人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと瞑想とバクティ

2024-09-22 10:14:33 | 祈りと瞑想
私はいつも祈りと瞑想は切り離せるものではない、ということを言っています。
わが国では、大雑把な観方ですが、祈りは念仏に、瞑想は座禅に代表されるようなイメージを持たれる向きが多いようです。
それを巡って他力がどうとか、自力が何だとか、何が違うのかとか、相通ずるものがあるのだとか、メンドクサイ比較がなされたりしているのです。
両者には、各々長い伝統によって守られてきた、座法であったり、祈りの言葉など、出来上がった形があるので、どうしてもそういう風に、二つあるものとして捉えられてしまうのでしょう。
”禅浄双修”なんてのもありましたが、どうしても中途半端、不徹底になり勝ちになるのは否めません。
では、これを一つのものとして捉えられる道は無いのでしょうか?(私的にはそれが無いというのが不思議でならないのですが)...”おお、これが有ったか!”...それはバクティ.ヨーガです。といってもあまり馴染みは無いでしょうけれど...それについて書かれた邦訳文献が少ないとキテる...僅かに「ナーラダ.バクティ.スートラ」、スワミ.ヴィヴェカーナンダの「バクティ.ヨーガ」、その師であるラーマクリシュナのそこで随所で語られている、「ラーマクリシュナの福音」(いづれも日本ヴェーターンタ協会刊)ぐらいしか知られていません。
バクティ.ヨーガとはその呼び名の通り、ヒンドゥー教に伝わる瞑想法の一つとして認識されていますが、私にはそういうものを超えて、その言葉一つで、神への帰依、信愛、瞑想は切り離されないものということが伝わって来ます。
いやいや、そういうことよりも何よりも”神の愛”がすべてなんだ!
前出の「バクティ.スートラ」には、神と一つになるには、聖典を学ぶとか、教えを守るとか、欲望を制御するとか、色々事細かく述べられています。
だけど、聖典を読もうとする前に、神が臨んで、神の愛に包まれてしまったらどうするのか?
それを中断して、”聖典に集中しろ!”、なんて言うのはナンセンスですよ!
私は例によって、色々な中途のことはぶっ超えてしまって、取りつくシマの無いようなことを言っているのでしょうか?...ろくに修行もしない人間がいつの間にそんなに進んだのか?...余程のナニなのか、イイカゲンなのか?...
いいや、私がどうこうじゃない!...神の愛がすべてだ、と言っているのです!
どうにも捉えどころが無いという向きは、聖典を学ぶとか色々されたらいいでしょう。
でも、それは神の愛を知るヨスガであるのは言うまでもありません。
神への帰依、信愛を養うために...いいや、そこには神からの愛、本願的なものが先立っているのではないか!...神の愛がすべてとはそういうことなのです。
...と、こう書いて来て...インドには祈りと瞑想を一つにした道が伝えられているようだけど、日本には”弥陀の本願”、”如来より賜りたる信心”を伝えた親鸞上人が居られるではないか?、ということが過ってしまいました。
これは、ですからこちらがどうこうとか、方法とか念仏行というものさえも超えているということを言い表しているのでしょう?
この消息のものが受け取られたら、そのままサマーディ(三昧)にまかせる他ありません。
だから、そこには祈りも瞑想も、ヒンドゥー教も仏教も無い!...
と、いつもどうしてもこういう調子になってしまうんだから仕方が無い!
要するに...禅も念仏もバクティも帰するところは一つということなんでしょう?
私には違うものとして二つ並べられたものは、入ってこなくて、元々一つのものが最初から入っているようなのです。
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現臨にある祈り

