先日、スマホの電池交換をしたいと思ってショップに行ったのですが、最近のスマホは一度電池が本体に付けられると、ほとんどそれと一体化してしまって交換が出来なくなっているとのことです。時代に取り残されている私はちっとも知りませなんだ。
そこで思いました。これは、神的なものが臨み、それが一度私と一体化するように感じられると、もう分離がきかなくなるようなことではないか、と。
そうです。それはずっとずっと私から離れなくなってしまうのです。そしてそれは、私の外から私に付着するように思っていたものが、いつの間にか入れ代わったようになり、私の主なるもののようになり、私はその付属品のようになってしまうのです。
私は、こういう運命を受け入れるしかないのです。...そ、そんな運命になることなど...それは、何にも代え難いことに決まっているではありませんか!
そういうことになって私はそのものの奴隷になる訳じゃない!、返ってより私自身になり、より自由になることなんですよ!...そう、神と共にあるということが、私で居られることであり、自由で幸福なことなんです。
前記したようなことは、あくまで思い、為す自分から観た、感じのことを言っているのであり、本当は、本来は元々神と一体化していたものが、分離して、一個なる自分のみで生きているように感じていたものが、再びつながるようになった、ということも日増しに実感されるようになって来ました。
そういうことなら何故最初から神と一つの状態のままでないのか?、と思われる向きもあろうし、私も考えたこともあります。
これはしかし、微妙な問題になりますが、”一体化”ということがどういうものか、ということを考え、感じてみたら分かるのではないでしょうか?
つまり、最初から一つなら一体化というものは出て来ないのです。
そうなると、おそらく”神がここに臨みたもうた、私と一つに!”、という事態に伴う、喩えようのない歓喜、至福感というものも生まれないだろうし、勿論、悟りや覚醒というものも無いでしょう。
ここに、我々がこの現実世界の二元性の中で生きている、という意味合いが存しているのではないでしょうか?
この二元と一なる一元の間を生きているものが、人間というものなのではあるまいか?
先のように、本来神と一つのものであるのが人間の原態なのでしょう。
それが完全に一つのものになるのかどうかは、以前として考え、為そうとする人間から卒業していない私には分かりません。
前回、私は”神的な現臨にある時、意識の統一が成されている”んだとか、悟ったようなことを書きましたが、そうでない時は、心ここに無いような、テンデバラバラで、心もとない状態なもんで、そんなこと分かる訳ないのですよ。(ああいう、エラそうなこと書くと、決まってすったもんだの事態が起こるのは何故だ?)
これはですね、どこまでもわが主なる御方のみ心次第なんですよ。それは多分、私の本心と一つのものなのでしょう。
そして、どこまでもこの私はそれに合わせ、否合わされるのみなのです。...
そこで思いました。これは、神的なものが臨み、それが一度私と一体化するように感じられると、もう分離がきかなくなるようなことではないか、と。
そうです。それはずっとずっと私から離れなくなってしまうのです。そしてそれは、私の外から私に付着するように思っていたものが、いつの間にか入れ代わったようになり、私の主なるもののようになり、私はその付属品のようになってしまうのです。
私は、こういう運命を受け入れるしかないのです。...そ、そんな運命になることなど...それは、何にも代え難いことに決まっているではありませんか!
そういうことになって私はそのものの奴隷になる訳じゃない!、返ってより私自身になり、より自由になることなんですよ!...そう、神と共にあるということが、私で居られることであり、自由で幸福なことなんです。
前記したようなことは、あくまで思い、為す自分から観た、感じのことを言っているのであり、本当は、本来は元々神と一体化していたものが、分離して、一個なる自分のみで生きているように感じていたものが、再びつながるようになった、ということも日増しに実感されるようになって来ました。
そういうことなら何故最初から神と一つの状態のままでないのか?、と思われる向きもあろうし、私も考えたこともあります。
これはしかし、微妙な問題になりますが、”一体化”ということがどういうものか、ということを考え、感じてみたら分かるのではないでしょうか?
つまり、最初から一つなら一体化というものは出て来ないのです。
そうなると、おそらく”神がここに臨みたもうた、私と一つに!”、という事態に伴う、喩えようのない歓喜、至福感というものも生まれないだろうし、勿論、悟りや覚醒というものも無いでしょう。
ここに、我々がこの現実世界の二元性の中で生きている、という意味合いが存しているのではないでしょうか?
この二元と一なる一元の間を生きているものが、人間というものなのではあるまいか?
先のように、本来神と一つのものであるのが人間の原態なのでしょう。
それが完全に一つのものになるのかどうかは、以前として考え、為そうとする人間から卒業していない私には分かりません。
前回、私は”神的な現臨にある時、意識の統一が成されている”んだとか、悟ったようなことを書きましたが、そうでない時は、心ここに無いような、テンデバラバラで、心もとない状態なもんで、そんなこと分かる訳ないのですよ。(ああいう、エラそうなこと書くと、決まってすったもんだの事態が起こるのは何故だ?)
これはですね、どこまでもわが主なる御方のみ心次第なんですよ。それは多分、私の本心と一つのものなのでしょう。
そして、どこまでもこの私はそれに合わせ、否合わされるのみなのです。...