人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

戦慄のリターンマッチ

2015-09-29 19:50:46 | 回想
この九月に何かが起こる…ひょっとすると世界が終わる?…なんて話が以前から一部で囁かれていました。
昨日仕事から帰って、テレビつけたら、なにっ!日本の終わりだって!…
”ましゃ”かの結婚報道だったのですね…
当事者にはメデタイ話でも多くの女性たちにはとても悲劇だったようです。
それにしても今月は、芸能界でも世相でもイロイロありました。
ま、私的には「めざましアクア」のMアナの続投決定でメデタシ…(何も起きちゃいなかったんだ…)
されど、「王様のブランチ」の本仮Oさんの卒業が悲劇です!…(土曜の休みはどうすんだ…)

この一週間ボクシングの世界戦が二日ありました。
いやあ、山中は危なかったですね。挑戦者モレノは下馬評通りの強敵でした。何か波乱が起きる予感がしていましたが、何せ今月の事ですから…モロにカウンターを貰ってしまった時は、”来たかあ!”と思ったものです。
でもそれ以外では技術戦になっても相手に引けを取らなかったのはさすがです。
まあ、終盤モレノがクリンチに出たことで、少なくとも山中の負けは無くなったと確信しました…あれは接戦の場合王者がとる作戦なので。
井岡は全く危なげ無かったけど、も少し詰めていってもよかったかなと思いました。
それにしても両者ともディフェンス面でも超一流だという事を改めて感じました。
海外ではメイウエザーは引退してしまいましたが、最近の傾向は防御に長けたボクサーが目立ってきたようです。
”出る””引く”の攻防のバランスが要求されるということですね。

私が世界戦となると欠かさず見るように、ボクシングに興味を持ったキッカケになった試合は、昭和48年3月、ハワイで行われたジュニア・ライト(現スーパー・フェザー)級戦フィリピンの若き王者ベン・ビラフロアに柴田国明がフェザー級に続く二階級制覇に挑んだ試合でした。ビラフロアは今でも私はスラッガーといったら、この男をイメージするほど見るからにワイルドな風貌で、"ビュン”と風を切るようなフックは迫力満点です。
強打者同士の一戦でしたが、ダウンシーンは一度も無し。でも一進一退の攻防はスリリングでホントに手に汗を握って見入ってしまったものです。
私はブラウン管の前で何度も、”出るな!柴田!””そうだ!下がるんだ!”とオカシナ叱咤をしたものです。
”一発でもあのパンチを食ってみろ、大の字だゾ…”という事は容易に頭に思い描けるのです。というのも柴田は強打者でもあるけど、グラス・ジョーでも知られていたからです。
終盤、ビラフロアが勝負に出て、あわやという場面もありましたが、一瞬モーションの大きいワイルドな左フックを外し、間髪入れずにワンツーをたたき込んで、サッとステップして下がるというヒット・アンド・アウェイ戦法が功を奏し、柴田は僅差の判定勝ちを収めたのでした。実にセオリー通りの勝利です。
この歯車が狂うとどうなるか…半年後の同じハワイでの戦慄のリターンマッチが見事に証明してくれました。
開始間もなく、前王者はガンガン前に出て来ました。そしてなんと!これに押されじと迎え撃つ柴田…”こ、これは…ヤバイんでは…”
と思う間もなく、両者交錯したかと思いきや、そのまま柴田はリングで大の字になってしまったのです。
”だから言わんこっちゃない!”ビラフロアの戦慄ワンパンチKO勝ち。(実は彼の必殺ブローは見かけの大振りフックでなく、見えないようなショート・パンチなのでした。後に”沖縄の星”上原康恒、”和製クレイ”柏葉守人もこれにやられました。)
半年前、思い描いた負のシナリオを見たようでした。
試合後の柴田の”日本の皆さん!ハハハ…ボク失敗しちゃった…ゴメンナサイ…”との清々しいコメントは今でも思い出します。

”出るときは出て、引くときは引く”それはセオリー。でも出ちゃったんだからしょうがない…柴田はビラフロアの試合前から放っていた殺気に飲まれたのでしょう。フタをあけなきゃわからないというのも勝負事です。
見えないところでもイン、アウトは行われているようです。












