人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、真我しか無い

2024-11-30 09:35:33 | スピリチュアル
私が初めて人生の裏側へと踏み込んでしまった時のこと、今でもアリアリと覚えています。
特にその直前のことは、思考がまだ働いている状態だったので”普通に”記憶もされているのです。
その思考もかなり後退していて、普通に能動的に頭を働かせることは困難で、風然の灯火という感じだったのです。
”神的なものが臨んだかと思ったら、それが私の内奥に迫って来る、意識に浸透して来るではないか!”
それがどういうことを意味しているかは、何となく直観で分かるのです。
”これが、本でしか読んだことが無い、あの宗教的回心、精神的目覚めに与ることなのか?...しかし、おかしいではないか!、何でこの凡夫の罪深い、ロクにそういう修行もしてない、カルマの清算もしてない、私にそういうことが起こるのだろうか?”、とこういう疑問がもたげて来たのです。
だけど、そういう薄くなった私の思いとは別に、意識の方がそれに向かってしまうのです。これは私の意志想念では止められず、もうどうにもなりません。それを受け入れるしかないのです。
何がそうさせるのか?、それが直観で分かることなのです。
”この扉の向こうには、信じられないような、愛、平安、リアリティがある!”
そうして、強烈な精神的嵐みたいなものに見舞われて、裏側へと踏み入れてしまったという訳です。
そうなると、もうすっかり思考機能はマヒしてしまい、もはや意識的に感じるだけです。暑いとか冷たいか、そう、思考が働かないということは感じられるのです。
そして、ついさっきまで思っていた、私の罪のことや、カルマのこと、それに与るのに私は値しない、といったことなどはすべて消えてしまったのです!
ただ、”私はこのものにあって、ここに在る”、と意識されているだけなのです。
その私は、正しいも悪いも、優れているも劣っているも無い、ダメもクソも無いのですよ!
そういうものは、すべて考える私が考えていたこと、世の中が私をどう見ているか、人の目に映っているだろう、という私のことだったのです。
こういう思いからすべて解放されてしまったのです!
どうか、このことを自分自身に置き換えて、よ~く考え、感じてみて下さい。
これは、私には悟りだ、なんだと言うよりは、救いでなくてなんであろう!
常人よりうんと進んだ悟りの境地、完全覚醒に至ろう、なんて言うのはエゴ.マインドに囚われているのであり、むしろ、常人より迷った境地に居るのであって、ちっとも救われてなどいないのですよ! 
だから、私は悟ったのです!...いや、そおじゃあない!
悟りもヘチマもない!...ありのままの自分に在らしめられただけです。
そこに何の色も付け足しもない自分。これをある意味で”真我”と言ってもバチは当たらないだろう!
といって、それは言うまでもなく、凡夫の私が真我になった、そういう境地に到達したということじゃないですよ!
これは、神のみ前にある、その光に照らされたままの自分が、本当も偽りも無い真我だということなのです。
そこには、五井先生も言ったように、神と真我しか無い!、あとは消えてゆく姿と言ってもいいのです。
だからといって、そういう状態がずっと続いていた訳じゃない、そうは問屋は下ろさないようで...数日して、そういう状態は元の黙阿弥になってしまいました。
しかし...だからだからといって、それは表層部分のことであり、消えてしまった訳ではなく、地下水のように、私の奥の方で息づいているのです。
現にこうして、アリアリと言い表すことが出来る。記憶を辿って。いいやそれだけじゃない!
これがずっと息づいていることを物語っているんだ!
上記したことを、新鮮な水がコンコンと溢れ出て来るように、ヒシヒシと感じて書いているのですから!
霊性の道にあって、理性のギリギリの状態で言えることはこれしか無いでしょう。
”神と真我しか無い!”



