私がいつも書いている神的な現臨感というものですが、このブログを始めてからより顕著になってきたのは確かなことです。
これが、日常のどういうところに感じられるかというと、読書とかある文章を読んでいて、読むことに困難を覚えるような時です。
例えば、スピ系のものでしたら、死後の世界がある、前世というものがあると、あることを前提にした予見に基づく言葉で表され、又そういう世界を思い描かなければならないような時です。
これが思い描けない!...それはもう生理的なことと言ってもいいのです。
そういう風に思考回路が働かない、意識が赴かないのですよ。
そういうことを思おうとすると、それを遮断するようなハタラキを覚えるのです。
それはまるで“考えなくてもいいものは考えなくていい“、と告げているみたいに...
そして、“思いを超えたものとはこんなものだ、と言わんばかりにあの現臨の雲みたいなものが立ち込め(ユダヤ教ではこの感じを“シェキナー“と呼ぶ)、それに覆われるようになるという訳です。
だから現臨感があることは、思いから離れることなのです。(無くなる訳では無いですよ)
これは又、“ここ“に落ちないもの、離れたもの、どこにも行き着かない抽象観念のようなものは意識されることが無い、ということが示されるようです。
だから現臨感があることは、意識的な状態ということなのです。
だからと言って、こういう状態の時は思考が働かないということは無く、私は、コ難しい宗教哲学の本とか毎日のように読んでますよ。
ただし、その場合でもその著者のコ難しい表現の向こうにある、ある地点に行き着く、落ち着く場所に意識が向けられるのです。行き着かない、落ちないことは考えられません。
その行き着くところは、論理的帰結されるところで無いのは言うまでもありません。(論理に終始するような文章は、最初から生理的に無理です。頭ワルイもんで...)
そういう風にして、自ずからこの場合、書かれたものについてのある取捨の判断というものが生まれる訳ですが、それが正しいのかどうかは分かりません。
私はただ、そこに臨むもののままに導かれるだけなのですから!...
しかし、このように書いて来たことは、本当は私がそのまんま丸ごと、そのどっかに行き着く、落ち着くようなことについては、まだ言及していないのです。
そうなったら、本当に何も考えられなくなります。活字を読むことも不可能でしょう。
それは、私が“神の手に捉えられる“、と呼んでいる状態のことで、今の感じから言うと、普通に日常生活を送ることも困難になるのですが...そのうちある程度適応可能になるようにも感じています。(オレはまだ普通に人間として生きたいんだよお!)
そうなるかどうかは我が主のみ心次第なのです。
ただ、だんだんと深まって、落ちてゆく感じがする、この秋なのです!...
これが、日常のどういうところに感じられるかというと、読書とかある文章を読んでいて、読むことに困難を覚えるような時です。
例えば、スピ系のものでしたら、死後の世界がある、前世というものがあると、あることを前提にした予見に基づく言葉で表され、又そういう世界を思い描かなければならないような時です。
これが思い描けない!...それはもう生理的なことと言ってもいいのです。
そういう風に思考回路が働かない、意識が赴かないのですよ。
そういうことを思おうとすると、それを遮断するようなハタラキを覚えるのです。
それはまるで“考えなくてもいいものは考えなくていい“、と告げているみたいに...
そして、“思いを超えたものとはこんなものだ、と言わんばかりにあの現臨の雲みたいなものが立ち込め(ユダヤ教ではこの感じを“シェキナー“と呼ぶ)、それに覆われるようになるという訳です。
だから現臨感があることは、思いから離れることなのです。(無くなる訳では無いですよ)
これは又、“ここ“に落ちないもの、離れたもの、どこにも行き着かない抽象観念のようなものは意識されることが無い、ということが示されるようです。
だから現臨感があることは、意識的な状態ということなのです。
だからと言って、こういう状態の時は思考が働かないということは無く、私は、コ難しい宗教哲学の本とか毎日のように読んでますよ。
ただし、その場合でもその著者のコ難しい表現の向こうにある、ある地点に行き着く、落ち着く場所に意識が向けられるのです。行き着かない、落ちないことは考えられません。
その行き着くところは、論理的帰結されるところで無いのは言うまでもありません。(論理に終始するような文章は、最初から生理的に無理です。頭ワルイもんで...)
そういう風にして、自ずからこの場合、書かれたものについてのある取捨の判断というものが生まれる訳ですが、それが正しいのかどうかは分かりません。
私はただ、そこに臨むもののままに導かれるだけなのですから!...
しかし、このように書いて来たことは、本当は私がそのまんま丸ごと、そのどっかに行き着く、落ち着くようなことについては、まだ言及していないのです。
そうなったら、本当に何も考えられなくなります。活字を読むことも不可能でしょう。
それは、私が“神の手に捉えられる“、と呼んでいる状態のことで、今の感じから言うと、普通に日常生活を送ることも困難になるのですが...そのうちある程度適応可能になるようにも感じています。(オレはまだ普通に人間として生きたいんだよお!)
そうなるかどうかは我が主のみ心次第なのです。
ただ、だんだんと深まって、落ちてゆく感じがする、この秋なのです!...