人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イルミネーションの灯る日

2017-12-31 12:00:08 | 詩的文章
大晦日
さぶっi こんなにも寒いこの日などいつ以来だろうか?
外はもうシーンと静まり返っている...
朝から耳鳴りが激しい
ある時聞いたシンキングボールのように頭の中で反響している
いや、その共鳴場の中に自分が居るような感じ...
この寒さにめげず猫が妖しく呻いている
猫は愛おしさも、ダークさもあけっぴろげ
忙しく動き回っては、疲れたら何かにすっかりゆだねきる
ずっと半眼のままに...猫禅師
その眼は暗闇では、青白く光る全てを見透す小さなイルミネーション...

夜ともなれば、アチコチの街にイルミネーションが灯り、
吸い寄せられるように人々は集まってくる
それぞれの思いを乗せて...
午前零時前にはカウントダウンが始まる
一瞬、時間の束に空白が出来る
この一年の思い通りに行かなかったことも、思いに反してやってしまったことも
良いことも、悪いことも
皆この一瞬にブッこんじゃえi
集合意識の、個的意識の戦いもその一瞬忘れられる
一瞬、見えないイルミネーションが顕わとなる...

僕だけのイルミネーション
悪ければ悪いままに、破れていたら破れたままに映し出される
反省?...反省出来たのなら僕の世界はこんなではないよi
"一年を反省して、来年につなげよう"
なんて思いはあの渦の中へと消えてゆく...
僕はただそれに投げ出すしかない、ただひれ伏すのみ...
僕の世界の一触即発の危機は、破れかぶれでなければどうにもならない
吹き抜けていなければ、その光を受けることが出来ない
"このボロ屋の隙間風どうにかならないものか"
破れていたから知らされる...
この一年の最後にも、こうして向き合えることが出来るのを...
言葉にならない感謝と共に...

皆様にも光あらんことを


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大阪ゴッタ煮空間

2017-12-28 16:28:50 | 雑記
年の瀬ともなり、商店街が一年で最も賑やかな頃となりました。
先日、十条銀座に久しぶりに行きました。ある人が「ここは昭和40年代ぐらいにタイムスリップしたみたい」とか言ってましたが、その感はしかし、大阪の商店街の比ではありません。
大阪かいな...彼の地で働いていた時は、「ああ...東京が懐かしい...帰りたい」などといつも思っていたものでしたが...
休日の日は神戸か京都に出向いて、大阪なんぞにはちっとも足が赴かなかった...
いつも通りがかるだけの大阪...京都と神戸の谷間の大阪...
どこもかしこも平地ばかりの大阪..."土"らしいものなんぞどこにも無く、いつもほこりっぽい大阪...川なんて名ばかりで、淀んでいてちっとも流れていない大阪...見かけ日本で、その実カラ文化の大阪...カラ元気の大阪...日本中の俗っぽさ、下世話さがすべてそこに集まってるよな大阪...
成人男性の三分の一が"やーさん"みたいなやたらとケンカ口調で、声がデカイ大阪(人)...「ワタクシは、東京の(自称)精神的貴族階級です。一体その何が悪いんでゴザイマスか?」(大阪人をヒートさせずに置かない"標準語" おっ、ほっ、ほっ...)
とは言っても...
最近はやたらと、そんな大阪が懐かしく感じられてきたのはどういうことなんでしょう?
大阪は、そのウンとレトロ(イナタイ)で、ディープな商店街の印象ばかりです。
そうか、大阪は商人の街だったんでしたっけ...「儲かりまっかi」 今じゃ、このカラ元気?の言葉がアダになったように、どこの商店街も不景気風に吹かれているのかな...十年以上も行ってないので分からないですが...
私が印象に残っているのは、ほとんどは東部で、地下鉄谷町線沿いが多いのです。(東から谷町線、御堂筋線、四つ橋線沿いと南北に走るエリアがあり、西側に行くにつれ少しずつ土地が低くなる)
適度にゆったりして、適度にイナタい昭和の薫りが漂うのは、谷町、上町台地のエリアに集中しているのです。
大阪市の北よりの千林商店街。「せんばやーし、しょーてんがーい...」という阪急二番街だかのそれをパクったようなテーマ音楽が流れる。
そこから枝分かれする、イマイチな今市商店街を合わせると、日本一かとも思しき天神橋商店街のエリアに次ぐ広域ではないでしょうか?
何故だかつい足を運びたくなる雰囲気があり、仕事上毎月通わされるようにいつも何かに仕組まれているようでした。
谷町線の「天六」(天神橋筋六丁目)駅周辺は、上記のマンモス商店街の北端ですが、周辺を合わせたらスンゴイ規模に圧倒されます。
南北に鉄道で三駅くらいに跨がっているので、一日中うろついてても飽きないくらいです。
私はここにあったレンタルビデオ屋さんに毎週のように通い、古い日本映画(ここでしか借りられないものが多かった)を観まくったことがあります。その近くの行列の出来るお好み焼き屋さんへは結局行かずじまいでした。
"谷六"(谷町六丁目)の東西に走る空堀商店街は、初めて行って何とも不思議な気分にさせられました。
何かがオカシイ...あらま、尾根のように周囲から少し高くなった筋に商店街が並んでいるじゃありませんか? こんなの他所で見たことありません。
その両側の低地?には、長屋のようなふるーい民家が並んでいます。これが不思議さを引き立てているのです。
何でもこのヘンな商店街は、その名が示すように、堀を埋め立てた跡だったそうです。
"谷九"は、"上六"へと続くエリアでこの辺が如何にも上町台地って風情があります。近くに聖徳太子ゆかりの四天王寺があるのですが、この辺りから難波宮跡がある「谷四」辺りにかけて飛鳥時代幻の都があったそうです。
先の千林といい、ここの辺りといい、何で私は惹き付けられてしまうのか?
もしかして...太子伝説と関係があるのか?とも感じたりするのですが...
千林の方にもそうしたものが伝わっており、"太子橋今市"という地下鉄の駅名にもなっています。又地形的に上町台地の南に延長している、阿倍野の桃ヶ池にも大蛇を退治したとかの太子伝説があります。
大阪のこの辺りの街並みには、京都のように古来の神道的なものと仏教的なものとが整然と分かれている様でなく、雑然としていてゴッタ煮という感じです(大阪の人はお好み焼きでも何でもとにかくグジャグジャにかき混ぜたがる)。日本のようで日本でない、カラのようでカラでない...そして聖も俗もごっちゃ...古来よりおおらかで雑多なものが息づいているのでしょう。

