人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

敬虔と実存

2022-09-30 10:08:03 | 回想
神とは人の思いを超えたもの...
何度ここで言ってきたか分かりません。
しかし、私の求道の初期の頃は、学生だったこともあってか、神、真理を知識的に分かろうとする傾向が強かったのです。
物質界の上に霊界があり、その又上に神界があり...とかこの神は、そのどの階級に居るのか、とか下っ端の神じゃなく、宇宙の最高神を信じなきゃならない、とか本に書いてあること、人が言っていることを鵜呑みにして、そりゃもう、ホントに畏れ多いことばかり頭に思い描いていたのです。
頭で分かったつもりなだけで、何一つ全身が頷けるようなものには与ってなどいなかったのです。
そして又、そこには興味本位の浮ついた思いもありました。しかし、心の奥では、“僕にはある重要なものが欠けているんじゃないか?、これでいいのだろうか?”、という思いも去来していたようなのでしたが...
そんな折、昭和53年暮れ、知人が今世を賑わしている、統一教会にハマってしまい、私には当時からその団体はヤバいことは既に認識されていて、そこから離れさせようとして、返って私もそのヤバい目に会うという事態になってしまったのです。
確かその知人が“そこには、本当の神、真理がある!“、とか言うので、“そんなものある訳無いだろ!”と言い返すと、“そんなことは行って、自分の目で見なければ分からないじゃないか!”、という挑発に乗って、迂闊にも近づいてしまったのです。
私には入信の意志など無いにも拘わらず、一度その教会に行って話を聞いただけでも彼らには、“信者として食いついて来た”、と見なされるのです。
それから、毎日のように電話はかかって来る、自宅まで押しかけて来る、何やら尾行されている疑いもある...と、その恐怖に怯える日々がしばらく続いたのです。
”ああ、僕の上っ調子のせいでこんなことに...“
そして、年明け早々、その恐怖の思いに居たたまれなくなり、必死になって祈っていたら...
これが何度も書いている、私が初めて思いを超えたもの~現臨に出くわした最初の契機だったのです。
そこで、神を知識だけで分かったつもりになること、興味本位な浮ついた思いで神に近づくことの愚かさを身を持って知らされたのです。
言うなれば、神に対して敬虔であることを自然に学ばされたのです。
それは、敬虔でなければならない、と外から強制される倫理道徳のことじゃありません。
人の思いを超えたものにあって、意識は自ずとそうならざるを得ないということです。
それは、神は益々自己を超えて、超越的なものとなることなのでしょうか?
頭脳智のみからすればそうでしょう。しかし、それを超えた世界が開かれ、そこで自己と切り離されないようにも、一体のものとなられるのです。いや、その実存感覚というもの自体、超越感覚と共に開かれると言ってもいいのです。
敬虔であることと、実存的であることは一つのことなのです。
神が何であるのかは未だに私には分かりません。それは本当の自分というものについても言えるでしょう。
知る必要がありません。分かっているのは、それにある時、愛、平安、リアリティに与るということです。
それを抜きにして、一体何を知る必要があるでしょうか?!
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イエス最後の言葉

2022-09-28 09:30:54 | キリスト教関連
新約聖書マタイ伝によると、イエスは、十字架刑により自らの最後に向かう時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、神よ、何故私を見捨てられたのですか?)」と叫んだ、とあります。
私は、初めてこれを読んだ時、神の子イエスといえども、断末魔の叫びをしてしまうのだなあ、などと思ったものです。
これには昔から諸説があり、中には“神人一体の境地にいるイエスがそんな言葉など発するはずが無い!、何か歪めれて伝わったに違いない!”、という人もおります。
真実のところは、イエスに聞かなければ分かりません。
イエスの身にならなければ...な~んて、そんなのまっぴらゴメンです!...人間なら誰だってそう思うでしょう?
あんな残忍な刑などやる方も人間とは思えません。
この言葉は、旧約の詩篇の一節にあるそうですが、今わの際にそういうことを諳んじたりするのでしょうか?、しかもその言葉だけを?
やっぱりそれは、思い極まって発せられたように感じます。
イエスの”当たり前に”弱い、人間心から出されたのではないでしょうか?
しかし、それはイエスの本心だったのでしょうか?
何故なら、その直前まで隣で共に十字架にかかろうとしている者に向かって、「お前さん、今日パラダイスにあるんだよ!」と諦観、すべてを任せたような心境を表していたからです。
だけど、人間というものは、この機に及んでなお、否、最後の際だからこそ、分裂するものです!
私だったら多いにあり得ますとも!...”おい、俺が一体を何をしたって言うんだ!”、とか”た、頼む、い、命だけは助けてくれえ!”、とか人間ばかりか神に向かっても、そういうこと言うんじゃなかろうか?
イエスは、敢えてそうした弱い人間心というものを吐露したのではないでしょうか?
何のために?...我々当たり前に弱い人間のために!...
イエスは、人の子と呼ばれました。人の子という意味にも諸説があるようですが、私は、普通にイエスといえども人の子、イエスだから人の子でいいと思っています。
イエスは、人間というもの、この矛盾した、得たいの知れない生き物を象徴している存在だったのではないでしょうか?
それは、人間はどこから来て、どこへ向かい、帰るのか?、ということも示されていたのでしょう。
イエスは、神の子と呼ばれました。が...人の子でもあった!
だから、普通に笑い、泣き、怒るという人間らしい生き方をしていたのです。
そして、最後の最後には、分裂し、神をも否定するような心情も見せる。
しかし、本当に神のみ手にあり、全託の境地にある者からは、ああいう言葉は発せられないでしょう。
それは、本当の最後の言葉であるはずは無かったのです!
本当の最後の言葉は...「我が霊をみ手にゆだねます」...だったのです。
最後の最後にはそうならざるを得ない...
そこにすべての人間の行き着くところが示されているのではないでしょうか?!
コメント (3)
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苦難と恩寵

2022-09-26 10:28:21 | 求道、探究
人は皆幸福を求めているもの...心安らかに生きんと願わないものは居ないでしょう。
これは、勿論自分だけ幸福であればいい、と言っている訳ではありません。
又それは、能動的に獲得出来るような幸福を追い求めることでもありません。
私は、ラマナ.マハルシの「幸福であることは、人間の本来性である」という言葉に”自然に”頷くものを感じます。
だからか、苦難にわざわざ能動的に向かおうとしたり、自己犠牲の道に進んだりする生き方には、どこか無理なもの、不自然なものを感じてならないのです。
ただし、そう赴かせるそこに幸福が感じられていたり、その向こうにそれに与ることが見据えられているのならその限りではありません。
しかし、そのような生き方は、思われたままの自分からは出て来ず、”思いを超えたものにあって“為し得ることなのでしょう。
そういう今の私から見て、昭和59年秋から翌年春まで続いた、ノイローゼみたいな、思いの固着状態の苦難というのが、何か悪い夢でも見ているように、現実にあったように感じられないのです。
だけど...”ホンの一寸した思いの囚われだったものが、だんだん大きく、深くなってゆく...それから逃れようと、もがけばもがくほどクモの巣に捕らえれたようにがんじがらめにされてゆく...“、とリアルに思う起こすと、何かついこないだのことのようにも感じられて来るようです。
そういう思いに駆られる時は、祈ればいい!
しかし、当時の私は、そういう心の状態にあるのは、自分にその時置かれた運命のように感じていて、その苦境を受け入れ、向き合わなければならず、祈ったりするのは、それから逃げることのように思っていたのです。
(当時の私に言いたい!)いや、その祈りというのは、そんな”ああだ、こうだ”と思う先に、自然と、ぱっと意識が向いてしまうようなことを言うのです。(何にって、君が一番知りたがっていて、一番先につながりたいと思っているものにだよ!)
自分の思いだけで、苦難に立ち向かおうとしたりするのには無理があるのです。
実際、その半年に及ぶ精神的苦難がそのことを物語っているのです。
出来もせんことを考えてないで、苦しかったら、苦しいと訴えたらいいじゃないか!(だから、何にって、君が知らない訳無いじゃないか!)
苦しい、病気なら医者に行って治してもらうのは、ごく自然な行為でしょう。
まして、それは行為以前の”一念の自然な動き“なのです。祈ろうと思わなくともそうなってしまう!
何で当時の私は、そういうことにならなかったのかと思うと...サッパリ分からない!、しかし、実に面白い!
これには多分に、当時ハマっていた苦難に身を投じた、フランスの女流思想家シモーヌ.ヴェイユに感化されたところがあったようです。
しかし彼女のその自己犠牲のような精神は、恩寵を受け入れることと切り離されていなかったのです。
恩寵を受け入れること...このことに意識が向いたことで、その苦境から解放されたのでした。
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直接性と幸福

2022-09-25 09:52:49 | 哲学・思想
先日、禅とキリスト教についての本を読んでいたら、道徳に関する話で、ある神学者が”キリスト教では神の戒めというのが大事なんです”、というようなことを述べていました。
人間社会には、法とか戒めというものはありますが、神の戒めというものがあるかどうかは、当人が直接そういうものを感じなければ分からないでしょう?
そういうものは、旧約聖書の”モーシェの十戒”などを引っ張ってきて、そう書かれていることに則って言っている訳でしょう?
もう、とにかくキリスト教というものは、こういうもののオンパレードなのです!
聖書という”神が定められたみことば”無しには成立しないと言ってもいいでしょう。
アタシャ、もうイヤんなります!...”どうしてそういうことが言えるんですか?”、って突っ込む気にもなりません。どうせ、”そう書いてあるから”、って言うんでっしゃろ!
欧米を中心に特に、”開かれた公教会”カソリックにおいて、禅が流行する理由もよく分かる気もします。そして我が国でキ教の教線がずっと振るわない理由も...
このような予め、そうであるものとして設えたものを与件、与断とか言います。
あるいは、禅的見地からは、”超越論”(自己を超えたものがある!と断じてしまう論理?)とかでそれらを批判したりします。
しかし、それに対し、”キ教は超越論!”と断じたり、“超越論はすべて与件に基づいている”、と断じてしまうのも、与件、予断、定見に基づいていると言わなければならないでしょう?
要するに、こうした見解というものは、自己自身に直接示されること、実存に即した有り様からズレているということなのです。
そしてもしかして、ただの妄想で無しに、“神は私に直接戒めを示したもうたのです!“、という人間も居るかもしれないのです。
宗教信仰の世界でこういうことをぶつけても多くは、徒労に終わるだけでしょうが、真摯な哲学者や求道者は、何故この直接性、直接経験というものを重要視し、目指そうとするのでしょうか?
あまりそういうことに言及されたものに接したことはありませんが、それは、”愛、平安、リアリティに与る”、ということに尽きるのではないでしょうか?
それは、二次的なもの、所与のものからは決して与ることは出来ない...あったとしても二次的に落ちたものでしかないでしょう。
それは、自己に内在したものから来るのか、超越したものから来るのか?...いやもう、考えたって分かりゃしません!...だから直接的なのです!
そして、幸福に与ることを抜きにして、直接性へと向かわされる、ということなどあるのでしょうか?
真理の追究?...幸福と切り離された真理などに私の意識が向かうことはありません!
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直感と論理

2022-09-23 09:46:00 | 哲学・思想
ここでスピ関連で書いていることは、ほとんど現臨について、という感がありますが、再三言っているように、それは私が考えたものでも何でもなく、そういう概念(があったとして)に囚われる必要は全く無いのです。
単純にそれは神と言ってもいいですし、キリスト、阿弥陀如来、守護の神霊、ハイヤーセルフ...、あるいは人格的でない気、生命力と言ってもいいでしょう。
ただ、敢えてここで現臨と呼び慣らわしている理由は、それは現実に我々に生きてハタラくものだ、ということを言いたいが為なのです。そうでなければアクセサリーのような神など何にもならないではないか?!
どんな呼び名であれ、生きたものであれば、その現臨感覚に触れられるはずなのです。
一つ、私のこの思いは、普遍性に向けられているということは言えるでしょう。
仮に、この現臨について私が何らかの理論みたいなものを持っていて、論理的な説明を持ってそれを論証したとしましょう。
それは、普遍性ならぬ”普遍妥当性”に訴えての試みだったりするのですが、それをある論客によって反論され、否定されてしまったとしても...そんなもの痛くも痒くも無いわ!
そんな頭が痒くなるだけのことに拘わらず、私は現臨に与ることが出来るのです。
むしろ、その論客の頭の論理だけに帰結させてしまうことを気の毒に思うだけでしょう。
いやもう、本当に、ホントーにお気の毒なこった!
何がって...愛、平安、幸福に与ることが出来ない、これに尽きるのです!
私か心の底から伝えたいことはこういうことなのです!...如何せん、言葉の限界というものがあるし、表現が拙い故、伝わらないのをいつももどかしく感じているのです。
それは知的概念、論理の世界を全く超えている...直感の世界。
だからと言って私は、何か特別な宗教体験をしなければ分からない、などとは言いません。現に私はそういうものに与る前から示されていたのですから...もっともそれも広い意味で宗教体験なのかもしれませんが...
こういうことは分かる人には分かる...一つ言えることは頭の高い人には分からないでしょう。
とはいえ、又私は論理の世界を否定している訳ではありません。超論理的な、生きたものから切り離されず、その基礎の上に乗っかったものであるのなら...そのものあってのそれなのです。
そういう先人の、多く宗教哲学と呼ばれる書物などに接して私は、”よくもまあ、言い表し難いことを言語化出来るものだ!”、と何度か驚嘆、感動させられたことがあります。
確かに、哲学的思考を通しても、愛、平安、そしてリアリティの消息は伝わるものです。
これは、幾分普遍妥当性に譲歩した、普遍哲学?の試みと言えるかもしれません。
普遍性に向けての一つの表現方法として、そういう試みは多いにあって然るべきでしょう。
私のようなオツムの足りない人間にはちと無理ですが...
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