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神無しにはすべてが空しい

2024-11-28 09:26:52 | 
度々言っていることですが、これは、私が霊性の道において根本的なものとして感じていることです。
その道では、”思いを超えることが重要なんだ”、とシツコク言っている訳ですが...いや、そのこと自体が重要って訳じゃないですよ!...大体、そうなろうたってそうならないじゃないですか?!
その他、欲望を捨てなければならないとか...そうそう悟らなければ、覚醒しなければならない、そのためには呼吸を整える、チャクラを開く、クンダリーニを上げる、霊界の何次元レベルとか幾段階を経なければならない、全託の境地に達しなければならない...
悟り、覚醒、全託...境地に達する?
これ、すべてその思いを超えたもの、神無しには語り得ないし、そうそうことも起こり得ないことじゃないですか?
信仰や修行に熱心に励んでいる人たち、何でこんな根本的なことが分からないのだろうか?
これを欠いてしまえば、信仰のための信仰、修行のための修行に終わるだけ...全くオツカレさんなことではありませんか?
空の境地なら誰でもすぐなれますよ。つまりは、”すべては空しい”ではないか!
”私はここに在る”ことたらしめる、在らしめるものを超えて、一体我々は何を知り、何を為し得るというのでしょうか?...
かくして自我心、思考マインドだけが一人歩きし始める...だから、自我を無くさなければならない!...いやだから、そおじゃないっての!
全託ということを考えてみましょう。といっても我々は、そのことを思い描くことは出来るのでしょうが、これは全然我々が思ったり、為したりするものでないのは言うまでもありません。
これほど、神的なもの無しには起こり得ないことを物語るものはありません!
五井先生は言いました。”神しか無いのです。あとは消えてゆく姿です”
そういう状況(我々が達することじゃない!)になれば、真実にそう言えるでしょう。神無しにはすべてが空しいのです!
悟り、覚醒...そこには言葉に表せない、愛、平安、リアリティがある...だが、神無しにはそれはあり得いし、それは一時の単なるぶっ飛んだ体験というものだけとなり、覚醒剤服用によるトリップ体験と変わりのないものとなるでしょう。そしてそれは、表れたら消えてゆくものです。
人生の頂点に達したように感じるだけに、空しいじゃありませんか?
それに与るために人生はあるのか?...いやそうじゃないだろう!
神無しには、そういう人生も、あなた自身も無いのだから!
だから...”私はここに在る”、”神にあって”
どうしたって我々は神を超えることは出来ない!
”神を超える”、などと宣っている人間は、自分が何を言っているのかまるで分かっていない、狂った人間なのです。それにおツイショウしているだけの人間は、それ以下の金魚のフンだろう!
こんな人間は、生まれて来るのが間違っているのでしょう!
しかし...それもぐるぐる同じところを回り続ける、思い、観念の世界で夢想しているだけのことです。
どうしたって神を超えることは出来ない!
そこに、無限の許しがあるのでしょう。
そうでなければ...すべてが空しい!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実体信仰の甘い妄想

2024-11-26 09:24:25 | 哲学・思想
あの反面教師の画伯の言葉に接して、いよいよ倒錯した観念にトラワレた人間の末期症状を見る思いにさせられます。
何でも、覚醒の道を進むことにより、神の世界を超えた、実存の境地に到達して、その又奥には真我の境地があるのだそうです。中身の無い言葉を並べて、弄んでいるだけです。
実存という言葉に馴染みのある人がこれを読めば、笑止に堪えなくなることでしょう。
この御仁、そういうことを説いている”宇宙全○”の教師の教えを鵜呑みにしているのでしょうが、それがどういうシロモノかはすぐ分かるではないか!...他人におツイショウするしかノウの無いこの御仁、一度でも自分自身で実存、真我について考えたことがあるのだろうか?...そうでなければまるっきりそういうことには縁が無いということ...勿論、そこに覚醒の道など永久に開かれる訳が無いのです!
この御仁、半世紀近くも五井先生を信奉していて、祈りのことも、消えてゆく姿、全託のことも何一つ身につかず、理解していなかった、ということなのでしょうか?
もう、”完全覚醒を目指す”などと非現実的な空想、妄想に耽っている場合じゃない、一刻も早くその狂相の世界から抜け出すことですよ!...自分からは不可能なら祈らなければなりません。そう、神に!...守護霊、守護神、五井先生でもいいでしょう。
神を超えた実存?...何という思い上がりであろう!...私がいつもこうして、こっぴどい言葉を浴びせるのは、この御仁、どうしようもない無知である上に、度し難い増上慢に陥っているからですよ!

実存という言葉は、哲学に関心の無い人には馴染みが無いでしょうが、自覚あるなしに関わらず、実存にあって生きてない人など狂人でない限り一人も居ないはずです。
つまり”私はここに在る”、ということを意識出来ない人は居ないということです。
もっとも、”実存とは何ぞや?”と哲学的に意味を問い続けていてもそれが解明される訳ではありません。
ということは、それを対象化している限り、実存的な在り様にはならないということ、換言すれば、実存という実体としては捉えられないということなのです。そういう実体信仰から様々な空想、妄想が生まれるのです。
真我ということも同じ意味合いで理解されるものでしょう。
そういうことは、そのようにいくら考えを重ねても分からないものです。しかし、それは先見に囚われず、自分で主体的に考えるという心的態度から開かれると言ってもいいでしょう。
そうして、自分の思考の及ばない、限界点という壁にブチ辺り、そこに初めてそれを超えたものがある、ということに気付かされるのです。
そういうことが最初から分かっているような人は、より直接的、直観的に参入出来る訳ですが...
いずれにしても、実存、真我に目覚めることは、自分を超えたもの無しには開かれないということは分かるでしょう。そのものを私は仮に神、神的なものと呼んでいるのです。
実存、真我というものがそうであるように、本当は神も自分と切り離して対象化することは出来ないのですが、考えている人間自らは、そういう根源的な状態に帰ることは出来ないから祈りとかある種の瞑想というものがあるのでしょう。(真摯に求めている方なら説明は要りませんね?)

返す返すも、神を超えた何かの境地のことなど夢想している人間は、さっさと勝手に消えてゆく姿になって、宇宙のチリになってしまうがいい!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先入観に囚われるな!

