人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の現臨無しには...

2025-03-01 05:56:41 | 現臨、ハタラキ
私の精神的な歩みというのは、五井先生の教えの通りに導かれたと言ってもいいのです。
それを意識していたという訳では無かったのですが、思い返せばそういうことになっていたのを感じざるを得ません。
例えば、いつも祈りをし続け、神を呼び起こし、自分からどうこうしようと思わなくとも、神に導かれるようになり、諸々の思いは神の中に入れて消してゆく、というように...
祈りを通して、主我的なものの主導でなく、神的なもの主導になってゆくようなことです。
ただ、それは五井先生が説かれる、その言葉の通りということでは必ずしも無いのです。
例えば、私は神的なものを“守護霊、守護神“という存在としてはあまり捉えてはいませんでした。そういう導きがあるには違いないのですが、段々そういう実体あるものという感じ、思いからは離れて行ったのです。
又、五井先生の、“神と言っても、普通の人には捉えにくいものですが、世界平和なら誰もが願っているのだから、世界平和の祈りを通して近しく感じることが出来る“、というような説明は私にはあまりピンと来ないのでした。
神を身近に感じるには、神は自分自身と切り離されないもので、神は自分のまわりにも中にも働いている、というように導かれることではないか?...少なくとも私の場合はそうだったのです。
神を意識することは、自己実存を意識することと一つ...
これは、端的に言えば、神的なものが自己に臨む、神の現臨ということを通して実感されることなのです。
私の精神的な道、霊性の道はすべて、このように祈り、神の現臨によって開かれると言ってもいいのです。
神に思いを入れて、消してゆくということも、自分が為すのでは無く、それ自体によって為されることであるのは言うまでもありません。
先生の教えは、益々危機的状況へと進んでゆく世界情勢を背景に、徐々に世界平和の実現という方に教えの力点が置かれるようになったようにも思われます。
しかし、宗教の根本は、本心の開発なあることはずっと説かれていたのも確かなことでした。
一人一人の平安無しには世界平和などあり得ないものでしょう。(五井先生の教えの根幹はそういうところにあったとは感じていますが...)
これは、自分の思いを超えた神の現臨を感じたなら、自己と世界のことも一つのように感じられて来るものでしょう。
世界とか人類と言っても、抽象的な捉えどころの無いものでは無く、私に直に感じている神と切り離すことの出来ないもののように感じられて来るはずです。
神無しには世界平和の実現などあり得ないではありませんか?
この意味で、私にはどうしても神の現臨無しにはすべてのことは始まって来ないのを感じずにおれません!...
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裏側からの裏付け

2024-11-22 09:54:48 | 現臨、ハタラキ
私がいつも書いている、例えば“思考が超えられる、そこに神的なものが臨む“、というようなことは、言うまでもなくそれは、“ああだろう、こうだろう“とか、私が考えたことを書いているのではないのです。
元より言っていることに理論的裏付けなど無いし、それを求める必要もありません。
いや、私の理解も十分ではなく、表現も適切では無いのかもしれません。
しかし、そこには玉城康四郎先生が言われたように、表側の私でない“裏側“からの裏付けがあるのです。この裏側から来るものが正に思い、為そうとする私を超えた、神的なものに他なりません。
だから、私は“霊性を開くには思いを超えなければならない“、と言葉の上でそういう風に取れてしまう言い方をすることもあるかもしれませんが、現実にはそれは、裏側からのハタラキ無しには不可能なのです。
しかしながら、この思考次元を超えること“のみ“に関して、あるいはある種の修行方法によっては可能かもしれません。薬物の使用によっては現に可能な訳でしょう。
だが、私はそこにどんな危険、魔境が待ち受けているのかと思うと寒気がして来るのを覚えます。
又、悟り、覚醒を目指しての瞑想修行などでは、自己意識というか、“私は在る“という意識があるうちは中途の段階なので、そういう意識は超えなければならない、と説いている向きもあります。
一体彼らは悟りについて何を求めているのでしょうか?...幸福?、安らぎ?、それとも常人が到達し得ない、究極の悟りの境地とか?...
普通に考えてみれば分かるだろう!...自己というものが無ければ、それであらゆる苦しみも悩みも無くなるだろうけど、幸福、安らぎ、何かの境地に達する自分も無くなるということなのですよ!
これは、全くの人間としての在り方の終焉、死に等しいこと、廃人になる道という他無いでしょう?
私はこれまで、数回いづれも一過性のものでしたが(そうでなきゃたまったもんじゃないですよ!)、そういう“私はここに在る“という感覚が無くなりそうになった(完全に無くなったらどういうことになっていたか分かりません)ことがあるのです。(勿論自分が望んでそうなった訳じゃないですよ!、何かの経験としてそうさせられたのか?)
全く思考も感情も無い!...幸福、平安、リアリティというものも何も感じられない!
これは端的に言うと、神的な現臨の無い意識状態ということなのです。魂を持たないゾンビのようなものでしょう。
これでハッキリと裏付けられるのです。自己実存というものは、超越的な現臨あってのものだということが!
だから私は、悟りとか覚醒といった、煌びやかなイメージに幻惑されて、こうした危険な現実のことを考慮しないような心持ちは、所詮観念のお遊戯に耽っているだけのように感じてならないのです。
何よりも自分の力、想念意志によって悟りが開けると思うこと自体が幻想なのではないか!
だから、私は霊性は神的なもの無しには開かれないということを強調せざるを得ないのです。
又、そのことが危険な魔境的な状態に陥ることからあなたを守ることになるのです。
私はここで何度となく、霊性の道を開くには“祈ること“と言ってきました。
何かの瞑想でもいいでしょう。だけどそれには得てして、神的なものと結びつかない、ただ“超えることだけ“が独り歩きしているものもあるようです。
これはですね、先のアブナイ道に陥らないための道義的な意味だけで言っているんじゃないですが...
超えるといった場合、現実に思いを超えた、神的なものに意識が自然に向けられてしまうのですよ!...裏側からビシッと裏付けられる!
現実に、自然に!...そうなってしまうんだから仕方がない!...
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現臨感が深まると...

