「神の国(天国)は、汝らのただ中にある」
この聖書の言葉は、多くのスピ系で語られていることで、「それは我々の内なる神性に関した話だろう」と、すんなり受け入れてしまう人も多かろうと思います。
でもこれには別の解釈もあって、それは「我々の人格的な交わり、関わり合いの中にある」というものです。
これは主としてキリスト教方面で強調され、教会にこそ神の国がある、ということを論証しようとする向きも有ります。
他方インド系の非二元のマスターたちが、こうした共同体を指向するという事はあまり聞かないですね。
全ては真我で片付けられてしまう様で…共同体も真我ってことか?どっち道言うことが無いです…。
ユダヤ系の宗教哲学者マルティン・ブーバーは主著「我と汝」により、キリスト教神学にも影響を及ぼしましたが、その中で神はその我と他者との具体的、人格的関係の中に顕れ、そこから有機的な共同意識が派生すると述べています。
こうした関係を「我―汝」関係と呼び、その有機性を失い、他者をあたかも「もの」としか対応出来なくなった「我ーそれ」関係と区別しています。
他者に対して固定した先入観、自己本位の目的意識、目論見などが介入した時、「汝」は隠れ「それ」が支配し始めます。
これに即せば形骸化し、制度となった教会は「我―それ」になってしまうのです。
ブーバーはこのように我々と他者との二通りの関わりを提示するのですが、現実世界では重要な「我―汝」の有り様はほとんど「それ」によって覆われて霞んでしまっているといった感があります。
「我―汝」関係により導かれる有機的共同体は、ロシア系の宗教哲学者ベルジャーエフが「ソボールノスチ」というロシア語で呼んだものと類似しています。
これは英語のコミュニオン(霊的交わり)に近いものがあると思われますが、こちらは必ずしも他者との関わりに限定されるものでもないようです。
又「我―それ」関係と言うのもベルジャーエフにあって「精神の客体化」を想起させるものがあります。
ところで、ブーバーは初期の頃には所謂忘我の体験、まあ言うなれば覚醒、超越体験の研究をしていたのですが、ハシデイズムというユダヤ教神秘主義運動との出会いから具体的な他者との関わりの重要性に目覚めました。
敢えて運動と言ったのは、それは正に共同体を指向していたからです。
熱狂的な集団での祈りを伴うもので、日本のユダヤ指向のキリスト教の一派原始福音にも影響を与えたようです。
彼が対話の哲学へシフトした理由は、所謂神秘主義で語られる忘我の体験は、自己完結、内面的主観で片づけられてしまう傾向があるからです。
それは現実に世界に顕れなければ意味をなさない、ということです。
確かに現実世界への応現という観点からは、自己の内的世界のみで留まってしまえば、「流産」に終わってしまうでしょう。
しかしながら、一体誰がその体験は主観的なものにすぎない、などと決めつけられるでしょうか?
病的な幻想、ドラッグ服用によるトリップ体験とは区別されるべきは当然かも知れませんが…
でもこうしたレッテルを張られることにより、どれだけ多くの超越的な気付きが葬りされたことでしょう。
私の理解では、真の超越、覚醒体験で示されたものは全て現実世界への発露を内包している、
地上天国の種、青写真ではなかろうかと思います。
現実世界に歩みだされたか、どうかは結果論にすぎないのです。
よしんば「流産」に終わったように見えても、それ自体無意味だったと言い切れるのでしょうか?
何時も不思議に思うのですが、ブーバーに限らず、どうしてこのように一方の視点を重視するあまり、もう一方の視点を切り捨てる傾向が生まれてしまうのか…
「我―汝」関係において、その命の源は内的神性ではないでしょうか…
そこから滋養されることが無ければすぐ「それ」が幅を利かせてしまうでしょう。
私の不器用な人間関係での経験では、あまり他者性というものを意識しすぎると、何ともぎこちない「それ」めいたものが生まれます。
思わず深い交流が持てた時というのは、自分の内面に意識が向けられていた時です。
ただいつ何時そうした関係が生まれるのかどうかはこちらでは予測不可能ですが…。
神の国は我々の内面にあるのか、
我々の間に有るのか…
沈黙の声は告げる…
どっちも本当!
この聖書の言葉は、多くのスピ系で語られていることで、「それは我々の内なる神性に関した話だろう」と、すんなり受け入れてしまう人も多かろうと思います。
でもこれには別の解釈もあって、それは「我々の人格的な交わり、関わり合いの中にある」というものです。
これは主としてキリスト教方面で強調され、教会にこそ神の国がある、ということを論証しようとする向きも有ります。
他方インド系の非二元のマスターたちが、こうした共同体を指向するという事はあまり聞かないですね。
全ては真我で片付けられてしまう様で…共同体も真我ってことか?どっち道言うことが無いです…。
ユダヤ系の宗教哲学者マルティン・ブーバーは主著「我と汝」により、キリスト教神学にも影響を及ぼしましたが、その中で神はその我と他者との具体的、人格的関係の中に顕れ、そこから有機的な共同意識が派生すると述べています。
こうした関係を「我―汝」関係と呼び、その有機性を失い、他者をあたかも「もの」としか対応出来なくなった「我ーそれ」関係と区別しています。
他者に対して固定した先入観、自己本位の目的意識、目論見などが介入した時、「汝」は隠れ「それ」が支配し始めます。
これに即せば形骸化し、制度となった教会は「我―それ」になってしまうのです。
ブーバーはこのように我々と他者との二通りの関わりを提示するのですが、現実世界では重要な「我―汝」の有り様はほとんど「それ」によって覆われて霞んでしまっているといった感があります。
「我―汝」関係により導かれる有機的共同体は、ロシア系の宗教哲学者ベルジャーエフが「ソボールノスチ」というロシア語で呼んだものと類似しています。
これは英語のコミュニオン(霊的交わり)に近いものがあると思われますが、こちらは必ずしも他者との関わりに限定されるものでもないようです。
又「我―それ」関係と言うのもベルジャーエフにあって「精神の客体化」を想起させるものがあります。
ところで、ブーバーは初期の頃には所謂忘我の体験、まあ言うなれば覚醒、超越体験の研究をしていたのですが、ハシデイズムというユダヤ教神秘主義運動との出会いから具体的な他者との関わりの重要性に目覚めました。
敢えて運動と言ったのは、それは正に共同体を指向していたからです。
熱狂的な集団での祈りを伴うもので、日本のユダヤ指向のキリスト教の一派原始福音にも影響を与えたようです。
彼が対話の哲学へシフトした理由は、所謂神秘主義で語られる忘我の体験は、自己完結、内面的主観で片づけられてしまう傾向があるからです。
それは現実に世界に顕れなければ意味をなさない、ということです。
確かに現実世界への応現という観点からは、自己の内的世界のみで留まってしまえば、「流産」に終わってしまうでしょう。
しかしながら、一体誰がその体験は主観的なものにすぎない、などと決めつけられるでしょうか?
病的な幻想、ドラッグ服用によるトリップ体験とは区別されるべきは当然かも知れませんが…
でもこうしたレッテルを張られることにより、どれだけ多くの超越的な気付きが葬りされたことでしょう。
私の理解では、真の超越、覚醒体験で示されたものは全て現実世界への発露を内包している、
地上天国の種、青写真ではなかろうかと思います。
現実世界に歩みだされたか、どうかは結果論にすぎないのです。
よしんば「流産」に終わったように見えても、それ自体無意味だったと言い切れるのでしょうか?
何時も不思議に思うのですが、ブーバーに限らず、どうしてこのように一方の視点を重視するあまり、もう一方の視点を切り捨てる傾向が生まれてしまうのか…
「我―汝」関係において、その命の源は内的神性ではないでしょうか…
そこから滋養されることが無ければすぐ「それ」が幅を利かせてしまうでしょう。
私の不器用な人間関係での経験では、あまり他者性というものを意識しすぎると、何ともぎこちない「それ」めいたものが生まれます。
思わず深い交流が持てた時というのは、自分の内面に意識が向けられていた時です。
ただいつ何時そうした関係が生まれるのかどうかはこちらでは予測不可能ですが…。
神の国は我々の内面にあるのか、
我々の間に有るのか…
沈黙の声は告げる…
どっちも本当!