人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨感が深まると...

2024-11-05 09:24:32 | 現臨、ハタラキ
私がいつも書いている神的な現臨感というものですが、このブログを始めてからより顕著になってきたのは確かなことです。
これが、日常のどういうところに感じられるかというと、読書とかある文章を読んでいて、読むことに困難を覚えるような時です。
例えば、スピ系のものでしたら、死後の世界がある、前世というものがあると、あることを前提にした予見に基づく言葉で表され、又そういう世界を思い描かなければならないような時です。
これが思い描けない!...それはもう生理的なことと言ってもいいのです。
そういう風に思考回路が働かない、意識が赴かないのですよ。
そういうことを思おうとすると、それを遮断するようなハタラキを覚えるのです。
それはまるで“考えなくてもいいものは考えなくていい“、と告げているみたいに...
そして、“思いを超えたものとはこんなものだ、と言わんばかりにあの現臨の雲みたいなものが立ち込め(ユダヤ教ではこの感じを“シェキナー“と呼ぶ)、それに覆われるようになるという訳です。
だから現臨感があることは、思いから離れることなのです。(無くなる訳では無いですよ)
これは又、“ここ“に落ちないもの、離れたもの、どこにも行き着かない抽象観念のようなものは意識されることが無い、ということが示されるようです。
だから現臨感があることは、意識的な状態ということなのです。
だからと言って、こういう状態の時は思考が働かないということは無く、私は、コ難しい宗教哲学の本とか毎日のように読んでますよ。
ただし、その場合でもその著者のコ難しい表現の向こうにある、ある地点に行き着く、落ち着く場所に意識が向けられるのです。行き着かない、落ちないことは考えられません。
その行き着くところは、論理的帰結されるところで無いのは言うまでもありません。(論理に終始するような文章は、最初から生理的に無理です。頭ワルイもんで...)
そういう風にして、自ずからこの場合、書かれたものについてのある取捨の判断というものが生まれる訳ですが、それが正しいのかどうかは分かりません。
私はただ、そこに臨むもののままに導かれるだけなのですから!...
しかし、このように書いて来たことは、本当は私がそのまんま丸ごと、そのどっかに行き着く、落ち着くようなことについては、まだ言及していないのです。
そうなったら、本当に何も考えられなくなります。活字を読むことも不可能でしょう。
それは、私が“神の手に捉えられる“、と呼んでいる状態のことで、今の感じから言うと、普通に日常生活を送ることも困難になるのですが...そのうちある程度適応可能になるようにも感じています。(オレはまだ普通に人間として生きたいんだよお!)
そうなるかどうかは我が主のみ心次第なのです。
ただ、だんだんと深まって、落ちてゆく感じがする、この秋なのです!...






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預言者と祈りの精神

2024-11-03 10:01:57 | 現臨、ハタラキ
「主の栄光は、神の本質ではない、神の現臨である。神の属性ではない、行為である。実体ではない、過程である」(A.J.ヘッシェル「人間を探し求める神」/教文館刊)

私が霊性の道において、常に問題にしていること、意識させられていることは、例えば、そこで悟りに与る、神と一つになるには、我々の欲望、思考マインドから離れなければ、捨てなければならない、高い次元へと超えなければならない、という命題が示されたとして、この一個なる限界を持った自分が手放しでそんなことに着手することなど出来ない、ということであり、又、“人間は本来神と一つなのです。あなたという個人は本来存在しないのです“、と大上段から説かれても、手放しでそんな境地になどなれるものでない、ということなのです。
かくしてその界隈には、“やって出来たつもり“、想像しただけの神、霊界、悟りの道などが溢れかえっているのが現状なのではないか?...
我々は、この限界を超えなければ、霊性は開かれないとして、それは、その超えたもの、御自らが我々にハタラキかけて下さなければ叶わないことなのではないか?...
だから、私は神の現臨ということを強調せざるを得ないという次第なのです。
私は、いつもそれをキリスト教方面で言い慣わされているものから借りた、と言っているのですが、もっと直接的に借りているものを突如思い出しました。
それは前世紀の米国のユダヤ系宗教哲学者、A.J.ヘッシェルの言葉からなのでした。
ヘッシェルは、西欧哲学は、ギリシア的、静的、主知的傾向が強く、ヘブライ的動的、預言者的精神に欠けるので、霊性そのものを閉ざしてしまうことに警鐘を鳴らしているのです。
これは、ただでさえ思弁的な哲学の世界についてのみならず、宗教、スピの道全般についても言えることではありませんか?
これは、ベルジャーエフが随所で語っていた存在論、実体論を優位にした思想に対して、創造的アクト(これは行為というよりももっと根源的なハタラキ的なものであろう)、形なきハタラキ的なものを強調したことと相通じるものがあるでしょう。
ベルジャーエフ(彼には同じくロシアから革命により亡命した、親交のあったユダヤ系哲学者シェストフよりもはるかにヘブライ的なものを感じる)もヘッシェルも、預言者的な精神に貫かれた哲人であったのです。
では、その預言者的、ヘブライ精神とはどういうものなのでしょうか?
ヘッシェルの本を読んで感じたことは、実はユダヤ、ヘブライ的なものが特殊で、霊性に近い精神ということではないのです。
ギリシアでも、東洋的なものでもそれだけで、霊性から遠いと言ったらあまりにも紋切り型に過ぎるでしょう。(私は、遠い先祖は、ユダヤかもしらんが日本人なんだぞ!)
預言者的ヘブライ精神とは、旧約の民とは端的に言えば、よく祈る民だったということなのです。
「主とその力を求めよ、主のみ顔を絶えず求めよ」(詩篇105)
預言者とは、神のみ前にへり下る人たちであった。彼らは、人間の限界を弁え、思い、力を超えたものを切に求めてやまなったのです。
原始キリスト教がこの精神を引き継いだのは論を待たないでしょう。
否、いつの時代でも、どんな宗教的世界でも啓示と祈りは、切り離されるものではないはずなのです。
霊性の道が開かれるか、閉ざされるか...この二つの道がハッキリ分かたれている様相を映し出す今日こそ、神を待ち望み、臨みたもう、祈りの精神が生きて来るのではないでしょうか?...





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超越にして内在

2024-10-31 09:42:50 | 現臨、ハタラキ
「創造する私にとっては、超越者とは内在的存在者のことであり、超越するとはかえって内在的になることなのである」(ベルジャーエフ)

神は人知を超えた存在、超越者として普通に信じられていますね。一方では、神は我々の内に在ると説く者もおります。
それを巡って”どっちが正しいのか”、なんて議論を戦わしてるヒマな人らも居るようです。
私がいつも言っている、”神の現臨”というのは、前者の代表とも言えるキリスト教方面から借りた表現なのですが、実はこの感覚そのものは、そのような区別などつかないものでして、”ここに臨在するもの”、としてこの二つで一つのことを含めて言い表しているつもりなのです。
この感覚が芽生え始めた頃から、内在するもの、中から何かを促し、催してくるものの感じはあったのです。
当初は、多分に倫理、道徳感と結びつく良心的なもののように感じていたのですが、その呵責とは関係無しにハタラクのを覚え、いつの間にか区別されるようになったのです。
いやもう、本当にこの超越的なものと内在的なものは切り離すことが出来ません。
神的なものを意識すれば、中から立ち上がって来るものが感じられ、内なるものを意識すれば、もうそのこと自体、自分が超えられてしまうということになる、という如くに...
とにかく、神的なものが現臨することは、自己実存が開かれることと一つのことなのです。
これを意志想念で、そう思おうとしたってそうはならないのです。それでは超越神や内在神を思い描くだけでしょう。
しかし、そこに順序として、まず自分の外(上)から臨んで来るという感じが最初にあるようです。
大体が、小池先生がよく言われる、”圧倒される”ような事態に出合わされることが多いようで、これは、正に考え、為そうとする自分からは、けっしてそうならないということを示しているのでしょう。
超えるということは、けだし思いを超えるということに他ならないのです。
そこで、ベルジャーエフが随所で語っている、霊性が開かれる上にも重要なこととされる、”創造的行為”のことについて、私にはどうもそれが意志想念で為されるものなのか、それを超えたものなのか、これまで判然としなかったのですが、それは、冒頭の言葉から創造的行為の主体者は、為そうとする自分のことでは無く、超越的にして内奥から発するあるものであることが知られるのです。
これはもう、超越者なのか内在者(こういう言葉はほとんど聞きませんが)分かりません。
要するに、神的なものなのか、真我的なものなのか分からないのです。
おそらく、それは(ベルジャーエフが好んで言及していた)”神人”の為せるものなのでしょう!...



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神の現臨なかりせば...

2024-10-26 10:25:13 | 現臨、ハタラキ
私がいつも精神的な道について書いていることは、もうほとんどが“神と共にある“ということについてと言ってもいいのです。
このことを主に、“神的なものが臨む“と言い表しているのですが、いつも言うように、神という言葉に拘る必要は無く、要するにそれは、自分の思い、力を超えたものなのだから、何か分からないものだけれど、アリアリとその現前、現臨は感じられるものなのです。
これは、私が考えたドクトリンのようなものでも何でもなく、イエス、ブッダ、老子始め、これまでの幾多もの、有名、無名のその道の教師などが伝えていたと言ってもいいでしょう。
しかし、数多もの宗教書などで、言葉に置き換えられて表現される時、正にそれが言葉に言い表され得ないものである故に、その中身が伝わらず、その意義も軽んじられ、蔑ろにされ、合理的に解釈されてしまう事態になってしまうことを私自身いつも通説に感じてならないのです。
このことが抜け落ちると...例えば、霊性を開くには、思考マインドから離れなければならない、意識を集中しなければならない、姿勢を正し、呼吸を整えなければならない、決まった祈りの文句を唱えなければならない、そして又、特定の神を信じ、拝まなければならない!...
と、このように思い、為そうとする自分が信じ、従い、為すことばかりが手動になってしまうのです。
しかし、神が臨むということは、既に霊性の道においては必須の条件とも言える、思考を離れて意識の統一が成されているということなのです。
それは言うまでもなく、こちらの信じ、従い、為そうとする意志想念を超えて、すべての“ねばならない“ことから自由に、そのものが手動となって、自ずとそうなるということなのですが...
私なんかは、僅か数分ですら、精神を集中することなど出来ません。
そういう気根が無いからこそ、それが如何に困難なことかが分かるのかもしれません。
ああ...このことを思うともう、他人行儀なことなど書けなくなってしまうではありませんか?
神の現臨なかりせば...
私はもしかして、コペルニクス的、革命的なことを書いているのだろうか?
それは、ですからイエス、ブッダ、老子の昔から言葉を超えて伝えられて来たものに他ならないはずなのですが...
到底、私には与り知れないことなのに!
ただ、私同様に自分が思い、為すことに限界を感じておられる多くの方には、この言葉に言い表せない、この驚くべき恩寵の事態の某かのことは、伝わることを信じ、願い、こうして書かされている次第なのです。...







                                               
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私に臨む神しか知らない

2024-10-06 09:21:21 | 現臨、ハタラキ
「私たち人間は神を知ることなど出来ないのが本当です。もし神を知ることが出来るというならば、それは神自らがご自分を現し、目に見えるように私たち人間の世界にやって来たもうからです」(手島郁郎)

いつも言うように、神がなんであるかは、人間の思考を超えているから分かりません。
思考している自分が分かった、と言うのはただ、そう空想しているだけなのです。
その神が自ら私たちに直接臨みたもうことほど人生で、画期(活気)的なことは無いと言っていいでしょう!(その有り様で、目に見えるように神を知るとは、思いを超えた世界においてであるのは言うまもありません)
私は手島先生に同調して、”私は、私に直に臨んで、顕わにされる神しか知らない!”、と言わずにおれません。宇宙の意志だとか法則のような神のことは知らないし、知る必要もありません!
又、神と一つになるとか、神人合一だとか、ご大層なこと言えた義理などありません。到底、手につかぬ自分のダメさかげんを知る故、そういう境地に達したことは勿論、目指したことも無いのです。
一個なる自分が、それを目指そうとも、そうならないのが本当ではありませんか?
思い、為そうとする自分は、それを超えたものと切り離される故、その一個なる自我に閉じ込められ、その自己を超えるという衝動は、自我の強化、肥大につながるものとならざるを得ないのです。
然るに、否応無しに、終末の様相を映し出す現代文明は、こうした”神無き”意識状態を表しているのではあるまいか?
しかし、その中にあって、どうにか我々の”かくある姿”らしき本来性のようなもの(人間らしい人間の有り様)が存しているのは、意識の深部では、神的なものと切り離されていない自己の”原態”が生きづいているからではないでしょうか?
つまり、この原態が完全に失われるならば、我々は我々で無くなる!...得たいの知れないモンスターと化するか、その性質上、自滅するよりないでしょう。
しかししかし、今、こういう今だからこそ、神は我々を超えた上からも、我々の中からも、ご自身を顕わにされようとしているのが感じられないでしょうか?
それは、神が上から臨むことと、我々の内なる本来からの望みとが合わさることを示しているのでしょう?
だから、神に意識を向け、祈ること、我々の祈願は、神の本願と切り離されないものなのでしょう?!

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