2024-11-24 08:58:26 | 求道、探究
例の反面教師の画伯は、又々”完全覚醒は、六次元の神とつながることだ...”なんて、自分がそんな境地に達した訳でもないのに、他人の言葉を真に受けて、分かったようなことをブログで書いておりました。
何が完全だろうと、何次元の神だろうと、そんなのは先入、固定観念に過ぎないのです。この御仁、半世紀近くも信仰、修行生活をし続けていて、ずっと観念のお遊戯から抜けられないようです。
覚醒の道の入り口にも立つことも出来ないのに、何でそんな思い上がったことを吐けるのでしょうか?...その入り口とは、その道が神と一つになることと言うのなら、人伝でない、神から直接的に頂くということ、つまりあらゆる先入、固定観念から離れることに他なりません。
この御仁は、自分の思考マインドで思い描いた世界と、それを超えた神的なものから来る世界の区別がつかず、それは一度も神からの脳天への一撃を受けたことが無い、ということを意味しているのです。
この他、悟りに至るには、エーテル界、アストラル界なと、種々の段階を経なければならない、というのも人伝の知識であり、そういう観念に囚われる元となるだけでしょう。
真摯に霊性の道、神に向き合う気の無い人間の言葉など、雑音にしかならないと言う他ありません。
宗教、霊性の道をダメにするのは、いつでもかかる他人の言葉に群がる”信者”ども、そしてその他大勢を支配したがるエセ教師どもの共依存なのです。
真摯に道を求めているなら、それが深くなるにつれて、自分自身の内奥が開かれ、同時にそう在らしめるもの、思いを超えたものが、そこに浸透してゆくのが等しく感じられて来るでしょう。
そうなると、他人のまことしやかな言説などに現を抜かしていることなど出来なくなるのがホントなのです。
そこには神とあなた自身しか無いのです!
もっとも、これも私の言い方にすぎず、これに囚われる必要は全くありませんが、大事なニュアンスは伝わるでしょうか?
それでも敢えて確言をブチかまそう!

”あなたのすべてのことは、あなたの主なるものにゆだねよ!”

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の感応哲学

2024-11-23 09:47:59 | 哲学・思想
ここ数年、私は自分の本来性というものを意識するだけで、言い知れぬ安らぎを覚えるようになりました。
本来性とは、自然であり無理の無い在り方であり、”それに到達した”、とか”そんな境地になった”とかいう言い方は不適切、ということが分かるでしょう。
”かつての私は、不自然な生き方をしていたが、今はそのように変わるようになった”、という言い方もなんかヘンですねえ...
かつての不自然な私でも、そのブ厚い外装を脱げば本来の私で在り得たのです。
”本来の私に戻る、帰る”という言い方は出来るでしょう。そうなるには、何の努力も必要が無いはずなのです。
私はね、自分で言うのもおかしいですが、本来とても感性が豊かな人間なんですよ。
それがかつての私は、そのまんまに生きるのは、人に弱みを見せることのように思い、それを覆い隠して生きていたのです。今思うとチャンチャラおかしいことなんですが...
それで、人前ではなんか難しいことをいつも考えているような、知的な人間であるように装っていたのです。能面みたいな顔してね。いつも頬の辺りが不自然に引きつっているような感じがしたものです(笑)
論理的に考えることがエライような気がして、そう考えようとするのですが、オツムの構造が元来そのように出来ていないのだから無理なんですよ。
高校の時、授業でこれまで読んで印象に残っている本の読書感想文を書け、ということになったのですが、今じゃ考えられないことですが、それまでろくすっぽ一冊の本も読んだことない上に、気の利いた、難しいことを書かなきゃ、って意識が働いて、ついに白紙で提出したことを覚えています。感想文なんだから、感じたことを書きゃあいいのに!...今ならスラスラと言葉が湧き出るに任せていくらでも書けますよ!
マトモに読んだ本が無かったらマンガについて書きます。「鉄腕アトム」とか感激して読みました。ホントなんだからしょうがない!
”あの時の私はいつも迷っていた、頭の中がモヤモヤしていた、苦しかった!...
ものが本当に分かるとはどういうことなんだろう、それとも分からなくてもいいことがホントなのだろうか?
ああ、読んだり聞いたりするんじゃなくて、マンガの主人公のように直接、ものにブチ当たって生きてみたい!(ほお、結構、哲学してるじゃん!)...”
私は今、こう書いてみて、なんだか魂が震えて来てたまらない感じを覚えます。
思いを超えたものにアクセスしているようです。そこに震源地がある!、惹かれてやまないものがある!
思いを超えるということは、真向かいに自分自身に会うことなんだ!
こういうことは、多く宗教書よりもベルジャーエフとかの哲学書から学んだのです。
というよりも、それに”感応した”と言った方が近いでしょう。
そこに哲学的論理性など求められないのは、皮肉かもしれませんが!...
かつては上手く”着地”が出来なかったですが、なんか知的っぽいところもただの偽装では片付けられない私の本来性を成しているものではあるようです。
知性というものは、本来感性と一つのものなので、それと結び付かなければ着地出来ないものでしょう。
哲学的論理は元より破綻しているのですが、知的直観によって私の実存はところを得たと言ってもいいでしょう。
私の実存?...それは私には何かは分からない。私を超えたものに感応して分かるもの...いや分からなくてもいい!、感じていたらいい!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする