人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

原初的な日本的霊性

2024-10-17 10:10:21 | 日本的霊性
鈴木大拙師と言えば、言わずと知れた日本を代表する宗教哲学者です。
専門である禅仏教を超えて広く、普遍的な宗教、霊性の道を究明され、内外に伝えられました。おそらく、欧米でもっともよく知られた知識人かもしれません。
その著「日本的霊性」(岩波文庫他)は、我が国の宗教哲学上の名著として知られているのですが、私は最近再読してみて、やはりこれは!...最初と同様、私には食い足りない、あまり首肯出来ない部分もあるのを感じてならなかったのでした。
師によると、日本的霊性は、鎌倉仏教において、ことに道元、親鸞の出現を通して初めて発露をみたのだという。この著書ではもっぱらその親鸞を始め、浄土系仏教を中心に考察を展開しているのです。
私は、その霊性の発露という意味ではその通りだと思います。それは、個己(師はこの言葉を多用しているのです)の実存に顕わになったということでしょう。(私は常々親鸞こそ我が国の実存主義者の草分けだと思っているのです)
霊性は又、苦難を通して発露をみるという。ということは、それは我々の心理作用、状態によってもたらされるということになります。内的に自覚されると言ってもいいでしょう。
しかしながら、それに先立って我々の精神状態を超えて、霊性、霊なるもののハタラキというものが無ければならないのでは?...発露があるということは、まずそれは我々に元々内在、潜在しているものがあるということでしょう。(師にはこれについての言及がほとんど無いというのはどういうことなのでしょう?)
元よりそれは、実存的、自覚的には感受されないものなのですが、苦難の有る無しに関わらず、何人にも、それは感覚されるものであるはずです。肌で感じるような大気、そう霊気のようなものであり、すべての霊性というものは、この我々に内在し、我々に原初から取り巻いているものがベースになっているものと言えるでしょう。
”そういうものは、そう思われている、信じられているだけのもんだ”、なんて決めつける御仁は、肌でそれを感じたことが無いということなのです。
それは、古くから神域、霊域と言われるお社にしばし、佇み、お参りすることで感じられるでしょう。
大拙師は、主として真宗を始めとする鎌倉仏教と古来の神道との対比で、論を進められるのですが、もう最初から仏教は神道に比べて、霊性の面ではるかに優位に立っている、という固定観念があるようなのです。
私には、師はやはり神道の方は専門外で疎く、先の原初的な日本古来の霊性というものを肌で感じたことが無いのではないかという印象をどうしても持ってしまうのです。
そりゃあ、神道の方面には、大拙師を始め、優れた仏教学者、宗教哲学者はほとんど輩出したこともないし、かつて居たとしても右翼思想とか国家主義と結びつく傾向があったのも確かなことです。
又、俗信や迷信、オカルト思想とも容易に結びつくし、その霊性ということも、心霊学として捉えられ、思いを超えたものに開かれること少なし、という感は否めないものがあります。
このことは、先の霊性が個己の実存に顕わにならないことにつながるのでしょう。
先の肌で感じるというのは、表層感覚のレベルについて言っているのですが、この原初的な霊的ハタラキが、個己に内在、潜在する霊性に感応してそれが表出することも無いとは限らないのです。
そうでなくとも、こうした原初的な日本的霊性無くして、霊性の発露云々ということは語れないのではないでしょうか?
大拙師は、神道の精神世界は、集団的な思念に留まっていると言いますが、これは、そうした後天的な要素よりはむしろ、先天的な”自他未分”の状態に留まっていると言った方が適切でしょう。だから、先のあまり本質的でない、前時代的なものと結びついてしまうのでしょう。
しかし、今、時節は、神道、仏教、そしてあらゆる宗教的伝統を超えて、原初からの純正なる霊の息吹きが個己の霊性に呼応して顕わになって来たのを感じずにおれません。
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鎮魂と神の道

