人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

公の目

2016-07-31 00:06:01 | 意識、照明
スピ系ブログでは、相変わらず実に好き勝手な言説、主張などが飛び交っていますねえ…
(いや、全く自分のことを振り返れば寒心の至りなのですが…)
例えば”真理はここにしかない!”、”これに勝る教えは無い!”…などと選挙運動のアジみたいにフレ回っていますが、それらの言説はあの第三者の公平な目に照らしても罷り通るものなのでしょうか?
臆面も無くこういう事言う人は、それが万人に通用するものだと信じ切って、そう言っているんでしょうけど…それがホントに通用するかどうかなど一度も試されたことは無いのです。
勿論、そんな公正倫理委員会みたいなものも存在したことは無いので、審議に引っかかることもある訳無いのですが…
私は基本的に言いたいこと、書きたいことを無責任に自由に表現しているので、実は読み手のことなどはあまり気にしてなどいないのです。
仮にそんなおエラ方の委員会なんかがあったところで、彼らの目が公正だという保証などどこにもなく、精々”エライ人のもっともらしいジャッジ…権威が絶対的にモノ言う民主主義万歳!”とギマンだらけの審議になるのがオチでしょう。
ただ、あれが気になる…全てを遍く見通す公の目…これは言い換えれば普遍者の目と言いましょうか…
気になる、というより何か無言の促しを受けているようなのです。
もっとも感じているのは、他に発信するときには、極力独りよがりな表現はしない、というものです。
(”いや、もう充分独りよがりじゃないの?”と感じている方もおられるでしょうが、そこはただ私の表現力の無さ、屈折した性格の表れによる次第なのです)
一方では全く裏腹に”独りよがりで結構!…大いにやり給え!”という促し(これは多く私個人に関する部分)もあって、要するに好い加減なだけなのでしょう…
とにかく”何を言っているのかチンプンカンプン”と思われても、私自身の気持ちには、決めつけた、一面的に偏ったものの言い方(これが独善ということにつながります)はなるべく避けたい、というものが強くあるのです。
特定の宗教、思想でしか通用しない言葉、教理、修行法…”コレコレを信じれば救われます…こうすれば必ず悟れます”といった言葉はこのブログからは出てきません!…あしからず…
(”見えざる導師”とか、みょーちきりんな言葉も多々出て来ますが、それは慣用語が不勉強ながら見つからないためか、他に特定のイメージを持たせないという、配慮?もしくは意地悪?な気持ちの表れなのです)
何故って普遍的な世界にはそういうものは何も無いから…要するに促しとは”そこで感じたように語れ!”というものなのです。
又、読み手に先入観を与えてしまう表現…”霊界はこうなっていて、こういう住人が居て”といった自分で観て確かめなきゃ分からないような言い回しとかもなるべくしません。…彼の領域では他からの借り物、人づてに聞いた事というのは一切通じないのです!あなたが見て感じたままが全てなのです!
いや、それは何もあっちの世界のことばかりじゃない…
あの息吹の一端として感じられる時空間が、時にこっちにも開示されることも希にあるのです。
その時、あの促しをヒシヒシと感じ出し、何か私や周りの全てが光に照らされ、射抜れている感じを身に覚え、何かその場の雰囲気が全く変わったようになります。
こういう状況では、独善的で偏った、押しつけがましい言説というものが、実に場違いなものに映ります。実際に経験したことですが、そういう言説を発することが、何かものすごーくエゴの表れのように感じ、最初は臆面も無く自説を述べていた人など、しまいにバツの悪さを感じて黙ってしまうか、急用ができたとか言って、どっかへ行ってしまったりします(笑)
とは言っても誰かがそうした者を規制する訳でも無く、自ずからそうしたムードの中で起きるということなのです。
しかしながら私がこうして述べていること自体、もしかしてそれも私の独りよがりから来ているのかもしれません。
私には動かしがたい現実としか言いようの無い普遍世界というものも、何分にも私の主観とみなされても仕方のないものだった訳だし…
前述の場についても”たまたま、そういう事があった”というだけなのかも知れません。
だからこそ…試されないとならないのです!…この世のそうだとされているだけの公の目でない、普遍に根ざした公の目に照らされないとならないのです。
独りよがりの人というものは、他の人はどう感じているのかなど関係無しに自分の信仰を自分の世界だけで信じ続け、駆り立てられるように他に向けて宣布し続けているのです。
それに同調する者は同類しか居ません。彼らが唱える調和世界の建設というものは、自分たち以外の世界とは常に対立していて、まるっきり真の普遍性からはかけ離れているのです。
チッポケな我見に基づく真理、正義はいよいよ世界を収拾のつかない混乱に陥れるばかりです。誰の目というものでない、あのすべてを見通す目に照らされることでピリオドが打たれるでしょう。(まるで最後の審判のようですが…)
それはこの世の終わりを意味するのでしょうか…長い長い白昼夢から覚める事なのでしょうか…。

















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終わりなき戦い

2016-07-30 00:01:25 | 独語
”矛盾、穢れ、不調和に満ちた世の中を何とかしたい
多くの苦しみ悩むものの救いのため
世界の平和のため、聖戦にまい進しよう…”

ある人は言った…
”世の中で最もキケンな人間とは、いつも自分が正しいと思いこんでいる人間である…”と。
かかる人は自分の中の悪、醜さに気付くことが出来ず、気付こうともしない
自分の本当の素晴らしさ、他と比べる事の出来ないユニークさにも気付けない
彼の頭の中にはどっかから流入してきた、借りてきた
”こうでなければならない”正しい観念ばかりで構築された城が立っている
それは、正しく一段一段、上へ上ヘと積み上げられていくもの
しかし、その城は大地という本当の基礎に根差してはいない
全てが抽象的観念の中で作られているから…
大地に連なる土壌はコンクリートでフタをされ、固められ、
その上に基礎らしきものが据えられるらしい…
そこには触れても確かな手ごたえ、ぬくもりというものは感じられない
生きた土壌には役に立ちそうにない雑草もはびこるが、かりんな花も咲く
美しさも、醜さもそこに混在している…
美しさ、正しさばかりがそこで主張されている訳じゃない
図図しい、業深き雑草は駆遂されねばならないのか…
しかし…抜いても抜いても次から次にコイツははびこってくる…
一体、コイツの根っこというのは、地中でどんなことになっているのか?
どんな見えない、ブキミなネットワークで絡まっているのだろう…
そして…あの美しい花ときたら…
このにっくき雑草から咲き出ているのだ!
これが、あるがままの土壌、持ち前…
花が咲くときは花が咲き、雑草がはびこる時は雑草がはびこる
これで平和は保たれる…いやこの営みこそが平和なのだ
バカな自分、ダメな自分、ヘンテコな自分…こんなヘンなヤツは認める訳にゃいかない…
だが、それは畢竟、他に代えることの出来ないユニークな自分の裏返しではないか…
デキアイの宗教、思想は、一列一様に悪しきを挫いて、愛と真実と正義の世界の樹立を叫ぶ
地に足の付かないアセンションはただ中有を漂う…
フタ閉めされ、行き場の無くなった悪や醜さは、飽和状態からついに暴流となって周囲に溢れ出す
聖戦の進軍ラッパはなり続ける…
いつも正しい人間の戦いは終わらない…
それはこの世の終わりか…
長い長い白昼夢から覚めるまで続くのだろうか…

























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御心のままに…

2016-07-26 13:55:52 | 祈りと瞑想
相模原で未曽有の殺人事件が起きました。
常人の意識状態では行われ得ないような凄惨な犯行ですね。
ある日、なんてことない人が突然意識が目覚めてしまった、という事が頻繁に起きている一方で、こうした異常な事件も増加してきています。
何か人類全体の当たり前の思考、思慮、考えるという事、良きにつけ悪しきにつけ、我々が日常からトンで行かぬように規制していたものが薄れてきているようにも感じられます。
どちらにせよ、人間は今まで思われていたものでは無くなってきているようです。
これは、心身のバランスが崩れやすい状況になって来ているとも言えるでしょう。
やや陰りも見せ始めたとはいえ、”私はいない”、全体だけがある”といったただ、”そういう風に感じれられる”に過ぎない?ことを短絡的に誇張した、非二元の教えを真にうけて意識障害のような事に陥ってしまう事も無いとも限りません。
何度か触れているように、私も思考が薄れ、意識も飛びそうになった事態に見舞われた事が有ります。
確かにそれまで悩んでいたことも無くなるように感じ、自分と世界との境界も薄れて”事は起きているだけ”と言う感じにもなります。
だけど、それだけでしたら、意識の変容とか魂の目覚めといったこととはまるっきり違います。
そこにはそもそもの大前提が抜け落ちています。
歓喜といったものどころか、”自分が自分でなくなっていく、奈落の底のような方へと消えて行ってしまいそうになる…”という、その恐怖を目の当たりにするのです!
”そういう恐怖を感じている自分も無いのです”などと平然と言っている人は多分そうなったことが無いのでしょう。
アンバランスな事態、それは足場も、手すりも無いビルの壁に置き去りにされているようなものです。
消え去りそうな意識の中で、とてもキケンな状態だという認識はあり、”ただ私は何もすることは出来ない、神様、仏様、なんだっていい…助けて下さい…”と祈るしかないのです。
そして私はその恩恵あってか、苦境から脱することが出来たのですが、私にはどこかに”私の神は絶対にキケンな目にはあわせない!”という信念もありました。
それは多分、あのエーテル的空気が濃厚だった、昭和53年夏頃芽生えたある種の祈りから来ていたと思います。決まった形、決まった祈り言葉が有る訳でも無く、自己流に過ぎないものでしたが…
その心根には”御心のままにお導き下さい”というものがありました。それはアーメンであり、南無…であり、”かむながらたまちはえませ”であります。この基調の無い祈りというのは全て枝と観るべきでしょう。
これにより私はあのエーテル的雰囲気にのみ込まれることも、流されることも無かったのだと思います。
分かったような事言う人は、”自分と神は一つだし、全体しかないんだから祈りなど必要ない”などと宣うかも知れません。けれど、それもこの世で個人としてアレコレ考えていて、普通に生きている人がそう言っているまでです。
当たり前に生きている人間が突然、”ご託宣”を始めるわけが無いのです!
こういう言説はすべて”そうなってみなきゃ分からない”事であり、最初からそうなって生きている人など居ないのです!
”果たして自分と神とは一つなのか?”それは神的なもの、現臨に触れて初めて分かることです。分かり方というのは人それぞれでしょうが…
一元論とか二元論というのは所詮、この世で生きてる人間の理屈でしかありません。
そうしたものが臨むこと、意識の変容、覚醒…それは自分の一存でどうなるというものじゃありません。
すべて”御心のまま…”なのです。御心無しに、導きというもの無しには起き得ないでしょう。
そして”御心のままに”というものが心根に根付いたなら…感じ方はそれぞれでしょうが、人生はこれまでと違ったものに感じてきます。
自分で言うのもおかしいですが、この言葉に自分で酔いしれて来そうになります。
だって、それが意識の変容というものでしょう…。自分でどうにもならない突出した体験というのも、御心のままにあることと離れては無く、そういうものが有ろうと無かろうと、御心のままにあることで人生は幸福なのです。
あの暑かった夏、世界がモヤっていたように見えながらも、一点生き生きと、アリアリと喜びに包まれていると感じさせていたのは間違いなくコレだったのです…。



