人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

即応的なマントラ

2024-12-15 09:32:08 | 祈りと瞑想
浄土真宗などで、一念の念仏とか、初一念とか言われるこの一念という言葉ですが、元は梵語の”エーカ.クシャナ”の漢訳だそうで、それには”刹那”という意味が含まれているのだそうです。
なるほど!...”念”ではどうも”念じる”という感じになってしまい、この一念の即応性がぼかされるキライがあります。
これが私がいつも言っている、”パッと意識を向ければパッと開かれる”、という消息を伝えているもので無くて何であろうか?
これは、もう六字の名号を称えるとか、何回称えなければならないとか、あらゆるこちらから為される”行”というものを超えているということなのです。
なるほど...だから、親鸞上人は、それに先立ち弥陀の本願というものがある、ということを説かれたのです。
つまり、思い、為そうとする自分からで無しに、神、如来のはからいによって開かれるということなのです。
これはジッつにスッバらしいというより他ありません!
このことはあらゆる宗教、霊性の道を超えて知られていたことなのでしょうが、このように一つの言葉として言い表したという例は、私はほとんど知らないのです。
この意志想念でない、意識の瞬間的な動き、ハタラキには、マントラというか、ある言葉なり、形が媒体となるものです。これは勿論それを”念じる”とか”イメージする”とかいう、意志的な行為を超えたものであるのは言うまでもありません。
それは、浄土仏教なら”南無阿弥陀仏”なのでしょうが、その刹那の即応性を求められるものは、各人によって異なるものでしょう。
各人にもっともその”伝導性”、”振動数”の高いものであるはずです。
それは、イエス.キリストであったり、アッラー”であったり、その信奉する神のみ名かもしれないし、玉城康四郎先生のように、”自燈明、法燈明”、というお経の言葉だったりするのでしょう。(元より一刹那のことであるので、形そのものに囚われる必要は無いのです)
私の場合、ズバリ”現臨”であったり、最近では”神、真我しか無い”とかだったりしますが、いづれにしても向く、向けられるものは、すべてで一なる、あの御方であるのは言うまでもありません。
親鸞さんは、鎌倉時代にあってこういうことを説かれたのです。
念仏のその即応性を知る親鸞さんが、宗派を超えた、それぞれに応じた即応性のことを知らなかった訳が無いでしょう。本願、無礙の一道はそれぞれに感得されるものであるのです。
では、何故このような一念、一刹那の即応性が生まれるのでしょうか?
それは、自己の内奥とその神的な、超越的なものとは、元々切り離されるものではないからでしょう。
これは、もう本当にハイパーかつグローバルな今日の新時代を先取りしたものと言えるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まず神を求めよ!

2024-12-08 09:14:12 | 祈りと瞑想
霊性の道において、絶えず去来する思い、思考マインドから離れることが如何に重要なことであるかは論を待たないことでしょう。
それには、精神集中、統一しなければならないのだと。
私なんかは、生来すぐ思考のがんじがらめ状態に陥ってしまうもので、最初から諦めているところもあり、ことに瞑想などの修行では重視される、そういうことには関心が向かなかったのです。
それに携わる人なら集中、統一しようとすればするほど、ますます思考が活発にあるという経験があるでしょう。
それは、思考と同じ意志想念によって、“思い、為そうとする試み“、ということも感覚的に分かるのです。
だからこれは、いつも言うように、考えている自分からは何も始まらない、ということを表している典型的な例とも言えるのです。いや、ごくろうさんな話ではありませんか。
そんながちゃがちゃした思いなんかは、ほれ、アッという間に離れて(無くなるとかいう非現実的なことではありませんよ)、自分が一つに統合された感じになりますよ。
これ、私の長年の修行の成果なんですよ!...って、だからそういう心得なんか持ち合わせてなんか無いっつ~の!
先の理由で、私は別に自分の思いをどうにかしようとして、そうなった、訳じゃないのです。
ただ、祈っていた、神的なものに意識を向けていただけなのです。
そうすると、心が安らぐ、幸福に包まれる感じがするから!...私が行う何かではない、そう為さしめるものがあるのです!
だから、私がどうなった、どう変わったというような自覚も無いのです。がちゃがちゃした思いというのは相変わらずあるのですよ。だけど、パッと神を意識するだけで、パッとそれは晴れてしまうんだから仕方無い!
思いから離れるということは、一つに統合されることと同じなのです。
これが深まると、最近の私のマントラみたいですが、“神、真我しかない“という感じになります。
だから、霊性を開く道は、“まず神を求めよ!“、ということから始まるのではありませんか?
神でなければ、ダンマとかタオとか超越的実体と結びつかない、ある種のハタラキ的なものでもいいでしょう。
ただ、私的には神的なものというのは、その実体は分からなくとも、そういう先入観念を持ち込まなくとも、具体的、即自的につながるという感じがするのです。具体的に愛、平安在らしめるものとつながる感じがする...。
何故、こういうことになるのか?...それは、元々人間存在は、一個なるものから成っているのではなく、その個を超えたものと切り離されることなく、一つのものとして成っているということなのでしょう。
だから、神を求めるということは、そのすべてなる自己を求めるということでもあるのです。
どの神を求めるのか?...それは、あなたがもっとも惹かれ、愛し、帰依している神でしょう?
そんな神は特にない?...いいや、あなたをあなた在らしめている神は何人にも存在しているではないか?!
私やあなたの神に!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが主の祈り

2024-11-17 09:15:14 | 祈りと瞑想
祈りというと、普通に考えられていることは、神であれ仏、キリストであれ、それがある神的なものの対象に向けられるということでしょう。
そういう決められた呼び名によってなされるものですね。
私もいつも祈りについて触れているのですが、よく考えてみたら決まった呼び名というのは無いのです。
言葉に出さずともある感応に導かれ(それを現臨と言ったりする訳です)てしまうという理由があるのですが、いきなりそういうことになる以前の昔からそうだったのです。
おそらく、決まった呼び名で祈ることにより、特定の宗教宗派色を出さないようにするためだったようです。私は○○教でも○○主義者でも無い、“自由でありたい“という心持ちが求道の初期からあったのです。
それでも、これは呼び名では無いが、あるニュアンス、響きをもった言葉を意識する、というかさせられるという感じは持っていたのです。
それは、“わが主“というものです。言うまでもなくそれは、キリスト教方面から借りたもので、多くはキリスト.イエスのことを指します。
手島先生、小池先生との縁から来ているのですが、ご存知のように私はクリスチャンではありません。
しかし、わが国では、この“lord“という英語を“主なるもの“という訳で、よくぞ言ったものだと思いますよ。もう、思い浮かべただけで、じんじんと主の現臨を覚えて来るではありませんか?
この“主“の一語には、その私を超えた神的なものの他に、“私の主なるもの“~“思い、為すものだけが私ではない、すべてなる私“、といった意味合いを含んでいるのです。
これを端点に言えば、この一語に超越的な神的なもの、内在的な真我的なものが含まれているということなのです。
この神と真我につながることは、あらゆる宗教、霊性の道において、形を超えて普遍的に
説かれ、伝えられていると言っていいでしょう。
そして、“わが主“と意識することで、他人行儀でない、私と一つに働くものへの親しみを込めたものになるのです。
そうなるともうこれは、祈りというものがある対象に向けられる、というそうした形、概念を超えたものにならざるを得なくなるでしょう。
だから、私がいつも言うように、祈りと(内在的な方に意識が向けられる)瞑想は切り離すことは出来ないのです。
勿論、これは私の場合のことを言っているのでして、決まった神名で呼ぼうと、何と呼ぼうと呼ぶまいと、各人の自由です。
しかし、私の“わが主“がそうであるように、自分自身と切り離されない、実存的な祈りとなるならば、それがキリスト、阿弥陀様、どんな名で呼ばれようと、それぞれにあって“わが主“とならざるを得ないでしょう!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

み心のままに導かれて...

2024-11-16 09:04:12 | 祈りと瞑想
私がいつも霊性の道において、もっとも重要なこととして言っていることは、思い、為そうとする自分からではなく、それを超えたもの、神的なものにより頼む、ということなのです。
これは、もしその道が神と一つになることであるならば、全く当然のこととして受け入れられることでしょう。
いやあ、私なんかは、もうそういう説明なんかを超えて、いつの間にか、というか直ちに、自動的にその神的なものに意識が向けられてしまうのです。これは、そうなるに任せる、ゆだねるっきゃない、ってことですよ!
アーメン、なあ~む、インシャラー、かむながらたまちはえませ...つまり“み心のままに“、という響きの祈りにならざるを得ないのです。これはあらゆる宗教、霊性の道にあって、形、言葉を超えて普遍的に伝えられている祈りと言ってもいいでしょう。
出口王仁三郎師も、“とにかく、かむながらたまちはえませ、と称えていたらよい!、これを称えていれば、最後には救われるのである“、と説いておりました。
しかし、こんな重要な響きを持った祈りが、単なる付け足し的に、形式的に称えられている傾向がどうもあるようなのです。
王仁師が言われていたのは、それをもっと意識的に、思いを込めたものにしなければならない、ということなのでしょう。
意識的になる...これは、実は決まった祈りの文句を口に表して祈る、ということをも超えているものであるはずです。
み心のままに、委ねまつる、という響きに思いが満たされていたらいい、ということです。五井先生もこのことをいつも言っていたではありませんか?
どういう祈りごとを何回、何分、何時間称える、というようなことは二の次なのです。
いやだから、そうしなくても、パッと意識が向いて、満たされてしまうんだからしょうがない!(これを“現臨にある状態“と言っているのです)
私自身、特別な祈りのやり方も修行方法もしてきませんでしたが、ただ一つこうした響きをもった祈りに導かれた、ということは言えるのです。
勿論、最初は思い、為そうとする私がそう祈ろうとするのですよ!
だけど、このことをよく考えて、感じてみて下さい!
その私が、神よ、み心のままにお導き下さい!、と祈ろうとしている、神に自分を明け渡そうとしているのです。
そう意識している...そういうことなんだ!
自然に、そのように導かれてしまうのは当然なのです。
そうして、いつの間にかそういうことになり、直ちにそうなってしまう、という次第なのです!
これはもう、祈るとか意識的になる、というよりも、祈らされる、意識させられることと言ってもいいのです。
ということは、私ではなく、神の方がいつもそのようにハタラキかけている、ということでなくて何であろう!
自ずと霊性の道が開かれる、神と一つにならざるを得ないということではないか?
“み心のままに“という祈りは、実に霊性の道のアルファであり、オメガである、ということではありませんか?!...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈りと瞑想とバクティ