2024-11-05 09:24:32 | 現臨、ハタラキ
私がいつも書いている神的な現臨感というものですが、このブログを始めてからより顕著になってきたのは確かなことです。
これが、日常のどういうところに感じられるかというと、読書とかある文章を読んでいて、読むことに困難を覚えるような時です。
例えば、スピ系のものでしたら、死後の世界がある、前世というものがあると、あることを前提にした予見に基づく言葉で表され、又そういう世界を思い描かなければならないような時です。
これが思い描けない!...それはもう生理的なことと言ってもいいのです。
そういう風に思考回路が働かない、意識が赴かないのですよ。
そういうことを思おうとすると、それを遮断するようなハタラキを覚えるのです。
それはまるで“考えなくてもいいものは考えなくていい“、と告げているみたいに...
そして、“思いを超えたものとはこんなものだ、と言わんばかりにあの現臨の雲みたいなものが立ち込め(ユダヤ教ではこの感じを“シェキナー“と呼ぶ)、それに覆われるようになるという訳です。
だから現臨感があることは、思いから離れることなのです。(無くなる訳では無いですよ)
これは又、“ここ“に落ちないもの、離れたもの、どこにも行き着かない抽象観念のようなものは意識されることが無い、ということが示されるようです。
だから現臨感があることは、意識的な状態ということなのです。
だからと言って、こういう状態の時は思考が働かないということは無く、私は、コ難しい宗教哲学の本とか毎日のように読んでますよ。
ただし、その場合でもその著者のコ難しい表現の向こうにある、ある地点に行き着く、落ち着く場所に意識が向けられるのです。行き着かない、落ちないことは考えられません。
その行き着くところは、論理的帰結されるところで無いのは言うまでもありません。(論理に終始するような文章は、最初から生理的に無理です。頭ワルイもんで...)
そういう風にして、自ずからこの場合、書かれたものについてのある取捨の判断というものが生まれる訳ですが、それが正しいのかどうかは分かりません。
私はただ、そこに臨むもののままに導かれるだけなのですから!...
しかし、このように書いて来たことは、本当は私がそのまんま丸ごと、そのどっかに行き着く、落ち着くようなことについては、まだ言及していないのです。
そうなったら、本当に何も考えられなくなります。活字を読むことも不可能でしょう。
それは、私が“神の手に捉えられる“、と呼んでいる状態のことで、今の感じから言うと、普通に日常生活を送ることも困難になるのですが...そのうちある程度適応可能になるようにも感じています。(オレはまだ普通に人間として生きたいんだよお!)
そうなるかどうかは我が主のみ心次第なのです。
ただ、だんだんと深まって、落ちてゆく感じがする、この秋なのです!...






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預言者と祈りの精神

2024-11-03 10:01:57 | 現臨、ハタラキ
「主の栄光は、神の本質ではない、神の現臨である。神の属性ではない、行為である。実体ではない、過程である」(A.J.ヘッシェル「人間を探し求める神」/教文館刊)

私が霊性の道において、常に問題にしていること、意識させられていることは、例えば、そこで悟りに与る、神と一つになるには、我々の欲望、思考マインドから離れなければ、捨てなければならない、高い次元へと超えなければならない、という命題が示されたとして、この一個なる限界を持った自分が手放しでそんなことに着手することなど出来ない、ということであり、又、“人間は本来神と一つなのです。あなたという個人は本来存在しないのです“、と大上段から説かれても、手放しでそんな境地になどなれるものでない、ということなのです。
かくしてその界隈には、“やって出来たつもり“、想像しただけの神、霊界、悟りの道などが溢れかえっているのが現状なのではないか?...
我々は、この限界を超えなければ、霊性は開かれないとして、それは、その超えたもの、御自らが我々にハタラキかけて下さなければ叶わないことなのではないか?...
だから、私は神の現臨ということを強調せざるを得ないという次第なのです。
私は、いつもそれをキリスト教方面で言い慣わされているものから借りた、と言っているのですが、もっと直接的に借りているものを突如思い出しました。
それは前世紀の米国のユダヤ系宗教哲学者、A.J.ヘッシェルの言葉からなのでした。
ヘッシェルは、西欧哲学は、ギリシア的、静的、主知的傾向が強く、ヘブライ的動的、預言者的精神に欠けるので、霊性そのものを閉ざしてしまうことに警鐘を鳴らしているのです。
これは、ただでさえ思弁的な哲学の世界についてのみならず、宗教、スピの道全般についても言えることではありませんか?
これは、ベルジャーエフが随所で語っていた存在論、実体論を優位にした思想に対して、創造的アクト(これは行為というよりももっと根源的なハタラキ的なものであろう)、形なきハタラキ的なものを強調したことと相通じるものがあるでしょう。
ベルジャーエフ(彼には同じくロシアから革命により亡命した、親交のあったユダヤ系哲学者シェストフよりもはるかにヘブライ的なものを感じる)もヘッシェルも、預言者的な精神に貫かれた哲人であったのです。
では、その預言者的、ヘブライ精神とはどういうものなのでしょうか?
ヘッシェルの本を読んで感じたことは、実はユダヤ、ヘブライ的なものが特殊で、霊性に近い精神ということではないのです。
ギリシアでも、東洋的なものでもそれだけで、霊性から遠いと言ったらあまりにも紋切り型に過ぎるでしょう。(私は、遠い先祖は、ユダヤかもしらんが日本人なんだぞ!)
預言者的ヘブライ精神とは、旧約の民とは端的に言えば、よく祈る民だったということなのです。
「主とその力を求めよ、主のみ顔を絶えず求めよ」(詩篇105)
預言者とは、神のみ前にへり下る人たちであった。彼らは、人間の限界を弁え、思い、力を超えたものを切に求めてやまなったのです。
原始キリスト教がこの精神を引き継いだのは論を待たないでしょう。
否、いつの時代でも、どんな宗教的世界でも啓示と祈りは、切り離されるものではないはずなのです。
霊性の道が開かれるか、閉ざされるか...この二つの道がハッキリ分かたれている様相を映し出す今日こそ、神を待ち望み、臨みたもう、祈りの精神が生きて来るのではないでしょうか?...





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超越にして内在

2024-10-31 09:42:50 | 現臨、ハタラキ
「創造する私にとっては、超越者とは内在的存在者のことであり、超越するとはかえって内在的になることなのである」(ベルジャーエフ)

神は人知を超えた存在、超越者として普通に信じられていますね。一方では、神は我々の内に在ると説く者もおります。
それを巡って”どっちが正しいのか”、なんて議論を戦わしてるヒマな人らも居るようです。
私がいつも言っている、”神の現臨”というのは、前者の代表とも言えるキリスト教方面から借りた表現なのですが、実はこの感覚そのものは、そのような区別などつかないものでして、”ここに臨在するもの”、としてこの二つで一つのことを含めて言い表しているつもりなのです。
この感覚が芽生え始めた頃から、内在するもの、中から何かを促し、催してくるものの感じはあったのです。
当初は、多分に倫理、道徳感と結びつく良心的なもののように感じていたのですが、その呵責とは関係無しにハタラクのを覚え、いつの間にか区別されるようになったのです。
いやもう、本当にこの超越的なものと内在的なものは切り離すことが出来ません。
神的なものを意識すれば、中から立ち上がって来るものが感じられ、内なるものを意識すれば、もうそのこと自体、自分が超えられてしまうということになる、という如くに...
とにかく、神的なものが現臨することは、自己実存が開かれることと一つのことなのです。
これを意志想念で、そう思おうとしたってそうはならないのです。それでは超越神や内在神を思い描くだけでしょう。
しかし、そこに順序として、まず自分の外(上)から臨んで来るという感じが最初にあるようです。
大体が、小池先生がよく言われる、”圧倒される”ような事態に出合わされることが多いようで、これは、正に考え、為そうとする自分からは、けっしてそうならないということを示しているのでしょう。
超えるということは、けだし思いを超えるということに他ならないのです。
そこで、ベルジャーエフが随所で語っている、霊性が開かれる上にも重要なこととされる、”創造的行為”のことについて、私にはどうもそれが意志想念で為されるものなのか、それを超えたものなのか、これまで判然としなかったのですが、それは、冒頭の言葉から創造的行為の主体者は、為そうとする自分のことでは無く、超越的にして内奥から発するあるものであることが知られるのです。
これはもう、超越者なのか内在者(こういう言葉はほとんど聞きませんが)分かりません。
要するに、神的なものなのか、真我的なものなのか分からないのです。
おそらく、それは(ベルジャーエフが好んで言及していた)”神人”の為せるものなのでしょう!...



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