おやっ、昨日珍しいところからコメントが寄せられて来たぞi "五井昌久研究会"
一度だけ行ったことあるだけなのに、私のこと知っているのかなあ? どういうこと言っているのかな?
な、なぬっi、集会の案内がリンクされているじゃないかi 勝手に広告塔みたいにされちまったよお...
確かに私は、五井先生から多大な影響を受けてますよ。けどご存知のように私は、特定の"見える"導師を信奉しているという訳じゃないのです。
読者からヘンな風に捉えられたら困りますよi...でも、ま、いいか、荒らしでもないし、特に危害が及ぶこともないだろうし...
あのですね、五井先生の存在は、私にとり幾人か居る導師たちの一人に過ぎないのですよi...
って、こういう言い方は適切ではありません。以前、その複数の導師たちの中で"誰が一番に相応しいですか?"、てなことを訊かれたこともありました。
そりゃね、ベルジャーエフですよi 読書をしていて、あんなに全身が震え出すほど"捉えられて"しまったことはなかった...
いいや太田命位様かな? 何と言っても顔と顔を付き合わせて何度も交流を持ったことがあるし、そこから醸し出されるハタラキ、この身に覚えられている...
いやいや小池辰雄先生だi 十字架と無の消息が伝えられていなければ、あの"門"を超えることは出来なかった...
いやいやいや玉城康四郎先生だi "形なき命"が観念でなしに、自然に、恒常的に感じられるようになった...
でも、やっぱりそもそもこういう歩みに導かれる端緒となり、"導くものがある"ことを知らしめたのは五井先生かなあ...
と、こういう具合で"誰が..."ということは、簡単には言えないものがあるのですよi
何と言うか、どの存在も一つの体から表れていて、切り離せないような感じなのです。目と口と耳とどれが一番大事か、何て言えないものでしょう?
これは勿論、この悩み、問題多き業生の私が一つの体という訳じゃないですよi
私の内にか、私の周りのすべてと言ってもいいですが、このチッポケな私を在らしめている、大本の私のようなものを感じているのです。
これはもう、私の思議の沙汰じゃないのですが、"見えざる導師"と私が仮に呼んでいるものはそこから来るのです。
表れは幾つもあっても、大本は一つのものがある、という感じを持たせているものはこのものなのです。
ということは、"見える"導師たちとの幾つかの出会いには、この一なる"見えざる導師"と異なった局面で出会っている、ということに他ならないのです。見えるものと見えないものは切り離すことが出来ない...。
ここに私は、"見えるものを通して見えないものを悟る"、という人生の道標のようなものを与えられているのを感じずにおれません。
でなきゃ、OO研究会なんて?...そこで見えないものが見えてくるのかな?
知らんi...私は関係ないですよi
"OO先生を超えた直霊に目覚める"、とかいう話だったら私も気が向けば行くかもしれません...。