人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が主は生きたもう!

2022-11-29 09:58:16 | 
ブログの記事を書く際、あらかじめ何について書くか決めている場合が多いですが、何かのトピックスに接して、咄嗟に思い付くこともあります。
又、ほとんどは寝覚めの時なのですが、あるインスピレーションのようなのを突然受けたりすることもあるのです。
こういう時は、とにかくそれを優先させるようにしています。
“それは、何かの啓示かって?“...さあ?、神様の要請もあるかもしれないけど、私が本当に書きたいことというのはそれに違いないのです!
いやあ、本当に書きたいことはこれっきゃない?...その時というのは、愛と平安に与っている訳なのですが...
“これなんだ!、他に何があるのか?!、これを伝えればいいんだ!、これを!...伝わらないかなあ?。何でわっからないかなあ?...“
そう、神のこと、“神の現臨にある“、ということです。しかし、神が何であるか分からないのに言っていることは多分ムチャクチャなんでしょう?
分からないけどこんな自明なものは無い!...どうか私の言葉を信じて下さい!
いや、信じなくていい!...観念、信仰ごとにしちゃあ、ダメなんだ!
私の信仰、修行法(そんなものは無いけれど)なんかを伝える気など毛頭ありません!
それは誰かが言っている何かじゃなくて、あなたの心の奥に息づいているのです。
だから、あなたの神に聞くのが一番なのです!
だからだから、その神が何か分からない?...だからだからだから、あなたの神に聞いてみたらいいでしょ!、”私は分からない、あなたの本当を示して下さい!”、という祈りをもって!
分かったふりをする人間には、いつまで経っても開かれません!、そういう人は本当は祈る気などハナっから無いのでしょう。”拝み虫多いのお!“
自分の思いというものの限界を示されたところに、それを超えたものに意識が向かわされ、祈りが始まるのでしょう。
私は、思いで閉ざされた世界の地獄のような苦しみも知っているので、かく言わされるのでしょう。
そんなことになって、“地獄で神を見た!”ような感じになった時というのは、決まって思いの密閉空間が破られ、“開かれた!“、という実感がもたらされていたのです。
あの時もこの時も!...“おお!、人は何と言おうと、我が神は、我が主は生きたもうのだ!”
思いから離れると、いつの間にか、何か幸福な気持ちにさせられる...幸福に与るために祈ろうとしたものが、祈ること自体でそうなってしまう!
これが感じられる人には何の説明も要りません。
だから...神は自明なものなのです。
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無である自分を受け入れる

2022-11-27 10:08:53 | 現臨、ハタラキ
私は、何度も言うように特別な修行などしてこなかったのです。
毎回、違うこと言うようですが、こういう思いにさせられることには、大きな理由があるようなのです。
いや、私も結構トシなので、修行とは行かないまでも、それまでに学んだこと、培って来たことはあるだろう?、と思われるかもしれない。
そりゃあ、ありますよ!...如何にメンドクサがり屋の私でも、自然に学ばされる、身についちゃうことも多々あります。
いやいや、正直に言おう!、私は生まれつき研究熱心で、何ごとでも自分でトコトン追求しないと気が済まない質なのです。そういうマニアックな人間の片鱗は、詳しくブログを読まれている方ならお分かりでしょう?
だけど、そうやって積み重ねて来たものも、ある節目でゼロになる、無に帰することだってあるだろう...
”一体今まで何をやって来たのか?、何がどう、成長、進歩したというのか?...私は無なのだ!、“これを成し遂げた!”、というものなどな~んにも無かったのだ!、私は何ものでも無かった!...しかし、それを受け入れるしかない!“...何?
受け入れられる訳ないじゃないですか!...普通に考えてみて下さい!
何かの修行に励んでいる人は、そういう日々の努力の積み重ねで、その延長で無の境地かなんかに到達出来るとか思うのかもしれません。それは、きっと正にそう思っているだけなのではないですか?
現実に無になることがどういうことか分からないのでしょう。本当はそういう無になった自分を受け入れる気などこれっぽちも無いくせに!
だから、私だって同じ人間な訳で、自分の思いでは受け入れることなど到底不可能なのです。
しかし、ある契機において、受け入れられちゃったりするのです!
それが...思いを超えたものが臨むことで、その流入によって為さしめられる、ということなのです!
これを抜きにした、無だの空だの全託だのといった話は全く正気の沙汰じゃありません!
”自分でやってみろ!、秒でイカレるぞ!”
完全解脱だとか、夢みたいなことを平然と言う手来は、現実に目覚めることなく、そう言っているだけでしょう。
無である自分を受け入れること、否受け入れさせられちゃう、なんてまるで他動的に操られるばかりのように思われるでしょうが、事実は、“自分から“という意味でない、自動的にそうなるということです。人為的でなく無為的になる...これは、そこに愛、安らぎが感じられるから自ずとそうなるということなのです。
そして、現実に何が無くなるのかというと...思いに他ならないのです!
この無のハタラキは、どこまでも”私のもの”、というものでは無い!...絶対無というべきものです。
どっかで”私のもの”、“私の力で”、という思いがあると、きっとこないだの私のように、それが無に帰したようになってしまうのでしょう。
あんまり自覚は無いが、きっとそう!、そういうことでいいんだ!(ふふふ...これ、私が生まれつき抜け目の無い人間だからといって他意は無いですよ!)

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霊界の真相?

2022-11-26 09:48:01 | スピリチュアル?
”人生は見たまま、思われたままで出来ているんじゃない、その裏側には見えない、思いを超えた世界が広がっている...“

と、言うようなことをいつも書いている訳ですが、その“人生の裏側”とは、所謂霊界のことか?と、短絡的に思う人も居るかもしれません。
そういう人は、霊界というものは、実在しているんだ!、と決めてかかっているのでしょうが、霊能者でない私には、有るとも無いとも決めつけれないのです。
少なくとも、見てきたようなことは言えません!、だってそれは見えない世界なんでしょう?
ただ、いくらか固定観念に譲歩して(?)、理解の一つとして、”霊界の存在を借りる”ことは出来ると思うのです。そういう表現を借りると言ったらいいでしょう。
言うまでもなく、分からないからと言って、霊界、ないし死後の世界などを否定するつもりは全く無いのです。否定も肯定も出来ないというのが本当じゃないですか?
私も出口王仁三郎師の「霊界物語」を読んでるし、又「日月神示」なども...これらに多大な影響を与えた見霊者、エマヌエル.スエデンボルグなども...私はそのあまりにも恣意的に、歴史上の誰それは地獄に落ちている、だのと語る表現にヘキエキしたことがありましたが、あまりトラワレを持たずに読めば結構面白いと思いますよ。
スエデンボルグは、至るところで”神は一なるもの”、ということを強調しています。キリスト教の三位一体の教義について、それらは”父、子、聖霊”の三つの別々の位格がある訳じゃなく、すべて一なるエホバの神の表れと言っています。
私はこれは、”霊界”ではこのように、神は一なるものとして、分離したように認識されないということを言い表しているように感じました。それは、そう感じている自己と分離していない、ということでもあるのですが...
その割に、例えばルドルフ.シュタイナーでも同様なのですが、その表現はあまりにも、“見てきたよう“過ぎるというか、客観的筆致に終始しているところがあります。
“この世“の一風変わった情景を思い描いたように...
典型的なのは、“霊界は何段階もの階層を成している“、なんて言うのがそうです。
これについて、ベルジャーエフが言った、“階層という概念は現実世界にしか適応出来ない!“、というのが本当ではないか?
いや、そもそもが霊界については、同じくベルジャーエフが言うように、象徴、表徴を持ってしか言い表すことは出来ないのでしょう。
だから、それを超え、無視して客観的実在のように、“霊界の実在“を観念で決めつけることなど出来ないのです。(この意味で、寓話、神話という形を借りた、“霊界物語“などがそれを表現するに適していると言えるでしょう)
観念で分かったつもりでも、現界から一歩も超えることは出来ないのです。
要するに、見たまま、思われたままの表側の世界を超えなければ、裏側の世界は開かれないのです!
“段階を超える“、というのは、この大きな峠のことしか私には感じられません。どのくらい大きいかというと...自分の力では到底超えられないくらいです!
だから、自分で超えたというのは、きっと中途の段階なのでしょう?
“分かった!、それは、幽界か?”、って?...そういうのと霊界の何段目とどう違うのか、私にはテンデに分かりません!
何で、私が霊界なんていうものを持ち出したくないか?...メンドクサイからに決まってるでしょ!...

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神は一なるもの

2022-11-25 09:47:56 | 
神については、様々な観方があります。
一神論、多神論、汎神論、理神論...そもそもそれが実在するかどうかを巡って議論があったりします。
私は神を信じるかどうかと言ったら、勿論信じますよ!
だけど、それが果たしてどういう実体を持っていて、どういう有り様で働いているか、ということは分からないのです。クドいようですが、それは、私の思いを超えたものなので!...
しかし、そういうものを感じることは毎日のようにあります。というより、それは感じるしかないものでしょう?...神とは、信じるとか信仰とか言うよりも感じるものなのです。
そして、それは一神論で言われているようなこととは違う意味で、一つのものと言う他ありません。
ヤハウェ、キリスト、アラー、梵天、阿弥陀如来、スサノオ、守護神、ハイヤーセルフ...何と呼ぼうと...
例えば、多神教と言われている神道では、天照大神とかスサノオとか、色々な神の中の一つを自分に所縁の神として崇敬してます。
だけど、私なんかは、そういう風な自分のルーツへの帰依の念も勿論ありますが、どっかで”何の神だろうと神は神...一つのもの(これは、私のルーツは一つということでもあります)という思いが横たわっているようなのです。
これは、意識的になり、もっと深い段階に入ると、そういう感じが強くなってきます。
要するに、何の神であるとか、それは何次元の存在だとかといった、小賢しい分別心が超えられるということです。思いを超えた一なる神によって!...
本当に神に祈るということは、こういう世界に導かれるということではないですか?
それは、自己実存に目覚めるということでもあります。
神と実存は切り離すことが出来ない!
神は一なるものである!...それは、自己実存は唯一無二なるものだから!...
もし、唯一神論というものが、”実存的神しか存在しない”、という観方をするのであれば、首肯されるものもあるかもしれません。しかし、そこから宗教対立など起こり得ようはずがないではありませんか?!
このことは神の現臨によって示されることなのです。現臨にあって諸々の神についての議論は消えてゆかざるを得ない!、現臨にあって神は一つ!
そして又、このことからその神と一つになることが重ねられて来るでしょう。
現臨にあって神と一つ!...
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祈りと共なる生活

2022-11-23 10:08:12 | 祈りと瞑想
改まってなんですが、私にとっての精神的な道というのは、具体的にどういうものかと言うと...特にどうということはありません(笑)。
ある一定の時間、決まったやり方で何かの行をするでもないし...
ただ、祈りというか、それも決まった祈り言葉とか祈り方がある訳じゃないですが、日常生活の狭間に、神的なものに意識を向ける、向いちゃう(これが私にとり、広い意味の祈りです)ということがあるのです。
すると、神的な現臨に与るということが!...
”祈ったって何になるか!、他のやり方を加えなきゃダメだ!“、なんて言っている向きは、自分が行う行や努力によって、そういうものが開かれると思い込んでいるのです。
だから一日一時間とか何時間とか量をはかるように行に励んだりするのでしょう。
神的なものに意識がつながるのは一瞬かもしれないのに(実際、あるんだ!)...
こちらがやる何かじゃなくて、思いを超えたものは、それ自ら臨むことで開かれるのです。
ほんのちょっと意識を向けただけで...祈りをする...いや、しようとしただけで!(本当にこりゃ、驚くべきことと言う他ありません!)
こういうことは、寝ても覚めても、歩いていても、読書していても、ブログ書いていても(!)...日常の何時に起こるか計り知れないのです。(だから、思いを超えているんだ!)
五井先生は、そこのところを“寝ても覚めても、常に神を思い、神に思いを入れ、心にその響きを満たして起きなさい!“、と教えていたのです。
「世界平和の祈り」というものを打ち出したのは、一宗一派の祈りを超越したものを指し示そうとしたのでしょうが、それも宗我的な思念で垢がついたようになってしまったようです。
その根本的精神からかけ離れた、信者たちの依存的、盲信的、狂信的な思いがダメにしたのです。
あるいは、世界の滅亡とか陰謀論などの地獄的思念など...こういう思念にトラワレているのだから、何のための「消えてゆく姿」の教えだか分かりゃしません。本当に情けないことですよ!
五井先生が主眼にしていたのは、一定時間、行に費やすようなことじゃなくて、このような日常の狭間の、“思い出した時でもいいから!”、という片手間行(?!)にあって、その方が効果的と言われていましたが、その通りだと思います。
私は、”この祈りでなければ、このやり方でなければ!”、などとおこがましいことは言いません。
宗教的な人には、分かりやすいでしょうが、各自がもっとも、慣れ親しんでいる祈り、もっともこころ惹かれている神仏に思いを向けられたらいいと思います。(特定の宗教を持たない人にはもっと分かりやすいかもしれません)
ただ、おざなりの、形式的、因習に堕したものなら、祈ったって何にもならないでしょう。
そういう思いは突破されねばなりません!
それには、祈りを深めねばなりません。量ではなく質です。意識的になることです。
祈りの根本義に帰る、神的なものに観念を超えて、その”臨在”を通して実存的に帰る、交わることです。”思いが消えてゆく”、というのは、このことと別にあるのではありません。
こういうことは、多少とも、差し出がましいことがキライな私とは裏腹の、伝道的な思いから発しているのでしょう。
けれど、そういう思いを超えて、一にしてすべてなるあの御方に意識が向けられることで、こうした願いが出て来てしまうようなのです!
それは、自ずと意識は普遍性に向けられるということなのでしょう。
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