人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全能の神と実存の神

2025-01-26 06:53:03 | 
神は全知全能と言います。
しかし度々書いているように、私はそのことを直接的に知っている訳ではないのです。
なるほど、我々の人体の構造、機能のことや、自然界の諸々の有り様を見ても摂理というか、何か大いなる意志というものを思わずにおれません。
だからと言って、それはすべて神が創造したのかどうかは分からないのであり、多く一神教的な宗教などで説かれていたり、聖書の創世記などで読んだものを信じているだけなのです。
要するに、そうした神理解は抽象的なもので、私の実存には響いて来ないのです。
私は以前、インドネシアのイスラムをバックボーンに持つ「スブド」という(そこでは宗教ではないと言うが)宗教的な団体に関わり、人の思い、力を超えたハタラキ、生命力を受けることによる「ラティハン」と呼ばれる、ある種の霊的修練をしていたことがあります。
その創始者「ムハマッド.スブー(バパ)」は、講話でよく「この力は全知全能の神から来るのです」と述べておられました。
それが自分の思い、力を超えたものであることは、直接感覚されるものなのだから分かるのですが、全能の神のことは伝わって来ないのです。
私の知る限り、私の内性的なもの、自己自身と直結した、言わば“実存的な神“のことはあまり語られることは無かったようです。
そういうことは、概念、言葉による理解のことなので、あまり重要なことでは無いという向きもあると思いますが、私はそうした通常の在り方を超えた修練を行う上では、無視出来ないものを感じてならないのでした。
それでは、何も立脚するところが無く、中心となるものが分からず、捉えどころの無い、空漠とした、宙に浮いたような意識状態になり、精神的なバランスを欠くような傾向が生まれるでしょう。事実そういう現象もしばしば見られたのです。
このようなことを単に言葉で聞いただけでは、それは抽象的な観念論のように感じる人も居るかも分かりません。
何に精神的に立脚するか、中心を置くかということは、自分の思考で思い描いているのでは無いか?、というように...
それを言うなら全能の神を信じることについても言えることでしょう?
私は思い描き、自分の信条とする神のことを言っているのではないのです。
意識の在り方のことを言っているに他ならないのです。
思いを超えた領域で自ずと、その超越的なハタラキと自己の内性と切り離されないものが感じられて来るような状態のことを言っているのです。
いや、こうしてその神的なものを意識したら、直ちに自己の内的なことが分かたれずに意識されてしまいますけどねえ。(あまりこの内的とかいう言葉に囚われる必要はありません。ここでは、内的だろうと外的だろうと、意識的になっていることが内的なことなのであり、思考、頭脳知を働かせて、抽象観念を信じているようなことが外的なことなのです)
前々回でも触れたように、このように超越的なものと内的な、実存的なものが一つになるようなことが“人格的な神“を直接知るということなのではないでしょうか?
少なくとも、私には意識的に深くなると、自ずとそのように導かれるのを感じています。
“神を知ることは、自己を知ること、自己を知ることは、神を知ること“
同じイスラムの伝統でも、ペルシャの神秘家「イブン.アラビー」がこのように述べていたようなことに私の内なるものは落ち着かざるを得ないようです!...



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神無しにはすべてが空しい

2024-11-28 09:26:52 | 
度々言っていることですが、これは、私が霊性の道において根本的なものとして感じていることです。
その道では、”思いを超えることが重要なんだ”、とシツコク言っている訳ですが...いや、そのこと自体が重要って訳じゃないですよ!...大体、そうなろうたってそうならないじゃないですか?!
その他、欲望を捨てなければならないとか...そうそう悟らなければ、覚醒しなければならない、そのためには呼吸を整える、チャクラを開く、クンダリーニを上げる、霊界の何次元レベルとか幾段階を経なければならない、全託の境地に達しなければならない...
悟り、覚醒、全託...境地に達する?
これ、すべてその思いを超えたもの、神無しには語り得ないし、そうそうことも起こり得ないことじゃないですか?
信仰や修行に熱心に励んでいる人たち、何でこんな根本的なことが分からないのだろうか?
これを欠いてしまえば、信仰のための信仰、修行のための修行に終わるだけ...全くオツカレさんなことではありませんか?
空の境地なら誰でもすぐなれますよ。つまりは、”すべては空しい”ではないか!
”私はここに在る”ことたらしめる、在らしめるものを超えて、一体我々は何を知り、何を為し得るというのでしょうか?...
かくして自我心、思考マインドだけが一人歩きし始める...だから、自我を無くさなければならない!...いやだから、そおじゃないっての!
全託ということを考えてみましょう。といっても我々は、そのことを思い描くことは出来るのでしょうが、これは全然我々が思ったり、為したりするものでないのは言うまでもありません。
これほど、神的なもの無しには起こり得ないことを物語るものはありません!
五井先生は言いました。”神しか無いのです。あとは消えてゆく姿です”
そういう状況(我々が達することじゃない!)になれば、真実にそう言えるでしょう。神無しにはすべてが空しいのです!
悟り、覚醒...そこには言葉に表せない、愛、平安、リアリティがある...だが、神無しにはそれはあり得いし、それは一時の単なるぶっ飛んだ体験というものだけとなり、覚醒剤服用によるトリップ体験と変わりのないものとなるでしょう。そしてそれは、表れたら消えてゆくものです。
人生の頂点に達したように感じるだけに、空しいじゃありませんか?
それに与るために人生はあるのか?...いやそうじゃないだろう!
神無しには、そういう人生も、あなた自身も無いのだから!
だから...”私はここに在る”、”神にあって”
どうしたって我々は神を超えることは出来ない!
”神を超える”、などと宣っている人間は、自分が何を言っているのかまるで分かっていない、狂った人間なのです。それにおツイショウしているだけの人間は、それ以下の金魚のフンだろう!
こんな人間は、生まれて来るのが間違っているのでしょう!
しかし...それもぐるぐる同じところを回り続ける、思い、観念の世界で夢想しているだけのことです。
どうしたって神を超えることは出来ない!
そこに、無限の許しがあるのでしょう。
そうでなければ...すべてが空しい!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神との一体化の意味

