人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

倫理道徳でなく

2017-11-29 12:08:56 | 
世の中から"やってはいけない"規範、法が無くなりつつあるようだ
"こうあってはならない"という一線が容易く越えられてしまう...

"誰かが決めた倫理、道徳に反しているから...
法律で罰せられるから...
だからどうしたi オレはどっかのエライ人や世間の大勢を鏡にして生きているんじゃないi
そんなものがあったとして、何にも映し出してやしないi
何でもやりたいことをやっちゃえばいいんだi
後のことは、神も人間も無い、永遠の虚無にまかせようi"

"こうでなければいけないこと"の縛りが解かれた時、あなたは無軌道に、無法者になるだろうか...
平然と人を殺め、肉体を切り刻むだけのニヒルな機械になるだろうか...
あるいは事を遂行している時、収まることのない手の震え、止めどなく流れる冷や汗を押し殺すのだろうか...
胸の中はずっと空洞のままで、ただ闇から闇へ空しい風が吹き抜けているだけだろうか...

すべての"こうでなければいけないこと"がグラツイた時、
その縛りから自由になった時...
そうだ ...その時、本当に自由というものに向き合えるのかもしれない
それまでの暴力的な規範、法に対する反逆心からも自由に...
胸の中には何にもないのではなかった、ことに気が付く
如何に"やってはいけないこと"や"こうでなければいけないこと"が、
自ずと涌き出る思いを覆ってきたか...
どうあっても、こうあっても僕には...誰に決められてしまうものでなく、
"こうあらねばならない"ものに赴かせるものがある、そういうものが息づいていることに...
倫理だの道徳だのに誤魔化されてはならないものがある
倫理道徳、戒律なんかでこの魂はどうにもならない
上っ面の守らなければならないもので、この魂のトーラーは守ることは出来ない

そうとも...僕は聖人君子でもなんでもない
言ってる端からの偽善者、根っからの無法者だ
この原律法はいつも破られる
でも...守らなければならない...原初の法の鏡に照らされなければならない
これは...必ず守ろうなどと誓うことが出来ない
けっして自分を律しようとする心なんかで誤魔化すことが出来ないものだから...
これは司法でない、愛の法なのだ
愛しいものをおかすことが出来ない
愛しいものは守らなければならない
愛しいものは"こうでなければいけないこと"から解放されなければならない
その掟は、愛しいものに促されてこそ守られる
それはどこにも文律され、書かれてなどいない
生まれる前からこの胸に刻まれているもの...
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全世的な幸福を求めて

2017-11-27 20:20:48 | スピリチュアル
私が初めて思いを超えた、人生の裏側ともいうべき領域に踏み入れてしまった、そこには喩えようのない充足感、幸福感がありました。
これをどう表現していいのか、言葉が見つからないのですが、為そうとか、知ろうとかしなくとも、そうなっている、知らされているという風にしか言えないのです。
この事に関して、意識のある次元(アストラル次元と言われるものか?)で思ったこと、欲したものが直ちに実現化するといったこととは違うことを言っています。(これはしかし、ある変容の中間的過程と見ることも出来るでしょう)
そうした思い、欲求というもの自体生じて来ないのですから...思う、望む以前にそれはあるのです。
何故そういう風に感じられるのかと言えば、それまでの現世での人生というものが、思った通り、望んだ通りには事が運んで来ないからです。
言葉を変えれば...もし、このバカバカしい、悩み多き世の中の経験というものが無ければ、おそらくその喩えようのない充足感、幸福感というものを味わうことが出来ないかもしれないのです。
この表側と裏側の関係というものは、実に一方の面無しには映し出されない、合わせ鏡のようなものと言えるでしょう。
思い通り、望んだ通りに行かないこの世の幸福というものは、それを得たとしてその瞬間に充足感はあってもすぐに過ぎ去り、それを失うことになれば、かえってその事が不幸、苦しみを背負いこむ要因になってしまうものです。
自体が相対的なもので、元々そこにある大本の幸福ともいうべきものとは異なっているのです。それでも、その幸、不幸を超えた根底には変わらない絶対的幸福というものも息づいているものだと、私は感じています。
それはこの世的な、その幸福の対象となる事象ー富であれ、名声であれ、恋人であれーに囚われていると中々気が付かないものでしょう。
その具体的な事象、事物が無ければ幸福になれないという強固な思い込みもあります。
そして又、欲望というものがそれを見えなくさせてしまうのでしょう。
幸福の対象となるものは、幸福そのものの媒体のようなものでしょうか?
あの喩えようのない、充足感、幸福感というものは、確かに今生では味わえないものではありました。
しかし、私にはずっと身に覚えられているものだったのです。前世からのものとか言うつもりなどありませんが...
それを言うのなら"全世"的なものと言っていいかもしれません。
全世とは裏も表もあるいは前世?も引っくるめてのものという意味です。
この世的な幸福について言えば、それはあまりにもその時々の一瞬のうちに過ぎ去るような部分的なものに映りますが、その点のように感じていたものが、あたかも幸福の総体を目の当たりにしているように息づいているのです。
そして、ほとんどの時間を占めている、無味乾燥した日常というものが夢のように感じるのです。
全世的幸福は神的なものと共にあるものであり、現在は徐々にそれが顕わになっていく過程にあるのでしょう。
(最近、善きにつけ悪きにつけ、思ったことがすぐに跳ね返って来るように、そのサイクルが速まっているように感じるのは、現世がアストラル化?してきていることの表れなのでしょうか?)
段々人生も世界も思われたものでなくなってくる...この見える世界のままが、見えない世界の表れに化してゆくのを感じています。

私はあの至福の世界からこの現実に戻りつつあった時、微睡みの中で"あの何かを求めての、なろうとすることの奮闘努力、求めても得られない、そうなれないことの苦悩は一体何だったのだろうか?"と感じたものです。
それでも、私はもう泣いたり笑ったり、フツーに生きることが出来なくなることが堪らなく感じていました。それは本当には幸福というものを味わえなくなることを意味していたのかも分かりません。

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各々の真我実現

2017-11-26 13:38:47 | 哲学・思想
真我、本当の私とは?
誰も答えられないでしょう。私が何であるか分からないんだから、世の中訳が分からないのも当たり前ですよね。
スピ界隈でよく言われているのは、物質的肉体とされているものが自分ではない、目に見えないものこそが自分である、というものです。
肉体に囚われたものを個我と言ったりするのですが、では自分とは精神のこと、霊的な魂みたいなもののことでしょうか?
"精神こそは、魂こそは自分"という思いこそが個我なのではないでしょうか?
又、ある人は"真我とは、純粋意識だ"と言います。
純粋意識はなるほど諸々に分離する思いを超えた、根底的なものには違いないですが、そう言いきってしまったらメシを食ったり、出すものは出すという真実もどっかへ行ってしまいます。
こう考えると、本当の私とは"これこれである"、という言い方など出来ないということが知られるでしょう。
逆に言えば、"これこれでない"とも言えないのです。
私は"肉体である"ことに問題があるのではなく、"肉体のみ"と思いこむことが問題なのではないでしょうか?
より問題を深く、複雑にしているのは肉体自体にあるのではなく、すべてを決定事項にしようとする精神にあると言えるでしょう。
物質的肉体次元を超えた、より高尚なる自己に肖ろうと決め込もうとする思念...皮肉なことにそうした思念が強固なものになるにつれ、精神は物質的凝固性を帯びたものになってしまうのです。
こうなってしまえば、唯物論も精神論も二元論も非二元論もみな、どっちが上でも下もなく、何ものかに囚われ、なりたがらずにおれない個我的思凝に取り込まれるばかりです。
かくして宗教、スピ界隈では、"全てはこうこうである"、"究極の真実はこれっきゃない"といった決めつけた、偏った言説で溢れかえった様相を呈しているようです。
我々の我性は、何故かくも何ものかに囚われ、真実を知っている真我らしきものになりたがろうとするのかと言えば、 自己というものがかように何かに帰せられないもの、掴めないものに他ならないからでしょう。
そしてこうした思いに駆られるのは、"本当の自己というものが分からなければ、全てのことが立ち行かなくなる、成り立たなくなる"という我々に宿命的な意識が根付いているためでしょう。
それが如何なる事態に導かれるかはともかく、人間は各々の有り様において真我実現に赴かざるを得ない生き物なのでしょう。
そこにいわく言い難い悲劇性というものがあります。
自己とは、肉体、精神、魂、統合的有機体的なもの...その等々のいずれかとは言えないが、いずれでもあるようなものでしょうか? 
それらには"私は在る"という、ある純粋意識的なものが通じ、ハタライているとはいえ、それだけでは満たされないものを感じています。
神的なものとしか言い得ない、生きた統合的なもの、愛、平安そのもの...
この表現も仮のものにすぎませんが、このような全てのものにあって、一なるものが私というものなのでしょう。
人生に意味があるのか、どうかは個我的なものからは分かりません。
人生も世界も避けられない運命に投げ出されているように思えます。
個我からは、人生は何と苦難に満ちたものに映ることでしょう。(だからと言って、個我自体は否定さるべきものでないが)
生きることは苦しみの連続じゃありませんかi 一体何のために?
本当の私とは?、生きる意味とは?
この私からは答えは見つけられません。"生きるのに意味がない、苦しい、死にたい" だけが私でも人生でもないのです。
ただ、しばしば眠りから覚めた時にこう感じます。それはこのチッポケな自分からは出てこないものです。

"そうだったんだi" "生かされているだけで幸福なんだ、本当の自分が何かは分からないけど、それはすでにここに在る"
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神、真理は掴めない

2017-11-23 12:42:58 | 
今、天河の方(一度は行ってみたい)で大本の神、国常立之命がお出ましになるとか、なんとかで盛り上がっているようですが、かつて派手に、強固にノンデュアリティ説法を繰り拡げてしまった教師たちは、"究極的には真実は私も神も居ないんですけど、その顕れの次元としてはシカジカな次第でありまして"と、取り繕い説法に懸命な様子です。
先に非二元説法をワンサカ聞かされた方は、"今さら二元的神にお参りなんか、できっかよi"と不満を漏らすものも現れています。
一元とか二元とか、あたかもこちらに依拠する立場が決まっているかのような物言いです。
私のようなイイカゲンな人間には全くどうでもいいことに思えますが...
よくよく考えてみれば、神とか霊とか精神世界で語られるものなど、何も確証の得られない、掴みようのない事象ばかりです。
これらに纏わるものが何とこれまでトラワレの温床となってきたことでしょう。
神や真理らしき、何かこちらに掴めるものがあると思いこむようです。
それを掴んだと錯覚したところから、OOの教えとかメソッドとかの大風呂敷を広げ始めるのです。
肖りたいものは又それを掴むことに躍起になる...トラワレの連鎖反応...
自称正統派のドグマ、各種オカルト教説、陰謀論...肉食、糖質食、石鹸、メイド.イン.USA..."健康を害されますよー"と宣っている方がよっぽど神経症じみています。
消えてゆく姿のはずが、消えてゆかない妄念で頭は一杯...
私には健全な人間とは、そういうことに全く囚われていない、フツーに泣いたり、笑ったりして生きている人間だという、当たり前のことが最近よーく感じられてきました。
片寄った観念に囚われた人間は、当たり前の生き方が出来ない機能不全なのです。

ブッダは言いました。"この世に常なるもの、定まったものは無い"
イエスも又言った。"私自らは何も為し得ない、何も語り得ない。御心のままに為し、語るのである"
これら古聖たちの言葉こそ、今の精神世界の状況を黙示しているものと言えるでしょう。
こちら側から何か真理らしきものを掴む以前に、掴まえられてこそ明らかにされるものがあるのではないでしょうか?
一なる神だろうと、何神サマだろうと、言い表せないサムシングだろうと、そこに引き付けてやまないものがあるか、どうかということが肝心なことなのです。
このもの自体には何々教も一元も二元も無いのです。
このものにある時、自体何か帰属されるべき何ものもなく、自由自在でいられます。
覚者ぶって、究極の何かの教えを垂れる必要もなく、神社だろうと、モスクだろうとその原初的息吹が感じられれば、どこでも自由に行き来することが出来ます。
このものにあって、ある確信も生まれてくるでしょう。これを差し置いて何か思い描いた、厚かましい信仰、教説が主張される...こういうものが宗教、スピ界というものでしょうか?
このものに出くわすことをおいて、スピリチュアルなんてものは無いと言っていいでしょう。
今、精神世界、スピ的なものをめぐってその末期症状的なものと、原初的なものの示現との真っ二つの有り様が見せられているようです...。
マコトの神が顕れたなら、全てのなりすましの神は、黙るしかないだろう...
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コミットすること

2017-11-20 21:27:06 | 祈りと瞑想
私はいつもこうして書いていて、我ながら"何とも掴みどころのない、モヤモヤ雲みたいなことを書いているなあ..."と感じています。
私はここで話題にすることはあっても、例えば自分がノンデュアリティとも、クリスチャンとも、瞑想家とも、OO主義者とも、勿論悟った人間とも言ったことがありません。
死後の世界や前世やアセンションのようなことが、有るとも無いとも言ったことがありません。
言いたくなることといったら、それらに固着した決めつけた物言いに対してなのです。
どうにも違和感を覚えてなりませぬ。だって私は雲の世界から来ている?のですから...
"精神的な道にはこれといった教えや方法論というものがあるのだろうか?"
どうやら、そうした道に関わりを深めようとしてから、そういうものを掴ませてくれないものと関わっているようなのです。
精神的な道には何もしなくていい、ということは無い訳で、私の場合ハッキリとした形、やり方がある訳じゃないけど、強いて言い表せば"祈り"と言っていいものはあります。
これは自分の意志的行為によるにもあらず、全く他動的、受動的に強いられ、為されるまま、というにもあらず...この祈りというものを異なった切り口で、より能動的なものとして表せば、"コミットメント、コミットすること"と言ったらいいでしょうか?
私は一時、意味も分からず"神にコミットします"などと言っていたものです。
(これ自体、"意識的になること、意識を向ける"と言っていることをモ少し具体的に表現しているつもりです)
大体コミットって何だ?
"結果にコミットする"? "ホントに痩せられるのかi" 何て言ってたらコミット出来ません。
この文句、意味はよく分からないが、何となく伝わるものはあります。
ちなみにコミットには"関わる"とか"ゆだねる"という意味があるそうです。
そこから主体的に関わることと、身を預ける、そうさせられるものに乗っかる、というような響きが伝わってきます。
そこにはそうさせてくれるものへの、自己への信頼があるのです。
精神的な道で、私自らは克己的になるとか、心掛けを変えるとか、マイナス感情を手放す、といったことはよう出来そうにないし、そう赴くことはあまりありません。
しかし、そうさせようとするものにコミットすることは出来ます。
何が真実で何が虚偽であるかは、自分では分からないことが多いです。
しかし、そのことを明らかにしようとするものにコミットすることは出来ます。
コミットとは又、決心、決定するということでもあります。
こうしたことが、ある面とても主体的な関わりに踏み出すということでもあり、自己を超えたものにゆだねる、託することでもあるという由縁でしょう。
それは又、人が生きているということは、見える自分だけが生きているのではなく、自分をそう在らしめているもの共々が生きている、ということが示されているのでしょう。
このことが、見たままの、限界ある自己がただちに神になるとか、悟るものと思い上がり、混同してしまうことの抑制となるのです。
もし、そのまま限界を示されることなく、そのエゴ的衝動の為されるままに置かれるならば、その大本の自己から切り離されるに至ってしまうでしょう。
部分的なものが、より有機的全体的なものに取って代わってしまった時、自体成り立たなくなってしまうからです。
コミットすることにおいて、私は真我的私の本源、見えざる導き、有機的全体的なものと一連なりのものであることを覚えられるのです。

いつもより具体的なことを書こうとしたのですが...ヤッパリ雲を掴むような話だったかもしれない...
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