私は精神的な道に関わるようになって、かつては真理の探究だとか、悟りだとか、何が真の、正しい道なのか、といったことに随分拘っていたところがありました。
それも最近はすっかり後退した感があります。”そんなことなどどうでもええわ!”と心底思えてきます。
だって、それが愛、平安と結びつかなければ何にもならないじゃありませんか?
愛、平安とくればリアリティというのはどうなんだ?、ということになりそうですが、私はこの三つのことは、別々のものとして言い表していないのです。愛、安らぎの感じられないリアリティというものは無い!、だから愛、平安はかくもリアルなものなんだ!
逆説的ですが、それが究極の真理というものなのでしょう?
真理の探究だ、悟りだ、なんだと躍起になってても、留まることを知らず、落ちるところがありません。 いつ獲得出来るのか、境地に到達するのか分かりません。
それが嵩じると、不満足、不十全感がつのり、神的なもの、そのダメな自分自身に対しても不信感が起きたりして、不幸を背負ってしまうことにもなりかねません。
何とご苦労さんなことじゃありませんか?
こういう歩み方というのは、最初からその神的なものを信頼していなかった、ということが言えるでしょう。真摯に意識を向け、祈っていた訳ではなかったのです。
つまり、真理というものと神は切り離されていたということでしょう。
もし、真摯に神と向き合っていたなら...幸福則ち~愛、平安、リアリティを感じずにおれなくなるはずです。神を離れてそういうものなどあろうはずが無いのです。勿論、悟りというものも!...誰も神的なもの無しにそれらに与ることは出来ないのです。
こうしたことを言い換えれば、真理といったものを対象にして、追い求めるので無しに、神を自分に、否”神の方が自分にハタラキたもう”ことを意識するということになるでしょう。
つまり神を対象にしないということ...神は本当は対象にはならないのです。
そこには、神を対象にする、神そのものでない何かを得んがためにそうしようとする自我意識ばかりがあるのです。自我とは、自分と自分以外のものを分けようとするものだから!
神は本来、その自己を在らしめるもの、自己と切り離されないものなのです。
そして、神と切り離された時、愛、幸福を失ってしまうに至るのです。
だからいつも言うように、思い、為そうとする自分からは、何も始まってこない、開かれてこない、というのです。
然るに、宗教だとか信仰だとか散々語られていても、神そのものは、神棚に上げっぱなしになっている事態が何と多いことか?
私はますます、神が私にハタラキ、顕わになってくるのを感じて、かく言い表さずにおれません!
それも最近はすっかり後退した感があります。”そんなことなどどうでもええわ!”と心底思えてきます。
だって、それが愛、平安と結びつかなければ何にもならないじゃありませんか?
愛、平安とくればリアリティというのはどうなんだ?、ということになりそうですが、私はこの三つのことは、別々のものとして言い表していないのです。愛、安らぎの感じられないリアリティというものは無い!、だから愛、平安はかくもリアルなものなんだ!
逆説的ですが、それが究極の真理というものなのでしょう?
真理の探究だ、悟りだ、なんだと躍起になってても、留まることを知らず、落ちるところがありません。 いつ獲得出来るのか、境地に到達するのか分かりません。
それが嵩じると、不満足、不十全感がつのり、神的なもの、そのダメな自分自身に対しても不信感が起きたりして、不幸を背負ってしまうことにもなりかねません。
何とご苦労さんなことじゃありませんか?
こういう歩み方というのは、最初からその神的なものを信頼していなかった、ということが言えるでしょう。真摯に意識を向け、祈っていた訳ではなかったのです。
つまり、真理というものと神は切り離されていたということでしょう。
もし、真摯に神と向き合っていたなら...幸福則ち~愛、平安、リアリティを感じずにおれなくなるはずです。神を離れてそういうものなどあろうはずが無いのです。勿論、悟りというものも!...誰も神的なもの無しにそれらに与ることは出来ないのです。
こうしたことを言い換えれば、真理といったものを対象にして、追い求めるので無しに、神を自分に、否”神の方が自分にハタラキたもう”ことを意識するということになるでしょう。
つまり神を対象にしないということ...神は本当は対象にはならないのです。
そこには、神を対象にする、神そのものでない何かを得んがためにそうしようとする自我意識ばかりがあるのです。自我とは、自分と自分以外のものを分けようとするものだから!
神は本来、その自己を在らしめるもの、自己と切り離されないものなのです。
そして、神と切り離された時、愛、幸福を失ってしまうに至るのです。
だからいつも言うように、思い、為そうとする自分からは、何も始まってこない、開かれてこない、というのです。
然るに、宗教だとか信仰だとか散々語られていても、神そのものは、神棚に上げっぱなしになっている事態が何と多いことか?
私はますます、神が私にハタラキ、顕わになってくるのを感じて、かく言い表さずにおれません!
いつ鳴る世でも、悟り人は、即座に理解して、現世の理論の者は、その価値が理解出来ません。それは、抑えて、理解は不可。自ずと悟らねばならぬ世界。出口聖師の教えを実践する輩では、不可能。
何故ならば、神に教義無く、須らく、善悪を含み!、残虐にして、穏やかな優しさがある。人には、理解不可。
人には、カルマあり。思考とは、現状。思考が無くなれば、即ち、無双。