2024-10-27 09:07:52 | 
先日、スマホの電池交換をしたいと思ってショップに行ったのですが、最近のスマホは一度電池が本体に付けられると、ほとんどそれと一体化してしまって交換が出来なくなっているとのことです。時代に取り残されている私はちっとも知りませなんだ。
そこで思いました。これは、神的なものが臨み、それが一度私と一体化するように感じられると、もう分離がきかなくなるようなことではないか、と。
そうです。それはずっとずっと私から離れなくなってしまうのです。そしてそれは、私の外から私に付着するように思っていたものが、いつの間にか入れ代わったようになり、私の主なるもののようになり、私はその付属品のようになってしまうのです。
私は、こういう運命を受け入れるしかないのです。...そ、そんな運命になることなど...それは、何にも代え難いことに決まっているではありませんか!
そういうことになって私はそのものの奴隷になる訳じゃない!、返ってより私自身になり、より自由になることなんですよ!...そう、神と共にあるということが、私で居られることであり、自由で幸福なことなんです。
前記したようなことは、あくまで思い、為す自分から観た、感じのことを言っているのであり、本当は、本来は元々神と一体化していたものが、分離して、一個なる自分のみで生きているように感じていたものが、再びつながるようになった、ということも日増しに実感されるようになって来ました。
そういうことなら何故最初から神と一つの状態のままでないのか?、と思われる向きもあろうし、私も考えたこともあります。
これはしかし、微妙な問題になりますが、”一体化”ということがどういうものか、ということを考え、感じてみたら分かるのではないでしょうか?
つまり、最初から一つなら一体化というものは出て来ないのです。
そうなると、おそらく”神がここに臨みたもうた、私と一つに!”、という事態に伴う、喩えようのない歓喜、至福感というものも生まれないだろうし、勿論、悟りや覚醒というものも無いでしょう。
ここに、我々がこの現実世界の二元性の中で生きている、という意味合いが存しているのではないでしょうか?
この二元と一なる一元の間を生きているものが、人間というものなのではあるまいか?
先のように、本来神と一つのものであるのが人間の原態なのでしょう。
それが完全に一つのものになるのかどうかは、以前として考え、為そうとする人間から卒業していない私には分かりません。
前回、私は”神的な現臨にある時、意識の統一が成されている”んだとか、悟ったようなことを書きましたが、そうでない時は、心ここに無いような、テンデバラバラで、心もとない状態なもんで、そんなこと分かる訳ないのですよ。(ああいう、エラそうなこと書くと、決まってすったもんだの事態が起こるのは何故だ?)
これはですね、どこまでもわが主なる御方のみ心次第なんですよ。それは多分、私の本心と一つのものなのでしょう。
そして、どこまでもこの私はそれに合わせ、否合わされるのみなのです。...




