも...こびりついてはいない
この手から固く握りしめられてはいない
思いはそのままで...
化してゆく...化されてゆく...
そうしなきゃならないんじゃなく...
緑の葉っぱが黄色づき、やがて赤色づいてゆくように...
憂鬱な雨雲が、夕日を浴びて哀愁を呼ぶ紅に染まってゆくように...
変えようとするんじゃない
そのままで感じ、受けるものが変わったものになってゆく...
駆り立てられず、重くのし掛かからず...
心地よい風に包まれて...

ただ愛おしい...


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