人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の歴史は桜と共に始まった!

2023-03-30 10:27:06 | 回想
桜の季節になると、いつも思わされることがあります。
それは、私の歴史は桜の開花と共に始まったということです。
私の歴史の始まり...
私がどういう人間で、どういうことが好きで、どういうことに幸福を見い出すのか...
それは、取りも直さず、私はここに生きている、生かされていることを自覚出来るようになった、ということを意味しているでしょう。
それが昭和39年、私が7歳の今頃の季節辺りからだったということです。
それまでは、何が現実で何が夢だか、周りの世界がカオスに包まれているようで、鮮明な記憶がほとんど無い感じなのです。
幼いので、記憶力があまり発達していなかったという理由もあるでしょうが、どうも精神的に問題を抱えていたらしいことが影響していたようです。
多分、今で言う”ADHD“だったのでしょう。
始めて小学校に通うことになったものの、毎日、”ここで自分はどうしていいのか分からない、ここに居ていいのかどうかも分からない!“、という気持ちを抱えていて、それを誰に訴えていいかも分からず、それが落ち着きの無い、素行の悪い行動などとして表されたりしたようです。
とにかく、級友、隣近の友人とも遊んだという記憶が全く無いのです。
毎日夢遊病にかかっていたような印象がありますが、実際にそうなったことがしばしばあったようです。
それが、小2の新学期を迎えて、ようやく私の顔にも、”目鼻立ち”が出来、見る世界も輪郭を持ったものに映るようになった、という訳です。
それを象徴していたのが、目の中に跳び込んで来るようにも見えた、一面の淡いピンクの桜模様!...
始めて音楽を聴いて感激した!...(曲名を知ったのはずっと後のことだったけど)当時流行していた、「ラ.ノビア」というカンツォーネだった!
これを歴史の1ページが開いたと言わずして何であろう!
それにしても、小学2年生になったからといって、クラス変えがあった訳でも無し、マトモな人間になれたのか、友だちも出来たし、丸っきり環境が変わったように感じるようになったのは何故でしょう?
それから、毎年何十回と、この桜模様を目にしていることになるのであるが...
どうも、何十回分の歴史が刻まれているようには感じて来ません。
淡いピンクの桜模様は、あの時も今も一つに重ねられているように感じます。
“私はここに在る“、という幸福は、ただの私の歴史の羅列でなく、私の歴史に命をもたらしているのかもしれません。

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現臨と人格

2023-03-28 09:53:27 | 現臨、ハタラキ
私は長い間、精神的な道において、取り分け神的なものとの一体化を目指す上では、ある種のエネルギー的なもの、気、バイブレーション、このブログでは”ハタラキ”と一括して呼んでいるものを受け、それを深く浸透させることが最も重要なことと思っていたのでした。
現臨と呼んでいるものには、この感覚(じんじんとしてくるもの)は必ずあるものなのですが、どうもそれは、このブログを始めてしばらくして、イコールのものとは言えないと感じるようになってきたのでした。
それはザックリ言って、神とそれはイコールではない、ことと同じような意味合いがあります。
私はここで、神的なもの、現臨にあることは、愛、安らぎ、リアリティに与ることと何度も言っています。しかし、そのエネルギー的なものを受けていることで、十全にそれらを感受されるとは必ずしも言えないのです。
その力学的なものを受けるだけで、本当に直に、目の当たりに、私の実存と一つに、あの御方とつながり、その至福に与ることが出来るだろうか?
”直に...”、とは私が居て、何かを受けるとか、二段構えのことでなく、”即”ということであり、全く自己自身と切り離されない、全人格的なことなのです。人格的なことだから、”あの御方”と神的なものを擬人化したような言葉を言い表さずにおれないのです!
この人格という言葉は、通常思われているような意味合いで使っているのではありません。
ベルジャーエフが随所で語っていたように、人間存在に後天的に形成されるものではなく、その原初的なものと関わるものでしょう。
だから、神に人格があるのかどうか、ということを問題にしているのでもありません。
抽象的な人格論なんかでは、けっして与り知れないことを言っているまでです。
他人行儀に、神、私自身を客観においたところにあの至福、リアリティなどどこにも見い出せるはずなど無いではないか?!
要するに、これは”我と汝”の世界であり、我と汝が直に真向かいになければ、そもそも愛というものが実感されることも無いでしょう。
このことは、このブログを通じてより神的な現臨に意識が向けられ、より深められたことと関係があるでしょう。よりそれは一如なものとなって来たのです。
といって、それは私がそのように努力したからでは断じてありません。
あの御方の方がより間近に臨んでこられたのです。
だから、どうやってそうなったか、という自覚があまりありません。
私の全人格は、私の思われた人格を全く超えているのでしょう...。
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導師の見極め

2023-03-26 09:33:56 | ガイダンス
“私の教え、方法に従えば、あなたを必ず完全覚醒に導くことが出来ます!”
“宇宙神の仕組みに依れば、地球の人口はあと○十年で半分になります!“...

何故、こんな言葉に容易く支配されてしまうのだろうか?
そんなに他人の奴隷になりたいのだろうか?
“正しい導師とエセ導師の見極めが必要“、と言われるけれど、それ以前の問題だと思わないのだろうか?
何が完全覚醒だとか、宇宙神の仕組みだとかは、知っても知らなくても全くどうでもいいこと。
”私は知っているのだ!”、という神になり済ました人間に何故、容易くコロッと参ってしまうのか?
いや、常人が知り得ない、到達出来ないとされることを知りたがっている、人より優りたい、強くなりたい自分のエゴにつけ込まれていることが問題なのだ!
その実、常人よりも精神性が弱いことを知るべきなのだ!
この先生は、○○先生の遺髪を継いでいるらしい?...○○先生は一度でもそういう言葉を言っただろうか?
一度でも、“もしかしたら私は敬愛する○○先生の道を歪め、誤ったことを伝えているのではないか?“、という思いが心象に過ったことは無いのだろうか?
特定の教師を信奉すること自体が間違いということは無いだろう。
それにより“誰のものでもない、あなた自身の絶対的なもの”に導かれることもあるだろう。
正しい導師なら、その絶対的なものを指し示すだろう。
そして、その無駄に長いような信仰、求道生活において、一度でも○○先生に触れて、内なる心が動かされ、幸福に与ったことは無いのだろうか?
それが、心の奥に息づいていないのならば、本当に無駄、“失敗“に終わることでしかないだろう!
それとも、そういうこともあったが、諸々の思いと共に消えて行ったのだろうか?
ああいうことも、こういうことも消えてゆくだろう?
今、ご執心のエセ教師の言葉なんかは、読んだ瞬間に消えてゆくだろう?
あったりまえではないか!
意識が向かない…生理的に受け付けられないのだから!...
消えることの無い、心の奥に息づくものに照らせば...
自明の理ではないか!

これが分からないというのは、もはや常人の域には無いのだろう?
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本来から絶対的なもの

2023-03-25 10:11:00 | 求道、探究
ラマナ.マハルシは、“真我であることは、人の本性なのであり、自然な状態なのである”、としばしば述べています。
私はこの言葉にどれだけ恩恵を受けたことか!...自然に意識がそのようになってしまうのだから、これはもう絶対的なものがある、と言う他ありません!
といって、それは”ラマナの教えは絶対的だ!“、と言っている訳では勿論無いですよ!
私にも、他の一人一人にも絶対的なものが本来からあるのだから、それを受け入れ、表していけばいいんだ、ということですよ!
宗教、ことに一神教では、”神は絶対的である!“、と普通に言われ、信じられて来ました。
ここには、そういうことを説いている者が居て、信じ従う者が居る、という二元性があり、その言葉は、強固な相対性を表し、相克、不調和を生み出すものでしかありませんでした。
神の絶対性とは、一人一人の内面、実存に照らして明らかにされるものであったのです。
神は考える、信じる私を超えている、思いを超えているから絶対的なものなのです。
神は信じるものでなくて、信じざるを得ないもの、自然にそうならざるを得ないものなのです。
神と自己は一つのものとならざるを得ない!...”そうなる”ということは、そこにそうさせるものの、ある流入、ハタラキがある、ということです。
春ともなれば、枯れていた木にも芽が出て、葉が生え、花が咲く...そうさせるものによって、自然に!
我々は、時間的制約を受けて生きている者故、各々にその表出の時節というものはあれども、神的なハタラキの流入、本来の自己への目覚めの契機というものは必ずあると言っていいのです。
それは、自らの力を高めて行って、到達したり、新たに獲得するものでなく、本来からあるものなのです。
然るに、何故その真実性の不確かな、相対的な諸々の教え、方法(所詮は人がそう言っていること)などに迷わなければならないのでしょうか?
神の時、時節は待ち望まなければなりません。その音信が来るまでは!、来たら、流入があれば、回路が開かれれば、自然に、自動的となります。
何故待てないのだろうか?...私自身の本来性から来るものなのに...確実、絶対的なものなのに!...そして、あたら人生を無駄にしている、わけてもカルトに走るなんてこた、論外、周りにも有害なだけではないか!...
いや、かく言う私自身、もっともっと自分を高めて、成長させないと神の時は訪れない、神を待ち望み続けなければならない、という観念に囚われていました。まあ、それも時節待ちのことだったかもしれませんが...
しかし、本当に神の音信が来るまで待たなければならないのか?
私は確かに、それを感じながら待ち望んでいました。そう、ソコハカと感じる幸福感を!
それは、淡いものだったからか、意識的、自覚的でなかったのです。
僅かなものであっても、これを感じたなら、意識してみることです。
それが益々自覚的にハッキリ感じられることで、あれこれと迷わなくなります。
ラマナも言うように、幸福であることが真我であることで、それが我々の本来性なのです。
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二つで一つの道

2023-03-24 09:26:38 | 祈りと瞑想
宗教でもスピでも、道を歩む上で意識は主にどこに向けられるかと言えば、大体”自己なるもの”、本当の自分というものか、”神的なもの”、キリスト、如来などを含む、自己を超えたもの、ということになるでしょう。
それに対応した方法として、それぞれ瞑想、祈りというものが考えられている訳ですね。
私はしかし、そのやり方というよりも、もっとその根幹となるものとして、意識の在り方ということを重視しているのです。これが蔑ろにされたままだったら、やり方なんて言っても、ただやってるだけのことですよ!
だから私的には、”自己に、神に意識を向けていること”自体が瞑想であり、祈りと言っても過言ではないのです。
ラマナ.マハルシも、“私は誰か?”と真我を探求する道と、神への帰依の道を主たるその拠り所としていましたが、それは方法としてそれぞれジュニアーナ.ヨガやバクティ.ヨガがある、というよりも根本的には、その二つの意識の在り方を説いていたものと思われます。
私はご存じのように、主に神に意識を向けることに触れてきた訳で、それは自己に向けようとすると、すぐに自意識に囚われそうになり、それを超えたものなら自然に向いてしまうからだったのですが...
神に向けると、思われた私でない、私を超えた私そのものが顕わになる...又私そのものを意識することでも同様なことが!...もう、この二つは分けることが出来なくなってしまいました!...二つは一つのこと!
玉城康四郎先生の、”ブッダの原点に立ち帰ってみれば、禅(瞑想)も念仏(祈り)も切り離されるものでない”、という言葉が実に頷かされます。
この意識の二つで一つの道は、ラマナも言うように、直接的な道ということが出来るでしょう。
宗教やスピの世界で説かれる数多の諸説...”神、真我につながるには、各種のチャクラを開かなければならない”、”エーテル界やアストラル界などの幾つかの段階に応じた世界を通らなければならない”、といった、定かでないから諸説に分かれるような道とは、“直接“関わるものではありません!
この直接的な道は、数多ある道の中にあるものじゃないのです!
思われた私が居て、数多の方法や教えがあるのではありません!
私そのものとそれは切り離すことは出来ないのだから!...
これは、あの方法、この教えと違って全く定かなことではないか?
その道に触れた瞬間、幸福、安らぎが感じられるからに他なりません!
これが本当に実感され、意識に根付いたなら、定かでない、回り道、迷い道に迷うことはありません!
それが感じられずにどうして、道を歩むことなど出来るでしょうか?
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