人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈らされている

2021-04-30 09:12:52 | 詩的文章
祈ろう...
ふと、そう思う
ふと...
そう思わされているんだ
思わされる何かがある
惹き付けられずにおれない何かが...

"祈ったって何にもならないよi"
という人に言ったって何にもならないよi
息をしたって何にもならないだろうか?
生きてたって何にもならない?
今は...考えてたって何にもならない...
思わされているんだ
感じさせられているんだ
祈らされているんだ
高められる...
深められる...
満たされる...

祈ろうと、ふと思った時に
祈らされていることに気付く
祈らされている
祈られている
だから...
生かされている...
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人生の教師と見えざる導師⑧

2021-04-29 10:14:15 | 人生の教師
おやっ、昨日珍しいところからコメントが寄せられて来たぞi "五井昌久研究会"
一度だけ行ったことあるだけなのに、私のこと知っているのかなあ? どういうこと言っているのかな?
な、なぬっi、集会の案内がリンクされているじゃないかi 勝手に広告塔みたいにされちまったよお...
確かに私は、五井先生から多大な影響を受けてますよ。けどご存知のように私は、特定の"見える"導師を信奉しているという訳じゃないのです。
読者からヘンな風に捉えられたら困りますよi...でも、ま、いいか、荒らしでもないし、特に危害が及ぶこともないだろうし...
あのですね、五井先生の存在は、私にとり幾人か居る導師たちの一人に過ぎないのですよi...
って、こういう言い方は適切ではありません。以前、その複数の導師たちの中で"誰が一番に相応しいですか?"、てなことを訊かれたこともありました。
そりゃね、ベルジャーエフですよi 読書をしていて、あんなに全身が震え出すほど"捉えられて"しまったことはなかった...
いいや太田命位様かな? 何と言っても顔と顔を付き合わせて何度も交流を持ったことがあるし、そこから醸し出されるハタラキ、この身に覚えられている...
いやいや小池辰雄先生だi 十字架と無の消息が伝えられていなければ、あの"門"を超えることは出来なかった...
いやいやいや玉城康四郎先生だi "形なき命"が観念でなしに、自然に、恒常的に感じられるようになった...
でも、やっぱりそもそもこういう歩みに導かれる端緒となり、"導くものがある"ことを知らしめたのは五井先生かなあ...
と、こういう具合で"誰が..."ということは、簡単には言えないものがあるのですよi
何と言うか、どの存在も一つの体から表れていて、切り離せないような感じなのです。目と口と耳とどれが一番大事か、何て言えないものでしょう?
これは勿論、この悩み、問題多き業生の私が一つの体という訳じゃないですよi
私の内にか、私の周りのすべてと言ってもいいですが、このチッポケな私を在らしめている、大本の私のようなものを感じているのです。
これはもう、私の思議の沙汰じゃないのですが、"見えざる導師"と私が仮に呼んでいるものはそこから来るのです。
表れは幾つもあっても、大本は一つのものがある、という感じを持たせているものはこのものなのです。
ということは、"見える"導師たちとの幾つかの出会いには、この一なる"見えざる導師"と異なった局面で出会っている、ということに他ならないのです。見えるものと見えないものは切り離すことが出来ない...。
ここに私は、"見えるものを通して見えないものを悟る"、という人生の道標のようなものを与えられているのを感じずにおれません。
でなきゃ、OO研究会なんて?...そこで見えないものが見えてくるのかな?
知らんi...私は関係ないですよi
"OO先生を超えた直霊に目覚める"、とかいう話だったら私も気が向けば行くかもしれません...。
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大事なものを置き忘れていませんか?

2021-04-28 12:00:04 | 雑感
小学校の頃、あるマスコットが可愛いので、持っていたら男子から"くだらねえ、幼稚だ、女みたいだi"、とか非難され、捨ててしまったことがありました。
"ああ、可愛そうな僕のマスコット..."
ホントは、大切にしたかったのです。親父なんかもこのことを知ったらきっとこう言っていたでしょう。
"いつまでも子供みたいなことしてるんじゃないぞi"、と。
年相応に、とか成長のためとかの理由付けというものは一応はあるでしょう。
大事なものを手離さなければならない事情というものもあるでしょう。
けれど、大切にしたい、好きでいたい感情を押し込めて、周りの声に迎合し、従ってしまうことを続けていたら、自分が本当に大切にしているもの、何に惹かれ、愛を感じているか、ということが分からなくなってしまうのではないでしょうか?
本当に大切なもの、最愛のもの...それは言うまでもなく自分にとってですi これを見失うことは、人生において大きな損失と言わねばなりません。
私の人生で、このように大切なものを置き忘れてしまったようなことが何度かありました。
最愛のものが何かが分からない大人になることが成長というものなのでしょうか? 
そもそも、自分が好きなもの、愛しているものを大切にすることが何で悪いのか?それで、他人の迷惑になるでしょうか? いや今は、それが蔑ろにされることで生じる歪みを思い知らされているのではないでしょうか?
その他大勢の規格に合わせ続けることで失われる感性...
あなたの人生は、世の中の人の人生じゃないのです。
"世間から笑われるぞi"...世間の人たちは、そのように笑い合い、中傷し、批判し合うか、そうでなければ機械の代行することしか出来ないのでしょう。そこには何も満たされることがありません。だから不満、ストレスを抱え、そうして発散し続けているのです。(終わりのない負の連鎖)
実際に顔と顔を見合わせている訳じゃないのに...見ていたとしても見ていない...世間の人間には顔が無いi...誰一人そういう人間など存在していないのだから...世間に従い、使われて、役に立たなくなったらボロ雑巾のように捨てられてゆくだけ...そこには世の中という神が君臨しているのか?...
惹かれてやまないもの、愛というものを感じられない、ということは神的なもの、思いを超えたものが分からない、ということです。
神を信じようと信じまいと、自分にとって何が最愛のものかと尋ねてゆけば、そのものに捉えられてしまう、落ちてしまう(これが思いが超えられるということなのですが)ということになって示されるでしょう。
こういう感性は、自分の人生で大事なものを置き忘れてきたことを思い出すことなどを通して養われるでしょう。
このことに年齢だとか男女別だとかは関係ないはずです。
こういうことを意識してからというもの、私はどうも年相応に生きていないのでしょう。
私は毎日、植物や動物の画像、動画を観て癒されているのですが、本当に"あの花は、蝶々は、猫は可愛いなあ"って感じられるのは、ここ最近になってからじゃないかと思います。
大事なものを忘れて無かったようです。
オカシイかな?...世間が何を言おうと知ったこっちゃないですが、自分でそう思ってりゃ世話ないか...。
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ネガティブな思いと本来性

2021-04-26 11:47:25 | 雑感
こないだ、久しぶりに職場でケンカしてしまいました。
相手はお得意先なので、立場を弁えなければならなかったのでしょうが、相手が上司だろうと、総理大臣だろうと、どうなろうと関係なくなるのがケンカというものです。
改めて感じました。私は容易に火が付く人間なんだと...。私の中にはねえ、火種が絶えずくすぶり続けているのですよi...色々な意味でね。
勿論、悪いとは思ってますよ。やっぱりああいうのは後味がよくありません。"あれ"と一緒でその時はストレスが解消出来て、気持ちいいのかもかもしれませんが、人と摩擦が出来て良い訳がありません。
そうですよ、私は悟ったような人間とは程遠いのです。
ケンカっ早い性分をことさら肯定する訳でも、ケンカを正当化するつもりもありませんが、そういう自分を否定も出来ません。
"ネガティブな思いというのは幻想なんです、人間は本来そういうものは無いのです"、なんて教えを信じ込もうとしたって、そういう要素があるから、ああいうことも起きちゃうのでしょうし、怒りが込み上げて来るのを感じちゃうんだからしょうがありません。
思えない、感じないものを無理に信じ込もうとするのはどこか不自然でしょう。
そうすると、その"悪い"思いは否定され、心の奥に押し込められ、表向きの"善い人"の仮面に隠れ続け、自覚されないまま増長されてゆくことになるでしょう。
怒り、狂気...ちょっと外に目を向ければ、もう回りはネガティブな思いで溢れかえっているようです。そして自分の中にも...
そういうものは本当に幻想に思えますか? 思えないものを思おうとすることで、自分を誤魔化すことになりゃしませんか?
しかし、ああいうのは後味が悪いもんだ、と感じるのなら、それはとても大切なことだと思いますよ。
そして、もっともっと大切なことは、そういう一時の怒りや相手を貶めようという思いよりも、もっと自分の奥に一時でなしに、ずっと息づいているものがあるのを感じられるか、どうかということです。
これは思いというよりも、それを超えたもの、神的な愛のようなものです。
後味の悪さを感じさせるものはここから来るのです。自分が信じている信仰や、守っている倫理道徳からではありません。
おそらくこれは、これまで多くの人がそういうものに知らずにか適用してきたものでしょう。
しかし、そういうものは、決してそのネガティブな思いの止め︿の無い表出、暴発を根本的に抑制するものとはならない、と言っていいでしょう。
何故ならば、具体的にその後味の悪い思いの奥に息づく、自分の本来性を感じることが出来ないからです。感じないものは現実に生きてこないのです。
そうです、これは私の本来性である、と感じています。本来からあるものはイチイチ思おうとする必要がありません。
そして、人の本来性とは自分だけに適応される訳がありません。
人には本来、そこからもたらされる根本的な律法というものがあるのではないでしょうか?
ネガティブな思いに駈られた時、私が心がけている、というよりか自然に赴いてしまうのは、それを否定したり、押し殺したりするのでなく、肯定するのでもなく、その思いを包みこんでしまうようなより大きく、深いものに意識を向けることなのです。
もっとも、性懲りもなくやらかしちゃう人間が、事後に言っているのだから説得力は無いかもしれませんが...
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志村けんのシュールなギャグ

2021-04-24 10:16:54 | 映画・音楽など
ここんとこハマっていて、暇があればつい観ちゃう動画は、youtubeで、「志村運送物語」という故.志村けんさんのTV冠番組内に収められていたコント劇のものです。
昔からドリフターズ関係の「8時だよ、全員集合」や「ドリフ大爆笑」、単体出演のものでも「大丈夫だあ」とか「バカ殿様」など割合観ておりましたが、これが実に面白いi それまで観たどれよりも、というくらいなのです。
しかしながら正直、つい最近までそういう番組があったってこと自体知りませんでした。2004~5年にかけて放映されてたらしいのですが、その頃はほとんどTVなど観てなかったし、おまけに深夜の時間帯だったことが関係していたようです。しかも全国放映されてなかったというんだから、何ともモッタイないi
ここには、「ヘンなおじさん」「デシ男」など、あなたの隣に潜む、"ヤバさ"、"コワさ"を笑いに包んで見せる、奇人、変人(どっかに居るんだi あなたの中にか?)は出てきません。
昔、観た「デン助劇場」のような下町人情喜劇のような要素を織り込んだ、下町のとある零細企業を舞台にした、ごくフツー(に見える)の人たちのお話です。
しかし、この人たち、その社長さん(志村)はじめ、人情なんてこれっぽちも持ち合わせて無いみたいですよ。
向かいにある、社長と幼馴染みの店長("だっちょう倶楽部"の非後さん)がやってるラーメン屋さんとか、人情喜劇風なのはあくまで設定だけの話なのです。
会社が倒産の危機だというのに、従業員たちは「俺たちゃ、どうなるんだi」「金払ってくれるんかi」と自分たちのことしか考えない(誰しもが内心思っていることをあからさまに言う)、社内ではパワハラ、セクハラは当たり前(この頃からうるさく言われるようになった)、暴力も..."顔バチんi"("だっちょう"下島竜平のお約束のやられ芸i)...
社長とその若いカミさん(笑顔がよく似合う"優花"。バカ姫とまるっきりキャラが違うとこがスゴイi)はいつもいがみ合っている...
この人たちはこういう、社会生活、日常生活で抱える様々な問題を笑いに変えて見せているのです。
こういうシュールなギャグこそ、志村さんの誰にも真似の出来ない芸風と言えるでしょう。
しかし、このうんとドライな、現代的な人間模様の中にも隠し味のように、ソコハカと人情味を見せるところが魅力なのです。
運転手として入社の面接に来た竜平さんが経歴詐欺をしているので、志村社長「もういい、帰れ、帰れi」を繰り返すが、手土産に持ってきた名産の一升瓶が気に入って即決となる...
それにしても、志村さん、かなりのヘビー.スモーカーだったことが劇中でも伺われます。「あなた、タバコ止めないと、死ぬわよi」と再三カミさんから禁煙を勧められてます。
それから、社員全員マスクを被って出勤してくる。マスク越しで電話の応対してるのがオカシ...かったはずなのだが...
社員それぞれデジカメで自分の写真を撮ることになって、プリントしてもらったが、社長のだけ、何故か遺影仕様になっていた...
いや、何ともシュールだ...志村さんは、改めて日本の喜劇至上に残る人に違いないと思いました。

この話の舞台は、東京の南浅草ということになっているらしいので、無性に行ってみたくなりました。
しかし、東浅草、西浅草はあってもそんな町名は無かった...
自粛しよi...

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