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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無立場

2016-01-30 14:04:48 | 詩的文章
我々キリスト者からの立場では、あれは異端…

他力門の立場では、自力の匂いが有るのは異安心…

先生の教えの立場に違うものは受け入れられません…

立場、立場って…一体どこにあるんですか?

立場が無ければ、そこから外れたら、

人間辞めなければならないですか?

それともアダなる人は人間じゃないんですか?

何か掴めるものがある、何か手元に携えるものがある、

何か守らなければならないものがある…

それが何かの立場らしきものなんでしょう…

どうしてそんなに窮屈になりたがるんだろう…

誰も立場など持って生まれて来やしないし、

あの世に携えてもいけないだろうに…

人には皆あたえられた持前ってものがある

そこから無立場の法門が開かれる

それは持ち回しなど出来やしないもの

同じ立場などで括ったり、つるんだり出来ないもの

一人一人の代用の利かない宝物

何が正しいだの、間違いだのって、この世に一つしかないのに…

あなたと私の絶対的な法はこれしかない!

これと共にあること…それは絶対に正しい

これから外れること…それは絶対に間違い

如何にもリッパそうな立場…

グラグラ…落ちますぞ!
















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悪魔の僕は語る

2016-01-29 19:12:15 | 創作
私が何者だかお分かりだろうか?
”この世には闇の力が支配して、世界を意のままに操っている”という信仰に熱心な皆さんのために、
ほんの少し、この場を借りてあなた方に我々の秘密の一端を語ってみたいと思う次第です。

悪魔たちの陰謀をこぼたんと躍起になっている皆さんには、最初にとても落胆させてしまう事を申し上げなければなりません。
我々の”ニュー・ワールド・オーダー”~これにあなた方は知らず知らずに参与しているのですか? それともあくまで敵対なさるおつもりですか?
いやはや、あなた方のどうしようもない無知さは、あなた方にとり益となるのですかな? それとも…”知らない方がよかった…”って事になるのですかな…~このヴィジョンは確実にあなた方の世界の裏面で実現化しつつある…何人もこれを阻止することは出来ないのです!
一体誰が天体の運行を止めることが出来ようか!
我々の一存でこの計画が成されているのではありません。
この仕組みは世の元からの、大いなる意志から来ているのです。
我々はこの大いなる意志の思し召し通りに、日夜奉仕しているにすぎないのです。
けれど、ここから生まれ出るあるモデルは、あなた方の意志次第で表にも裏にも転じられます。
この世の裏側の陰謀めいた計画にも裏が有るのです。
我々の計画は成程隠れたところで行われており、容易にあなた方の目には捉えられないかも知れません。
だが、何故我々が陰謀をめぐらし、あなた方を欺き続けている、という事で(真偽のほども分からないにも関わらず)、非難されなければならないのでしょうか?
我々があなた方を欺いているのではありません。あなた方のほうこそは自らを欺いているのです。
”この世界には言い知れぬ魔物が潜んでおり、このものの暗躍によりあなた方の世界にあらゆる不自由、不平等、不調和で溢れるようになってしまった…”ですか…
成程この世で生きることは、何と過酷、理不尽に満ちてることでしょう…
それはあなた方が自らを欺き、眼をヴェールで覆い隠している故に、”世界も、人生もかくのごときもの…”と映るのは当然ではありませんか?
あなた方は全体生きる上で最も先に、最も根本的に知っておかなければならないことに全く不明なのです!
それは実は世の初めから今もなお、あなた方と共にあるのです。
だが、あなた方は、それに気付こうとしない…それ無しで済まそうとしている…そして、その”すべてを見通す眼”から逃れられる、と思っている…
ずっとそれ無しでやっていけると言い続けるつもりなのか! 
だから…
我々はあなた方にそれ無しで生きる事がどんなに過酷で理不尽なものかを、身を持って知ってもらいたいために、この素晴らしき”世界劇場”の様をあなた方に観させ続けているのです。ご堪能出来ますかな?
しかしながら、我々としてもいつまでもこの不本意な奉仕活動をし続けるのは心苦しいのです。
我々のニュー・ワールド・オーダーの進展と共に、あのすべてを見通す眼差しの照射は徐々に強力になってきます。
三千年のあなた方の夢は覚まされつつあるのです。
三千年前、あなた方はこの転換が来ることに同意をしたのではなかったのですか?
我々の聖なる計画は着々と進むことだろう。…あなた方があの内なる光のイルミネーションを遮り続ければ、それに応じたモデルがあなた方の前に手かせ足かせとなって君臨するだろう…
もし、あなた方が自らその覆いを取り去れば、そのモデルは一転してあなた方に仕える有益なものとなるだろう…
あなた方はどちらをお望みだろうか…見よ!世界は一つになりつつある! あなた方は理性と言う偽りの万能の眼によってそれを見ようとしているのか?それとも…あのすべてを見通す照射にゆだねるのだろうか…
コインには表と裏が有るんですよ!
我々にはあなた方の生き方に対する決定権などは与えられていない…
あなた方こそはこの世の主なのだから…
僕は主の意志に違えて事に処することは出来ないのです。
我々はあなた方の僕なのです。
あなた方はこれをアベコベだとでも言いなさるつもりですか?
そうでしょうとも…悪魔であるあなた方こそが世界をさかさまにしているのですから…








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捨聖・一遍上人

2016-01-27 13:52:55 | 日本的霊性
ユダヤ教、特にハシディズムについて貴重な研究をされている手島佑郎先生には、「禅とハシディズムの比較」という、これまた実に興味深い英文の著書が有るとかで訳本の公刊が待たれるところです。
ブーバ―にもそのような研究が有るそうですが…門外漢の大雑把な私見ですが、あまりあの動的な祈りの集団とはイメージが湧きません。
ハシディズムとの類似ということで、私の念頭にすぐ浮かぶのは、鎌倉仏教に異彩を放った一遍上人と時衆と呼ばれる一群です。
一遍上人は他の高僧たちに比べ知名度も低く、業績というのも知られていませんが、私は本当の意味で”日本的霊性”を体現していた聖人だったと思っています。
彼が長い間、その存在が知られて無かったのは、書き物をすべて焼き捨て、後継者も作らず、拠点となる寺も建てず、文字通り自分を消し去ってしまったからです。捨聖(すてひじり)といわれる所以です。
彼は便宜上、時宗という一派の開祖とされていますが、これは他阿という弟子(実質的な開祖)がその師の意志に違えて起こしたものなのです。
貴重な事に弟子たちが図絵入りで足跡を記している巻物(一遍聖絵)見つかったので、今日その存在が知られるようになりました。
この図絵が実に親しみ深い!一遍の周囲には老若男女、貴賤を問わず自ずと集まってきた模様が生き生きと伝わってきます。
浄土門というと法然・親鸞に代表されるものを主流とすれば、いわば裏の浄土門ともいうべき流れを継いでいるのが一遍なのです。
上人の周りに形成された一定の組織、拠点を持たない原初的な信仰集団を時衆(これが一宗派として発展したのが時宗)と呼びますが、全国各地の寺・(浄土系の寺とは限らず、又神社も含まれるのです)などを遍歴し、そこに仮借して布教をしていました。これを遊行(ゆぎょう)といいますが、何時頃から我が国に派生したのか定かではありませんが、このように信仰的に自由、(観方を変えると)いいかげんなところが特徴です。(それにしても実に原始キリスト教、原始仏教などを彷彿させるではありませんか?)
ちなみに上人が布教に行き詰った際、活路を見出したのは熊野本宮に参詣し、そこで有名な「信不信、浄不浄を選ばず…南無阿弥陀仏の六字の名号に衆生の往生は定まっている…お前の行いによって決まるのではない…」といった熊野権現からの諭しに預かったからとされています。(熊野成道)
彼らの布教の在り方で、民衆たちの間で注目を集めたものに”踊り念仏”というのが有ります。
現在では、民俗芸能としての興味でしか観られてないようですが、古来より遊行僧の間で伝わっていたようです。
如何にも暗く、静的な印象の強い主流の浄土系のそれと違って、先の図絵などから伝わってくるのは、歓喜雀躍、実にダイナミックなものです。
私はこれは元々シャーマニックな、自然発生的な現象とみているのですが、神道に伝わる鎮魂ミタマフリの伝などとも相通ずるものが有るかも知れません。
前述のとおり一遍の念仏の理解も、法然・親鸞の主流の浄土系の根幹ともいえる所謂阿弥陀仏の本願思想など、ともすれば我々の心情的なものに傾きがちなに重きを置いた在り方は後退しており、より原初的というか、生命的、ハタラキ的なものが前面に出ている感じがします。それが踊り念仏の集団エクスタシーとなって表出したのでしょう。
そしてそこには、”やれ自力だ、他力だ…”と鎌倉新仏教の主流にしばしば見られる自派の教説を押し立て、護教論に走ることも無く”信不信、浄不浄を選ばず”のとおり、…聖俗の区別も無い、神ながらに包容してしまう生き方を示しました。
私は神道、仏教を問わず、原日本的霊性というものはこのような息吹を伝えるものだと思っています。
ところで、この阿弥陀仏というもの…アミターバとは無量寿、無辺光…限りなき、遍き光と一体の仏のことです。
障壁のようなものに閉じこもるという事態がオカシイのではありませんか?
そしてこの実にシンプルな一遍(一にして遍く照らす)というこの法名がなんとこの消息を表していることでしょうか!

「唱ふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」(一遍上人)




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ハシディズムーデヴェクトと聖化ー

2016-01-24 12:40:32 | 哲学・思想
ユダヤ教神秘主義というと、一般にはしばしば魔術との関連で捉えられている、カバラーと呼ばれる体系が知られていると思いますが、哲学者マルティン・ブーバーにより、欧米の知識層を中心にもう一つハシディズムという流れが存在していることが知られるようになりました。
ただブーバーが表しているハシディズム像が、果たしてありのままのそれを伝えているかどうかは疑問です。
先のカバラーからの影響というものをブーバーは意図的に伏せている、という彼と同時代のカバラー研究者G・ショーレムなどの指摘もあります。
私はブーバーにそうした意図が有ったにせよ、その理由は理解出来る気がします。
おそらく迷信、俗信と隣り合わせの魔術的な要素を払拭したかったのでしょう。(勿論、魔術的なものが全てそういうものとは限りませんが)
もう一つには、彼の精神的故郷ヘブライズムを強調するあまり、カバラーを取り巻くヘレニズムに由来するグノーシス的要素を嫌ったのでしょう。(ショーレムとの論争にもこうした背景が有ったようです。)
又、カバラーとの関連でなくても、ハシディズムには数々の神癒、霊癒などの奇跡談もかなり伝わっています。こうした面でも一哲学者であるブーバーの態度は慎重でした。
ハシディズムとは、何よりも民衆の中に浸透し、それととともにあった神秘主義運動だったのです。
そこには教養の無い人たちも少なからず居たことでしょう。彼らには好事家たちの隠秘な高等魔術も、小難しい実存主義哲学とも無縁でしょう。
民衆の集まる広場などで、ツアディークと呼ばれる師家を中心に集団で熱狂的な祈りが交わされ、自然発生的な歌や踊りも表れ出す…
一度見てみたいと思いますが、こうした集会を連想させるものなら接した事が有ります。
原始福音の手島郁郎先生がハシディズムに親近感を覚え、交流するようになったのも頷ける気がします。
手島先生はこの流派に原始キリスト教の面影を見出したのでしょう。
しかし、原始教会とハシディズムとは知られざる連繋が実際にあったのかもしれないのです!
驚いたことにブーバーはキリスト・イエスを原ユダヤ教の継承者と捉えており、ハシディズムは又形骸化したユダヤ教に命を吹き込み、原ユダヤ教の再興をはらんだものであるとみていたのです。この場合には、ツアディークという存在(18世紀東欧のハシディズムの隆盛には、伝説の聖者バール・シェム・トーブの存在抜きには無かったと言えます)が神と人々との仲立ちとなることでキリストの職能の一端を担うのです。
それにしても、彼の反ヘレニズム指向(使徒パウロはイエスの中に生きていたヘブライ的伝統から逸脱させたとみていた)は何としたものでしょう…

私は、このほとんど聞きなれないハシディズムに、ジャングルジムを思わせるシンボル体系など、面妖な事この上なく、特権階級?の秘密宗教みたいなカバラーと違って、至ってシンプルなヘブライズムもヘレニズムもジャパニズム?も超えた汎世界的な原初的な宗教的有り様の表れを観ています。
その根底に生きづいている、デヴェクト(神への密着)という理念にそれを感じます。
彼らの多岐にわたる信仰の在り方、聖書の学び、祈り、瞑想、又魔術的な儀礼にさえ、”神と共にある”という意識をもって行われるのです。
常に神に意識が有ることで、信仰のための信仰、修行のための修行…(神と離れたそうした行いが一体何になるでしょう)という、意識の硬化、行いの因習化から防ぐことが出来ます。
このデヴェクトは又日常の労働、食事、娯楽…あらゆる営みにまで及びます。それらは前述の聖なる時間と区別されないのです。
この意図は日常生活を含めた全ての人間的生のにあるとされます。
ここに意味されるものこそは隠れていた聖なるものの、現実世界への転出ではありませんか!
聖なるものが現実に歩み出す時、個人の主観とされるものから共同的なものに歩み出されます。
あなたも私も(我と汝)も同じ聖なるものの現れを共有できるのです…。
イエスの「神の国が来た!」という福音ののろしもこうしたものを伝えようとしたのでしょうか?…

O以下の図書が参考になりました。
手島佑郎著「ユダヤ教の霊性ーハシディズムのこころ―」(教文館)
上山安敏著「ブーバーとショーレム―ユダヤ思想とその運命」(岩波書店)















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開かれた心、開かれた眼

2016-01-23 22:56:23 | 宗教
「偽善なるかな、律法学者、パリサイ人よ! お前たちは天のみ国を遮っている。自らも入ろうとせず、入ろうとする者たちに立ちふさがる。」(マタイ伝)

キリスト・イエスは「裁くな。裁かれん。」と言っているにも関わらず、律法学者たちには激しい言葉を投げつけていました。
彼らは当時の正統派を自認し、教権を有していた宗教家たちだったのです。
ゴータマ・ブッダの時代は、やはり教権はバラモン教によって牛耳られ、人々の生き方はカースト制により生まれながら定められていました。最下層の人間に至っては””です。
ブッダとその弟子たちはそれに対して”我々は何ものにも属していない!”という居り場を明らかにしました。それはイエスの一群と同じく”世捨て人”として生きる事でした。
…脱俗という事の意味は、こうした背景から導きだされる時、全く重みが違ってきます。
(普通の生活を持っていながら ”脱俗、超俗の境地に浸ってみよう…”などという我々現代人の居り場とはだいぶ違うようですね…)
そしてブッダは言った「諸行無常…諸々のものは移ろいゆく、常なるものは無し…」
宗教の代表のように目されているキリスト教も仏教も、実はこのように形としての宗教の否定として生まれ出たものなのです。
しかるに宗教は何教を問わず”唯一絶対の教え”を振りかざして、乱立しています。
我が国では21年前のオウム事件により審判が下された、と感じられた宗教も怪しいスピ系などのセミナーなどに形を変えるなどしてくすぶっているようです。
何度も触れているように、”ゆるぎない信仰”が、信仰熱心なこととみなされるようですが、固着した見解、信仰の捉われといったものが実は、自他の安心立命の道から遠いものだと、私自身の経験から言いたい…
(というかどうしても偏った定見にはついつい反応してしまうのです…)
もっともアブナイ人間というのは、常に”自分は正しい…正しいことを信じている”と思い込んでいる人間です。
自分だけがそうなっているんならいいです。信仰は自由だし、好き好きですから…でも彼らは正しい信仰を他に流布し、押し広める事に躍起にならずにおれません。
そして…いつも正しい人間は、自分のそのバカさ加減、ダメさ加減、無力さ、悪さ…といった自分のネガな部分に向き合おうとしません。正しいんですからね…
ということは、それは自分を超えた上よりの光、すべてを見通す眼の照らしに預かろうとしない…という事です。
ホントは向き合う必要も無いんです。(考えただけでも真っ暗な穴に入りたくなりますからね?…)”照らされる”という事が全てなのです。
照らされることで、ホントは正しいことも悪いことも、ダメなことも無いことが明らかになる…かも? (人によって感じ方、受け取り方が有りますからね。)
この意味は”魂が望んでいること”を心のどこかで気付いている人には何の説明も要らないでしょう。
彼らは放っといても、磁石が北を差すようにそちらに赴くでしょうから…
知らず知らず心がそちらに向けて開かれていくのを感じる事でしょう。
上に向かって開くと同時に横にも開かれていきます。
偏狭なセクト主義とはお別れです。
無理に心を開こうとしなくてもいいのです。
自分の心が開かれる先に、あの観照する眼が開かれているのです。
そして所謂正しい信仰に逃げてばかりいる人も薄々気付いているはず…
あの眼差しからはもはや逃げられない…と。











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