いつも年の瀬ということを意識している訳でも、特に慌ただしいことをしている訳でも無いのですが、何故か何かに迫られているような感じがしているこの頃です。
それで、"これでいいの? 今年中にやらなければならないこと無い?"、と思うのは、自分がそう思って、そうしようとしている訳で、この人生は"自分だけで生きている訳じゃない"、と感じていれば、ただ時が過ぎて行くだけのように感じて、ラク~になってくるのです。
思えば、私は5年前の初っぱなの記事から、そういうことを書いていて、色々訳の分からんことが多い中で、そのことはブレずに書いてきたように思います。
でも、"自分だけで生きちゃいない"、と言っても、どうしてもアタシャ、"私はいない"、"起こることが起きるだけ"とは思えない、感じないのですね。
"全体がそうしている"のだとか?...私が全体と思い、感じなきゃそんな全体なんか無いでしょう。
この"私"なるもの。これは思っている私だけからは絶対に出てこないものです。見えない私みたいなのがあって、この私を在らしめているとしか思えない、感じてきません。(そういうのは私だけでしょうか?)
見えない私...陰の私。これはもう、お陰様なのです。感謝しかありません。
わが国で古来、このように言い伝えられてきたのは、こういうことが内包されているのです。
ただ、あまりこのお陰様は私自身、真我と切り離されないものとしては伝わって来ませんでした。
度々触れているように、私はブログを書いているうちに、ラマナ.マハルシの"神、真我、導師は同じものである"、という言葉が、"じんじん"とした感じと共に、私の中に染みこみ、鳴り響いてくるようになりました。
小池先生にとって、それは神.キリストのことで、その辺りの消息を"神.キリストは、超在、遍在、内在し給う"、と実に的確に言い表しておられます。
このお陰様なるものが、いよいよ私のまっ中心から顕われ、又そこへと間近に迫ってくるのを覚えます。
誰が読むのか、このマイナーブログという路線で続けてきましたが、宗教的プロバガンダが大キライな私でも、このブログでちっとは、"伝道"の精神も反映されているのです。
"日陰"で生きていた私には身に余るようなことですが、読者が増えて来たことは、素直に嬉しく思っています。
これは一重に読者諸氏の"お陰"という他ありません。
来年もよろしくお願いいたします。
それで、"これでいいの? 今年中にやらなければならないこと無い?"、と思うのは、自分がそう思って、そうしようとしている訳で、この人生は"自分だけで生きている訳じゃない"、と感じていれば、ただ時が過ぎて行くだけのように感じて、ラク~になってくるのです。
思えば、私は5年前の初っぱなの記事から、そういうことを書いていて、色々訳の分からんことが多い中で、そのことはブレずに書いてきたように思います。
でも、"自分だけで生きちゃいない"、と言っても、どうしてもアタシャ、"私はいない"、"起こることが起きるだけ"とは思えない、感じないのですね。
"全体がそうしている"のだとか?...私が全体と思い、感じなきゃそんな全体なんか無いでしょう。
この"私"なるもの。これは思っている私だけからは絶対に出てこないものです。見えない私みたいなのがあって、この私を在らしめているとしか思えない、感じてきません。(そういうのは私だけでしょうか?)
見えない私...陰の私。これはもう、お陰様なのです。感謝しかありません。
わが国で古来、このように言い伝えられてきたのは、こういうことが内包されているのです。
ただ、あまりこのお陰様は私自身、真我と切り離されないものとしては伝わって来ませんでした。
度々触れているように、私はブログを書いているうちに、ラマナ.マハルシの"神、真我、導師は同じものである"、という言葉が、"じんじん"とした感じと共に、私の中に染みこみ、鳴り響いてくるようになりました。
小池先生にとって、それは神.キリストのことで、その辺りの消息を"神.キリストは、超在、遍在、内在し給う"、と実に的確に言い表しておられます。
このお陰様なるものが、いよいよ私のまっ中心から顕われ、又そこへと間近に迫ってくるのを覚えます。
誰が読むのか、このマイナーブログという路線で続けてきましたが、宗教的プロバガンダが大キライな私でも、このブログでちっとは、"伝道"の精神も反映されているのです。
"日陰"で生きていた私には身に余るようなことですが、読者が増えて来たことは、素直に嬉しく思っています。
これは一重に読者諸氏の"お陰"という他ありません。
来年もよろしくお願いいたします。