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上よりの観照

2015-09-27 15:33:05 | 意識、照明
”自分を見つめる、見つめ直す”って言いますね。
客観的に自分を見つめるってことなんでしょうか?
ちなみに私は観照という語句を調べていたら、正しくそんな意味のことが書かれていました。
「主観を交えず、対象のありのままの姿を眺めること」
これに照らせば、これは自己観照ということですね。
私は真剣にそういう事を試みたことが無いのですが、そうすることで何か自分のことが分かってくるものなのでしょうか?
クリシュナムルティだったら、お手のものなのかも分かりませんね。
私はどうもそれをやろうとすると、次から次へと客観的にならないような思考が絶え間なく去来して、堂々巡りになってかえって自分が何なのか分からなくなってきそうです。(笑)
何で又この観照という言葉が気になりだしたかというと、先の公共的意味とは全く違う意味で、私の自己満足で勝手に誤用していたからです。(笑)
私のコトバンクに依れば、この観照は自分が自動詞にはなり得ません。つまり観照する、観照しよう、という風には使われないのです。
常に観照されるものなのです。何に?…分かりません。自分を超えた何か…上より来るもの、としか言いようが有りません。
つまり、それは私がいつも触れている、見えざる導き、声なき声、ジンジンしてくる感覚…と共にあるものなのです。
これは、何か自分を超えたあるものを自分でイメージし、観られているようにまたイメージする事とは全く違います。それは自分イメージする事ではないのです。
この何か大いなるものに観られている、光を照らされている感じ…これはどう言ったらいいのか? 
照明…イルミネーション…超越的な光などについては古来から所謂神秘主義哲学では語られてきた概念ですが、これが当てはまるのかどうかは分かりません。
とにかく、自分からそうしようとしてもそのようにはならない…自ずとそうなるのです。
そして照らされた私から何かが…ジンジンと呼び覚まされてきます。
あたかも雨上がりに太陽の光が差し込むと、濡れた大地から水蒸気が立ち上がってくるように…
そして自分というものは、それ自体ではいくら客観的に見つめようとしても、何かの断片、半端なもの…というより、どこまで眺め、捉えようとしても判然としないものだという事が知られてきます。
そしてまた限りある自分が限りある自分を見つめようとすることの無意味さも示され、自分は何かなどはどっちでもよくなって、これなくして、自分は寸時も生きられない、ということに覚めさせられてくるのです。
このお照らしは上よりの召喚と言ったらいいでしょうか。
私がどうしてこうなったかという事は、いつの間にかという事で分かりません。何かのメソッドに従ったわけでもありません。
(メソッドというのは別に有ってもいいのですが、ともすれば方法論に溺れてしまう事にもなり兼ねないものです。)
ただ祈り心地になっていたら、そうなっていたという事です。
祈りというのは下からの召喚でしょう。
やがて祈ろう、という事も無くなって、意識を上なるものに向けるだけでそうなってきます。
この”意識を向ける”という意味不明な言葉も今日限りで卒業になりそうです。
これはどう考えても自分が自動詞にはなり得ませんし…向いちゃう?…もともと上とつながっているからそうなるまでの話です。