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

放映されなかったUFO

2016-07-24 15:05:12 | 回想
私は一度だけUFOらしきものを見た事が有ります。
少なくとも、周りは”あれは間違いなくUFOだ!”と騒いでいました。
ことにそこにいた、自称宇宙考古学者K氏のノリ様は大変なものが有りましたが…
私には、ずっと未確認のままです!…あれは間違いなく”未確認”飛行物体なんです!
私の人生で濃厚なエーテルのような霧に覆われていた、昭和53年夏頃のことでした。
確かK氏から”何にも働かなくても、いいバイトが有るんだが、来ないか…”と誘われたんだと思いました。所は建てられて間もない池袋サンシャイン60の屋上。
東京12チャンネル(現テレビ東京〉のテレビカメラが何台もあり、そのスタッフも何人も来ていました。
そうなのです。それはテレビの中継だったのです。毎週水曜日だったかに放映されていた番組でしたが、題名は忘れました。そのUFO特番です。全国から自称UFOコンタクターを呼んで、その場でUFOに来て頂こうという趣向です。私はそのエキストラとして参加したのです。
これは多分、私の記憶では我が国初の試みじゃなかったかと思います。
番組の司会は故児玉清さん。この人は俳優やってる時も、司会やってる時も同じあの折り目正しい感じですが、普段の時は…やはり同じだった(笑)
アシスタントは松岡きっこさん。今で言うグラビアアイドルのハシリです。俳優(キイ・ハンターとか)もしてたからマルチタレントのハシリとも言えるかも知れません。11PMで巨泉さんにイビられていた時と違って、ものすごーくクールに見えました。
収録前ロケバスの中で、児玉さんがあの落ち着いた表情で、コンタクターの一人に「どうですか、今日はUFO出ますかね?」と訊いているのをその隣で「ウフフ…」とやや冷笑気味のきっこさん。
そして、いよいよ本番スタート! 私はただエキストラとして西の暮れゆく空にずっとUFO出現を見守るのみで、番組がどう進行していたのかはサッパリ分かりません。児玉さんと誰かがずっと談笑していましたが、矢追さんはテレビ系列が違うのか、ギャラが高いのか、来てませんでした。
30分くらい経過した頃でしょうか、明らかに旅客機の軌道とは違う上空で、明らかに旅客機とは違う光り方をしている(大きくなったり、小さくなったりを繰り返している)オレンジ色の物体が出現したのです!
ただし、それは決まってテレビカメラが回っていないCMの時間などに限られていたのでした。
こういう展開が何度となく繰り返されました。時間をズラして撮影しても同じなのです。
まるで外宇宙からのゲストさん、”ギャラもくれないくせに、テレビなんかに映ってやるもんか!”と言いたげでした。
そして本当のクライマックスは番組終了直後に起きたのでした!
それまで以上にギラギラと鮮やかに、そして長くそのオレンジの光は収縮を繰り返していたのです!
しかし、それはアダムスキー型とも葉巻型とも、いかなる形状を表していた訳でもなく、何処までもオレンジ色に光っているだけで、あの突拍子のない動き方で飛行していた訳でもありません。
私には限りなく未確認な飛行物体なのでした。そして後日確認しましたが、テレビ放映ではその光も、私のどうでもいい姿も移らなかったのでした。
仮にもしそのいかにもな様相で、その物体が出現したらどう私に映っただろうか?
やはり変わった形をした、変わった飛行をする未確認飛行物体というだけではないか?
そんな事を考えながら、ビンボー学生には不相応なギャラをせしめ、そこの階上レストランの打ち上げ?で、数々のUFO目撃談、同乗記、異星人との未知との遭遇談、脳内チップ挿入談?などを拝聴しました。夜景が実に鮮やかでしたが、私の脳内は一層濃厚なミストがかかっていたようなのでした…。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死ぬまで好きに生きよう

2016-07-23 19:10:06 | 雑感
私がジャズを聴き出した頃は、1920年代頃の古いヤツばかり聴いていたものですが、近年は何といっても…ウッシッシ、なんちゅーか”中間派”ジャズに惹かれます。
中間派ってなん?…30年代後半以降のコンボによるスイングジャズとモダンジャズの中間って事らしいけど、きっと聴いてみて”これが中間派ジャズだ!”って感じたヤツの事だろう…巷ではニューオーリンズジャズ云々と言われているシドニー・ベシエの”インディアン・サマー”とかね…その命名主の人は死ぬまでこういうのを聴いていたんだろうなあ…
レスター・ヤング(テナーサックス)とカンサス・シティ・セブンの ”Lester Leaps In”
とか…決まりだね! ハッパフミフミ…大橋巨泉さん追悼…

一寸仕切り過ぎてやしませんか?
「ゲバゲバ90分」ではライバルと目されていた、マエタケこと前田武彦さんとのW司会で注目されましたが、マエタケさん完全に食われてしまって、良さが出ずじまいで、ちっとも引き立たなかった…
この他ゲスト・コメンテーター以上に前に出過ぎて、長々と自身のコメントをしてしまい、おとなしそうなゲストなんか言いくるめられて、”いや、まあ…”なんて苦笑しているだけ…彼らも完全に光を消されてしまった…
「なあ、お前もそう思うだろ…」オイオイ、ため口多過ぎやしないか!…巧みに自分に同調させようとしてるぞ! ”午後11時には、気をつけろよ、きっこ!”
政界に進出した時は、お金に困ったのか、何か迷ってしまったんじゃないか、と思いました…
と…色々欠点もありましたが…
死ぬまで好きなジャズを聴いて過ごしていたのだ、という…
人間こうでなければいけない、とつくづく思いますね。
読書、映画、音楽鑑賞、楽器演奏…趣味は色々あれど、私は仕事を通じて”社会人になってから、それらはキッパリ辞めてしまった…”という声をしばしば耳にしました。
その度に何か密室に閉じ込められたような息苦しさを感じたものです。
すると、そういう人というのは、仕事と生活だけになってしまうんですか?…人生、面白い?、ストレスたまらない?
私はそんな人生など考えたことも有りません!
”お金をコツコツ貯めて、今を辛抱して未来の人生のために…”なんてことも阪神大震災を経験して完全に無くなりました。
余程、裕福なのかって? トンデモありゃあしません! ”メシは食わんでも好きな事していたい…”と思っているだけです。
昔から金は無いくせに結構、貴族趣味なんです。骨董品なぞに手を出す訳でも無く好きな事にあまりお金かけません。ただし、頭の中がカビ臭くて骨董品みたいなだけです。
よく仕事人間ってのがいますよね。休み時間とかオフタイムでも仕事の話持ち込んでくるような人…
イヤですねえ…”放っといてんか!”ってもんです。ああいう人というのは決まって無趣味なんです。
そして仕事とプライベートのケジメもそうですが、人とのコミュニケーションのフンギリも実に悪い。
私は”帰ります”と意思表示をしたら、五分以内に帰りたいのに、うじゃ、うじゃ、なんだってんだよお!
で、仕事が無くなると燃え尽きちゃうのです。これじゃ人生は潤わないですよ。
「アリとキリギリス」の話というのは絶対、共産主義者の陰謀じゃないですか?
人に迷惑かけなければ、キリギリスのように自分の人生好きな事で生きたらいいんです。
自己満足でいいのです…いや自己満足にしかなりようが無い…好きな事に他者や世間への迎合も追従も無いハズ…
このようにして自分の人生ばかりでなく、世の中も潤っていくのではないでしょうか…
そして一人一人の人生で刻まれたものが、好奇心でいっぱいの見えざる宝の山を形成していくのでしょう…


 











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする