人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

表側と裏側の関係

2024-02-28 09:40:37 | 哲学・思想
改めてということなりますが、このブログの基調となっているものについて書いてみます。
(一般的)には、人生というものは、この思い、為している自分が居て、見たまんま、思っているまんまの世界や歴史の中で生きている、とそう普通に思っているもので、私はこれを仮に“人生の表側“と呼んでいるのです。
一方、又“人生の裏側“と呼んでいるものは、一般的なことは何も言えません。“これが一般的なんだ!“、なんて考えられている世界では無いのですから!...思考が超えられないと開けてこない世界なのです。
表側はそのように自分が居て、世界が在る、相手が居るという相対的世界であり、裏側は自分と世界が分離しているように感じない世界...って、何だか相対的に説明してるやん!...ごもっともです。
すべての説明的な表現というのは、表側に譲歩しているものなんだから仕方無いでしょ!...表側のこと(言葉がそう)を借りなければ、絶対に裏側のことは説明出来ないのです!
裏側のことは、表側のようにどうしても表すことが出来ない。隠されているのです。これも相対的な言い方してますけど、“表があるから裏もある“...相対のままのことは言ってません。
つまり表裏は相対に見えて一体なんだ!
私はこういう関係性のことをここで強く言いたいのです。
よく、悟り系のスピなどで語られる、“あなたという個人も世界も幻想なのです!“、何てこと言うつもりはありません。
“有る“とどうしても感じ、思ってしまうことを、“無いんだ、ナイんだ“、なんて思おうとする必要も無いし、現実に無いようなものを“有るんだ“、なんて思う必要も無いのです(これは妄想に通じる)。
それでも私が裏側のことを強調するのは、世の人はあまりにも思われた表側のことに意識が傾き過ぎているように感じているからに他なりません。
なるほど、思われた人生というものは、苦しいことばかり、苦難の連続のように思えます。
だけど、本当に苦しみを作り出しているのは、そういう思われた世界がすべてだという思い込みではありませんか?
そういう人でも、風向きが変わったら、小鳥がさえずったら、一晩寝たら、そういう思いから離れるかもしれません。
何度も言いますが、裏側の世界は隠れ、見えないと言っても、それは霊界のことではありません。
思いの世界に隠れている、それを超えた世界のことなのです。霊界でもあの世でもなく、この世界には我々が気付いていないだけで、見えてないものがいっぱいあるのです。
苦しみから解放されようと、何かを為そう、変えようとしなくても、成っている、成って来るのです。
といって、何も表側には苦難や不調和ばかりがあり、裏側にしか幸福、調和は無いと言っているのではありません。
この現実世界にはここでしか味わえない幸福というものはあるでしょう。(例えば動画や画像でない、現物のナニに触れるとか?!)
だけどだけど、この世(これは表も裏もひっくるめてということ)で生きている上での本当の幸福とは、表と裏が相俟ってのものでしか無いのではないですか?
私は確かに人生の裏側に踏み入れて、至福に与ったことがありましたよ!
だけど、それはまだ私の目が黒い、この現実世界、雑踏のど真ん中で起きたことだったのですよ!
そう、本当は表も裏も無い現実世界をあなたも私も生きているのでしょう!...

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日本ボクシング界の黄金時代

2024-02-26 09:32:54 | 雑記
いやあ、一昨日行われたボクシングのトリプル世界戦、すべて日本人ボクサーの圧勝でした。
井上拓真とアンカハス戦は、大方通り接戦になると予想していたのですが、兄貴ばりのボディへの一発強打は見事でした。
田中恒成は、以前より不用意に被弾することなく、一段と安定感、堅実さが増したように感じ、頭から突っ込んで来るような相手をよく終始裁ききったな、と思いました。
そして何と言っても中谷潤人ですよ!...細っ!、しかし強っ!...唖然とするよりありません!
あの長身を半身、前屈みにして、右手をブラブラさせて相手を探る、カマキリのようなスタイル...60~70年代にライトヘビー級で、ワンパンチKOで鳴らした米国のボブ.フォスターを彷彿させるものがありました。(似てるとの声もあった、トマス.ハーンズとはちと違うな?)
彼のスゴイところは、精度の高い強打を連発出来るところです。無駄打ちが少ない。これはモンスター井上にも比肩出来るでしょう。
これで、バンタム級の統一戦てことになると...拓真とってこと!...後の二人の強豪ロドリゲス、マロニーにとっても脅威に映ったでしょう。いや、それどころか、西田とか天心、比嘉も居る!...この階級は日本人が席巻しているのは間違いありません。
それにしても、今の日本のボクシング界は、2010年辺りから黄金時代を迎えていると言ってもいいでしょう。
そこで巷では、パウンド.フォー.パウンドでオールタイムの強豪ば誰か?、という話題が盛んになっているようなのです。
異論はあるでしょうけど、私的には具志堅用高と渡辺二郎がずっと二強なのでした。彼らが活躍したのは、層の薄い新設の階級だったということも確かなのですが、そのスタイルそのものを見ると...際立つのは、そのパンチのキレは勿論なのですが、何と言ってもスピードで、次いで上体のバランスの良さ(ブレない)攻防のバランス(パンチを外し、すぐさまカウンターを打てる)、正確なジャブ、軽快なフットワークなどが挙げられます。
裏を返せば、彼らに匹敵するボクサーはほとんど居なかったということです。長谷川穂積がバンタム級で戴冠した2005年ぐらいまでは!...
要するに、史上十傑に入るようなボクサーは、数十年に一度しか現れなかったのです。2010年ぐらいまでは!...
しかし、それ以降、穂積を始め、内山高志、山中慎介、そしてモンスター井上と、同時代に十傑に入れてもおかしくないボクサーが相次いで出現して、様相が一変したという感じなのです。(中谷がこれに新たに加わろうとしているのは間違いないでしょう?)
これを黄金時代と言わずして何であろう!...この時代の申し子たちが持っていて、かつての二強になお足りなかった優れた点を挙げると、強く、正確なボディを打てるということでしょう。今の日本人ボクサーは、海外から“ジャパニーズ.ボディ.アタック“として恐れられているのではないか?
一寸気が早いけど、次のモンスターの相手に決まりかけている悪童ルイス.ネリーのリングで悶絶する姿が思い浮かぶようです。
いやあ、今の時代に生きててホントに良かったと思います!(人生の裏側的にも勿論ですけど...)
コメント (6)
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本来の祈りと瞑想

2024-02-24 09:48:42 | 祈りと瞑想
私は、通常行として捉えられる、祈りや瞑想に伴う方法や形は身に付いていないと言っています。
では、何が身に付いているのかと言うと...形を超えたものなので中々言葉では表せないのですが...
そういう実修に馴染んでいる方なら、不意に、自然と意識が表層意識を超えて祈り、瞑想モードのようなものに入ることをご存知でしょう?
そういうゾーン、あ、そう、サマーディに入る?...そういう場合は、方法や形を超えている...そう、だから身に付かないということが分かるでしょう?(分からない方はスルーして下さい)
身に付いているものとは、こういうもののことを言っているのです。
不意にと言いましたがその場合、ある啓発的なスピ関連の本を読んだ時とか、あるパワースポットのようなところで霊なる息吹きに触れたとか、子猫の切ない鳴き声を聞いたとか、何らかのその状態を呼び起こすものが契機として働くことが多いのです。
これはしかし、そうしたものに意識を向けることで呼び起こされ、開かれることは可能なのです。(あ、いつものことを言っちゃってますね...)
そうです、それは思いを超えたものによってもたらされるのです。
もう、私的にはほとんどの場合、それには現臨感が伴っており、それは現臨にある状態と言ってもいいでしょう。(現臨というものがどういうものか分からない向きには、このことから感じ取れるでしょう?)
そこでもし、あなたが一日のある一定の時間、形ある瞑想修行などを行う習慣があるとして、
突如そういうモードに入ってしまったらどうしますか?、そんな訳のワカランことは切り替えて、いつもの修行に打ち込みますか?...そんなナンセンスなことは無いですよ!、一体何のための修行なのか!
それが又もし、意識に深まり、“神に捉えられた“状態にでもなったら、そんな切り替えなど絶対に不可能になりますよ!...何が第一義のものなのか?
方法や形に囚われていると、こういうことが分からないのです。
自ずと身に付いているものが発現したら、その上に人為的なものを付加することはすべて余計なことなのです。
自ずと身に付いているもの...それは本来そうなっているものと言ってもいいでしょう。
祈りや瞑想のテクニックのことなど覚えちゃいません。その時自ずと発現したものにゆだねるだけです。
本来性というものは、いつでもどこでもそこにあり、帰ることが出来るものなのでした。
自ずと身に付いているということは、けだし自然なことなのでしょう!...

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現臨と自己認識

2024-02-23 09:52:48 | 現臨、ハタラキ
私はここで、現臨にある意識状態というものは、ほとんど自分が自分であることになっている、自己認識、実存感覚を伴っている状態、と繰り返し言っているのです。
超越的なことと実存的なものは切り離されないものなのだ、と!
これは、直接的な感覚のことを言っているので、言葉ではうまく伝えられないのですが...重要なことはそういうことなのです。
ただ、神的な、霊的な現臨とかと言うと、その言葉から何やら自分の外からそういう霊的実体と関わる、もっと即実的に言えば、そういうものが憑依することなのか、という印象を与えてしまうこともあるかもしれません。
本当に言いたいことは前記したことであり、いつもそれが当たり前のように感じていたので、ほとんどそういうことは考慮して来なかったのです。
しかし改めて考えると...この二つのことは隣り合わせのものであるのも事実でしょう。
私自身それが芽生え始めた初期の頃は、そういう精神的なバランスを失う危機と向かい合っていたと言えるのです。
具体的に言えば、それは思考機能が後退、あるいはマヒしてしまう事態に起こりやすいということで、普通に考えてもそれは、精神生活の舵を取る主体者が不在となっており、いつ外部からその船を乗っとられるか分からない事態と言えるのです。
この場合は、言うまでもなく考え、思考する主体のことを言っているのですが、実に何がそれに取って代わるのかによって、自己実現の道か迷妄の道かに分かれるということになるでしょう。
つまりは、その思われた主体のその奥にもっと根本的な主体が隠れており、神の臨在と共にそれが顕わになることを、意識次元が開かれることと結びつけていつも言っているのです。
ただ、私も周りに人が集まっている中で、神的な現臨に捉えられて、すっかり思考機能が失われて、その意識の奥の主体に自分をゆだねていた状態など、滂沱たる涙が勝手に溢れたりして、多分見た目には何かの霊が憑依しているように映っていたかもしれません。
当の私はそうなっている自分を自覚しているのです。そう、自覚してなかったらどうなってんだか分かりゃしませんとも!
要するに、思考があろうと、飛ぼうと自覚している主体があるのかどうか、自己認識がなされているかどうかが分かれ道ということなのです。
だからと言って、これは普通でない(?)私の場合にあったことなので、誰もがそんなアブナイ道を通らなければならないということでは勿論無いですよ!
ただ一つ言えることは、この神、霊なるものを召喚させる道(?)は、既に自分の外から何かの霊が憑依する、といった観念に強く“取り憑かれている“人や容易くカルト信仰などになびいてしまうような人には不向きだ、とは言えるでしょう。
理由は先の通り、主体的な自己認識に向かう心性に欠けるということです。そういう人は。思考から離れるより先によく考えて、もっと内省的にならないとなりません。
というより、宗教やスピなど精神的な道においては、自己認識というものが如何に重要なものであるかということは自明なことではありませんか?
もう一つ、祈りというものは、それ自体その道の土台となるものだし、諸々の危険に対する防御ともなり得るものだと言うことも付け加えておきましょう。
いや、こういうことは賢明なる読者の方には要らん老婆心だったかも?...
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現臨は一元も二元も超えている

2024-02-22 10:02:35 | 現臨、ハタラキ
前回の続き、補足のようなことになりますが、“現臨にある“意識状態というのは、神と一つになる、それと共にあるような感覚があるのです。
だけど、言い回しは微妙なのですが、それは“私が“神と一つになるということとは違うのでした。
そこには、神的なものと自己との二元性を言い表している、とは一応言えるのです。これは、ユダヤ、キリスト教などの所謂一神教で多くそのように説かれているものでも一応あります。
これに対して、主として禅仏教やインド的な非二元の道の方面から、“それは二元的な分離感が克服されていない!“、といったような批判が向けられたりするようです。
東洋は一で、西洋は二だとか...そんなもの知るかってんですよ!
人間の有り様がそんな大雑把な括りで語られてたまるか、と言いたい!
そういう紋切り型の言い方は、人間が考えて作り出したものに違いないでしょう?!
私がここで強く言いたいことは、現実に自分の思いを超えた、神的なものと一つになる感じに導かれるかどうか、ということなのです。
私自身も非二元の道にカブレかかっていた一時期などは、“神とか言うのは、ワンネスの境地に至るには及ばないのか?“、などと思ったりしていました。そうです。ただそう思い、考えていただけですよ。
だけどいくら、個人は一なるものに消えて、一つになることを目指し思おうとしたって、当然の如くそうなったりはしないのです。
いやしかし、ごく稀に私が“神に捉えられる“と呼んでいる、思考機能を失い、一個の私が消えてしまうように感じる意識状態(これは通常の現臨感覚が深まった状態のことです)になることもあります。
だからだから言っているのです。思い、為そうとする自分からはそんなことにはならないのだ、と!
このことは、東洋も西洋も、キリスト教も仏教も、一元も二元も関係ないはずなのです。
現実にそういうものに与ることと、思い、信じることとは違うのです!(宗教やスピでは、この信じることに帰されてしまうことが何と多いことか!)
肝心なことは、思い、観念を超えるということであり、そうなさしめるものを頂くという事なのです。
だからと言って、それは一時的に機能を失うということはあれ、直ちにそれが無くなることではありません。本当にそうなったら、人間として生きる機能自体を失うことになるでしょう。
つまりは、ニンゲンというものは、ニゲン性を生きているということなのであり、それを克服しようなどと言うのはズレているという他ありません。
ただ又、ここで強く言いたいことは、本来我々と神との関わりというものは、二元的に信じる対象というものを超えたものがあるということなのです。
この在り方はどうしても超えなければ(克服?)ならないでしょう。
現臨というものは、とにかく我々の思いを超えているのですから!
しかし、どうやって?...だから!、そのものを待ち望み、その臨みに与らなければならないのです!...
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