2024-09-18 09:28:45 | 祈りと瞑想
祈るということは、言うまでもなく神、仏、ある霊的存在、呼び名は何であれ、自分を超えたものに向けられるものです。
こんな当たり前のことなのに、何といいかげんな、おざなりなものになっていることでしょう!
多くの宗教では、祈りは習慣的な行事になっています。いや成り下がっていると言った方がいいでしょう。
こうなってしまう根本的要因は、その神的なものが本当に、リアルに現実に生きて働くものとして認識されていないからでしょう。
あるキリスト教系の集会で私は、このことを指摘したことがあります。”形式的に祈るので無しに、もっとアリアリと神、聖霊を意識して祈らなけなければならない!”、と。
すると、司会の方が、”もっと現実的なことを話してもらえませんか?”と言ったのには、呆れてしまいました。
そして私は、”神のことは現実的なことでは無いのか!”とやや激昂して、語気を強めて言ったら、”分かりました、分かりました...あなたの言われることも...でも、今はそういうことに触れている時間は無いので...”とはぐらかされてしまったのです。
私は、皆に悪いと思ってその場は引っ込んだのですが、”こんな集会などサッサと辞めろ!”、と叫びたい気持ちでいっぱいなのでした。
私がいつも神的な現臨について触れているのは、こうした思いから来るのに他なりません。神は、思い描いたり、漠然と観念的に信じるものでなく、現実に臨むものなんだ、と。
それは、自己実存とも切り離せないものであり、この現臨無くして、どこにリアルな現実などあり得ようか、と言ってもいいくらいのものなのです。
それは、意識を向けることで臨む...神的なものを意識する、向かわざるを得ない!...これは本当に神、自己の分離の無い在り方を示しています。
神的なものに向かうということは、主我的な思いから離れていることです。
つまり...私が居て、向こうに神を置いて祈るのではない。私が祈るのではない。
何時間祈るとか何年祈ったとか、私が祈って私がどうにかなったとかではない。あなたの思念、信念などの沙汰ではない。
私が考え、為したことは勿論、如何なる空想、妄想ごとなどそこに持ち込む余地などない!
現臨にある祈りの場には、神の現存と自己実存しかないのだから!
現実に臨む神に向き合わない祈りごと、否祈りの真似ごとなど何年やってても無駄なことです。
それが臨まなければ、何一つ始まってこないのですから!
私が悟る、空になる、何かの境地に達する...これらはどこまでも主我的な思いに過ぎません。
一コの自分がそうなろうとして、どうにもなりゃしないし、否どうにかなってしまうばかりではないか?...
”私ではない、あなただ!”
この主客の転換無しに、真の祈りは始まってこないでしょう!...





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無為の瞑想

2024-09-11 03:59:59 | 祈りと瞑想
瞑想...
何をやるの?
背筋を伸ばして
呼吸を整えて...
坐る...

今、そんなこと頭に無くて、ただ寝床でゴロンとしてるだけだけど...
意識が動いている、向かっている...
何にって?
分からない...
神とか高級霊だったら姿勢を正すべきじゃないかって?
それは分かってる、そうしなきゃあね!...
でも、そうしようとしなくても...
意識が動いちゃう、向いちゃう!...
正さなきゃダメか?
意識が動いている、向いているのを中断するの?
そのままじゃダメか?
折角、そうなっているというのに?
もう、まかせる、ゆだねる他ない!...
ジンジンとあの感じに包まれている...
愛、安らぎを感じる...
勿論、こんなぐた~っとした格好だけど...
感謝している...いや、感謝が溢れ出て来る...
ただ、寝っ転がってるだけなんだけどねえ...
こんなのでも瞑想?
何にもやってないんだけどねえ...
愛、安らぎを感じている...

瞑想って何のためにやるんだっけ?







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神と私そのもの

2024-09-03 09:39:43 | 祈りと瞑想
私は誰か?
私とはそも何なのか?
本当の私とは?