2023-05-03 09:31:00 | 日本的霊性
“神の道“というのは、これはもう、日本の古来の道そのものなのですね。なんつったって“神道“なんですから!
先月、千葉県のある神社にお参りしたのですが、久しぶりに何て言うか、自分の中に、ある中心(妙な言い方ですが)が感覚され、それがズシンと鎮まるような感じを覚えました。
少し前に、“神が内側に感覚されることはあまりない“、みたいなことを書いたりしたのですが、そういうこともやはりあるのです。なんてこたない、久しく感じてなかったってことでしょう?
それは、自分の中のどこに感じるかというと、具体的には下半身、ハラの辺りです。鎮まると言ったらそういうことになります。
魂というものが有るのか無いのか知りませんが、そういう何かのタマみたいなものが鎮まる...“ははあ、これが鎮魂ってもんやねんな!“
これまで漠然と感じてたものが一寸意識的になると、ストンと落ちたような?...これも又鎮魂の妙ではあるまいか?
いつもそうなるとも、その神社でなるとも限らないですが、大概そうなるという、神域というものもあることはあります。
神は偏在している、と言いますが、どこでもいいようで、ここでなければ、というものも確かにあるでしょう?
こういう道は日本ならではのものでしょう。
これは、お寺や教会などでは、お祈りや礼拝によってそうなることはあっても、その地場との
関わりでなるというのは、この道ならではのものですね。
これには、お土、木々、岩などの自然の恵みが媒体となっているのは言うまでもありませんが、自分自身の中にあるものとの共振というもの抜きにしては起こり得ないでしょう。
鎮魂とは、自然に、自己の中心に帰ること...あちこち飛び、馳せ、浮きあがる思いを中心に鎮(静)め、統べること...
別段、鎮魂行などしなくても、お参りするだけで、いや、神域に近づくだけでそうなったりします。
勿論、“考えている私“だけからは、そうなったりはしません。そうさせるものが臨むからに他なりません。
それによりは魂(のようなもの)が揺さぶられり、呼び覚まされます。魂が振るう、振魂!
鎮魂には、このような側面も伝えられているのです。
そうだ、そうだ!...この二つは切り離されないものだったのです!...ストン!
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コンクリートだらけのお社

2023-01-29 09:36:06 | 日本的霊性
昨年末、日本橋の水天宮にお参りしたのに続き、先日は芝にある”小さな“宮さん、芝大神宮にお参りしました。
どちらも久し振りなのでしたが、特に行事があった訳でもないのに、混雑も予想される正月の期間は避けていたにも関わらず、参拝の行列が出来ていたのに正直びっくりさせられました。
どちらも過去数度訪れたことがありますが、そういう光景に接した記憶はほとんどありません。
前者は、商店街を成している人気スポットだから不思議でも無さそうですが、後者の”小”神宮なんかは、近くの“大きな”増上寺の影にすっかり隠れている印象だったのですが...
生きづらい、世知辛い世相を反映しているのでしょうか?
しかし、どちらのお社もビジネス街の真っ只中にあるだけあって、その周りはコンクリートで固められてしまって、神社本来の、お土や古い巨木などの自然と通い合う空間というにはほど遠く、あれでは神気、霊気などが通るはずなど無いと感じざるを得ません。
それでも人々は神前に額ずこうとしている!...何を祈ろうとしているのか、どんなお陰があるのか知る由も無いですが...
いや、そんな私は寒いのに一体何をしているのか?
行列に加わっているのですよ!、あったりまえでしょ!
そうしてると、エラそうに、批評家気取りで、傍観者みたいに書いてるのが恥ずかしくなって来そうです。
周りはコンクリートだらけでも神社は神社!..”.一寸足を伸ばせば、本来の神社の持つ地場にも触れられるぞ!”、なんてバカなことを言ってはいけない!
神社の存在とは、その地域特有の歴史、(見にくいものとなっても)風土と共にあるものなのです。それは又、一人一人の精神的歴史風土とも関わるものだと思います。
そして、私はどちらとも参拝を終えて、何か私の内部に通ったような、すがすがしい気分になったのでした。(どちらもこの地域で生まれ育った訳でもないですけどね)
なるほど、そこは本来の神社の在り方からはほど遠く、我々の文明が自然が醸し出す気を覆い、閉じ込めたことを象徴しているように、コンクリートで覆われています。
しかし、祈るということは、外からの気の感応ばかりでなく、我々に本来から与えられている、内的なものが呼び起こされることでもあることを改めて感じさせられたのでした。
このような様態にあっても尚、古来からの風儀は伝えているのです。
こんな時代だからこそ、それは尊く映るのでしょう...。
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鎮魂帰神