国語はそのうち、変わらざるを得なくなるでしょう。これまでは自動詞で扱われる言葉ばかりでした。
今日もまたヘンな記事を書かされております。








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洗脳と全託

2015-09-26 16:46:42 | 求道、探究
宗教や精神的な道を求めている人というのは、どこかこの世の常識とか現実世界というものに、シックリ来ないものを感じている人が多いのではないかと思います。
そしてその道を歩み、深めていく過程ではそれぞれの宿縁次第によっては、それまで”これが自分だ”と思っていたものの明け渡し、全託というものに導かれることも有ります。
こういうことは、自分の思われた通りの人生や、この現実世界を生きる事になんの疑問も問題も持たない人には、おそらく縁も所縁も無く、又そのようなヘンなことに足を踏み入れてしまうことなど、実にあやういこととして、まず望みもしないだろうと思われます。
そういう人にとっては全託の道は禁断の領域と言えるでしょう。
自分の考え、自分の力だけで上手くやったらいいのです。(もうダメだと思ったら運の尽きです)
まあ、どう生きようと人の勝手、それも人生、これも人生です。ただ後者の場合人生の裏側の扉が実感として、開く機会は無いかも知れません。
もっとも、人がどう思っていようとそれはどの人にもあるのは間違いのないことなのですが…そうでなければ、あなたの心拍は即停止するかも知れない…
私は、この全託ということ、(お手上げ、降参、表現は様々ですが)には、ある種の危うさ、怪しさが付きまとう事もよく分かります。
私などのように”見えざる導師”だの得体の知れないものに、自分を明け渡して大丈夫か?と思われる方もいるかも知れません。
でも、本当に危険、怪しく感じてしまうのは見える導師が介入している場合ではないでしょうか?
ラマナ・マハルシはじめインドの系の導師などはよく”導師は準備の出来た人間に自ずと現れる”と言ってますが、実際のところ果たしてその導師は本物か否かという問題はどうしてもあります。
オウムの事件はなお記憶に新しいですが、今も数多存在する自称覚者、導師の周囲には洗脳というものがどうしても付きまといます。
私は以前、ある人から能力開発セミナーの誘いを受けた事が有ります。
私はこれまで見えざる導師にしか心を許したことが無く、その他の見える人間の誘導には悉く用心深く接し、引っかかることが無い(それ自体が実は見えざる導師の導きなのかも知れません)のですが、一週間ぐらいして、その人に会ったらすっかり人格が変わってしまったのに驚いた事が有ります。
目が何だかトロンとして、ホントに悲しくなりました。
洗脳で絶対的に物を言うのは、言葉です。書かれたものにせよ、語られたものにせよ、何らかの言葉による誘導が有るのは間違いありません。
そしてその言葉に込められた強い観念が、それを受ける側の精神に植えつけられるのです。
これは疑似全託と言ってもいいでしょうか? 
ネット上でも飛び交っている何かを煽るような扇動する言説というのは要注意です。
人は自分の自由意志で勝手に好きなことして生きているのです。
洗脳されないためには、この自由意志、主体性に委ねることが重要です。
もっとも自分だけの考え、力にそれを求めても見つからないかも知れません。
でも誰でも、そのよって来たる出どころは分からなくても、知らず知らずそういうものに依拠し、導かれて生きて来たのではないですか。
私はそういうものを強烈に実感した事が有ります。
逆説的ですが、それは自分を超えたものに捉えられて、自分がそれまで思っていた自由意志、主体性が奪われてしまった時です。
そしてその時、いかに自分が思考によって雁字搦めにされていたかが分かったのです。
真の自由意志、主体性というのは、見たままの、思われたままの自分には根拠は無いでしょう。
全託、降参という事態は部分的な自分の、全体的な自分へ託すということで、自称グルーなどの出る幕は無いのです。
(もっとも、あなたのすぐ近くにどおってことないパイプ役の人は居るかも知れません。
いや、それは一匹の野良猫かも知れない。明け渡しの媒体はどこに潜んでいるか分からないのです。)
何かと介入しようとか、扇動しようとかといったアカの他人の意志で無しに、本当に自分自身から出て、自分とは別人になる訳じゃなく、自分自身に帰る事なのです。
それは他の何物にも依るのでも無く、チッポケな自分と大いなる自分の自由な意志に依るのです…。









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かりのもの

2015-09-23 17:30:13 | 雑感
「本当の自分探し」と言われ出して久しいですね。
”本当の自分て何だか分かんないんだ”てことですよね。
この言葉の奇妙さを心底感じている方なら、少なくとも自分ていうのは思われたものじゃない、という事が理解できると思います。
全くもって自分自身のことなのに、生きる上で真っ先に分かってないとならないことのはずなのに、分からないで済むことなの?
これで人生も世の中のことも上手く回っていけるの?
じゃ、この自分のフリしてここに居座ってる生き物は一体何なの?
そして人類というその集合っていうのは?
パラサイトってありますね…私は憑依霊だの浮遊霊だのって話マトモにはしませんけど、あれは何かの引き寄せの法則?が働いて我々の思念に憑りついているらしい別の思念体ではないかと思っています。
もし、本当の自分という当体が有るとしたら、もしかして我々はそれに寄生しているパラサイトってことも考えられませんか?
人が死ぬって事は、もしかしてその当体がお祓いかなにかした結果だったりして…

人生のことも世界のこともどうやら当体も、主体も無いアヤフヤなもののようですね。
船頭さん不在のまま航海をやってるらしいですよ。(ドーナルのよ!)
でもみんなそんな何の役にも立ちそうにないこと考えなくても、どうにかやって行けてますね…不思議ですね…
多分意識のどっかに本当の当体、主体が有るらしいことが伝達されているんでしょうね。
これはしかし、その実体は何かと探ろうにも分かりっこないですね。
”真我に目覚めた…”という人はアチコチ居ます。その人たちは真我という実体を知ってるんですかね?
私は勿論知りませんよ…ただ自分ていうのは思われたものでないことは何となく分かりますよ…というかそう言っておかないとこのブログが立ち行かなくなる?…
”それはねー、ブッディ体って言う高次元の実体なんだ…”なんて…知るか!んなもん! それならアンタがそれを見たって証拠は?
もう、これは万のことは、どんなに真実っぽいこと言っても、仮のものばかりだってことなんでしょう…
仮って事だけど、我々の肉体も心も借りのものってことなんでしょう。
近頃では”私はいない”とか”世界は幻想”とか決めつけたこと言う人がいるけど、”本当の自分は、世界はこうなんだ!”という決めつけと同様何でそう言えるんでしょう…
神がかりですか? パラサイトがかりですか? (ちなみに言葉をしゃべる犬とか猫は”人がかり”という説が有ります。)
そういう話聞かされている方は借り物の話聞かされているばかりです。
そうでなかったら人類全て真実に目覚めて、万事一件落着です。
でもますます、自分のことも世の中も天候もオカシクなる一方みたいですよ…
待てよ…何でオカシイと感じるんだろ? これオカシクない?
これって、みんなオカシクない、マットウなことが何か分かってるって事じゃないんですか?
これも意識のどっかでどこからか伝達されてんのかしら…
いよいよオカシクなってきたら…マットウなことも分かってくるんでしょうかね?

相も変わらず、オカシナこと書いてます。失礼しました。




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汝の主を愛せよ!

2015-09-22 10:43:45 | 
私はオフクロの薫陶もあってか、物心ついた時から信仰的な人間だったと思います。
過剰なほどの自意識が芽生え始めた頃から、離れしていた時期がしばらく続いたものの、オフクロは私が一生神から離れられない人間であるのを見抜いていたと思います。
精神的な道を求め、歩む上において重要なことで、昔から当たり前のように言われてきた、こうした言葉ほどシンプル、的確なものは無いと思います。
それは”汝の主を愛せよ!”というものです。こう言ったからといって、勿論何も皆ユダヤ、キリスト教になる必要はありません。
どういう神でも、仏でもサムシング・グレートでもいいでしょう。あなたが考える最善なる何かです。
それはあなたを超えたものであり、あなたの命の親であり、あなた自身の源…真の主体…すなわち汝の主なるものです。
”そういう事だったら、どこの宗教でも言ってるし、祈ったりしてやってることでショ?”という人が居たら、それは全くの見当はずれです!
ほとんどの宗教というのは不信仰者の集まりなのです。
彼らが信じているのは汝の主なんかではありません。
誰かエライ人が言った言葉を、神の言葉のつもりで信じ込んでいるのです。
そしてまたエライ人が勝手に決めたことを、正しいものと信じてやり続けているのです。
それは形を変えた、信仰についてはあまり語らないスピ系のグループでも同じことです。
汝の主が顕れ出ようとしているのに、その前にしゃしゃり出ようとする、神に代わって物申すという、思い上がったただの人間は偶像に過ぎないのです。
これは現在、何らかの宗教、グループに関わっていようといまいと、こうしたものを突き抜ける心の姿勢が大切ですね。
実際のところ、周りが不信仰、偶像崇拝ばかりだと、かなり忍耐も必要かもわかりません。

人間は”オギャー”とこの世に生れ落ち、泣きながら何かに取りすがろうとしますね。
何かと切り離されては生きていけないかのように…そしてそれを見出した時、安心してスヤスヤ眠ります。
肉の親を見出した時、そこに別の命の親の代替えを見出すのでしょう。
そしてそれから物心がつき、二元に生きる私たちが大好きなそれぞれのストーリーが始まる訳ですね。
やがてそこから問題、苦悩を背負ってしまうようになり、何かを思い出したかのように道を求め、信仰に目覚めます。
でも、如何せんこの二元世界にトップリ浸かった我々は、切り離された断片、部分品、不完全なものでしかありません。
この限定された所与のものから、問題を解決しようとしたり、安心を得ようとしたり、中には悟りを得ようとさえ思う者も出て来ます。
しかし、その根本的な土台からしてアヤフヤでズレているのです。半端なものには、足らないものを満たすものが必要なのです。
でも、我々自らが”半端ものだったんだ…”という自覚、認識が無ければ、ずっとこの事に気づけません。
悟りというものを、この自覚無しにそれ自体が一人歩きした時、おそらくそれは魔境的なものとならざるを得ないでしょう。
何故ならば、それは神と共にあるという事だから…逆に言えば、神と共にあれば、それを求める必要も無いのです。
だから…汝の主を愛することが始まりなのではないでしょうか?
本当はそれに先立って汝の主が我を愛し続けているのです。と言うより、”主は愛なり”なのですが…
神、信仰…などと言うと、拒絶反応を示す人の気持ちもよく分かります。
それくらい、宗教というものは不信仰、偶像崇拝というものを撒き散らし続けてきた歴史があるのですから…
でも、今苦難を抱えておられる人がおられたら、ただこのどうしようもない二元世界の現実を認め、プライドなんか捨てて赤ちゃんのようにあなたが考える最善の何ものかに取りすがったらいいと思います。
私はその瞬間風穴から味わったことの無いような空気が心身に浸透し出したのを知っています。
そして主を見出した時など、泣きじゃくって、みっともない、赤ちゃんになってしまうのです。
ハア…”人新たに生まれずば、神の国を見るあたわず”ですか…私はクリスチャンじゃないですよ…。




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