ここでは、それを知的概念として理解するということを言っているのではありません。
そうすると、どこまでもそう考えている私が居座り続けるだけでしょう。
知的に意味を追求するんで無しに、この”私そのもの”を感じるということなのです。
私は、自我か真我か?、と又々考えるんで無しに丸ごとの自分を感じてみる。
私がここに実存していることを感じてみる...
しかし、現実的には、どうしても考えている私がそうしようとしているだけのようで...
いや、本当に考えているあなたしか居ない、感じられないですか?
いやあ...感じてきませんか?...あなたの思いを超えたものという感じ...
もし、そこにそういうものを、ありのままに映し出すようなものを感じるとしたら...正にそれがあなたを超えたもんがあるということを示しているのです。
それが、あなたのすべてを見通し、包むという感じ...
おっと待った!...そういうことをイメージする、観念世界を描くということじゃないですよ!
ただ、感じてみる。ダイレクトに!...
そうすると、私は誰か、問うている私は、いつの間にかその”私そのもの”の中に消えていってしまうのが感じられてくる...かもしれない...
私は、考えている私だけで生きている、実存しているのでは無かった!
それ以前にそう在らしめているもんがある!
それは、全く考えている、この一個なる私を超えている!
その超えたもん無しには私は存在していない!
その超えたもんを、私は神的なものと呼んでいます。
だけど、”私は神と一つになりました!”、なんて又観念が上滑りして、信仰ごとに取り込んでしまったら、そう信じ、観念している私がのさばってきますよ!
考え、信じてる私が観念上の何ものかになろうとしていますよ!
そして、信じる思いが強ければ強いほど、超えることが出来なくなります。
でも、そうですね、この考えている私が頑張っていて、中々そのように感じられない、開かれてこないというのも事実でしょう。
それならば、神に祈ったらいい!
それは発端は、観念から発するものかもしれないけれど、祈るということには観念を超えることが見据えられているのです。
それは、最初から一個なる私でない、それを超えたものにより頼む、それに意識が向けられるということなのだから!
いや、先のように自分は、一個の私だけで生きているのでない感じに導いたものは、そのように意識が動いた、向いたからなのではないか?
元より、考え、為そうとする自分だけからは、何にも始まってこないのではないか?
だから、祈りと瞑想は一つのものと言えるのです。
そして又、本当のあなたと神も一つなのでしょう?...
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神への祈り、神の祈り

2024-08-03 09:27:36 | 祈りと瞑想
神に祈るという...
普通は神を対象にして、そう思い、意志している私が祈るというイメージをもたれるものでしょう。
勿論、私にもそうして祈ることもありますが、そういう在り方を超えてしまうことも多々あるのです。思い、為そうとする自分が祈るのではない!...祈らされているという感じになるのです。
そういう祈りには、どういう祈り言葉によるとか、何回祈るとかといった形はありません。思いを超えているのだから当然と言えばそうなのです。
何の神に祈っているかということもありません。だからそう思い描いたり、対象化することじゃないのですよ。
それは、くどくどとした説明は要らない、出来ない!、自分を超えたところからの祈りという他ありません。ただ、私をたらしめている、在らしめているもの、それを仮に神と言ってもいい...要するにそれは、神の現臨にある状態であるのは言うまでもありません。そこから祈りに導かれる。
それは、ですから愛、平安に与ることです。私はね、勿論そういうものを求めているのですよ!
悪いか?...私だけか?...いいや、そうであってもそうじゃない!
だって、思い、為そうとする自分からではない、と言っているのですよ!、そういうことも超えているのです。
私だけ、平安であることというのは無いはずなのです。勿論こういう祈りのようなことを通して、他人は平安に導かれるかどうかは分からないですよ!
又、そういう“自分の祈りで“、という風に思うとしたら、思い上がりも甚だしいことなのであって、自力作善、はからいの極みと言う他無いでしょう。
自分の思いを超えている、ということは、自分だけの祈りである訳が無いのです!
そこには、自ずから自他共に平安に与からんことを願わずにおれない心が生まれるのです。
神的なものと共に祈らされているということは、けだしそういうことなのでしょう。
特に他者のため、世界平和のために祈るということもなく、自他は分けられることなく、その両成へと意識づけられるのです。
神への祈りというものは、本当はこうした“神の祈り“につながるものでしょう。
そこに、自分だけの救い、成就を求めるということは、あろうはずなどないではありませんか?
これは、ともすればそういう方に傾きがちな、瞑想修行などについても言えるはずなのです。
すべての神(仏)の道は、自他一如に導かれるはずなのだから!...





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