2022-07-15 11:22:18 | 日本的霊性
古来古神道には「鎮魂帰神」と謂われる、神人感合の秘法が伝えられています。
それは、全く世の表側の宗教界隈からは隠れた、正に秘法たる存在だったのですが、明治、大正時代、出口王仁三郎師によって大本教に持ち込まれました。
鎮魂帰神の法にもいくつか流派があり、単に「鎮魂法」と呼び慣らされる場合も多いのですが、近年では、宮中の神事にも関わりが深いと言われる、「伯家神道」に伝わるそれが知られています。
王仁師が伝えたものは、明治時代の神道家「本田親徳」師が体系づけたものを継承したものであり、一口に言えば、“神がかり“体験へと誘導する方法と言えるでしょう。
これにより、秘法は一気に大衆化され、大本教の存在も広く認知されることとなり、ある意味、埋もれた神が世に表れることになったのかも知れません。
と同時に、それによりその評判も一気に落とす結果になってしまいました。
ただのお話じゃ済まない、神霊の実地のご活動は、実にアゲサゲが激しいものと見えます。
世に知られる、大正期の第一次大本弾圧事件(昭和期にもっと激しい第二次弾圧があった)を引き起こした要因の一つは、その秘法実修時での神霊の“跋扈“による狂態が世人の知られるところとなったため、と言っても過言ではありません。
つまり、そこで、人の肉体か、表層の心によって長きに渡り幽閉され続け、はれて自由に表れるのを許された神サマは、“中途の神“ばかりだったのです。だから、開祖出口なお刀自にかかる「艮の金神」の意志でか、鎮魂帰神法は、中途で禁止されるに至ったのです。
“ミタマを鎮めて神に帰る“...その主眼となるものが、幽閉されていた何かの霊を浮かび上がらせ、あるいはそれを外から掛からせる?...そんなものである訳がない!
私は、正直こういう方面は全くの素人であり、多く語る資格はありません。僅かに学生時代その鎮魂帰神法を踏襲したとされる、“秘術“をある教団でやらされたことがあるくらいです。
自分から求めて関わりを持ったことなど一度もありません!...むしろ、ああいう世界からは離れたい、といつも思っていました。
本来の鎮魂帰神とは、神直々につながる直日(霊)、本心(霊)に帰ることの他には無いはずなのです。これ本田師、王仁師とも述べられているところです。
私には、又王仁師があるところで「鎮魂帰神は、キ教で言う“聖霊のバプテスマ“と同じである」と語っていたことが印象に残っています。
しかし、聖霊のバプテスマは、人為で行われる方法の類ではありません。
天来の聖霊の光の照射というものが前提となるものであり、神の恩寵無しには開かれることは無いのです!
ですから、そこには祈りというものが重要であるのは言うまでもありません。
鎮魂帰神というものも本来は、人為による業にあらず、神ながらのまにまに行われる“神業“なのではないか?
何によるのか、何を主眼にしているのか?...これは意識がどこに向けられているか、と言い換えてもいいでしょうが、それにより何に導かれるかが決まるかも知れないのです!
少なくとも、中途半端な気持ちでやれば、中途の神に蹂躙されるのは目に見えているでしょう。
神に帰える道にあっては、直日(霊)の光の照射に与ることが前提になるはずではないか?
鎮魂の伝では、依り代というか、それをシンボライズしたものとして、各種の“御鏡“が設えてあるのです。
ヨソから神がかかる、とか憑依霊だとかの思念は、さっさと祓うに限るのです!...こういう思念を助長させるものの気がしれません!
思いを超えたもの~神が臨むことを祈る...神式の祝詞であってもいいでしょう。
祈り心を欠いて、神の道など開かれる訳がありません!
本当のところは、鎮魂帰神と聖霊のバプテスマが同じものなのかどうかは分かりません。
ただ、あの隠れた意識を目覚めしめる光が、それは実存的な光と言っておきましょうか...それが何であるのか?...聖霊か、直霊か、はた又?...もはやどちらでもいいです!
普遍的な光であるのは間違いないのだから...
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神示と表徴

