何時だったかM女史からこんなことを言われた事が有りました。
「貴方はもしかしたら、悟りを啓くような運命にある人なのかも分からない。でも貴方は自分だけが悟ってそんな境地に居て、満足してしまうような人じゃない! 貴方は人との関わりの中で目覚めてくるものに触れることを求めているのでしょう。現実にそれが顕れなければ満足できないのでしょう…」
この言葉は全く否定しようのないものです。私が果たして悟る運命にあるのか、どうかという話はさて置き(女史が生きていた時代は、”覚醒”といった表現も一般に馴染みが無く、最近のなんてことない人にもそういう事になってしまう事態も知られていませんでした。)そもそも私がD会なるものに惹かれた理由の一つが、それが人と人との関係性、共同体的なものとの関連で”覚めてくる”ものを指向していたからです。それは又それが雛形となって普遍人類に開かれていくものであることを告げているのです。
そしてこのことは実は、私が初めて目覚めに預かった時に、大きく投げかけられ、内包されていたものでした。
私はその時、意識の覚醒と共に個的な自己を超えた、普遍調和が開かれていたのを目の当たりにしたのです。
これはもとより、私の意識の内なること、内面において開示されたものと一応はみることが出来ます。
でも…私はその事を単なる私の主観的な事として片付けられてしまう事は、どうしても(周囲は如何なる判断をしようとも)受け入れられない、という思いは捨て切れないのでした。
何故ならば、そこで実感したものは、それまで所謂主観的とされる個人の思い描いたようなものの次元とは比べられない程リアルで、疑いようのないものだったからです。
そしてそのことは、意識がこちら側に戻りつつある時、改めてこの日常の現実世界に思いを向けた時、”一体これは何という事か、この世界には活きる上で最も重要なものを欠いているではないか!この世界は基礎の無い”空洞、蜃気楼ではないか!”と愕然する他無かったのです。
一体全体、このようなプロセスを経ながら、その眼下の現実世界をよそに ”私はこの世に超越した、解脱したのだ…”などと一人悦に浸っている人間が居たとしたら、何とオメデタイことだろう…と思いませんか!
そして私はこの時、たった一人でもいい、私のこの事態を理解している人が出てきてほしい、とどんなに願ったことでしょう…とにかく私はその垣間見られたものが、単なる私の幻想で終わってしまう事に対し”あれが幻想だとすれば、あの現臨も幻想…では全てが幻想になってしまうではないか!”といった思いに強く迫られたのでした。
すると…声なき声のメッセージらしきものを受けたのです。
”私はこの見える世界にアリアリと示現しよう…”それは実にかの普遍調和世界のこの地上への応現を物語るものでした。
覚醒経験者のある報告では、ワンネスというか調和世界は未来に実現するものでなく既に成っている、という意味のことが述べられていますが、実際私も永遠においてある、そういうものを垣間見たわけで、一面ではそうなのですが、二元的なこの世に生きてる人間にとってはそうではありません!
この世においては時間、空間という制限がどうしたってあります。
全ての黙示的表現というのは、この二元で生きるものに意味が有り、またそれはその日、その時何が終わり、何かが生まれるらしい…
見えない彼の世界と見える現実世界が一如になるらしい…
ただ私には、(それはもとよりそうなってみなければわからない事なのですが)具体的にこの見える現実が、人類世界がどう変容するのか、という事は分かりません。(というか分かっても言いません!)
その小さい雛形のようなものには、時折出くわします。
例えば人と交流していて自他に区別があいまいになって、そこに有機的なものがハタラクような時です。
それは私の内面の領域を超えて、つまり主観とは言えない世界を両者が共有している、という事です。
見えない世界が、現実世界に応現するとは、このような局面で示されるのではないでしょうか…
「貴方はもしかしたら、悟りを啓くような運命にある人なのかも分からない。でも貴方は自分だけが悟ってそんな境地に居て、満足してしまうような人じゃない! 貴方は人との関わりの中で目覚めてくるものに触れることを求めているのでしょう。現実にそれが顕れなければ満足できないのでしょう…」
この言葉は全く否定しようのないものです。私が果たして悟る運命にあるのか、どうかという話はさて置き(女史が生きていた時代は、”覚醒”といった表現も一般に馴染みが無く、最近のなんてことない人にもそういう事になってしまう事態も知られていませんでした。)そもそも私がD会なるものに惹かれた理由の一つが、それが人と人との関係性、共同体的なものとの関連で”覚めてくる”ものを指向していたからです。それは又それが雛形となって普遍人類に開かれていくものであることを告げているのです。
そしてこのことは実は、私が初めて目覚めに預かった時に、大きく投げかけられ、内包されていたものでした。
私はその時、意識の覚醒と共に個的な自己を超えた、普遍調和が開かれていたのを目の当たりにしたのです。
これはもとより、私の意識の内なること、内面において開示されたものと一応はみることが出来ます。
でも…私はその事を単なる私の主観的な事として片付けられてしまう事は、どうしても(周囲は如何なる判断をしようとも)受け入れられない、という思いは捨て切れないのでした。
何故ならば、そこで実感したものは、それまで所謂主観的とされる個人の思い描いたようなものの次元とは比べられない程リアルで、疑いようのないものだったからです。
そしてそのことは、意識がこちら側に戻りつつある時、改めてこの日常の現実世界に思いを向けた時、”一体これは何という事か、この世界には活きる上で最も重要なものを欠いているではないか!この世界は基礎の無い”空洞、蜃気楼ではないか!”と愕然する他無かったのです。
一体全体、このようなプロセスを経ながら、その眼下の現実世界をよそに ”私はこの世に超越した、解脱したのだ…”などと一人悦に浸っている人間が居たとしたら、何とオメデタイことだろう…と思いませんか!
そして私はこの時、たった一人でもいい、私のこの事態を理解している人が出てきてほしい、とどんなに願ったことでしょう…とにかく私はその垣間見られたものが、単なる私の幻想で終わってしまう事に対し”あれが幻想だとすれば、あの現臨も幻想…では全てが幻想になってしまうではないか!”といった思いに強く迫られたのでした。
すると…声なき声のメッセージらしきものを受けたのです。
”私はこの見える世界にアリアリと示現しよう…”それは実にかの普遍調和世界のこの地上への応現を物語るものでした。
覚醒経験者のある報告では、ワンネスというか調和世界は未来に実現するものでなく既に成っている、という意味のことが述べられていますが、実際私も永遠においてある、そういうものを垣間見たわけで、一面ではそうなのですが、二元的なこの世に生きてる人間にとってはそうではありません!
この世においては時間、空間という制限がどうしたってあります。
全ての黙示的表現というのは、この二元で生きるものに意味が有り、またそれはその日、その時何が終わり、何かが生まれるらしい…
見えない彼の世界と見える現実世界が一如になるらしい…
ただ私には、(それはもとよりそうなってみなければわからない事なのですが)具体的にこの見える現実が、人類世界がどう変容するのか、という事は分かりません。(というか分かっても言いません!)
その小さい雛形のようなものには、時折出くわします。
例えば人と交流していて自他に区別があいまいになって、そこに有機的なものがハタラクような時です。
それは私の内面の領域を超えて、つまり主観とは言えない世界を両者が共有している、という事です。
見えない世界が、現実世界に応現するとは、このような局面で示されるのではないでしょうか…