鈴木大拙師と言えば、言わずと知れた日本を代表する宗教哲学者です。
専門である禅仏教を超えて広く、普遍的な宗教、霊性の道を究明され、内外に伝えられました。おそらく、欧米でもっともよく知られた知識人かもしれません。
その著「日本的霊性」(岩波文庫他)は、我が国の宗教哲学上の名著として知られているのですが、私は最近再読してみて、やはりこれは!...最初と同様、私には食い足りない、あまり首肯出来ない部分もあるのを感じてならなかったのでした。
師によると、日本的霊性は、鎌倉仏教において、ことに道元、親鸞の出現を通して初めて発露をみたのだという。この著書ではもっぱらその親鸞を始め、浄土系仏教を中心に考察を展開しているのです。
私は、その霊性の発露という意味ではその通りだと思います。それは、個己(師はこの言葉を多用しているのです)の実存に顕わになったということでしょう。(私は常々親鸞こそ我が国の実存主義者の草分けだと思っているのです)
霊性は又、苦難を通して発露をみるという。ということは、それは我々の心理作用、状態によってもたらされるということになります。内的に自覚されると言ってもいいでしょう。
しかしながら、それに先立って我々の精神状態を超えて、霊性、霊なるもののハタラキというものが無ければならないのでは?...発露があるということは、まずそれは我々に元々内在、潜在しているものがあるということでしょう。(師にはこれについての言及がほとんど無いというのはどういうことなのでしょう?)
元よりそれは、実存的、自覚的には感受されないものなのですが、苦難の有る無しに関わらず、何人にも、それは感覚されるものであるはずです。肌で感じるような大気、そう霊気のようなものであり、すべての霊性というものは、この我々に内在し、我々に原初から取り巻いているものがベースになっているものと言えるでしょう。
”そういうものは、そう思われている、信じられているだけのもんだ”、なんて決めつける御仁は、肌でそれを感じたことが無いということなのです。
それは、古くから神域、霊域と言われるお社にしばし、佇み、お参りすることで感じられるでしょう。
大拙師は、主として真宗を始めとする鎌倉仏教と古来の神道との対比で、論を進められるのですが、もう最初から仏教は神道に比べて、霊性の面ではるかに優位に立っている、という固定観念があるようなのです。
私には、師はやはり神道の方は専門外で疎く、先の原初的な日本古来の霊性というものを肌で感じたことが無いのではないかという印象をどうしても持ってしまうのです。
そりゃあ、神道の方面には、大拙師を始め、優れた仏教学者、宗教哲学者はほとんど輩出したこともないし、かつて居たとしても右翼思想とか国家主義と結びつく傾向があったのも確かなことです。
又、俗信や迷信、オカルト思想とも容易に結びつくし、その霊性ということも、心霊学として捉えられ、思いを超えたものに開かれること少なし、という感は否めないものがあります。
このことは、先の霊性が個己の実存に顕わにならないことにつながるのでしょう。
先の肌で感じるというのは、表層感覚のレベルについて言っているのですが、この原初的な霊的ハタラキが、個己に内在、潜在する霊性に感応してそれが表出することも無いとは限らないのです。
そうでなくとも、こうした原初的な日本的霊性無くして、霊性の発露云々ということは語れないのではないでしょうか?
大拙師は、神道の精神世界は、集団的な思念に留まっていると言いますが、これは、そうした後天的な要素よりはむしろ、先天的な”自他未分”の状態に留まっていると言った方が適切でしょう。だから、先のあまり本質的でない、前時代的なものと結びついてしまうのでしょう。
しかし、今、時節は、神道、仏教、そしてあらゆる宗教的伝統を超えて、原初からの純正なる霊の息吹きが個己の霊性に呼応して顕わになって来たのを感じずにおれません。
専門である禅仏教を超えて広く、普遍的な宗教、霊性の道を究明され、内外に伝えられました。おそらく、欧米でもっともよく知られた知識人かもしれません。
その著「日本的霊性」(岩波文庫他)は、我が国の宗教哲学上の名著として知られているのですが、私は最近再読してみて、やはりこれは!...最初と同様、私には食い足りない、あまり首肯出来ない部分もあるのを感じてならなかったのでした。
師によると、日本的霊性は、鎌倉仏教において、ことに道元、親鸞の出現を通して初めて発露をみたのだという。この著書ではもっぱらその親鸞を始め、浄土系仏教を中心に考察を展開しているのです。
私は、その霊性の発露という意味ではその通りだと思います。それは、個己(師はこの言葉を多用しているのです)の実存に顕わになったということでしょう。(私は常々親鸞こそ我が国の実存主義者の草分けだと思っているのです)
霊性は又、苦難を通して発露をみるという。ということは、それは我々の心理作用、状態によってもたらされるということになります。内的に自覚されると言ってもいいでしょう。
しかしながら、それに先立って我々の精神状態を超えて、霊性、霊なるもののハタラキというものが無ければならないのでは?...発露があるということは、まずそれは我々に元々内在、潜在しているものがあるということでしょう。(師にはこれについての言及がほとんど無いというのはどういうことなのでしょう?)
元よりそれは、実存的、自覚的には感受されないものなのですが、苦難の有る無しに関わらず、何人にも、それは感覚されるものであるはずです。肌で感じるような大気、そう霊気のようなものであり、すべての霊性というものは、この我々に内在し、我々に原初から取り巻いているものがベースになっているものと言えるでしょう。
”そういうものは、そう思われている、信じられているだけのもんだ”、なんて決めつける御仁は、肌でそれを感じたことが無いということなのです。
それは、古くから神域、霊域と言われるお社にしばし、佇み、お参りすることで感じられるでしょう。
大拙師は、主として真宗を始めとする鎌倉仏教と古来の神道との対比で、論を進められるのですが、もう最初から仏教は神道に比べて、霊性の面ではるかに優位に立っている、という固定観念があるようなのです。
私には、師はやはり神道の方は専門外で疎く、先の原初的な日本古来の霊性というものを肌で感じたことが無いのではないかという印象をどうしても持ってしまうのです。
そりゃあ、神道の方面には、大拙師を始め、優れた仏教学者、宗教哲学者はほとんど輩出したこともないし、かつて居たとしても右翼思想とか国家主義と結びつく傾向があったのも確かなことです。
又、俗信や迷信、オカルト思想とも容易に結びつくし、その霊性ということも、心霊学として捉えられ、思いを超えたものに開かれること少なし、という感は否めないものがあります。
このことは、先の霊性が個己の実存に顕わにならないことにつながるのでしょう。
先の肌で感じるというのは、表層感覚のレベルについて言っているのですが、この原初的な霊的ハタラキが、個己に内在、潜在する霊性に感応してそれが表出することも無いとは限らないのです。
そうでなくとも、こうした原初的な日本的霊性無くして、霊性の発露云々ということは語れないのではないでしょうか?
大拙師は、神道の精神世界は、集団的な思念に留まっていると言いますが、これは、そうした後天的な要素よりはむしろ、先天的な”自他未分”の状態に留まっていると言った方が適切でしょう。だから、先のあまり本質的でない、前時代的なものと結びついてしまうのでしょう。
しかし、今、時節は、神道、仏教、そしてあらゆる宗教的伝統を超えて、原初からの純正なる霊の息吹きが個己の霊性に呼応して顕わになって来たのを感じずにおれません。