2024-09-22 10:14:33 | 祈りと瞑想
私はいつも祈りと瞑想は切り離せるものではない、ということを言っています。
わが国では、大雑把な観方ですが、祈りは念仏に、瞑想は座禅に代表されるようなイメージを持たれる向きが多いようです。
それを巡って他力がどうとか、自力が何だとか、何が違うのかとか、相通ずるものがあるのだとか、メンドクサイ比較がなされたりしているのです。
両者には、各々長い伝統によって守られてきた、座法であったり、祈りの言葉など、出来上がった形があるので、どうしてもそういう風に、二つあるものとして捉えられてしまうのでしょう。
”禅浄双修”なんてのもありましたが、どうしても中途半端、不徹底になり勝ちになるのは否めません。
では、これを一つのものとして捉えられる道は無いのでしょうか?(私的にはそれが無いというのが不思議でならないのですが)...”おお、これが有ったか!”...それはバクティ.ヨーガです。といってもあまり馴染みは無いでしょうけれど...それについて書かれた邦訳文献が少ないとキテる...僅かに「ナーラダ.バクティ.スートラ」、スワミ.ヴィヴェカーナンダの「バクティ.ヨーガ」、その師であるラーマクリシュナのそこで随所で語られている、「ラーマクリシュナの福音」(いづれも日本ヴェーターンタ協会刊)ぐらいしか知られていません。
バクティ.ヨーガとはその呼び名の通り、ヒンドゥー教に伝わる瞑想法の一つとして認識されていますが、私にはそういうものを超えて、その言葉一つで、神への帰依、信愛、瞑想は切り離されないものということが伝わって来ます。
いやいや、そういうことよりも何よりも”神の愛”がすべてなんだ!
前出の「バクティ.スートラ」には、神と一つになるには、聖典を学ぶとか、教えを守るとか、欲望を制御するとか、色々事細かく述べられています。
だけど、聖典を読もうとする前に、神が臨んで、神の愛に包まれてしまったらどうするのか?
それを中断して、”聖典に集中しろ!”、なんて言うのはナンセンスですよ!
私は例によって、色々な中途のことはぶっ超えてしまって、取りつくシマの無いようなことを言っているのでしょうか?...ろくに修行もしない人間がいつの間にそんなに進んだのか?...余程のナニなのか、イイカゲンなのか?...
いいや、私がどうこうじゃない!...神の愛がすべてだ、と言っているのです!
どうにも捉えどころが無いという向きは、聖典を学ぶとか色々されたらいいでしょう。
でも、それは神の愛を知るヨスガであるのは言うまでもありません。
神への帰依、信愛を養うために...いいや、そこには神からの愛、本願的なものが先立っているのではないか!...神の愛がすべてとはそういうことなのです。
...と、こう書いて来て...インドには祈りと瞑想を一つにした道が伝えられているようだけど、日本には”弥陀の本願”、”如来より賜りたる信心”を伝えた親鸞上人が居られるではないか?、ということが過ってしまいました。
これは、ですからこちらがどうこうとか、方法とか念仏行というものさえも超えているということを言い表しているのでしょう?
この消息のものが受け取られたら、そのままサマーディ(三昧)にまかせる他ありません。
だから、そこには祈りも瞑想も、ヒンドゥー教も仏教も無い!...
と、いつもどうしてもこういう調子になってしまうんだから仕方が無い!
要するに...禅も念仏もバクティも帰するところは一つということなんでしょう?
私には違うものとして二つ並べられたものは、入ってこなくて、元々一つのものが最初から入っているようなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする