スピ系ブログでは、相変わらず実に好き勝手な言説、主張などが飛び交っていますねえ…
(いや、全く自分のことを振り返れば寒心の至りなのですが…)
例えば”真理はここにしかない!”、”これに勝る教えは無い!”…などと選挙運動のアジみたいにフレ回っていますが、それらの言説はあの第三者の公平な目に照らしても罷り通るものなのでしょうか?
臆面も無くこういう事言う人は、それが万人に通用するものだと信じ切って、そう言っているんでしょうけど…それがホントに通用するかどうかなど一度も試されたことは無いのです。
勿論、そんな公正倫理委員会みたいなものも存在したことは無いので、審議に引っかかることもある訳無いのですが…
私は基本的に言いたいこと、書きたいことを無責任に自由に表現しているので、実は読み手のことなどはあまり気にしてなどいないのです。
仮にそんなおエラ方の委員会なんかがあったところで、彼らの目が公正だという保証などどこにもなく、精々”エライ人のもっともらしいジャッジ…権威が絶対的にモノ言う民主主義万歳!”とギマンだらけの審議になるのがオチでしょう。
ただ、あれが気になる…全てを遍く見通す公の目…これは言い換えれば普遍者の目と言いましょうか…
気になる、というより何か無言の促しを受けているようなのです。
もっとも感じているのは、他に発信するときには、極力独りよがりな表現はしない、というものです。
(”いや、もう充分独りよがりじゃないの?”と感じている方もおられるでしょうが、そこはただ私の表現力の無さ、屈折した性格の表れによる次第なのです)
一方では全く裏腹に”独りよがりで結構!…大いにやり給え!”という促し(これは多く私個人に関する部分)もあって、要するに好い加減なだけなのでしょう…
とにかく”何を言っているのかチンプンカンプン”と思われても、私自身の気持ちには、決めつけた、一面的に偏ったものの言い方(これが独善ということにつながります)はなるべく避けたい、というものが強くあるのです。
特定の宗教、思想でしか通用しない言葉、教理、修行法…”コレコレを信じれば救われます…こうすれば必ず悟れます”といった言葉はこのブログからは出てきません!…あしからず…
(”見えざる導師”とか、みょーちきりんな言葉も多々出て来ますが、それは慣用語が不勉強ながら見つからないためか、他に特定のイメージを持たせないという、配慮?もしくは意地悪?な気持ちの表れなのです)
何故って普遍的な世界にはそういうものは何も無いから…要するに促しとは”そこで感じたように語れ!”というものなのです。
又、読み手に先入観を与えてしまう表現…”霊界はこうなっていて、こういう住人が居て”といった自分で観て確かめなきゃ分からないような言い回しとかもなるべくしません。…彼の領域では他からの借り物、人づてに聞いた事というのは一切通じないのです!あなたが見て感じたままが全てなのです!
いや、それは何もあっちの世界のことばかりじゃない…
あの息吹の一端として感じられる時空間が、時にこっちにも開示されることも希にあるのです。
その時、あの促しをヒシヒシと感じ出し、何か私や周りの全てが光に照らされ、射抜れている感じを身に覚え、何かその場の雰囲気が全く変わったようになります。
こういう状況では、独善的で偏った、押しつけがましい言説というものが、実に場違いなものに映ります。実際に経験したことですが、そういう言説を発することが、何かものすごーくエゴの表れのように感じ、最初は臆面も無く自説を述べていた人など、しまいにバツの悪さを感じて黙ってしまうか、急用ができたとか言って、どっかへ行ってしまったりします(笑)
とは言っても誰かがそうした者を規制する訳でも無く、自ずからそうしたムードの中で起きるということなのです。
しかしながら私がこうして述べていること自体、もしかしてそれも私の独りよがりから来ているのかもしれません。
私には動かしがたい現実としか言いようの無い普遍世界というものも、何分にも私の主観とみなされても仕方のないものだった訳だし…
前述の場についても”たまたま、そういう事があった”というだけなのかも知れません。
だからこそ…試されないとならないのです!…この世のそうだとされているだけの公の目でない、普遍に根ざした公の目に照らされないとならないのです。
独りよがりの人というものは、他の人はどう感じているのかなど関係無しに自分の信仰を自分の世界だけで信じ続け、駆り立てられるように他に向けて宣布し続けているのです。
それに同調する者は同類しか居ません。彼らが唱える調和世界の建設というものは、自分たち以外の世界とは常に対立していて、まるっきり真の普遍性からはかけ離れているのです。
チッポケな我見に基づく真理、正義はいよいよ世界を収拾のつかない混乱に陥れるばかりです。誰の目というものでない、あのすべてを見通す目に照らされることでピリオドが打たれるでしょう。(まるで最後の審判のようですが…)
それはこの世の終わりを意味するのでしょうか…長い長い白昼夢から覚める事なのでしょうか…。
(いや、全く自分のことを振り返れば寒心の至りなのですが…)
例えば”真理はここにしかない!”、”これに勝る教えは無い!”…などと選挙運動のアジみたいにフレ回っていますが、それらの言説はあの第三者の公平な目に照らしても罷り通るものなのでしょうか?
臆面も無くこういう事言う人は、それが万人に通用するものだと信じ切って、そう言っているんでしょうけど…それがホントに通用するかどうかなど一度も試されたことは無いのです。
勿論、そんな公正倫理委員会みたいなものも存在したことは無いので、審議に引っかかることもある訳無いのですが…
私は基本的に言いたいこと、書きたいことを無責任に自由に表現しているので、実は読み手のことなどはあまり気にしてなどいないのです。
仮にそんなおエラ方の委員会なんかがあったところで、彼らの目が公正だという保証などどこにもなく、精々”エライ人のもっともらしいジャッジ…権威が絶対的にモノ言う民主主義万歳!”とギマンだらけの審議になるのがオチでしょう。
ただ、あれが気になる…全てを遍く見通す公の目…これは言い換えれば普遍者の目と言いましょうか…
気になる、というより何か無言の促しを受けているようなのです。
もっとも感じているのは、他に発信するときには、極力独りよがりな表現はしない、というものです。
(”いや、もう充分独りよがりじゃないの?”と感じている方もおられるでしょうが、そこはただ私の表現力の無さ、屈折した性格の表れによる次第なのです)
一方では全く裏腹に”独りよがりで結構!…大いにやり給え!”という促し(これは多く私個人に関する部分)もあって、要するに好い加減なだけなのでしょう…
とにかく”何を言っているのかチンプンカンプン”と思われても、私自身の気持ちには、決めつけた、一面的に偏ったものの言い方(これが独善ということにつながります)はなるべく避けたい、というものが強くあるのです。
特定の宗教、思想でしか通用しない言葉、教理、修行法…”コレコレを信じれば救われます…こうすれば必ず悟れます”といった言葉はこのブログからは出てきません!…あしからず…
(”見えざる導師”とか、みょーちきりんな言葉も多々出て来ますが、それは慣用語が不勉強ながら見つからないためか、他に特定のイメージを持たせないという、配慮?もしくは意地悪?な気持ちの表れなのです)
何故って普遍的な世界にはそういうものは何も無いから…要するに促しとは”そこで感じたように語れ!”というものなのです。
又、読み手に先入観を与えてしまう表現…”霊界はこうなっていて、こういう住人が居て”といった自分で観て確かめなきゃ分からないような言い回しとかもなるべくしません。…彼の領域では他からの借り物、人づてに聞いた事というのは一切通じないのです!あなたが見て感じたままが全てなのです!
いや、それは何もあっちの世界のことばかりじゃない…
あの息吹の一端として感じられる時空間が、時にこっちにも開示されることも希にあるのです。
その時、あの促しをヒシヒシと感じ出し、何か私や周りの全てが光に照らされ、射抜れている感じを身に覚え、何かその場の雰囲気が全く変わったようになります。
こういう状況では、独善的で偏った、押しつけがましい言説というものが、実に場違いなものに映ります。実際に経験したことですが、そういう言説を発することが、何かものすごーくエゴの表れのように感じ、最初は臆面も無く自説を述べていた人など、しまいにバツの悪さを感じて黙ってしまうか、急用ができたとか言って、どっかへ行ってしまったりします(笑)
とは言っても誰かがそうした者を規制する訳でも無く、自ずからそうしたムードの中で起きるということなのです。
しかしながら私がこうして述べていること自体、もしかしてそれも私の独りよがりから来ているのかもしれません。
私には動かしがたい現実としか言いようの無い普遍世界というものも、何分にも私の主観とみなされても仕方のないものだった訳だし…
前述の場についても”たまたま、そういう事があった”というだけなのかも知れません。
だからこそ…試されないとならないのです!…この世のそうだとされているだけの公の目でない、普遍に根ざした公の目に照らされないとならないのです。
独りよがりの人というものは、他の人はどう感じているのかなど関係無しに自分の信仰を自分の世界だけで信じ続け、駆り立てられるように他に向けて宣布し続けているのです。
それに同調する者は同類しか居ません。彼らが唱える調和世界の建設というものは、自分たち以外の世界とは常に対立していて、まるっきり真の普遍性からはかけ離れているのです。
チッポケな我見に基づく真理、正義はいよいよ世界を収拾のつかない混乱に陥れるばかりです。誰の目というものでない、あのすべてを見通す目に照らされることでピリオドが打たれるでしょう。(まるで最後の審判のようですが…)
それはこの世の終わりを意味するのでしょうか…長い長い白昼夢から覚める事なのでしょうか…。