人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨、現前、現存

2023-04-30 09:30:23 | 現臨、ハタラキ
度々触れていることですが、精神的な道では、しばしば現在の自分よりも先にある、進化した自分、高きにある自分、悟った自分が見据えられたりします。
そうして自分をずっと前に置いて追求している訳ですが、これは本当には、前に見えてる訳ゃなく、ただそうあるべき自分を思い描いているだけでしょう。
言い換えれば、現前にある自分は見据えられていないということ...いや、見ようともしてないということでしょう。全くそれは、思い描かれている自分とかけ離れているのですからね!
現実には、見据えるもなにも、そのありのままの自分を受け入れなければ、何も始まってこないのです!
何故ならば、現前にある自分というのは、そう在らしめているもの、自分の思いを超えて現前するもの、そのものと一つのものだからです。これは勿論、現臨と言ってもいいのですが...
西田哲学では、“見るものと見られるものは一つ“、と言ったりしますが、思い描いたものでなく、現存するものというのは、全く直に現前するものを置いてはあり得ないでしょう。
リアルに直接的に伝わって来るものというのは、上とか下とか、外とか中でなく、現前するもの、という他ありません!...
これは、そのように伝わるものを言葉を借りて描写しようとすると、そういう風にしか言えない、ということなのですが...
“見なさい!“と、声なき声に促される...現前を見るしかない!...そこに実存的光が差し込むから!
かく、現臨、現前、現存にないものは、何一つ見えてない、と言ってもいいでしょう。
そうでなければ、どこまでも思念に囚われ続けるしかないでしょう。現実に見えてない、何かの像を追いかけているしかありません。
捉え、追い、得ようとするのでなく、捉えられて初めて開かれる...思いが、自己実存が開かれる!
開くものご自体によらなければ、開かれようがないではないか!
何故、見えてもいない、蜃気楼のように遠い先に映し出されているものを見て、追いかけようとするのか?!
真っ先に合わなければならないものは、すぐ目の前に、真ん前に開かれてあるではないか?!...
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夢のない話

2023-04-29 08:12:48 | 詩的文章
“夢とは抑圧された願望の充足を動機として選別されて生じる心的諸形成物の混合体“云々...

フロイトの夢分析
何という夢のない話だろう!
フロイトも夢を見るんだろうか?

“プロレス?...あれはどうせ八百長さ!“
筋書きのあるスポーツ?...見世物?
興業...
待ってました!
ハンセンが、腕のサポーターをまくった!
これが見たいんだ!
“ウィーッ!“
え?...相手がロープから返ってこない!
ブー!...“約束“が違うぞ!

“WBCは、世界と銘打ってるけど、どうせメジャーリーグ主導でやってるんだ!“
“ボクシングの統一王者だとか言ってるけど、どうせハクをつけるために最初から分かれてるんだ!“...
どうせ!、どうせ!...
どうせいって?!...
分かった、もういい!
頼むから夢を壊さないでくれ!
僕はこの世界から出たいんだ!
外に出たいんだ!
外は無意識なのか、ジェントルマンのハンセン氏なのか知らないが...
解放されたいんだ!
何が抑圧されて、何の混合物だか知らないが...
夢がある!
ベラボーに長くて、小難しい論文...
眠くなる...
眠くなったら、そこには...
夢がある!
夢がなかったら、すべては...
悪夢だ!

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のようなもの

2023-04-28 08:52:38 | 創作
「あなたは、”現臨”とか、いつも言っているけど、それはそも、一体何なんですか?、神の表れですか?」
ーいや、それはどうも...はっきり分からないですねえ...だから”神的なもの”、とボカして言っている訳で...それは、”神のようなもの”ということになるでしょうか?...しかし、それは何かの表れには違いないでしょう?...そうでなきゃ、そういうものを感じ、認識することは出来ないですから...
「そこをボカしたり、曖昧なこと言わないで、ハッキリと神なら、神と言ったらいいじゃないですか?」
ーいや、ワカランもんはワカラン!...だから明確に言えません!
「あなたは、そんな曖昧な、不確定なものを信じているのですか?」
ー曖昧...不確定...それは、表現がそうならざるを得ないことを言っているまでで、何とも曰く言い表し難いことなもんで...
「又、そう曖昧なことを!...」
ーあのですね、曰く言い表し難いものというのは、こっちの受ける感じとしては、こんなにもリアルな、目の当たりに、ダイレクトに伝わるものは無い、と言っていいものなんですよ!
「だったら、なおさら、ハッキリと言葉にして、明確に伝えるべきではないですか?」
ーそんなもん、神はこうこうで...神の表れはどうで...とか言葉で説明されるものなんて、すべて“分かったようなもの“に過ぎないでしょう!
「分かったようなもの?...」
ーあなたの合理に合わせたい頭には、一応分かったことになるでしょうが、そのものに合うことは無い!
「それは、分からないもの?」
ーそう、曰く言い難いもの...
「そういうものは、信じられないでしょう?」
ー何故、信じる必要があるのですか?!
「ハア?...そんな、訳のワカランもの、どうして信じられるのですか?」
ー愛のようなもの、安らぎのようなものが感じられるからです!
「又、出たよ!...のようなもの!...」
ーそれが又、曰く言い難いものなもんで!...愛、安らぎのようなものを感じる、ということは、信じようとしなくても、信頼のようなもので、自然に意識が動かされてしまうのです。
「愛、安らぎ、信頼...なんか分かるような気がする...」
ーそれは、愛が何であるか、安らぎが何であるか、それがどこから来るのか?、ということは、分からなくても、信じられなくてもいい、ということではありませんか?
「だから、神が何であるか、それが神なのかどうかも分かる必要も、信じる必要も無い?」
ーそういうこと!
「おっ!、ハッキリ断定的になりましたねえ?」
ーそれが感じられる、ということは言葉を要しない、自明なことだから!...
「う~ん...分かったような、分からないようなものだなあ!...」
コメント (2)
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求めることは求められていること

2023-04-25 10:06:30 | 求道、探究
神と一つになるには?
曰く、”思いを無くさなければならない!
欲望を無くさなければならない!
前世からのカルマを清算しなければならない!...”
何一つ出来そうにありません!
あ、そうそう、”神を信じなければならない!”
神が何か分からないのに信じられますか?、自分の思いで信じるのか?
ああ、出来そうにないことをやろうとするのも、そういう理屈ごとになるのも、メンドクサ!
しかし、理屈でなく、神に(それが何か分からなくとも!)意識が行ってしまうこともあります。
そうすると、”じゃ神に意識を向ければいいんだ!”ってことになるかもしれませんが...これが又雲を掴むような話で...普通はそれは意識というより、意志想念でやろうとすることなのですが...向けられるのなら、きっと向けられてしまうのでしょう?
神と一つになることに特別な方法は無い!、といつも言っていることの裏には実にこのことがあるのです!
つまり、こちらが思い、為そうとするのでなくて、あちらがこちらを引き込もう、一つになさせようとするものがある!、ということ、これなのです!
特別な方法は無くとも、祈るということはある、ということの意味は、そのことがそういう原初的な神のハタラキに合おうとすることにつながるからに他なりません。
こういう祈り心というものは、観念的に神を信じることでなくて、もうそこに、”合わそうとする”神的なハタラキ、親鸞さん流には弥陀の本願に合わされているようなものでしょう。(敬虔であることは、なんて幸福なことなのでしょう!...このことはモラルの問題じゃないのです!)
神と一つになる...それにはあれこれのことをしなければならないのでなくて...
神についてのあれこれのことを観念するのでもなくて...
一切の夾雑物から離れて、純粋に、ダイレクトに神を求めたらいいのではありませんか?
それには方法なんて無い!...理屈じゃないのだから!...
(これは、もうそうなってる人にはお分かりのように、知らず知らずに、いつの間にかそうさせられているということであるように)それは、もうダイレクトに神に求められていることと一つのこと、又そうならざるを得ないでしょう!...
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神と一つになることとは?

2023-04-23 09:21:05 | 現臨、ハタラキ
”人間は、自ら思ったり、為したりしているだけのものではない!、それを超えたものと切り離されてあるものではない!”...
と、私は言い表し続けてやまないものを日に日に感じています。
その超えたもののことを神、神的なものと言っている訳ですが、私は長い間、”人間は本来神と一つのものである“、という宗教的な教えの影響を受けていて、それが強い先入観念のようになっていた気来があったのです。
勿論、そのことを否定している訳でもなく、そのように感じているところもあるのですが、この教えは、自分の中に神があるという内在神を強調しているものですね。
しかし、実はそのことをアリヤカに感じた、ということはあまり無くて、近年より強く感じられるようになったのは、その超えたものが“現前している”、ということ...これは現臨していると言ってもいいのですが、これは、だからこそ、“超えている”、というその実感がアリアリと伝わってくるのが感じられるということだと思うのです。
こういう説き方をして、あるいは、それでは自己と神が二元的に分離したままではないか?、と(非二元論者なんかは特に?)感じている向きもあるかもしれませんが、これが実はそうじゃないのです。少なくとも私には!
もし、先の神は自己の中にある、ということが強調され、又それが強く観念されるようになると、”超えられてある”、という感覚が希薄となってしまい、そして、そういうことをただ観念している自分だけが、その神的なものと切り離されて、浮いたようになってしまうのではないでしょうか?
ともすれば、内在神信仰という、その実、実在、実存的な神に結び付かない観念ごとに堕してしまうことになるのではないか?
神と一つになることというのは、それと共にある、そのものとつながる、という”現実感”がもたらすものに他ならないのではあるまいか?
これは、本当には、神は内在しているとか、超越しているとか、一元だとか、二元だとかの概念を超えたことを言っているのです。これは超越論を超えているのです!(これは、ちょっと強引だったか?)
すべては、思われた私を超えたものにあっての現事実である、ことを忘れてはならないのです!
これ実は、私が先の非二元論的に、”神と自己の二元性を超えたものが究極の真理なんだ”、という観念に、そう信じたい我性からひっかかってしまい、私は本来神と一つのものだ、と思おう、思おうとしていたものが、実に神的な現臨にあって、その思いが粉砕されてしまった、という課程で気付かされたことだったのでした!...
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