人は一人一人違うし、その人の歩む道もそれぞれです。
それぞれの機根とか縁というものは決して疎かに出来ないものです。
道を歩むにあたっては、まず自分自身の持って生まれた性質、性向といったものを知ることが大切ですね。機根、縁というと、それだけで雲を掴むような話みたいですけど、実にシンプルに考えたらいいでしょう。
その道に赴くことが、理屈抜きに惹かれてやまないものが有る、単純に好きである、といった感じでいいと思います。
霊能者なんかに頼って”あなたの前世は…とかカルマは…”なんてこと聞かされたら、よけい迷路に入りそうです。大体、そうした託宣に接した時なんか”そうそう、私もそう思っていました…”と感じたりするものです(笑)…だったら、最初から自分を信じたらいいって事ですよね。
この理屈抜きという事…如何に多くの人が理屈にハマって迷いの淵をさまよい続けていることでしょう。
宗教、スピ界にはびこる煌びやかな言葉の数々…”こうすればあなたは必ず悟れる…”、”究極の真理はこれっきゃない…”、そう言う教師は”神人合一、究極の悟達者…”
こうした文句に、よく考慮せずに短絡的に飛びついてしまう人というのも居ますが、単なる表された言葉だけに反応して、観念的に分かったつもりになってしまうのです。頭の中で神と一つになろうと、苦境から救われようと、”この人はスゴイ!”と思おうと自由ですが、観念的な世界はどこまでも観念であり、現実は思い描いた通りではありません。
書物に関してですが、私の愛読書の一つ「日月神示」というのは、実に予言と結び付けられた真釈、正釈という関連本が後を絶たないですが、予言というのはあくまでも、伝えられるべき事項内容の一つで、どう読み、どう理解すべきかは各人の自由です。
仮にその予言というものがことごとく眉唾ものだったらどうでしょう。”日月神示は信用するに足らず”ということになるでしょうか?
これは、その人には縁が無いということなんでしょうけど、私はこの種のつぶやきというのを何度か耳にしました。
こういう人というのは自分のこうであるべき理屈を押したて、その枠内で(この例では)予言などの話ばかり追いかけていて、何時まで経っても自分の機根も分からず、自分の道が何なのかも分からずじまいです。要するに思念に捉われているのです。そして自分を信頼してません。
日月神示に限らず聖書でもどんな聖典でも、理屈をサラリと捨てて、生まれ赤子のような心根を持つことを強調しているにも拘らず…。
私にとり、その書物に何が書かれているか、知識を覚えたりするのは全く二の次、三の次です。
第一義は、理屈を超えたものに触れる、という事に有ります。こういうのは、昂揚感と共に引き付けられるものが自然と芽生えたのです。
”如何に高遠な教えであっても、頭では”高い次元”といった自尊心をくすぐることがチラついてはいても、どうしても身が頷かない、フに落ちない、気分が向かない…何の訳にも立ちそうにないが、どうしてもその道に惹かれてしまう…”
身が頷かないことを何時までしていてもツカレるだけです。
又、何故、惹かれてやまないものが有るのか、と言ったら、そこに愛がハタラいているからです。
愛とは二つのものを引き合わせ、結びつける力です。
それは一方通行のものでなく、向こうからもラブコールのようなものがある、ということでしょう。
だからこそ、引き付けてやまないものが有るのです。
理屈や実利的な事に捉われている人は肝心なことに気が付きません。
理屈抜きに惹かれてやまないことにある時、幸福、安らぎに有る、という事が…
こういう事は改めて言うまでも無く、好きなことしている人には理屈抜きに分るものでしょう。
先の例でも、短絡的な性向の人というのも、それなりの縁でそうしているまでなのでしょうけど、理屈や観念的なものでホントに満足できるものなのか…ホントにそれが自分にとって最善のものなのか、どうか自らの内なる共鳴盤に照らしてみる必要があります。
言い換えると自分の理屈、道理…諸々の思いを離して、思いを超えたものに委ねる、ということです。
それこそが、自分の惹かれてやまないものの、よって来る源なのです。
そして、それは既に観念、思考を超えたものに触れている、という事でもあります。
こうしたものに根差した生き方こそ、自分の魂にウソをつかない、誤魔化さない生き方と言えるでしょう。
それぞれの機根とか縁というものは決して疎かに出来ないものです。
道を歩むにあたっては、まず自分自身の持って生まれた性質、性向といったものを知ることが大切ですね。機根、縁というと、それだけで雲を掴むような話みたいですけど、実にシンプルに考えたらいいでしょう。
その道に赴くことが、理屈抜きに惹かれてやまないものが有る、単純に好きである、といった感じでいいと思います。
霊能者なんかに頼って”あなたの前世は…とかカルマは…”なんてこと聞かされたら、よけい迷路に入りそうです。大体、そうした託宣に接した時なんか”そうそう、私もそう思っていました…”と感じたりするものです(笑)…だったら、最初から自分を信じたらいいって事ですよね。
この理屈抜きという事…如何に多くの人が理屈にハマって迷いの淵をさまよい続けていることでしょう。
宗教、スピ界にはびこる煌びやかな言葉の数々…”こうすればあなたは必ず悟れる…”、”究極の真理はこれっきゃない…”、そう言う教師は”神人合一、究極の悟達者…”
こうした文句に、よく考慮せずに短絡的に飛びついてしまう人というのも居ますが、単なる表された言葉だけに反応して、観念的に分かったつもりになってしまうのです。頭の中で神と一つになろうと、苦境から救われようと、”この人はスゴイ!”と思おうと自由ですが、観念的な世界はどこまでも観念であり、現実は思い描いた通りではありません。
書物に関してですが、私の愛読書の一つ「日月神示」というのは、実に予言と結び付けられた真釈、正釈という関連本が後を絶たないですが、予言というのはあくまでも、伝えられるべき事項内容の一つで、どう読み、どう理解すべきかは各人の自由です。
仮にその予言というものがことごとく眉唾ものだったらどうでしょう。”日月神示は信用するに足らず”ということになるでしょうか?
これは、その人には縁が無いということなんでしょうけど、私はこの種のつぶやきというのを何度か耳にしました。
こういう人というのは自分のこうであるべき理屈を押したて、その枠内で(この例では)予言などの話ばかり追いかけていて、何時まで経っても自分の機根も分からず、自分の道が何なのかも分からずじまいです。要するに思念に捉われているのです。そして自分を信頼してません。
日月神示に限らず聖書でもどんな聖典でも、理屈をサラリと捨てて、生まれ赤子のような心根を持つことを強調しているにも拘らず…。
私にとり、その書物に何が書かれているか、知識を覚えたりするのは全く二の次、三の次です。
第一義は、理屈を超えたものに触れる、という事に有ります。こういうのは、昂揚感と共に引き付けられるものが自然と芽生えたのです。
”如何に高遠な教えであっても、頭では”高い次元”といった自尊心をくすぐることがチラついてはいても、どうしても身が頷かない、フに落ちない、気分が向かない…何の訳にも立ちそうにないが、どうしてもその道に惹かれてしまう…”
身が頷かないことを何時までしていてもツカレるだけです。
又、何故、惹かれてやまないものが有るのか、と言ったら、そこに愛がハタラいているからです。
愛とは二つのものを引き合わせ、結びつける力です。
それは一方通行のものでなく、向こうからもラブコールのようなものがある、ということでしょう。
だからこそ、引き付けてやまないものが有るのです。
理屈や実利的な事に捉われている人は肝心なことに気が付きません。
理屈抜きに惹かれてやまないことにある時、幸福、安らぎに有る、という事が…
こういう事は改めて言うまでも無く、好きなことしている人には理屈抜きに分るものでしょう。
先の例でも、短絡的な性向の人というのも、それなりの縁でそうしているまでなのでしょうけど、理屈や観念的なものでホントに満足できるものなのか…ホントにそれが自分にとって最善のものなのか、どうか自らの内なる共鳴盤に照らしてみる必要があります。
言い換えると自分の理屈、道理…諸々の思いを離して、思いを超えたものに委ねる、ということです。
それこそが、自分の惹かれてやまないものの、よって来る源なのです。
そして、それは既に観念、思考を超えたものに触れている、という事でもあります。
こうしたものに根差した生き方こそ、自分の魂にウソをつかない、誤魔化さない生き方と言えるでしょう。