人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神との一体化の意味

2024-10-27 09:07:52 | 
先日、スマホの電池交換をしたいと思ってショップに行ったのですが、最近のスマホは一度電池が本体に付けられると、ほとんどそれと一体化してしまって交換が出来なくなっているとのことです。時代に取り残されている私はちっとも知りませなんだ。
そこで思いました。これは、神的なものが臨み、それが一度私と一体化するように感じられると、もう分離がきかなくなるようなことではないか、と。
そうです。それはずっとずっと私から離れなくなってしまうのです。そしてそれは、私の外から私に付着するように思っていたものが、いつの間にか入れ代わったようになり、私の主なるもののようになり、私はその付属品のようになってしまうのです。
私は、こういう運命を受け入れるしかないのです。...そ、そんな運命になることなど...それは、何にも代え難いことに決まっているではありませんか!
そういうことになって私はそのものの奴隷になる訳じゃない!、返ってより私自身になり、より自由になることなんですよ!...そう、神と共にあるということが、私で居られることであり、自由で幸福なことなんです。
前記したようなことは、あくまで思い、為す自分から観た、感じのことを言っているのであり、本当は、本来は元々神と一体化していたものが、分離して、一個なる自分のみで生きているように感じていたものが、再びつながるようになった、ということも日増しに実感されるようになって来ました。
そういうことなら何故最初から神と一つの状態のままでないのか?、と思われる向きもあろうし、私も考えたこともあります。
これはしかし、微妙な問題になりますが、”一体化”ということがどういうものか、ということを考え、感じてみたら分かるのではないでしょうか?
つまり、最初から一つなら一体化というものは出て来ないのです。
そうなると、おそらく”神がここに臨みたもうた、私と一つに!”、という事態に伴う、喩えようのない歓喜、至福感というものも生まれないだろうし、勿論、悟りや覚醒というものも無いでしょう。
ここに、我々がこの現実世界の二元性の中で生きている、という意味合いが存しているのではないでしょうか?
この二元と一なる一元の間を生きているものが、人間というものなのではあるまいか?
先のように、本来神と一つのものであるのが人間の原態なのでしょう。
それが完全に一つのものになるのかどうかは、以前として考え、為そうとする人間から卒業していない私には分かりません。
前回、私は”神的な現臨にある時、意識の統一が成されている”んだとか、悟ったようなことを書きましたが、そうでない時は、心ここに無いような、テンデバラバラで、心もとない状態なもんで、そんなこと分かる訳ないのですよ。(ああいう、エラそうなこと書くと、決まってすったもんだの事態が起こるのは何故だ?)
これはですね、どこまでもわが主なる御方のみ心次第なんですよ。それは多分、私の本心と一つのものなのでしょう。
そして、どこまでもこの私はそれに合わせ、否合わされるのみなのです。...




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神は対象にはならない

2024-10-01 09:40:30 | 
私は精神的な道に関わるようになって、かつては真理の探究だとか、悟りだとか、何が真の、正しい道なのか、といったことに随分拘っていたところがありました。
それも最近はすっかり後退した感があります。”そんなことなどどうでもええわ!”と心底思えてきます。
だって、それが愛、平安と結びつかなければ何にもならないじゃありませんか?
愛、平安とくればリアリティというのはどうなんだ?、ということになりそうですが、私はこの三つのことは、別々のものとして言い表していないのです。愛、安らぎの感じられないリアリティというものは無い!、だから愛、平安はかくもリアルなものなんだ!
逆説的ですが、それが究極の真理というものなのでしょう?
真理の探究だ、悟りだ、なんだと躍起になってても、留まることを知らず、落ちるところがありません。 いつ獲得出来るのか、境地に到達するのか分かりません。
それが嵩じると、不満足、不十全感がつのり、神的なもの、そのダメな自分自身に対しても不信感が起きたりして、不幸を背負ってしまうことにもなりかねません。
何とご苦労さんなことじゃありませんか?
こういう歩み方というのは、最初からその神的なものを信頼していなかった、ということが言えるでしょう。真摯に意識を向け、祈っていた訳ではなかったのです。
つまり、真理というものと神は切り離されていたということでしょう。
もし、真摯に神と向き合っていたなら...幸福則ち~愛、平安、リアリティを感じずにおれなくなるはずです。神を離れてそういうものなどあろうはずが無いのです。勿論、悟りというものも!...誰も神的なもの無しにそれらに与ることは出来ないのです。
こうしたことを言い換えれば、真理といったものを対象にして、追い求めるので無しに、神を自分に、否”神の方が自分にハタラキたもう”ことを意識するということになるでしょう。
つまり神を対象にしないということ...神は本当は対象にはならないのです。
そこには、神を対象にする、神そのものでない何かを得んがためにそうしようとする自我意識ばかりがあるのです。自我とは、自分と自分以外のものを分けようとするものだから!
神は本来、その自己を在らしめるもの、自己と切り離されないものなのです。
そして、神と切り離された時、愛、幸福を失ってしまうに至るのです。
だからいつも言うように、思い、為そうとする自分からは、何も始まってこない、開かれてこない、というのです。
然るに、宗教だとか信仰だとか散々語られていても、神そのものは、神棚に上げっぱなしになっている事態が何と多いことか?
私はますます、神が私にハタラキ、顕わになってくるのを感じて、かく言い表さずにおれません!








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あなたの神の他に真の神は無い!

2024-09-08 09:21:39 | 
ある霊能者が「守護霊というのは、迷った霊なので、頼ったり、信仰してはなりません。頼り、信仰するのは、天照大神のみです」というようなことを言っていました。
そうかもしれませんが、これは如何にも守護霊や天照大神のような主神と言われる存在が実体として捉えられている人の言い分ということになるでしょう。
それに当然のことながら、霊能を持たない普通の凡人には、その信仰している霊なり神の存在がどういうものかは分からないのです。
いづれにしても、それはそうした存在を対象にして信仰しているということになります。
だけど、それが宇宙の主宰神だろうと、一介(?)の守護霊だろうと、宗教的な道を歩んでいる我々は、自分を超えたものの導き、ガイダンスを仰ぐことには変わりは無いでしょう。
考え、為そうとする自分の力のみに頼るのでなければ、それが個体を持たない、ハタラキ、法力といったものでも、何らかの導きを頂かなければならないのです。
というより、私なんかは、ごく自然にその自分を超えたものに意識が向けられてしまうのですよ。そっからしか開かれようが無いのです。
それは、守護霊なのか、宇宙の主神なのか?...そんなこた、知らないって~の!
知る必要が無いだろう!...自分の思いを超えてるんだから分からないのが当たり前なのです。分かったというのは、実に不遜なことですよ!
ここで大事なことは、分からないものは余計な詮索などしなくていいということです。
例えば、守護霊というのは、先祖の悟った霊(迷ってない?)という説明があるのは私も知識としては知っています。だけどそういう実体があるかどうかは分からないし、先入観、固定観念が生じる元になるから、参考程度に置いといて、囚われないことが必要でしょう。
天照大神とか最高神(自分を高くしたい人間ほど、そうであることを信じたがるんだ!)というのを持ち出すのも同様ですよ!
それよりも肝心なことは、その霊的、神的存在を信じる、というか意識を向けることが、自己自身、自己の実存、本心を開くことにつながるかどうか、ということなのです。
自己実存と関わらない、つながらない宇宙の最高神を信じ、仰いでいたってそれが一体何になるのか?、アクセサリーにもなりゃしないですよ!
だから、自分にとって真の神、正神、最高神とは、実体が何かは分からなくても、意識を向け、深まれば深まるほど、真の自分に目覚める道が開かれ、一つになるような存在でしょう。
だからだから、私の神、あなたの神の他に真の神は無いのです!
愛、平安そしてリアリティが感じられるから、分別知で分かろうとする必要がありません。分かったって、リアリティが感じられなかったらしょうがない!
もう、このように今は、神を自分の向こうに対象にして拝む時代では無いのです!...真の神は、真の自己と切り離されないものである!...そういう時代相を我々は生きているのでしょう!
私がいつも書いていることは、そのことを日に日に身に覚え、そう促されるものを感じているからに他ならないのです。




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顕われ、開かれ、なったもの

2024-08-25 09:45:53 | 
大調和協会で聖典とされる、通称「三千冊(その由来はこの数を冊したということから)~大調和世界開顕之聖業発祥」には、例えば...「今 人類の上に、その人類が、有史以来 未だ 嘗て、無きところの、否、古今未曾有の、”一大祥事”は、事...肇めいたしたのでございます」...
というように、どエライ、大変なことが始まったらしいことを告げる言葉が何度も出て来るのですが、その核となるであろう、大調和世界観なるもの、大聖業(おおみわざ)という大作用(おハタラキ)についての表現はあるものの、それは果たして如何なるものなのか、どういう経緯で出顕したのか、ということは、どこを紐解いても出て来ないのです。
これでは、まるで「ほら、あれがスカイツリーだ!、どエライものだ!、あそこへ行くんだ!」と言っているようなもので、どこをどう行ったらそこへ出られるのかは分からないのです。
しかしですね...考えてみれば、これは私がここでずっと言ってきたこととあまり変わらないようでもあります。
と、とにかくですね、顕われた、臨んだ、開かれたんであります!...突如、視界にスカイツリーが顕われたようなものか?
何が?...って、神的なものが!...それは何かって...だからそれは私の思いを超えたもなんだからワカラン!
それは、そんなに大変な、喜ばしきものなのか?...って、あったりめえではないか!
歓喜、カンキ、幸福、愛、平安、リアリティ...そういうものしか無い!
それは、断じて私が長年の信仰、修行などを通して獲得したり、到達したものなんかでは無い!...それだったら私が思い、為した結果ということになるではないか?、それは元々そうなっているものなんだ!
それは、だから全くそれらを超えたものだから、それが一体何なのか、何でそうなるかは分からなくて当然ではないか!
そして、そうして開かれた、与ったものは、受け入れるしかない!...私はそれに与る資格は無い、と言ったって、出て来ちゃった、顕われた、受けちゃったものは、仕方ないではありませんか!
神がここに顕われた!、臨んだ!...神...神ったこととはそういうことなのでしょう?
それは、あの本に書かれている”おおみわざ”と同じものなのか?...そうでしょう?、知らんけど...だから、それは何なのかは分からないんだってば!
何の宗教では、何の神が、仏が、ハタラキが...それとその大調和協会という名の知れない一団体に顕われた大聖業とどう違うのか?...何てこた、私にはまるで分かりゃしません!、分かったタメシが無い!、分かろうという気もさらさら無い!、現実にそんな気などどっからも起こってきやしません!
何でかと言うたら...私の思いを全く超えたものだからですよ!
その上で、あ~たら、こ~たらいうのは、ただの屁理屈のようにしか聞こえてきません!
そういうものは、現実にそういう方には意識が動かないんだから、うっちゃっとくしかありません。
私は絶対に、こちらの”さかしら”を立てて、そのものに手をかけるようなマネはしたくありません!
”そこを会に忖度して、会の在り方に従いなはれ”、と言われても、何が忖度だ、イヤだ、妥協なんかしない、ゴメン、サヨウナラ!...”
と、内輪の話はさて置き...
昔も今も変わらない、私自身の現実に示された、顕わになった、開かれた、思いを超えたものとはどういうものか?...と言ってもそれは言い表せないものなのであり、私の関わる、思想、主義、信仰、修行等々を全く超えたものだ、ということを言い表した次第です。

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神無くしては立ち行かない

2024-08-24 09:28:53 | 
毎度のことながら神が何かということは分かりません。
しかし、神という言葉は持ち出さずとも、特別な信仰を持たずとも自分を超えたあるもののことは、誰でも直感出来ると思うのです。
それ無しに、どうしてこの人間世界が立ち行くことが出来るでしょうか?
人間は一人では生きてはいけない、否その成り立ちからして、その個体だけで成っているものではない、ということも私の縁で言えば、大調和協会のその聖業(みわざ)などを通じて知らされ、そのことを私自身も直接的に知らされているのです。
だから、その自他一体なることに目覚め、人間存在に本来的に根付いている、その共同体的なものを指向し、その成就に務めなければならないのです。...って、そうではあるのだけど、私が本当にここで言いたいことは、その共同体的な在り方をどうこうしようと言うことではありません。
その思いを超えた、神的なもの無くしてどうこう出来るはずがないではありませんか?
その自他一体の調和世界の在り様は、神あってこそのもの、人間相互のつながりというものは、神とのつながりを欠いては成り立ちようが無いのです。
それを欠くならば、ベルジャーエフが説き明かしたように、コミュニオンという霊的な共同意識は、共産主義体制に見る、極端な集合主義へと変質してゆかざるを得なくなります。
神、聖霊、キリストを通してつながる霊的共同意識も外的な教会制度の内に蒸発してしまうに至るのです。
これは、ほんの一例なのでして、人間が人間だけで営む、すべてのことに当てはまることと言ってもいいでしょう。
思想、主義、そして神信仰というものからしてが!...私の思想、主義、信念、信仰.、方法..”この私の信じる教え、方法は他とはこれこれの点が違うのだ!”、とその特質性を主張してやまない...そこには、自らの他に比べての優位性を持ちたいという心根が伺える...いくら調和世界のことを外に説いていても、人間だけの人間は、どうしても相対観から自由にはなれないのではありませんか?
私、我々の、信じ、行っていることに取り込んだことは、すべてが私、我々の思いを超えたものから切り離され、その本来性から逸脱し、それを失うに至ると言ってもいいのではありませんか?!
ある時、”そんなこと言ったら君イ、世の中立ち行かなくなるではないか?”、と、先のようなことを話している中で、向けられたことがありました。
その時は、その言葉に押し切られ、妥協したような形になったのでしたが、いや、根本的に立ち行かなくなるのは、人間存在の根底からそうなってしまうのは、実に上記のことが問題となるのではないか!
神的なものと切り離されれば、すべてのことが行き詰まり、霊的な生命が枯渇するに至るのではないか!
だから、いつも神に意識を向ける必要がある、祈ることがそれにつながると言うのです。
もう、私はずっとここでそういうことを言い続けているのですよ!...これが私の信仰、祈りなのです!...って、そおではない!...私のとか我々のとか、私、我々が思っている、やっているということは余計なことなのです!
(私はね...)それが何かは分からないけれど、この私の現実に顕われた、出て来たものにどこまでも、心を、意識を開いて、その導きのままに、なされていくだけなのです。
取りて、為すのではない!、成って来るものにどこまでも開いてゆくのみ!...
もう、妥協などはすまい!、絶対信があるのだから!、それが私の信!...(でもないか?)
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