人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

伝わるのは愛しかないから

2016-05-29 16:53:27 | 人生の裏側の図書室
はるかかなた
生まれ出ずるははるかなり
受け継がれし思いと
受け継がれしシグナル
肉体に宿りし暗号の解読
それらがすべて読み解かれしとき
すべての記憶はよみがえる… 日木流奈著「伝わるのは愛しかないから」(ナチュラルスピリット刊)

「奇跡の詩人」日木流奈。憶えてますか?
彼が一体、どういう境遇の人物かという事は、詳しく触れる必要も無いでしょう…
もし、あなたが彼の著書をそのバックグラウンド、どういう経緯で世に出されたか、という事など何一つ知らないで読まれた時、一体どう感じるでしょうか? それとも…それらのことを知った時、あなたはバカバカしくなって本を捨てちゃいますか?
一度は共感したかもしれないが、すべて打ち消されちゃいますか?
これは共感する事に対する試金石となり得るでしょうかね…
だけどね…何をどう共感するか、という事は間違いなく人生を変えてしまうことになるものですよ!
私は久しぶりに読み返してみました…初めて読んだのは13年前でしたが、やはり…共感を覚えずにいられません!これはもう、常識、非常識を超えてます。
私は、その(色々な意味で)火が付いたテレビ番組は観た事が有りません。(観ようとも思わないと言うべきか)これが評判となりいくつかの本が世に出たのです。
もう、当然というか賛否両論、喧々諤々の議論の的になりました。その真偽を巡り検証も躍起になって行われました。一体、何の検証?…検証すること自体ナンセンスと違いますか?…一体滑稽に見えるってどういうことかしら?
10歳にも満たない脳障害児が真理らしきことを語る…有り得んでしょ!
すると、彼の手を動かしている母親=ゴーストライターの疑いが浮上します。(有るかも…)
しかし…誰がやっていたにせよ、私はただただ憧憬を覚えるしかありません!
精神がねじれた私にはこんな文章絶対書けない!…分かり易い、とっつきやすい…何故、私の細胞かどっかに記憶されているような言葉が、こうも容易くポン、と出てくるのか!
彼の周囲を巡り、オカルトかぶれのカルト集団という中傷もあります。
いつの間にか、そうしたものが形成されてしまう、という危険性も無いではありません。
何しろ、超自然的、奇跡的なものが周囲に取り巻いていますからね…彼を教祖さんに祭り上げる向きもあるかもわかりません。
でもね…オカルト、カルトとはどういうものか、それにハマる事の危うさを知り、味わいたければこの本をじっくり読まれたらいいです。
又、”ただ起こることが起こるだけ…”と、ノンデュアリティのはしりみたいなことも述べてますが、”経験するため、味わうためにそれは起きる”んだとか…身が頷きます!
ここには真新しい教説も、メソッドも何一つありません…全ての押しつけがましさとは無縁だという事です。
逆説的ですが、こういうものはどこを探したって見つからないですよ!
本当に得難いものというのは、どこにでもあるようで無いようなものじゃないですか?
あの特異な周囲の喧騒とは裏腹に、書かれていることに特異なものは何も無いです。
万人向きと言っていいでしょう。だけど多くの人は”これしかない…”という特別な真理に群れたがるものですね。
そして何よりも…自己信頼というものが全ての基調になっています。
「私は私、あなたはあなたでしかないから…」これこそ、万にして唯一の道でしょう。
科学的事実、究極のマスター…何に真実を持とうと、それはあなた自身の真実では無いのです…。

流奈君…
君が一体、何者なのか僕には分からない
ひょっとして、僕は騙されているのか?
いいや…君が伝えようとしていたものこそは、ずっと僕たち自らが騙し、見えなくしていたあるものだったのだろう…
世の中は相も変わらず騒々しい…されど、となりの猫は猫をしているだけ…
無用の者の無用の鳴き声が何事かを呼び覚ます…












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2016-05-28 14:55:16 | 独語
宗教やスピには”OOを信じなければならない…”と観念の押しつけばかりで溢れている…
それを説き伏せる者、信じ従う者、彼らからは生きたものは全く感じられない、伝わってこない…
ただ浮ついた、落とし込む事の出来ない中身の無い言葉の羅列ばかり…
つまりは…
なにも共感することが出来ない!
共感無しに”信じる”ということなどあるだろうか?
共感から離れた如何なる信仰にも命が通っていない、根っこが無い
紙で書かれた人の言葉=”信”が神にスリ代わって崇拝される…

共感を忘れた世界には、無駄な論争が生まれる
何が真実で、何が正しい、何が善か…
確たるもの、意味付けされるもの、価値あるもの、根拠あるもの…
どんな条件的なものを追いかけても、共感し合う世界から脱線するのみ…
共感は法則、定理などでは測れない
共感の法則は分かっても、あなたが感じなくてはただの屁理屈…
共感は常識を超えている
勝手に筆が動いて、文字が現れた!
八歳の脳障害児が真理らしきことを語っている!
何という、胡散臭い、非常識な事だろう!
だが…世人は何を言おうが、科学的にウソが判明されようと…僕は共感した!
ヤラセだろうと、邪霊の誑かしだろうと…共感しちゃったものはどうしようもないではないか!
この真実は隠しようが無いではないか!
共感から離れたどんな真実も生きたものじゃない!
ホントに非常識な事とは、熊本の”テロ地震”の落書きのような、心無い妄言のタレ流しのようなものだ
どんなぶっ飛んだことだろうと、共感有るところ心があの”円”に落ちてゆく…
真実、正しさを超えて…
共感の無いところ、常識に雁字搦めになるか、非常識なクサイ、トンだ言動が飛び交うばかり…
常識人と非常識人の終わりなきTVタックル…

共感しあう関係は等価である…どちらが上も下も無い
共感に従属関係は無い…
他者の支配、コントロール…洗脳とは縁も所縁も無い!
それは命の交換…愛、喜びのハタラキ合い
共感関係の主体は形なき共感自体…あのお方!
誰かに誰かが共感するのではなく、共感させるハタラキが有り、それに合わせられ、引き付けられる
共感有るところ…あらゆるところに中心の在る円、縁が生まれる…
喜び、気付き、愛おしさ…よき想い出は共感と共に在った…
共感こそは僕の先生、導師…

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常ならぬ道

2016-05-26 13:09:48 | 求道、探究
祈りと道院の坐の賜物なのか、昭和54年春からしばらく私は特異体質になっていたようです。
別段、そうしたことをしていなくても、とにかく意識が神的なものにチラッと向けられるだけで、ジンジンとした高揚感が起きたりしました。
耳下腺(おたふく風邪で膨らむ箇所〉の辺りが張ってくる感じをしばしば覚えたものですが、出口王仁三郎師の何かの本には、それは”神がかりの兆候である”と書いてありました。
私のこれまでの人生で霊感とはほとんど無縁でしたが、この時期はそのようなものも芽生えていたのかもわかりません。
私自身は特にそうした興味も無く、それを目指しての修行もしてなかったですが…
これは程なくして、見えざる導きによるものなのか、小池辰雄先生との出会いから神の恩寵の道に共感したという事も影響していました。
特別な修行も努力も無しに、上よりの現臨が望むや、人生を一変させる恵みに預かる、という…
その前年、手島郁郎先生の「生命の光」で初めてそういう世界を知って、ぶっ飛んだのが最初で、その年の五月初めて小池集会のペンテコステ集会に行っものの、あまりの衝撃に、集会へは行かずもっぱら先生の著書を通じて親しんでいたのです。
今日では、キリスト教色から離れてこのような表現で語られるものも珍しくありません。
私には寡聞にして、当時はこういう情報しか知らなかったのです。
これはノンデュアリティなどからしたら皮肉かも知れませんが、私にとって直接体験の道というのは、こうした二元の道の最たる?キリスト教的な縁によるものだったのです。
私の場合、これが常人の道とかけ離れていることなのですが(余程のおバカか天才か…?)か、何食わぬ顔して東京の道院に参じて、しおらしく?修坐に励んでいたのです。
静黙を重んじる道院で、異言が飛び交い、霊動を誘起するキリストの福音集会のようなものを奨励する訳がありません。
逆にその集会で修坐に勤しんでいようなら「何だ!君は仏像か!…」などと言われかねません。郷に居れば郷に従うべきなのです。
(ついでに言いますと、私自身に適しているのは静的なもの、動的なものを併せ持った道です。これは折衷という意味じゃないです)
もし、あなたが常人を自認するのなら、こういう歩み方はお勧めしません!…頭の回路が混線しかねません!
しかし、こういう歩みというのは常人でない私には別にオカシナ事ではないのです。
ただ、私は見えない導きのままに、魂の赴くままに従っていただけです。
そこに縁が開かれた…と言ってもいいでしょう。
このことは、ホントにつながらなくてはならないものは、形としての特定の宗派、グループを超えたところに有る…ということを示されていたように感じます。というより”その教えに共感しても、手に握りしめるものじゃないよ…”というような促しを受けていたのです。
こういう常ならぬ道を歩まされていると、一応のその時々の節目に理解も与えられ、精神的変遷のようなものも形成されたようにも思いますが、では時と共に段階を踏んで着々と魂がより深く、より高く進んでいったかというと…全く疑わしい限りです。
”瞑想修行などしなくても、意識がちょっと動くだけで、上よりの恵みに満たされてくる…”こんなこと言うと、何人かの人から、”いいや何がしかの修行をしたに違いない!”と言われました。
成程、それは修坐の過程で芽生えたのかもわからないです。老祖様(道院の主神、至聖先天老祖〉の感応か、どうか知りませんが、僅か数日間のこととて修行がどう進んだか、などの実感なぞ持ち得ようはずなどありません。
ハッキリ実感していることは、精神的苦境から脱して、愛、ハタラキが芽生え始めたことです。
それは元々私のどこかに共鳴出来るものが有ったという事でしょう。誰にでもそうであるように…
世の常ならぬ道とは、ホントは常なる道であり、徐々に表に顕れて来ているのではないでしょうか?
それは全く修行して獲得したり、私有出来るようなものでは有りません。
この事は昭和55年夏、突如その感覚が自然消滅したことで逆に実感しているのです。
これは何も恩寵を私物化したことの報いかなんかでは無いですよ(笑)
忘れかけていたシャバがたまらなく恋しくなったからだと思います。
これは実に分かり易い、常なる道?ですね…。









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先天の坐法

2016-05-25 19:57:51 | 祈りと瞑想
何度か書いていますが、昭和54年の初めから一月くらい、精神が不安定な時期が有りました。
これが安静に向かったのは、祈り(五井先生の世界平和の祈りというのもしていましたが、特定の祈りというものには捉われていませんでした)をしていたということもありましたが、忘れてならないのは、中国の宗教結社、道院紅卍字会に伝えられている”先天の坐法”というある種の瞑想法の実修の効用ではないかと思っています。
私がこれまで瞑想修行らしきことを一定の間続けていたというのはこの時期(およそ三か月)くらいしかありません。
(これはそこへ入会するに際しての見習い期間に当たっていて、私は別に強制された訳でも無かったですが、勧められるままにマジメにしていたのです。)
先天の坐法といっても、特定のマントラや呼吸法といった方法も無く、足は組まず座椅子を用いることをよしとするなど、とてもシンプルで無理なところが有りません。
道院では、従来の座禅やヨガ、仙道などのそれぞれの門戸に応じた方法に分かれているものを後天の坐法といって、それらの大本にあるものとしてしての先天の坐と区別しているのです。
この坐は後天的形式から自由であることを強調していますが、一定の型とか、一定の実修時間というものもあります。(実は教示ではそれも止揚された無形の坐というものが有る、という事も仄めかされているのですが、それは実際に伝えられたのかどうかは分かりません。)
私はそれを伝授されるに当たって、ごく簡単なレクチャーしか受けた記憶が無いのですが、その妙味は意念を強いて用いない、というところに有るようです。
例えば、どこかに”集める”と示されることがありますが、特定の部位への一点集中という事では無いです。(これは実修を通じないと、分かりにくいのは言うまでもないですが)意識の微妙な動きに任せるという事でしょうか…面白いことに、強いて集めようとしなくとも、勝手に集まってしまったりするのです。
ここに意識というものの妙なるハタラキが存しているのを見出します。
この実修でハッキリと実感したものは、気らしきものが心身に巡り始めたことです。
実際にポカポカと身体面で温かみを感じたものでしたが、精神的、意識的な面とも切り離されたものではありません。
この坐では何が起きても意念で追いかけたり、捉われることを戒めていますが、私にはごく自然に、ラクにそう導かれていました。
意念を働かそうとすると偏頭痛に見舞われたりするからです。
見えざる導きというのを実感したのもこのころからです。
又、この時期に意識の高揚感が顕著になったのですが、これも前記の祈りとこの坐によるものだったのでしょうか…
いずれにしても、この坐との出会いが何より、精神の安定をもたらし、その後の”形なき祈りと瞑想の道”(そんな勿体ぶったものでも無く、実にイイカゲンなものですが…)の端緒の一つとなったのは間違いありません。
(ただ、こうした縁も与えられているにも関わらず、疎かにしているのは恐縮の至りです)

私は東京の道院へは2年くらい定期的に参っていました。その頃は年配の人が多かったですが、あまり宗我臭い人も居らず、淡々とした中にも和気が感じられたものです。
昭和56年初春、関西への移転と共に疎遠になってしまい、暫く経って訪れたら当時の人はほとんど見当たらず、フンイキも変わってしまいました。
相対観に捉われている人も見受けられ、聞いたことないような、偏頭痛を起こしそうな坐のレクチャーなどをしていました。
今では、ワールド友の会の浅見赤山氏(その昔、そこで会った青年実業家のような人が多分彼だろう…)に会が牛耳られているとか…

昨年、書店を覗いていたら思わず目を疑りました。
「鎮心経」なる道院の秘伝書の解説がどういう経緯でか、世に出ていたではありませんか!(たま出版)
きらく仙女という著者とは多分お目にかかったことはありませんが、奇特な人も居たものです。

















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ジャズの巨匠シドニー・ベシエ

2016-05-22 12:50:49 | 映画・音楽など
テレビCMから流れてくる音楽で、こんなにも”おやッ!”と思わせられたことはあっただろうか!
妻O木君が出てる、リクルートのCMのことです。
こりゃあ、シドニー・ベシエの「インディアン・サマー」じゃありませんか!思わず耳を疑ってしまいました。
シドニー・ベシエ(Sidney Bechet)と言っても馴染みの無い人が多いでしょうが、オールド・ジャズのファンなら知らぬ人は居ないでしょう。私の好きなジャズ・ミュージシャンの一人です。(ジャズ界の大滝秀治。似てる!)
昔のジャズ楽団の編成では、クラリネットが欠かせませんでしたが、彼は同奏者ではジョニー・ドッズ、ジミー・ヌーンと並ぶ存在で、さらに彼の存在をユニークなものにしていたのは、珍しいソプラノ・サックスとの二刀流だったことでした。
前記二者は多くのジャズ奏者がそうであったように、ニューヨーク大恐慌を境に、第一線から消えて行ったのに対し、フランスを中心に欧州を拠点にしていたためか、59年に亡くなるまで活躍していました。その長いキャリアの中には名演、珍盤に事欠きません。
「Indian Summer」(40年)は、私が大学3年の時聴いて以来大好きです(多分、ジャズでは五指に入る!)が、あまりベシエが激情に(個人的にこの点がやや玉に傷なのです)走らず、朗々とソプラノを吹いているのがいいです。イントロのピアノはテディ・ウイルソン!と思いきや、そっくりなソニー・ホワイト。(騙された!)

oClarence Williams Blue Five「Texas Moanor Blues」(24年)
ベシエのレコード歴は古く、初録は23年のことです。翌年この曲他でサッチモことルイ・アームストロングと共演しています。サッチモという人はベシエに劣らず、激情を大音量でぶつける人ですが、これは両者の対抗意識がいい具合に抑えられ、微妙な熱さを感じさせる両者の持ち味がよく出た共演であります。(それにしても配信されているものの音質のいいこと)

o「Blues Of Bechet」(41年)
これぞ、ジャズ史上に残る珍盤。ベシエ自身のクラとソプラノの夢の競演です。というのはここで演っているのは、全てベシエ一人なのです。(多重録音)

o「Tropical Moon Rhumba」(39年)
これは、ジャズのみならずラテン音楽史上でも貴重な音源。カリブ海のハイチは長くフランス領だったことで、同国とカリビアン音楽の混合により、何ともエキゾチックかつ欧州的な優雅な魅力の音楽が生まれました。これを混血でない純黒人ばかり(何故か同国は白人との混血はほとんど居ない)が演っているというのが実に不思議です。(騙されない!写真を見た)ベシエは中国人の血もあるクレオール(黒人とフランス人の混血)なので、こういう音楽を好んでいたのでしょうか、そのモチーフを借りた戦前のラテンジャズです。

oBechet=Spanier Big Four「Sqeeze Me」(40年)
ここで共演しているマグシー・スパニアはサッチモに影響を受けた白人コルネット奏者ですが、私はサッチモより好きです。節度を弁えているから…
この双頭コンビによるセッションは全部傑作です。くつろぎ、適度の情熱、スリル…ことにベシエのクラ、ソプラノの持ち替え、スパニアのオープン、ミュートの吹き替えが静と動、陰と陽の微妙なタペストリーを作り出しています。

o「Petite Fleur」(可愛い花。52年)
ベシエのオリジナル。彼の名前は知らなくとも、この曲は聴いたことある…という人も多いハズ。世界的にもヒットし、日本ではザ・ピーナッツのデビュー・シングルになりました。ベシエらしい、エキゾチックかつ陰影に富んだ魅力にあふれています。

それにしても、ヴィブラートの利いたベシエのソプラノ、久しぶりに聴きましたが、ムーラダーラ・チャクラの辺りがくすぐられて来やしませんか?
クンダリーニがどうこうなるかは…未来はあの本に書かれているんだって…
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