こうした商店街界隈で、今はどのくらい残っているのか分からない、古本屋さんで目ぼしい本を買って、喫茶店で忙しい時間の谷間の一時...得難い貴族的時間。
そこへヅカヅカと侵略者が...大声で捲し立てるようにガナるオバンi "どこそこの店メッチャ安いでi"
"うっさいi...しっかし...さよか、ほな帰りに行ってみよっと..."(私のトレード、ヘンな大阪弁)
ゆったりも"ガガー"も大阪の思い出です。

コメント (4)
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自分との和解

2017-12-26 18:31:32 | スピリチュアル
"ある人のことが憎たらしくって治まらない...
でも...人を憎んだりしてはイケナイ...
人はよく思わないし...それは神にもとることだから..."

というようなことは、良心的な信仰者などは一度は思い、葛藤を抱えてしまったことがあるでしょう。
実にストレスが溜まる話ですよね。
そういう時は、一思いにその人を...
"ブッ殺しちまえばいいi"
も、もちろんそれは、思いの中でってことですよi だけどそうしたくても、善なる思い(ホントーに、ホントーにそういう思いってあると思います?)がブレーキをかけてて、胸の辺りがモヤモヤしているんでしたね。
これを神の名において、神にあって...要するに神を意識してやってみるのです。(神と共にということが肝心です。そこに許しがあるということです)
なるべく、その憎っくき相手の顔をアリアリと思い描き(容易く浮かび上がるものだ)、具体的にリアルに殺害状況をも思い描く...私は計画殺人なんてのはムリですi 右京さんの顔がすぐ浮かびそうで...直情的なのでもう、ナタか金ヅチで、バキバキ、ガンガン、ギューギューで、"アイ.アム.ブルーザーi"
"アッ、動かんi 誰も見てない!...いや、見ていたi あのすべてを見透す目が..." もう、隠しようが、逃れようがありません。
誰にもナイショにしていた自分のなかの悪い思いが、明るみに出されるのです。
自分自身の心をも偽り、覆い隠していたこの否定の思い...それに向き合い、認めてあげることで、いつの間にか悪いものが消えてしまいます。
消えるのは憎っくき相手じゃありません。自分の思いですi ここを誤解することで世の中に悪(と思えるもの)がいつまでも増幅し続けるのです。
又、思っているだけなのに自責の念に駆られるかも分かりません。"神の怒りが...神は許してくれない"という...
だったら、いっそのこと神に罰されることを祈ってみたらいいでしょう! ずっと罪意識に苛まれるくらいなら...神のそのすべてに及ぶ力というものを、この身に下してもらおうじゃありませんかi
おそらく、居るのか、居ないのか分からない神の守護を祈っている時よりも、人生で初めて真剣に、意識的に祈れるかもしれません。
"意識的になる"...それは向き合うことです。
善なるもの、清いもの、完全なるもの...思われた神の属性であるかの如く思念で塗り固め、その下で悪く、汚く、不完全なものとして封印してきた思いに向き合うのです。
逆説的ながら、かたチンバなる完全さというものは不完全なのですi
観念のフタの下からはカタワなる神ーサタンが、闇の勢力が、善なる神に立ちはだかります。
神が本当に居るか、どうかはバチでも当たってみたら分かりますi "ドヤi 当ててみいi"
逃れようがないのだから、開き直るしかない...そうですi 本当に開かれるのです。思いの壁が...
そして、あれほど囚われていたことが、アッという間に熔解してしまうのですi 神に対しての偏った"不完全な"思い込みも...
神的なハタラキとは、無のハタラキです。思いが無化されるところから開かれるのです。
神は如何なる思いも超えているのです。示されたことを受け入れる、認めるしかありません。ネガティブな悪しき自分も...
すると、もう生まれ変わったようになります。しかし、一時的にそうなっただけで元の木阿弥になるかも分かりません。
で..."ああ、やっぱり私は..." そう、じゃないi 自分でどうなる、こうなるってことじゃないのですi
こうしたことを通して、"自分は無力だ"ということを分からせてもらうということなのです。
"自分で何とか出来る、自分は常に正しい、悪などナイ、ナイ" "神は自分が思っている善と光の世界にしかお在さない" その限定された思いがリアルな現臨から遠ざけているのではないでしょうか?
"神はこんな悪い、汚い世界には居ない" それが地獄的な想念を作り出しているのでしょう。
自分自身に向き合うことは、とても勇気がいることで出来ない? 向き合わそうとするものにコミットしてみる(乗っかる)。
何だって? そおいう思いを超えたナントカが信じられない? ウソをおっしゃいi 神の裁きが恐くて夜も寝られんくせにi
これは、我々の中に根強くある(神の愛を信じることよりも)否定の念を逆利用するようなことなのです。
我々の世界の平和は、自分との和解から生まれるのでしょう。




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Xの祈り

2017-12-24 11:37:30 | 祈りと瞑想
「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にあることが分かるだろう」(ヨハネ伝第14章)

今年も"X"の日を迎えようとしています。
私は毎朝祈りを欠かしたことが無いですが、それは全く形式的なものです。
それ以外決まった時間に祈ったり、瞑想したりすることが無いですが、特にどうにも気分が落ち込んでいたり、迷っている時など取り合えず、祈ってみたりします。
その場合は特別な祈りの文句がある訳ではありません。フッと意識が祈り的な方に切り替わるようなことです。
言い替えると、身に覚えているものを意識するようなことです。
これは誰にも分からない"X"の祈りみたいなものです。
すると...アッという間にジンジンと、全身心にあの息吹、バイブレーションに包まれることしばしばです。
これは、そういうことをこうして書いている最中にも起こることなのです。
直ちにこの現実が...リアルに現わなものとならざるを得ません。現在に臨むのです。
(文章に段々脈略が無くなってきそうです)
そして、時にそれが深くなると、"あの御方"の中にあるという感じになります。
あの御方とは、イエスとかブッダ、阿弥陀様、産土の神スサノオ...どの御方、ということが出来ません。
私には限定することが出来ないのです。"X"なる御方なのです。
障てるもの無く、普ねきところに生きている方であっても、多様に別々に分かれている訳ではありません。
こちらを捉える時は、どこまでも単一に、純一にハタラキたもうのです。私がこの世に唯一の者であるように...
しかも、ただ一つあるだけでなく、そこにはすべてが内包されてある...
すべてで一つの御方としか言い様がありません。
この臨在は私の内なるものを開き、浸透し、ずっと世の初めから私と共にあり、内住していたことを明らかにします。
私の内も外もこの御方で満たされてしまう...
深い祈りというのは、深い瞑想と同じなのです。
祈りも瞑想もそれ自体に意味があるものでも、ある精神的境地、あるいは悟りを目指しての方法というものでもありません。
どこまでもそれは、"私の内にも外にもこの御方がある"ことを知らしめることばかりではないでしょうか?
この御方無しに、目覚めや悟りや霊的進化があったとして、真理が分かったとして何になるだろう...
この御方の息吹の中にあって...このすべてで一つの世界が...
そう、世界...この目に見える幻想と混迷に満ちた世界が、あの普遍調和の世界へと化せられていくのをヒシヒシと感じています。

今、世界はあなたの中にあります
外なる世界はあなたを知らなくとも...
しかし、やがて懺悔と歓喜の涙と共に知らされるだろう...
外にあるものは、内にあるものとなり、
内にあるものは、外にあるものとなるのを...

その日は...X






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無教会と聖霊

2017-12-23 10:08:24 | キリスト教関連
「聖霊が心の内で教えるのでなければ、説教者が外から教えたり、説教したりしても無駄である。...聖霊がその人を内から照らすのでなければ、キリストに至ることはありません」
「聖なる教会は、信仰において隅石イエス.キリストの上に建てられた、霊的な、見えない集まりであり、その成員は全世界において、...あらゆる民族、異教徒、そして異なった言語を話す民の中に見出だされます」(ヴァレンティン.ヴァイゲル/キリスト教についての対話)

V.ヴァイゲルは16世紀頃のドイツの神秘思想家ですが、その語られる言葉は、17世紀英国のクエーカー派の創始者ジョージ.フォックスを彷彿とさせるものがあります。
こう書いて、いかにもフォックスが唐突にクエーカー集会を始めたように思われますが、実際はそれまで存在していた非組織的な集会を再編成した、と言った方が近いかも知れません。クエーカーには源流があったのです。
中世の後期、ドイツ、フランス、北部イタリアに跨がるライン川の周辺のアチコチに、教会組織を持たない小規模の集会が出現しました。
何しろ資料が少なく実体はよく分からないのですが、比較的有名なのは、ベギン会、ワルドー派、自由心霊派などで、これらは形骸化した教会体制への不満から、霊的生命に根差した原初的なキリストの道に立ち返ることを謳い、教会組織を持たないルーラルな集会を展開していたのです。
クエーカーはそれらが英国に伝播した流れにルーツが求められるでしょう。
クエーカーはその創成期の在り方ではないにせよ、今日も存続していますが、その源となったものはほとんど姿を消してしまいました。
この頃活躍したドイツの神秘思想家ヨハネス.タウラーは、「神の友」という信仰団体の中心人物で、その団体は「ドイツ神学」という題名で知られる書物の作者とも関わりがあったようです。(両者ともドイツ最大の神秘思想家マイスター.エックハルトの顕著な影響を受けていました。又ヴァイゲルはこれらの、カソリックでもプロテスタントでもない、裏の道統にある人でしたが、一方でパラケルススの錬金術との関わりから、やや後に表れたヤーコプ.ベーメに道を開いたのです)
我が国には、所謂「無教会主義」という集会の形態が知られていますが、上記の団体は欧米では新、旧の教会側からは、そうした公然と認知されることすらも叶わなかった、全く教会の外にハミ出した者たち、異端としてしか見なされない本当に教会無き信仰集団だったのです。
だが、皮肉にもこうした有り様こそがキリスト.イエスの原初的集会のそれに近いものなのでした。
そもそも教会の原義は「エクレシア」といい、呼び集められた集団のことであり、主なるキリスト、聖霊によって集められた者たちといった内実をもっていたのです。
ついでながら、明治期の内村鑑三先生の「無教会」も当初はこうした理念を掲げていたはずだったのですが、その形式に捕らわれない集会の在り方はおそらく渡米の折、クエーカーに触れたことに影響を受けたものと思われます。
ただ、その後はあまりに「聖書の研究」(内村先生が出された雑誌名)に重きを置きすぎてしまったか、聖書研究会といった赴きになってしまいましたが...
エクレシアというものは、そもそも霊的生命である聖霊のハタラキとともにあるものではないでしょうか?
聖霊との交わりに集う者の意識が向けられれば、外的な組織や制度、儀式などへの囚われは薄くなり、ひいては教義への固執からも自由になってくるでしょう。
無教会は、「無教」にも通じるのでしょう。
ヴァイゲルの上掲の言葉は、意識が聖霊により変容された状態をよく表していると思います。
即ち普遍調和世界の音信を伝えているのです。
それは単に教会が無いということではありません。"見えざる教会"なのです。
それは死んだ教会建造物ではありません。生ける有機体です。エクレシアたる教会は"キリストの体"と言われるのも頷けます。
しかし、この歴史に埋もれた"見えざる教会"の消息は、キリスト教にとどまらない普遍世界の開示の雛形であった、と感じざるを得ません。
今日、その出芽はそこかしこに見出だすことが出来ます。


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