人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

最強のコトバ

2021-11-29 03:30:32 | 独語
今年も厳しい冬が来た...
君、寂しくしてないかい?
君の虚ろな瞳は、何か"助けてi"、と言っていたような気がする...
僕は何もしてあげられないけど、祈っているよ...
僕は、ただ"おなさけ"を言っているだけなんだろうか?
そうかもしれない...でも、何でもいいじゃないかi
"助かってほしいi"がどっかで発信したのだろう...
そして、僕が助かる...
ツラかったら、"助けてi"を発信したらいいんだi
助けてくれる人が居なかったとしても...見えない助けってきっとあるよi

そっちの君、何かつっぱってるねえ、何かと戦ってるようだねえ...
何に勝とうとしているのか、負かそうとしてるのか知らないけど...
コトバってものは、そんなにタテになるものなのか?
君もホントは寂しいんじゃないのか?
だけど、そんなにトンガってたら、誰も近づかない、構っちゃくれないだろう...
君は決して"助けてi"を発信したりはしないだろう...
強いんだからな?

だけど、僕は昨日、あるブログを読んでて最強のコトバを見つけたi
"優しさは最強"
そう、愛は最強i
僕は負けたよi
こんなにコトバの力というものを感じたことなどあっただろうか?
ちっとも強くないことが一番強いi
すべて、そこで論破されてしまうではないかi
誰が誰にじゃないi
すべて、そこに落ちてしまうこと...
弱そうな人も、強がってる人も...
平安に包まれてしまう...
ちっとも強くなくたって、それは絶対的にいいことだi
優しさは最強
愛は最強...


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批評、批判、中傷

2021-11-27 10:28:29 | 雑感
最近、近代日本の代表的批評家、小林秀雄さんの「考えるヒント」(文春文庫)を読んでいたら、ビックリするような文章が目に留まりました。
「自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事にはっきりと気づく。...人をけなすのは批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。...」
批評とか評論ってそういうものだったのかi...いや、小林秀雄さんってそういう人だったのかi、と言った方がいいのかもしれません。(あまり熱心な読者でなく、よく知らなかったのです)
私には、"批評には批判というものが付き物だ"、という強い固定観念がありましたから...今の批評の在り方に接しても、その感を強くするのは否めないものがあります。
勿論批評は、その対象となる言説に異を説え、否定的な見解を取る批判とは違い、それのみで成り立つものではありません。
賛辞とまでは行かないまでも、共感の辞を表すこともあるでしょう。又批判は即悪口になるというものでもありません。
ちゃんと、相手に対し一定の(良い)評価をもった上での、節度のある批判は必ずしもそういうことには価しないでしょう。
私もここで書評みたいなものを書いたりしてまして、時にはエラそうに批判めいたこともしますが、そもそもそこに、全く共感するものを感じなければ、取り上げようという気も起きません。
批判のための批判はしないつもりで、そういうことは別のところでします。そこでは悪口も言ったりするかもしれませんが(やらないに越したことはないi)、私が直接知っている訳でもない、何かされた訳でもない、見ず知らずの人にそれを向けようという気には(あまり)なりません。
ただの悪口は中傷というものでしょう。批評、批判、中傷...。案外この区別は曖昧になっているように感じてなりません。(特に後の二つのそれがi)
今では、小林秀雄さんが孔子様みたいに思えますが、聖人君子でない、私にもそういう部分があるからそのように感じてしまうのでしょう。
もう、とにかく他に向けて批判するのは勿論のこと、批評するというだけで、最初から論破し、相手を貶める精神的態度を見せるようなことが、言葉のやり取りする場で溢れかえっていることからそんな思いを抱かせるのでしょう。
異論、批判はあってもいいけど、ただの中傷は、相手も自分も泥を被るだけです。頭でっかちになるだけの知識教育の偏重、それに伴う感情の歪みを見せつけられるばかりです。
偏った知性ほど知性から逸脱したものはないのではないか?...豊かな感情が伴ってこそ、知性の向上というものがあるのでしょう。

最近、ここのコメント欄に、"negative capability"、とだけ、それだけだと何のコメントだか、さっぱり分からない言葉が投げ込まれておりました。どう返していいか分かりませんが、どうもネガティブな記事に対する、ネガティブなコメントではなさそうです。
"ネガティブ.ケイパビリティ"...それは、私が一年半ぐらい前に初めて知った言葉で、何でも英詩人ジョン.キーツの言葉に由来するそうで、"不確定なものを受容する能力"、といった意味があるそうです。
私にそんな能力があるのかどうか知りませんが、私の内部には"不確定なものは決めつけられない、それは否定したりしないで受け入れなければならない"といつも促されているものがあります。これは能力じゃなくて、(そう書いてある)"キャパ"のことでしょう。私が"出来る"以前に、備えられているのですから...
これにより、私のこれ又生来からの他者の言動に対し、ムキになろうとする性向が抑えられているのです。
それは、きっと相手を受け入れる、ということにもつながるのでしょう。
自重して行きたいものです。


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終わりは見えない

2021-11-25 12:16:23 | 雑感
"信号が変わったi...向こうから大きな塊が向かってくるi...あれは一体どこに向かおうとしているのだろう..."

一昨日の休日、池袋に行ったのですが、駅前には沢山の人波で溢れかえっておりました。
"久しぶりにこういうのに接したなあ...いつ以来だろ?"...そして、どうしても過らされるのは、"大丈夫なんか?"という思い...
コロナ自粛前の人々の日常意識に戻ったのでしょうか? 終息の安堵感が漂っているんでしょうか?
確かに、ここ数ヶ月前から感染者数は激減しています。晩秋ともなり、寒風も吹くようになって、いよいよその波の新たな到来も予想されるというのに...
だけど、隣の韓国では、1日数千単位で感染者は急増していると言うではないかi
コロナの終息は、一国だけで測ることなど不可能、ナンセンスでしょう。
少なくとも、私にはまだ..."終わりは見えないi"
昨日朝、ある飲食店で、老人がマスクもせずに派手に"ごほ、ごほ"やってたゾi

全くこのコロナってヤツは、私には何から何まで分からないことだらけ、予想がつきません。
二年前の今頃、私が突如人伝に聞く、コロナの症状とよく似た肺炎みたいな病に患かってしまったのも今となっては謎ですi
"これはただの風邪じゃないのか?...何故、熱が下がらないんだi、何故セキが出そうで、出ないんだi、詰まるということがこんなにも苦しいものだとはi...一体、いつまで続くのか、終わりが見えないi..."
私がコロナの名前を初めて聞いたのは、それから約二ヶ月後のことでした。
自分で言うのもおかしいですが、そうして病床でうめいていた私のことを思うと、今でも涙が出そうになります。"全く、お前ってヤツはi"
ただ、うめくように祈っているしかない私。
喉、胸辺りの詰まりが解かれんことを...いや、それは思いを超えた、"形なき命"の流れが、あのパッと何かが開かれる感じが途絶えてしまったことが、回復されることに重ねられていたのです。
"あれが、あれが通って下さらなければ...通らせて下さい、このトンネルが早く抜けますように..."
その祈りは、私個人を超えたもののように感じられました。
というのは、そこに横たわっているものは、私個人を超えた、ある何かが絡まったような、自他の区別のつかない、一つの塊のように感じられたからに他なりません。
それは人類とか世界とかいったものなんかじゃありません。そんな抽象的に思い描かれるようなことには意識が回らない状態だったのですから...
"何が病んでいるのか、何が苦しんでいるのか? とにかくここに命が通って欲しい、光が差し込んで欲しい..."
そう、性懲りもなく祈り続けるしかありませんでした。いや、祈り続けられねばならないi
たとえコロナが終息しても、しなくても...
世界人類とか遠大なことは分かりません。しかしこの"塊"は、一つの問題が解決したとしてもどうにもならないのではないか?
くんずほぐれつ絡まる業の塊...
そこに形なき命が通い、光が差し込むことに終わることは無いのでしょう...。


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いつも、そこに愛が在ったi

2021-11-23 10:04:45 | 
今度、新たに「愛」というカテゴリーを設けてみました。
思えば、随分書いてきたものですが、私のように愛に見放されたような(?)人間がそんなことになってしまうなど、ブログをする前には想像もしていませんでした。
私は複雑な家庭環境にあった、幼少の頃から普通思われているような愛というものとはあまり縁が無かったのかもしれません。
いや、だからというべきか...普通思われていないような(?)愛に与り、書き表すことが出来るのかもしれません。
これは、本当に、ホント~に私の人生で大きな意味を持っていた、と言えるのです。多分、ブログをしていなければ分からなかったでしょう。
これは又、私の精神的な歩みにおいても重要な意味を持っていたのです。
私がずっとこの私の中に息づいている、愛そのものを具体的に感じ始めた、4年ぐらい前の頃は、それまでどうしても払拭出来なかった、"究極の悟り"みたいなものを追い求め、それに駆り立てるような思いから自然に離れて行った時期と付節が合っているのです。
そういうものを追い求めているのは、主我的な思い、エゴからではないのか?
頭では分かっている...いや、だからこそ、そういう思いから離れられないのですi
分かっているともi...だってそういう思いに囚われていて、心の底から愛、平安というものを感じられないではないか?
私は本当には、思いを超えたものに与ることが無かったのですi
そこへ、一つの節目が訪れたのは、そもそもの精神的目覚めの原点に戻らされたことです。
"現臨"、といったことを盛んに言い表し始めた頃です。すべてはこの思いを超えたものから始まっている...そしてそのものにある時、愛、平安があるi...目覚めの原態とは、神的な愛に捉えられるということの他に何があるのかi...それ抜きに何も起こりようが無い、どこにも落ち着かないではないかi...そう、落ちないのですi
愛に落ちなければ...主我的な思いから離れることは出来ないi
愛に落ちるってどういうことなのか?...って、頭の堂々巡りは、具体的にそういうものを感じたら、いつの間にか止みました。(つまり、そういうことですi)
そして"究極の悟り"だとか、有るのか無いのか、分からないもののことなどどうでもよくなりました。
意識は現実に"惹かれてやまないもの"に赴く...
そうして、私はどうしても払拭出来なかった、主我的な思いを克服したのですi...って、違いますよi
私が何した、出来た、ハッた、というのがガンなのですi
私がどうこう、ということなどどっちでもよくなること、自ずと思いがそっちに向かってしまう、落ちてしまうということが...つまりそこに"愛が在る"、ということなのです。
然るに、私の人生で、自分で考えや行いを改めた、克服したなんてことがあっただろうか?
すべて、思っているもの以上のもの、惹かれ、愛してやまないものに会わされたからではなかったか?
そうですi...いつも、そこに愛が在ったのです。
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形ある、形なき最愛のもの

2021-11-21 10:03:39 | 
こないだ、チャリンコを飛ばしていたら、道端で子猫が鳴いているのを見つけました。
気にはなったのですが、"可哀想だけど、私には何もしてあげられないし、関わると色々面倒なことになるし..."、と通り過ぎたのですが...
2、30mぐらい離れてから、"あー、ダメだi、放っとけないi"、と戻ることに...しかし、猫もすばしっこい、居なくなっていました。
こういう行動の様は、私の性格の一端を端的に表していると言えるでしょう。
ドライなようで、情にもろい。分かりにくくて、分かりやすい性格でしょ(笑)
それにしても、私の人生で何回、こうした気持ちの、時間のズレによる、スレ違いというものを経験してきたことかi
最初は迷い、考えていて、振り返った時は一目散、迷いが無い...そして、相手も無いi
しかし...この胸に息づく本来的な愛は失われていないi
それは抽象的に、"愛とはなんぞや?"などと思い描かれるようなものではありません。具体的に感じられるものなのです。
といっても、勿論それはモノじゃありません。形が無いものなので、"これですi"、と示せるものじゃない、感じてもらうしかありません。
では、何なのだろう?...この世にはおそらく言い表す言葉が無いものなのでしょう...愛そのものとしか言いようがありません。
それは、私には数年前までは分からなかったのです。いやどっかで分かっていたのですが、こんなにも具体的に感じられようとはi...
それは、"最愛なるもの"に意識が向けられることから始まったのです。
最愛なるもの...普通はそういう人であったり、ペットであったり、形をもったもの、その対象として捉えているものでしょう。
私の場合も、一寸スレ違いになった、その時の最愛の人への思いから端を発していました。失ってから気付かされたのです。
いつしか形ある、対象として思われていたものが、形なき、対象なきものに溶け込んだようになったのです。
そして、それは元々私自身と分かち難く息づいていたものに他ならないことに気付かされたのです。それが本来的な愛というものです。
形ある最愛のものは、いつしか失われてしまうものだし、第一、こちらの気持ちが、いつまでそのように思われているか、分からないものでしょう。
愛であったはずのものが執着になったり、憎しみに変わってしまうかもしれないのです。こう考えれば、"愛とは幻想"...多分、それも真理でしょう。
しかし、この内なる本来的な愛は変わらないのです。
だから、今現在、最愛のものと関わっている人も、それを失って悲しみを持ち続けている人も、"形あるものが形なきものにつながる、つながっている"、そのように感じてみれば、その見える対象も違ったものに感じられて来るかも分かりません。
そしてこれは、自分自身のことについても同じであるはずです。
こういうことは、多くの人には、意識する、しないに関わらず、多少なりともそれとなーく経験されていることと思うのですが...だから、一寸意識してみれば...
なーんて、何気なーく私も書いているのですが、これは、人生は勿論のこと、世界も歴史も一変するような、途方もないことに触れるものという気がするのは...私だけであろうか?
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