2022-07-14 12:02:26 | 日本的霊性
私の学生時代、所属していた教団を離れた際、ある教え、教祖を偶像化し、絶対視する愚かさ、恐ろしさを身に染みて感じ取り、それ以降事実上、如何なる特定の団体、教師とも(深い関わりというものはあったにせよ)、その関係が私に根を下ろすことは無かったのです。
その当初は自覚的ではありませんでしたが、これは私の内部に深く根付いたものであり、決定的な意味を持っていたと言えるでしょう。しかし、そこにも裏がある?
その姿なり、言葉なり形をもって表されたものは、ゼッタイに、絶対視することは出来ない!...すべては方便なのではないか?
形は依り代、形なきものの媒体なのです。これは神社によく参拝される方なら分かることでしょう。
神社には、形あるもので絶対視されるものなど何一つありません!
そういうものがあるとしたら、それこそは偶像崇拝というべきものなのです!
絶対性、正統性、優越性などを主張しているものは、”マガツ”というべきです!
真に宗教的狂信ほど、我が国本来の神の道と遠いものは無いのではありませんか?
依り代が、その見えざる神の消息を曇りなく、淀みなく伝えてこそ健全さが保たれるのです。
しかし、この道にあって、目障り、聞き障りな正統性、優越性に曇らされた見方、見立て多いのお!
ことに神示、神典などと分類されているものに...
天理教「おふでさき」、「こふき」結構!...大本教「おほもとしんゆ」、「霊界物語」結構!...「一二三神示」結構!...「要之神示」結構!...
なに?...出口聖師は“一二三”を認めていない?、出所が疑わしい、だからあれは兇党界から来ている?...そう言っている人間の人格が疑わしい!...私はもっとも出所が疑わしい「要之神示」に揺さぶられたのだが...
古代文字、数字...何の文字だか分からないが、形ある文字をもって表されたものではないか?
字句の解釈に躍起になる霊界物語の読者たち、狂信的オニサブラーたち...後を絶たない一二三予言信者たち...虚心坦懐にワニに食われよ!、ハイになれ!
型代、物型理...結構じゃなあ!
神がかく語る...これに数多の外的権威に依存する心根が寄り付く...しかし、これ程見えざる心象、神象を形象を通して伝えるものは無いではありませんか?!
神示を通して、それは思いを超えたところから言葉が出される、ということを表徴しているのでしょう。(それは文字通りと言うことでなくシンボライズされているのです。文字通りなら言葉は絶してしまうでしょう)
形あるものは、形なきものを映し出す。...その形、依り代が表すものとは?
それぞれの心で読み取って下されよ!...“これが神理、真理だ、信じ従え!“、というマガツの声に迷わされてはなりません。
(一頃、“一二三“の続編というフレコミで評判になった、“一二三伝文“や“ヒアイ神示“などは、上記の傾向が感じられ、私の気線とは合いませんでした。“何でも結構!“という訳では無いのです。これは、あくまで私の場合のことを言っているのですが...)
あなたはあなたの神にしか感応出来ないのだから...心の底から、魂から感応するということはそういうことです。そこに正しいも間違いも無い!
否、そこからズレることが間違ってるのだ!、己が魂の目が曇っているのだ!...
ミタマ磨きです!...イヤ、どうやって磨いていいか分からんがな!...
だから...あー思ったり、こー思ったりしてても、ミタマに感じなきゃ分かりません!

カカミ、伏せていては光らんぞ!、裏を返して見なされ!

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