人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

もう一人の親

2015-08-30 19:16:33 | 回想
大学一年の頃、父に連れられてどっかのアパートにお邪魔しました。
そこへ「まあ、お坊ちゃん久しぶり~…大きくなったわねえ…」と気安く声を掛けてくる中年のオバサン…やたらと腰が低く(この時は…)私は何だか急に王子様になった気分です。
”知らんなあ?誰だ?…女中さんかいな?…”私はキョトンと首を傾げるばかりです。
”ここは一体、何だ?親父の別荘か?…”すると、”キャッ、キャッ”とにぎやかな声と共に、5,6歳くらいの女の子がやってきました。
オバサンは私を女の子に「ホラ、お兄ちゃんよ!」と紹介するものだから、もう、ビックリしたのなんの…”な、何で!一体、どこの子なんだ?”
やがて4人で晩飯を食べている時、”こういう一家団欒のようなひとときは何年ぶりだろ…”と感慨にふけっているうちに全てを理解しました。
”親父が十日に一度くらいしか家に帰ってこないことも…、私が5,6歳くらいの時、どっかで見たことのある父の会社の秘書のような女性、顔など覚えていないが、それがあのオバサンだったのだ…物心ついてから、ずっと感じていたが…思っていた以上に私の家庭は複雑だったんだ!”
事実が分かったからと言って、何かが、私の生活、性格が変わる訳でも無く、その夜はそこからほど近い、病気の母と二人暮らしをしていた閑散とした本宅へ帰りました。いささか狐につままれたような気分でしたが、普通によく眠れました。
こう書いていると私のノーテンキぶりに呆れる方もいるかもわかりませんが、友人にこの事情を告げると「君は何でグレないんだ…何で親父をとっちめたりしないんだ…」とか言ったので、「私は何でグレなきゃならないんだ」と返しました。
私は心に思うことはあっても、父に面等向かってこの事情に対して恨みがましいことをぶつけたことは一度もありません。
ただ父は父で私にずっと負い目を感じていたようですが…
そう…私は起きる事が起きたようにしか感じていませんでした。
大学4年の頃母が往ってしまった後、父と大ゲンカした事が有りましたが、それは父が「母さんのことは忘れちまうことだ!」と冷たく言い放ったからです。
この時、父は私が宗教的なものに惹かれていたことは、察知していたようですが「お前はオレに母さんの復讐をしようとしているのか!」と怒鳴られた時は、どっからそんな言葉が出てくるのか理解出来ませんでした。そして私がその時キレてしまったもう一つの理由は、父が何で静かに収まっているものを波立たせることを言い出すのか、ということだったのです。
誰も恨んでなどいないのに…父がそもそも、そういう事になった理由も分かります。
母はずっと病気だったのです。胃がずっと悪かったようですが、それ以上に本人、おそらくは父をも苛んだのは精神的なものだったでしょう。
私が幼い頃から家事も育児もロクに出来なかったようです。
人の好き嫌いが激しく、しょっちゅう被害妄想のように隣近の人の悪口を言ってました。
ただ、本当に感受性が強いというか、映画やドラマをいつも泣きながら観ていました。
そんな母ですが、間違いなく私にとっては恩人です。
「いつも神様がお前を守っているのよ…」物心ついた時からこんな風に諭されていたのです。
わかっているのは実践倫理と生長の家でしたが、母は一時宗教にハマっていました。
でも母からの薫陶から受けたものは、もっとごくシンプルな宗教でない「僕だけの神様」です。
今から考えると母は私の唯一の理解者だったのかも知れません。
「この子は将来宗教家か哲学者になる…そのうち悟るかもわからない…」(傍らで父は苦笑していました)
実際はそのとおりにはいかないですが、私の中のある質は見抜いていたと思います。
その芽は母によって生え出ることが出来たのです。
母のこの薫陶はどんなに感謝してもしたりません。

複雑な家庭事情から宗教的、精神的な道に導かれる人も多いと思います。
私はこれまで表面的には、あまりそのことを意識したことはありません。
ただ、意識下では…その辺に向けると…何か言い表し得ないものがムクムクともたげてくる感じが今もなおしてきます。
意識の底でこの何かが私を動かしていたのです。勿論父への復讐なんかじゃないですよ…
父とはその後、自由に宗教や哲学的な事など語り合った事が有ります。
その事を通して父の表情から私に対して「コイツはバカだとばっかり思ってたけど、何時の間に知恵がついたんだ…」といった気付きを伺うことが出来ました。ただ深い話は絶対にしようとしません。私の導火線に火が付くと大変な事になるのを察知したのでしょう…
その父も5年前に往ってしまいました。
このムクムクともたげているものの根っこは、この複雑な家庭に生れ落ちる以前から背負っているものに違いないです。
父も母もそれぞれの感性で、私の中に息づく何かを感じ取っていたのでしょうか?
私は両親以外の別の親からも見守られ、育てられたような気がしてなりません…。



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雲雀は飛び立つー妻よ薔薇のやうにー

2015-08-29 16:15:38 | 映画・音楽など
”P.C.L”って御存知でしょうか?
何も知らなかったら、私などパソコンに関する何かだと思ってしまいそうです。
知ったかぶりして、P.C.Lを満喫の皆さんこんにちは…なんて…これ”パソコンライフ”のつもりです。
私はいつもミスター・レトロからレクチャーを受けてるから知っていました。東宝映画の前身です。
黒澤明、ゴジラ、若大将、無責任男、銀座のお姉ちゃん(何だ、そりゃ!)のイメージの東宝ですが、この映画は松竹カラー(モノクロですが)が強いですね。
こないだ年配の人に”このヒト(監督の名前)知ってますか?”と訊いたら、
”ああ、名バイプレーヤーだった…ニヒルでねえ…”と…どうも様子がヘンだと思ったら、私も大ファンだった俳優の成田三樹夫さんと勘違いしてました。知らないのだそうです。もっともゴツイ顔の人だったので、イメージが合わないのは確かです…

P.C.L配給「妻よ薔薇のやうに」(1935)成瀬三喜男監督

まず、残念なのはこのメロドラマのようなタイトルです。当初は「二人妻」というものだったのですが、風紀上好ましくない、というお達しにより変更されてしまったとか…これだと内容がイマイチ伝わってきません。
私は昔の邦画を観まくっていた、平成4年ごろ京都のミニシアターで観ました。
さすがに私もこんな古い映画はあまり観てないので、知ってる俳優は主演の千葉早智子(役柄そのままのお嬢さん、モガ~モダンガール…付いてこれます?)と藤原鎌足(前世も同名…ウソ。日本映画黄金時代の名脇役。この成瀬作品、黒澤作品では常連の、笠智衆さんと並ぶオールタイムのおっちゃん)しか知りませんでした。

一攫千金の夢を追いかけて家出した父に愛人が出来、子供まで居るらしい…力づくでも父を連れ戻そうと、娘はその芸者あがりの妾との対決も辞さずと、血気盛んに信州の田舎まで乗り込んでみたが…したたかな女と思いきや、実によく出来た良妻賢母のような女性だった…。
娘の家に送られてくる仕送り?もこのヒトが工面していた…
父を恨みたいところだが、こんなことになってしまったのも暖かみに欠ける、母の父に対する態度にも問題が有りそう…
田舎のほのぼのとした風情がそう感じさせるのか、ドラマに出てくる人たちには本当に悪そうに見える人は居ません。
ドロドロしそうな状況ながらも深刻そうな人も見当たらない。達観したのか、ドライなのか、父の寄り戻しを諦めた娘は、
「私は私で上手くやっていくわ…」と明るく父に語る…
眠る蝶々、飛び立つ雲雀…どっかから聞こえてくるわらべ歌…
そうですね…ことは起きていることが起きてるって感じですかね…。
何の因果か…人間の力ではどうにもならない、運命の糸に絡まれながら人の生は淡々と流れていく…。
人間の性(さが)を感じさせながらも、あちこちに散りばめられたユーモア…
それを成瀬監督は、夏の終わりの涼風のようにさらりと描いています。
戦後の代表作の「浮雲」のようなジトーッと湿っぽく、ダル重い感じとは対照的です。
それにしても冒頭の丸の内界隈の風情には、三輪自動車(動く骨董品)などは除いて、現在とあまり違和感を感じさせません。
だがこの時分、日本は軍国主義化が急速に強まり、抜き差しならぬ事態へと足を踏み入れて行ってしまうのです。
大本教弾圧事件はこの年に起こり、全国的に思想、信仰の粛清の嵐が吹き荒れていたのでした…
でも、ありきたりな日常を通してのささやかなユートピアは何時の時代でも変わらないようです。
こんな時代にこんな作品が作られていたのか!…灰色一色なんかじゃなかったのです。
そりゃ、そうだろう…生まれてから死ぬまで灰色の人生もある訳無いですしね…。
夏が終わる頃、自分の人生と重なるところもあり、いつも思い出される映画です。
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魔境と懺悔

2015-08-25 20:57:35 | 雑感
前回の記事である集会などで”霊的生命が顕わになるのをフタをしたり、覆い隠すことは罪なことだ…などと辛らつな事を書いてしまいましたが、では霊的生命の発露といったもの、霊的なものが高揚されればいいのか、といったらそんな単純な話にはなりません。
むしろそこで、歪んだ霊性が発露するのであれば、毒にも薬にもならない形骸化した、極めて常識人の集まりのほうがずっとマシだと思ってます。
歪んだ霊性とは魔境的なもののことです。
そしてそこではしばしば常識を超えたものならぬ、常識を逸脱した非常識なものが見え始めます。
五井先生はよく神、宗教の道は時に超常識になるが、非常識になってはならないと言っていました。
私はいくつかの宗教的、精神的関わりの中で、全くこの世の常識を超えた状況にも会ってきました。
こうした中では、人間的思考を超えた領域にも触れてくるので、”なんじゃ、こりゃ!”という場面も避けられないのです。
ただそこから離れ常識的な世界に戻った時に、ちゃんと戻れるかどうかを弁える必要があります。
でないと実力行使部隊が出動しかねません。
もし人がどっから見ても常識人で居たいのだったら、そういう集まりに出向くというのが多分間違っているでしょう。
悟りや覚醒を求めるということもそうです。
この世の常識にそんなものなどある訳も無く、有ったら懸命になって常識的に丸め込むだけです。
私がクエーカーのある集会で”霊性の発露”といったことについて発言しようとしたら、ある古い会員から話を遮られ、”もっと現実的な事を話しましょう”と言われました。何だか私は危険思想の持ち主のように感じたらしいです。
”私にそのまましゃべらせると大変な事になる!”と言ってました…。
この会員さんはいたって常識人で、神的なものの顕現もリアルに捉えられず、礼拝中に”体が揺さぶられる”ことは絶対無いでしょう。
この集会、ことにその東京月会では、私は時折このような霊的喚起を促すような発言をしていました。
それは本当にそこでは霊性が後退していたからです。
例えばある礼拝の時など、感話(礼拝中、霊感を感じたものが語るというメッセージ)で、”憲法第九条を守ろう”という趣旨のことを語り出した人がいたのですが、(その話自体は意義があるでしょうが)座禅でも瞑想でもこのような話というものが如何に場違いなものか、ということは言わずともそれこそその世界では常識のハズでしょう。もし、本当にそこで魂が揺さぶられる感話が与えられたなら、場違いな話は沈黙せざるを得ません。
そのくらい、その集会は霊的な土壌に乏しかったのです。
私は結局自分の忍耐不足からか、そうしたしばしば沈黙させてくれない感話をどうしても受け入れることが出来なくなって、集会から遠退くようになりました。
一方で別の何でもかんでも霊的体験、神秘体験…体験至上主義が跋扈する集会では”体験すりゃいいってもんじゃない!”とこぼしたりもしました。
小池先生はしばしば”観念的信仰””御利益信仰””パリサイ(人をやたら道徳観念などで裁くこと)精神”を警戒していましたが、特に重視していたのは”霊的傲慢”というものでした。
それは多く本来上より預かるものであるはずのカリスマ的力、霊的力や霊的体験といったものの私物化に起因するものです。これが魔境的なものに通じてしまうのです。
本当にある人を媒体にして形なき命が顕れるのを止めるべきでないと思いますが、そこから先は一人一人の管理に任せられているのでどうなるかは分かりません。
エゴというものは、この世を一瞬に壊滅してしまうほど危険ですから…
ですからエゴは頭打ちにあって、それまで本当に、自分自身が生きるというよりも先に、命の親によって生かされていたという事に懺悔をもって気づかされる必要が有るのです。
このことに関して小池先生は何度も”聖霊と十字架とは切り離すことが出来ない”と言われていたのでしょう。
それは全く別々のことではありません。
私はどんなに高い悟りの境地、究極の真理を見抜いた…などと語られようとこうした のプロセスを欠いたものは信用出来ません。
とはいえ、それに預かっても自我が消える訳ではありません。
何時変質するか分かりません。
だから甘美な超越体験などは忘れても、懺悔の涙は忘れてはならないのです…。



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本気のスピリチュアル

2015-08-23 13:44:48 | スピリチュアル?
真夏の暑さもピークが過ぎ、疲れがどっと出てきてダル重い今日この頃…この夏大いにネットを盛り上げた脱スピ系ブログもそろそろネタ切れになって来たのでは…と余計なこと案じています。
問題の提起は大いにやったらいいです。でも多くの人をたぶらかすスピ・ビジネスと同じように、人の誹謗、恨み、つらみなどは何時までも続けられないですね。
それに何と言っても、行政機関、それから天下のポリスに訴えるって話が登場するに至っては穏やかな話にはならない…。
彼らは泣く子も黙る実力行使部隊です。またぞろ治安維持法が復活して宗教、スピ界一せい取り締まりが始まるんでしょうか?

私はこの一連の動きを見てて感じるのは、淘汰されるべきは淘汰されるであろうということです。
これはものすごーくいいことだと思います!
それで何が残るかと言うと、その気がある人間だけが残るでしょう。
その気とは自分を超えたところからの誘いです。
その気のある人間はやれ宗教だの、スピリチュアルだの巷で一定のジャンルで括られたものなどに、自分の生き方を求めたりしません。
むしろ生きる事そのものが昔から宗教や哲学の名で、今、スピリチュアルの名において語られてきたものの内実そのものだという事を知っている筈です。
スピ・ビジネス、また脱スピ、ノン・スピの数々の扇動的言説(勿論そればかりではありません)を脇目に、ただ内なる催しに従って生きるだけです。
そしてもし、その歩みの中で自分を超えたあるものによって捉えられてしまったなら、表面的宗教やスピ界の括りから卒業出来ても、その内実からは卒業することなど出来ない事を知るでしょう。
この内催しというのは、そうですね…その人の上に起きているんですね…
”自分が”という線を超えたところで…。
そしてこの人生の地殻変動というものは、火山噴火や地震と同じく誰も止めることは出来ません。止めるのは間違ってます。
もしこの世に罪というものが有るとしたら、私はこの名状し難い顕れに対してフタをする事、覆いを掛ける事だと思っています。そしてその中でもっと質の悪いのは、この世の常識を超えた働きに対し、全く常識的な解釈でスリ替え、その範疇に収め閉じ込めてしまうことだと思います。
これは、この世の形骸化した宗教ではごく日常的に行われていることです。
その報いはもう現れている…内なる太陽は二度と輝くことは無いだろう…
彼らはそれを望まないのだから仕方ありません。世の中自由と平等で出来ているんですねえ…
宗教もスピ・ビジネスも廃れるのはこれまた致し方ありません。
スピリチュアルなのは人間そのもの、人生そのもので、それがフタ開けされたら、模造品は淘汰されるしかありません。
人間は心の奥にある意志、欲求というものに、どうしたってこうしたって背を向けることなど出来ないのです。
背を向けていたら、何時までもどこまでも不充全感が付きまといます。
やがて精神的ストレスが飽和状態に達し、人生の裏側のポリスマンが実力行使をするのか、のっぴきならない事態になってついに降参…
というのが、ストーリーなんて無いとうそぶく人もよく知ってる人生のストーリーですね…。
こういう人にはあの日を忘れないで欲しいです…内なる光が輝いた日…いやそうじゃない、懺悔の涙にくれたあの日を…

”覚醒だのワンネスなど意味ないじゃん!””探究は終わった、もともと悟ってるから…”自分の頭だけで分かっちゃって、チッポケな自分だけで決着してしまう人など懺悔の値打も無い!…さっさと引き揚げた方がいいです。
その気のある人の邪魔しないでください! そんなことしたらポリスマンが黙ってないですよ!








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瞑想、祈り、ガイダンス

2015-08-21 19:23:57 | 祈りと瞑想
脱スピ系周辺では、ここんとこ実体験を交えてスピ・ビジネスで受けた実害の報告が相次いでなされています。
私は幸いなことに様々な宗教系、スピ系グループと関わりを持ちながらも、うかつに近づいた怪しい宗教に付きまとわれたこと以外、実害と感じたことはほとんど無かったと思います。
大枚はたいてセミナーなども受けたことありましたが、それは自分で納得して、決心して参加しているので”ヤラレた!…金返せー!”と言う方が見当違いです。
ま、そんなに悪質だとは感じなかったって事ですかね…
それにしてもあのマントラ瞑想ってのは、イロイロあるんですねー。
私は二年くらい前、一度だけAさんの講演会に行ったことありますが、そこで初めてその瞑想のことを知り、その申し込みが殺到しているのにびっくりしました。
私はちょっとした説明を受けただけで、胡散臭さを感じました。
絶対申し込むものですか!…いや、申し込めなかった。金が無い!

私にとって瞑想はロハで出来るものです。一度ある人を通じて(この誰かさんを”通じて”…という線が極めて重要なことです。”私が”という線はエセと見て間違いありません)お金を払って形の無い何かを伝授されたことはあります(この時はあまり自分自身を信頼してなかったんですね)が、それ以前に見えざる導師から受けていました。
ま、それだけ聞いて胡散臭さこの上ない、と感じる人も居られるかもわかりませんが…
瞑想によってこの世的な成功、人間関係の修復、超能力の開発、あるいは又悟り…
このようなことを求める者も多いようです。ある目的への手段ですね。
目的は色々でしょうが、どっかでそれを獲得出来たら幸福になれると思っているのでしょう。
というより、それが人間が何かをやろうとする上での根本的なモチと言えるでしょう。
私は以前、理由も無く嬉しい、感謝の気持ちが溢れて来て、ずっと何もしないでそのままキープされていた(していたのではありません)ことがありました。
何かを求めようとしなくても幸福を味わっていたのです。
何かのメソッドに依ったのでも無しに…特別なメソッドの無いロハ瞑想の発芽はその辺にあります。
”どうしたらそんなオメデタイ心境になれるのか?”と何人かの人に訊かれましたが、”それはだね…タダでか?…今日は大サービスで良いだろう…手をこうして合掌して、息を吹きかけて…”とレクチャーまがいのことやってるうちに、自分で白々しくなってきました。
私自身そうしたものなどに頼ってなどいませんから…
今なら…”祈ったらいい…”と言うかもわかりません。先の件でも、これはある意味ホントにそれに依って導かれたと言ってもいいですから…
五井先生や小池先生、手島先生などの影響もあったでしょうが、自分の意志から何かをやろう、”自分が”という線からでなしに、自然(じねん)からそうなってしまったのです。
最初の頃はあの”現臨感”というものはあまり自覚されていなかったのですが、”何もしてなくても無条件にいいものだ”と感じていました。
幸福で居られますから…。
こういう状態で居られると、何かの効果を期待することも無いし、効果が無いからといってどうという事も有りません。
幸福で居られますから…。それは幸福をもたらしてくれるものと共にあるという事です。
祈りとはその幸福ご自体、幸福の権化~ガイダンスの召喚です。
いやそれ以前にあちらから召喚されているから祈らざるを得なくなるのでしょう。
そこから切り離して、成功、人間関係の改善…そして悟りというものを求めてみても…多分裏切られてしまうのではないでしょうか?
何度も触れますが私には祈りと瞑想とは切り離せないのです。

”アツ、そうかガイダンスとつながればいいんだ…”と思ってうかつに”こうすれば、ガイダンスにつながる”なんて商売に手を付けるべきではありません。
その前に祈った方がいいです…。勿論”ロハ”で…





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