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神は対象にはならない

2024-10-01 09:40:30 | 
私は精神的な道に関わるようになって、かつては真理の探究だとか、悟りだとか、何が真の、正しい道なのか、といったことに随分拘っていたところがありました。
それも最近はすっかり後退した感があります。”そんなことなどどうでもええわ!”と心底思えてきます。
だって、それが愛、平安と結びつかなければ何にもならないじゃありませんか?
愛、平安とくればリアリティというのはどうなんだ?、ということになりそうですが、私はこの三つのことは、別々のものとして言い表していないのです。愛、安らぎの感じられないリアリティというものは無い!、だから愛、平安はかくもリアルなものなんだ!
逆説的ですが、それが究極の真理というものなのでしょう?
真理の探究だ、悟りだ、なんだと躍起になってても、留まることを知らず、落ちるところがありません。 いつ獲得出来るのか、境地に到達するのか分かりません。
それが嵩じると、不満足、不十全感がつのり、神的なもの、そのダメな自分自身に対しても不信感が起きたりして、不幸を背負ってしまうことにもなりかねません。
何とご苦労さんなことじゃありませんか?
こういう歩み方というのは、最初からその神的なものを信頼していなかった、ということが言えるでしょう。真摯に意識を向け、祈っていた訳ではなかったのです。
つまり、真理というものと神は切り離されていたということでしょう。
もし、真摯に神と向き合っていたなら...幸福則ち~愛、平安、リアリティを感じずにおれなくなるはずです。神を離れてそういうものなどあろうはずが無いのです。勿論、悟りというものも!...誰も神的なもの無しにそれらに与ることは出来ないのです。
こうしたことを言い換えれば、真理といったものを対象にして、追い求めるので無しに、神を自分に、否”神の方が自分にハタラキたもう”ことを意識するということになるでしょう。
つまり神を対象にしないということ...神は本当は対象にはならないのです。
そこには、神を対象にする、神そのものでない何かを得んがためにそうしようとする自我意識ばかりがあるのです。自我とは、自分と自分以外のものを分けようとするものだから!
神は本来、その自己を在らしめるもの、自己と切り離されないものなのです。
そして、神と切り離された時、愛、幸福を失ってしまうに至るのです。
だからいつも言うように、思い、為そうとする自分からは、何も始まってこない、開かれてこない、というのです。
然るに、宗教だとか信仰だとか散々語られていても、神そのものは、神棚に上げっぱなしになっている事態が何と多いことか?
私はますます、神が私にハタラキ、顕わになってくるのを感じて、かく言い表さずにおれません!








コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの神の他に真の神は無い!

2024-09-08 09:21:39 | 
ある霊能者が「守護霊というのは、迷った霊なので、頼ったり、信仰してはなりません。頼り、信仰するのは、天照大神のみです」というようなことを言っていました。
そうかもしれませんが、これは如何にも守護霊や天照大神のような主神と言われる存在が実体として捉えられている人の言い分ということになるでしょう。
それに当然のことながら、霊能を持たない普通の凡人には、その信仰している霊なり神の存在がどういうものかは分からないのです。
いづれにしても、それはそうした存在を対象にして信仰しているということになります。
だけど、それが宇宙の主宰神だろうと、一介(?)の守護霊だろうと、宗教的な道を歩んでいる我々は、自分を超えたものの導き、ガイダンスを仰ぐことには変わりは無いでしょう。
考え、為そうとする自分の力のみに頼るのでなければ、それが個体を持たない、ハタラキ、法力といったものでも、何らかの導きを頂かなければならないのです。
というより、私なんかは、ごく自然にその自分を超えたものに意識が向けられてしまうのですよ。そっからしか開かれようが無いのです。
それは、守護霊なのか、宇宙の主神なのか?...そんなこた、知らないって~の!
知る必要が無いだろう!...自分の思いを超えてるんだから分からないのが当たり前なのです。分かったというのは、実に不遜なことですよ!
ここで大事なことは、分からないものは余計な詮索などしなくていいということです。
例えば、守護霊というのは、先祖の悟った霊(迷ってない?)という説明があるのは私も知識としては知っています。だけどそういう実体があるかどうかは分からないし、先入観、固定観念が生じる元になるから、参考程度に置いといて、囚われないことが必要でしょう。
天照大神とか最高神(自分を高くしたい人間ほど、そうであることを信じたがるんだ!)というのを持ち出すのも同様ですよ!
それよりも肝心なことは、その霊的、神的存在を信じる、というか意識を向けることが、自己自身、自己の実存、本心を開くことにつながるかどうか、ということなのです。
自己実存と関わらない、つながらない宇宙の最高神を信じ、仰いでいたってそれが一体何になるのか?、アクセサリーにもなりゃしないですよ!
だから、自分にとって真の神、正神、最高神とは、実体が何かは分からなくても、意識を向け、深まれば深まるほど、真の自分に目覚める道が開かれ、一つになるような存在でしょう。
だからだから、私の神、あなたの神の他に真の神は無いのです!
愛、平安そしてリアリティが感じられるから、分別知で分かろうとする必要がありません。分かったって、リアリティが感じられなかったらしょうがない!
もう、このように今は、神を自分の向こうに対象にして拝む時代では無いのです!...真の神は、真の自己と切り離されないものである!...そういう時代相を我々は生きているのでしょう!
私がいつも書いていることは、そのことを日に日に身に覚え、そう促されるものを感じているからに他ならないのです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする