「見ずして信ずるものは幸いなり」と聖書にあります。
"神というものが見えるように現れたのなら信じます"という声も私は聞いたことがあります。
しかし、そういう人はたとえ神が見えたとしても、本当には信じることはないでしょう。
それは目に見えるモノを信じるということであって、神は物質的なモノとしか認識していないということだからです。
私は、どのように言い表していいか分からないのですが、時に神のように感じているものを信じています。
それは目に見えないものなので、モノではありません。
所謂心霊学などでは、何次元に居る霊だとか、前世の誰それの霊だとか、さも見たように見えない存在のことが語られますが、これは特殊な人でない限り、見えないものであっても、見えるモノとして思い描くこと(想像すること)でしか認識出来ないのは同じなのです。
私は数人の霊能的な人から「あなたは守られていますね」、「あなたという人は全然大したことないですが(そっか...)、あなたは大変な導きを受けていますね」と言われたことがありますが、自分でもそう思います。そう感じているから...
これがしかし、そう言われたことは無いですが、"それは何々という守護霊で、前世はこれこれで..."何てことを吹き込まれたら、多分今までの"信仰"はぐらつき始めるかも知れません。
まあ、そういうモノとしてしか認識出来ないものは、"消えてゆく姿"なんでしょうけどね。(こういうことが分からない、"囚われ人"もその界隈には随分と居るようです) 現臨が臨んだら、実際にどうでもよくなります。
現臨、聖霊、見えざる導師...どういう表現で言い表しても、それは何かは分からないのです。
もしかしたら幻想かもしれないし、エンドルフィンの作用かもしれないのです。
しかし、何であろうと私は信じざるを得ませんi
"あのね、そういう得たいの知れないものを信じる前にそのものの素性を調べる必要は無いか?" 何て言う人は、ある一瞬に思いを超えたものに捉えられたことが無いのでしょう。
ずっと思いの中でサニワの真似事でもして、いつのことになるのか、高次の神霊がかかるまで修行に勤しんでいたらいいでしょう。
もっとも生来私は疑い深く慎重な方なので、そういう自省というのもあるのですが(サニワということにも関連しますが、それは"照明"に照らされるということで、結局現臨の内にあることになってしまうのです)...しかし、たとえ幻想だろうと何だろうと、愛、平安、確信といったものは、そのものを通じてしか出くわしたことなど絶えて無かったのだから仕方ありません。
もはや、信じざるを得ないi もっと言えば、こちらが信じるより先に、そう信じさせるものがここにあるということなのです。
こちらが赴くより先に、ここに来ている...(小池先生ワールド全開という感じになってきた...)
同じ"信じる"ということでも、目に見えて証明出来るものを信じることや、誰かの教えなどに盲目的に信じ従うこととは天地ほどの違いがあると言っていいでしょう。
それは自己の内なるもの、実存が開かれるか、どうかということです。
信じざるを得ない事態というのは、信じるものと信じられるものとの共感、共鳴に基づいているということです。
自己の内なるものと外なるものとの結び付きであり、教えるものと従うものとの、支配したり、されたりの二元的な関係性はありません。
理屈を超えた同調関係、それが調和ということなのでしょう。
もう、何だっていいi 要するにそれは、あーだ、こーだ考え、思い描いた世界じゃないのですi
私は何度も言いたいi 神的なものとは思いを超えたものだということをi
"神というものが見えるように現れたのなら信じます"という声も私は聞いたことがあります。
しかし、そういう人はたとえ神が見えたとしても、本当には信じることはないでしょう。
それは目に見えるモノを信じるということであって、神は物質的なモノとしか認識していないということだからです。
私は、どのように言い表していいか分からないのですが、時に神のように感じているものを信じています。
それは目に見えないものなので、モノではありません。
所謂心霊学などでは、何次元に居る霊だとか、前世の誰それの霊だとか、さも見たように見えない存在のことが語られますが、これは特殊な人でない限り、見えないものであっても、見えるモノとして思い描くこと(想像すること)でしか認識出来ないのは同じなのです。
私は数人の霊能的な人から「あなたは守られていますね」、「あなたという人は全然大したことないですが(そっか...)、あなたは大変な導きを受けていますね」と言われたことがありますが、自分でもそう思います。そう感じているから...
これがしかし、そう言われたことは無いですが、"それは何々という守護霊で、前世はこれこれで..."何てことを吹き込まれたら、多分今までの"信仰"はぐらつき始めるかも知れません。
まあ、そういうモノとしてしか認識出来ないものは、"消えてゆく姿"なんでしょうけどね。(こういうことが分からない、"囚われ人"もその界隈には随分と居るようです) 現臨が臨んだら、実際にどうでもよくなります。
現臨、聖霊、見えざる導師...どういう表現で言い表しても、それは何かは分からないのです。
もしかしたら幻想かもしれないし、エンドルフィンの作用かもしれないのです。
しかし、何であろうと私は信じざるを得ませんi
"あのね、そういう得たいの知れないものを信じる前にそのものの素性を調べる必要は無いか?" 何て言う人は、ある一瞬に思いを超えたものに捉えられたことが無いのでしょう。
ずっと思いの中でサニワの真似事でもして、いつのことになるのか、高次の神霊がかかるまで修行に勤しんでいたらいいでしょう。
もっとも生来私は疑い深く慎重な方なので、そういう自省というのもあるのですが(サニワということにも関連しますが、それは"照明"に照らされるということで、結局現臨の内にあることになってしまうのです)...しかし、たとえ幻想だろうと何だろうと、愛、平安、確信といったものは、そのものを通じてしか出くわしたことなど絶えて無かったのだから仕方ありません。
もはや、信じざるを得ないi もっと言えば、こちらが信じるより先に、そう信じさせるものがここにあるということなのです。
こちらが赴くより先に、ここに来ている...(小池先生ワールド全開という感じになってきた...)
同じ"信じる"ということでも、目に見えて証明出来るものを信じることや、誰かの教えなどに盲目的に信じ従うこととは天地ほどの違いがあると言っていいでしょう。
それは自己の内なるもの、実存が開かれるか、どうかということです。
信じざるを得ない事態というのは、信じるものと信じられるものとの共感、共鳴に基づいているということです。
自己の内なるものと外なるものとの結び付きであり、教えるものと従うものとの、支配したり、されたりの二元的な関係性はありません。
理屈を超えた同調関係、それが調和ということなのでしょう。
もう、何だっていいi 要するにそれは、あーだ、こーだ考え、思い描いた世界じゃないのですi
私は何度も言いたいi 神的なものとは思いを超えたものだということをi