人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と人間の真実

2022-08-30 04:42:24 | 哲学・思想
人間とは一体何か?
とても抽象的な問いかけなようですが、つまるところそれは、“本当の自己とは何か?“、という問題に関わってこざるを得ないでしょう?
人間一般のことは、抽象的な哲学的問題に終始するでしょうが、自分自身のことは、これほど具体的な、現実的な問題は無いと言えるでしょう。私自身の現実、真実...これが実存的問題なのです。
抽象的な実存主義哲学についてのお話など意味無いので、“実存にあって“、そのことに触れてみたいと思います。
結論から言って、人間~自分自身の真実のことは、生まれてからずっと分からないままなのです!
分からないまま、のうのうと生きてきたのです!、生きてきちゃったのです!
性懲りもなく...でも仕方ありません。こうして生きちゃっているので!
これは、私の人間としての立場からそう言えることか、それを超えた、神的な、あるいは霊人、宇宙人?みたいなものの立場からそう言うのか、それ以前の問題とならざるを得ないでしょう。
何せ、何だか分からないのですから...少なくとも、人間とは?、本当の自分とは?、あるいは神、霊とは?、と考え続けている私には永遠に分からないままでしょう。
事実、私はそのように、もがき苦しんで生きてきたのです。それでも人間とは?...と問いかけ続けることは、やめることは出来ないようで!...人間とは何か分からないが、それが人間の“サガ“だとは言えるでしょうか?
人間、私は自分が何か分からないまま、この世界にポツンと生まれ出ちゃったようなのです。
そのままの私には、実存的根拠はありません。いや、その根拠は永久に見つからないかも分かりません。
しかし...現在の私は、本当はもがき苦しんで、求め続けなければならないのかも知れないけれど、そういうものは感じなくなりました。
根拠、真実は分からないけれど、実存感覚みたいなものが感じられるからです。
これを現臨感覚と言い換えてもいいのです。
つまり、それは“考える私でありつつ、それを超えたものと共にある“、という感覚に他なりません。
ある意味、それは超越感覚と言ってもいいでしょうが、超えること自体には、限界にあるこの私に帰される何ものも無いのは、言うまでもありません!
だから、それは超越者自らが臨むことと言っているのです。
こうなるのは、限界にある私自らからは起き得ない訳で、超えた方に意識が向かう、あるいは向けられることから開かれるのです。
私自身は、それは祈ることと関わっているのです。祈ることが意識が超越者に向けられることなのです。
私が経験していることがすべてだとは勿論思ってなどいませんが、超越者(単純に神と言ってもいいでしょう)との接点の無い、すべてのアプローチというのは、限界内に留まるのではないかと思われます。
宗教、スピ界隈には、超越的思考とか、超越的瞑想と言われているものがありますが、それらには何らかの形で、祈りとは言わずとも超越者、神との接点が行われているのではないかと拝察されます。
人間とは、そうとは分からずとも、超越者、神を意識せずにおれないものなのでしょう?
それも人間のサガの一つとは言えまいか?、だからいつの時代にも宗教というものは廃れないのでしょう。
人間、私の根拠、真実とは神的なものと切り離されないものなのかも分かりません。
少なくとも私の実存感覚からは、人類にはもっとも肝心なものが欠落したまま、今日世界を迎えているように感じています。
自分たちが何か分からないまま、どこへ向かうのか分からないまま、人類の運命をたどり続けているのです。
しかし、それも見える表層の次元にそう映っているだけで、我々の知らないところで神的なものとつながっているようにも感じています。
そうでなければ、人類は、世界はとっくに終わっているように感じてならないから...
少なくとも、私の人生はあり得なかったでしょう!...
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甘美なしめつけ

2022-08-28 10:17:29 | ガイダンス
私に初めて現臨感覚らしきものが芽ばえた昭和54年の春頃、一寸難しい哲学的なことや、考えても分からないオカルト的なことについて考えたり、そういう本を読んでたりすると、何か頭がしめつけられるような圧力みたいなもの、偏頭痛を感じ、それが困難になってしまうことがしばしばありました。
まるで、孫悟空が道に外れたことをしようとすると、三蔵法師が呪文を称えることによって、その頭にはめられた輪っかがしめつける、という風に...“余計なことは考えんでいい!“と告げられているように...
こう書くと、要らんこと考える度にお仕置きが待っているみたいで、さぞかし不自由な思いをさせられていたと思われるでしょう?
と~んでもない!...要らんこと考えないことがどんだけ自由でいられることか!
さらには、そうなることで待ち受けていたものは...愛と平安だったのです!(こういうことは、きっとサルには分からないのでしょう?!)
このことをテキメンに感じられるのは、読書をしている時だったと言ってもいいでしょう。
その頃から、ただ論理的思考だけに終始する哲学的思考や、やたらと想像をたくましくさせるだけで、安易な精神的迎合へと誘導させる、オカルト的思考とは距離を置くようになりました。
そこには、思考を超えた世界に誘うものは、何も感じられないから...頭でっかちなだけの興味と、内側から湧き出てくるような愛、安らぎ、リアリティなどとは違うのです!
あの“甘美なしめつけ“を受けていた時、思考が後退してゆくと共にもたげて来るものこそが現臨感覚に他なりません。
そこで思考の限界領域と、それを超えた領域とが示されるのです。
それがテキメンに“しめつけられる“ので、その頃は、何か見えない導きというものを感じずにおれませんでした。
そんな状態が約一年半続いたのですが、突然自然消滅してしまいました。
それから数年後、「スブド」なる団体に伝わる「ラティハン」なる修練と関わるなどして、現臨感覚は復活したのですが、あの“甘美なしめつけ“は、消えていました。
おそらくそれは、偏頭痛を味合わなくても、日常生活に纏わる悩みごとなどの他は、ヒマな、余計な思考をたくましくさせることには、自然と向かわなくなったからではないかと思います。
ところがつい先日、現臨について、ある程度知識的、論理的に言い表せないか、と思っただけで、一寸とした偏頭痛に見舞われることになりまして...“こりゃ、生理的に無理だわい!“、と改めて感じせられ、突如あの甘美なしめつけのこともアリアリと思い出されるということがあった次第なのでした。
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現臨ー神の臨在

2022-08-27 09:47:35 | 現臨、ハタラキ
改めて書きますが、現臨と私が呼んでいるものは、何ら特殊なことを言っているのではなく、あらゆる宗教、スピなどに関わるはずのもの、と私は思っているのです。
そんなややこしいこと言わなくても、普通にそれを“神“と呼んでもいいでしょう。
しかし、“神を信じる“と普通に言われているように、あまりにも観念的な有り様となっている帰来があります。神はほとんど信じる対象として捉えられているのです。
それでは、いつまでも神の内実に触れることは無いでしょう。神は抽象的に思い描かれているだけなのだから...
神について考え続けている...この思考マインドを超えない限り、神と関わることは無いのです!
さりとて、その限界にある、思考している私からは超えることは出来ません。
ここに、その超越者自らが我々の内に臨んで来るものを現臨と呼んでいるに他ならないのです。この意味で、それは“神の臨在“と言ってもいいでしょう。
又、対象として神を信じるという場合、信じる私とその対象である神は、二元的に分かれたままになっているので、やはり触れる、関わることはありませんが、臨在ということは、そのこと自体が現存を実感していることであり、それを認識している私と切り離されていないということを言い表しているのです。
その私とは、もはや思考している私ではありません!...といってそれだけで思考が無くなるという訳でなく、その限界を超えたものに意識がつながり、そこにより根底的なものが置かれるようになるということです。
つまりは、思考している私には分からなかった、自己実存がそこに開かれるということです。
といってそれは勿論、実存とは何ぞや?、という抽象的思弁を巡らすことではなく、本当の自分を真当たりにするという実感から導き出されるのです。
...と、いうように書いて来て、思いを超えた世界のことは言うまでもなく、到底言葉に言い表せるものではありません。又、どうか私の言葉に囚われないで欲しいです!
私の言葉を無闇に信じないで下さい!
信じられない、ついて来れないのなら、無理に信じたり、従っても無駄ですよ!
ご存じの通り、宗教、スピ界隈には“信仰の強要“が沢山行われています。
当人が本当に得心している訳でもないのに、神の如き教師がそう言っているから、信じ、従わなければならない、なんて流儀が罷り通っている訳です。(ことにそれが、非二元の道を謳っているとあっては、ナンセンスの極みと言う他ありません!)
私はここには、個々の実存的意義が蔑ろにされていることと、もっとも肝心なことが抜け落ちている、と感じてならなかったのです。
それは、そのように信じさせるもの、信じざるを得ないことに現実に意識が向かわされる、そのように導く、見えないあるもののことです。
いつまでも観念の流儀に従わされていては、神の内実は開かれないではないか?!
それは、御自らが臨むことで開かれる...そしてそれは自分自身が開かれることと一つのことではないか?
私がややこしいことを言い始めた背景には、このようなことが横たわっていたのです!...
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CLIMB EVERY MOUNTAIN(BUT...)

2022-08-25 09:07:42 | 映画・音楽など
CLIMB EVERY MOUNTAIN (すべての山を登れ)

Climb every mountain (すべての山を登れ)
Seach high and low (高きも低きもくまなく探して)
Follow every byway (すべての道に沿って)
Every path you know (君の知っているすべての道)

Climb every mountain (すべての山を登れ)
Ford every stream (すべての気流を超えて)
Follow every rainbow (すべての虹を追いかけて)
Till you find your dream (君の夢を見つけるまで)

A dream that you need (君が望む夢)
All the love you can give ((君が与えられるすべての愛)
Everyday of your life (君のすべての人生)
For as long as you live ...(君が生きる限りの...)

(曲.R.ロジャース/詞.O.ハマースタイン~ミュージカル映画「サウンド.オブ.ミュージック」の挿入歌)

But...(しかし...)
この山はあまりにも険しすぎる!
容赦ない強風に遮られる
登れない、越えられない山だってある
あの山の向こうに僕が望み続けた夢があるというのに...
人生には断念しなければならないこともある
ああ...僕はこれ以上進むことが出来ない!
体力も気力もない!
視界が分からなくなってきた!
僕のすべての人生は...
ここで終わってしまうのか?...

But...(しかし...)
あきらめてはならない!
くまなく探してみれば
登らなくても越えられる山だってある!
僕がどんなにダメになっちまっても...
僕のすべての人生には続きがある!

僕のすべてを超えた、越えさせてくれるものがあるじゃないか!

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瞑想と言えない瞑想

2022-08-23 10:05:42 | 祈りと瞑想
何度か書いてるように、意識を向けたらパッと何か心が開かれて、現臨にある状態になるのを頻繁に覚えるようになったのは、平成10年の今頃だったのですが、これは逆説的ですが、自分からそのような霊的な状態になろうとするのを諦めたことによるのでした。
しかし、今のようにそれが定着するようになるまでには紆余曲折があったのです。
その翌年、前回も触れた、仕事上から日常生活に暗い影が忍び寄る事態に見舞われていた時は、やはり頻繁に、とはゆかず、そういうこととは違う、“生活をどうしよう”、とか外向きの方に意識が囚われがちになっていたのです。
これは“何とか現状を克服せねば!”という克己精神に欠けた、人生修行の足らない私のこととて致し方ない、と言う他ありません。なにせすぐ、“もう、ダメだあ!“ってアキラメちゃうんですから!
しかし、そういう状態が続いたためか、“どんなにガンバったって、思いを超えたものは臨んでこない!、何もしないで坐ってよう!”、なんて感じで、瞑想とも言えない瞑想のようなものをしていることも多くなりました。
そうしているうちに先のことが掴めた気がしました。
つまり...それは、掴もうとしたら掴めない、ということを!...何も期待しない!...すると、“あらっ?”っと!...
瞑想修行でないので、雑念がいくら沸いてこようが関係無いし、何をどうこうしようということも何もありません。
瞑想というと、金井系一郎先生の瞑想の会に入っていたのですが、その少し前、経済的諸事情により会費を納めなかったので、自動的に会員から外れてしまいました。
だからと言って、それ以降も瞑想は続けられます。当たり前の話でしょうが、非会員になったからって何かの霊線が切れたり、何かの加護が受けられなくなったりはしませんよ!
その会で行われている瞑想よりもっと、ある意味イイカゲン、無為的な瞑想(みたいな)ことをしていたのです。
ただ、あることを目安にはしていました。
それは、浅い、深いに関わらず、あの感じ...そう、“あれ”が臨んでくる、何か”くわっ“と、エネルギーみたいなものが流入して来るのが感じられるまで、ということです。
それまでには、10分かかるか、30分か、1時間か2時間か?...
“なんて気の長いことを!、それって修行じゃないか?”、と思われる方もおられるでしょう?
何で私がそういうこと言えるかというと...10分だって待ったことが無いからですよ!
坐ろうと思っただけでそうなることもザラです。これは、私の何ものかによってそうなるんじゃなくて、そのものが臨むからそうなるということなのです!
だから、何でそうなるかは、意識が向いちゃうからなんでしょうが、やっぱり、よう分からないのです。それが思いを超えてるってことなんでしょう?
何にせよ、こういうことを通して、あの感じが定着するようになったのは確かなことです。
この意味でそうなるには、意識が向く、向けられる場所というものも必要だと思います。
私の場合それは、その瞑想モドキだった訳です。
ここ数年は、又さらにもう即応性も深度も増した感があるのですが、これにはこうして書いていることが重要な要因になっているのは、間違いないでしょう!...
コメント (6)
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