人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

表と裏の接点

2017-04-29 10:41:56 | 現臨、ハタラキ
ゴールデンウイークに突入しました。
私は早速あっちに参入…。
ああ…もう今朝からのこのジンジン…これをどう言い表したらいいのでしょうか…これなくしてこのブログそのものは成立しません。
これはまさに人生の裏側との接点になるものなのですから…
何回も書いてますが、特別なやり方があるわけじゃありません。何もしないと言えば何もしません。
意識を向けるというか、意識する…意識しちゃうのです! 私が一体何をしたか!
どういう事を意識するか…それは決まってません。こないだ新たなアクセス・ポイントが見つかりました。(こういう言い方はホントはオカシイ…パッと意識されるだけなんですから…)それは”耳鳴り”です。
これは私が”身に覚える”と言っているものに含まれている…それが伴ってあるからです。
伴ってあるものすべてからアクセス出来ます。この秘伝、堂々と皆伝しているのですが、伝わる? 伝わらない?
純粋に感覚的な事ですからね。言葉にどうしても置き換えられないだけなのです。
ラティハンとか整体運動とかやっている人、あるいはサマーディとか覚醒に預かった人なら分かるでしょう。
内的感覚、ヴァイブレーション…身に覚えあるでしょ?
だから特別なやり方無しでいつでも、どこでもオンになり、始められるのです。
身に覚えるというのは心の記憶ではありません。精神誘導とか暗示とも全く違う、あれは精神を意念で用いているのです。
ずっと内部で息づいているものがパッと意識されてパッと”おおっ…”となるまでです。
こういう風になるには、一度この”おおっ”というのを実感されることが不可欠です。
といっても、それは修行などで開発したり、そういうレベルに到達するようなものじゃありません。元々我々にあるものが発現されるまでです。
行為とか思考とか後天的な事を超えた無為的なハタラキに預かるということです。
ほとんど我々が意識せずに日常的にやらされている、アクビとか寝がえりとかはその表れの一つなのですが、それが心身、全身全霊的なものに及ぶものであれば、どうしたって意識に刻印され、後は時空を超えたファイルにメモリーされ、いつでもオンになる次第なのです。
私の場合、あることから必死の想いで祈りをさせられているうちに、意識が飛びそうになってしまったのが発端で、そこで思考機能がマヒしたのですが、やがてそこに平安をもたらすハタラキが見えざる導きと共に実感された事を覚えているのです。
祈りというのは、最初は人為的なものであっても、意識が自分を超えた神的なものに向けられ、いつのまにか祈りをする自分が消えて、祈らされるという感じになったりします。
私はそこに浄土系仏教で言われる本願というものを感じずに居れません。
祈ろうと思い立つという事自体からして、そういうものに促されているのではないでしょうか?
やろうとしている自己以前にそう呼び覚ましているものがある。
人は祈ったり、瞑想したりして自己の本源につながろうとします。だが、この本願的なものこそが、”つながってくれい”と願っているのではないですか
人為的なもの、表側世界は無為的なもの、裏側の世界には無自覚なままです。
だが表のことは、裏にあるものによってことごとく覚えられているのです。
これを今、ジンジン、ビンビンと感じ入っている次第なのです。
身に覚えていることは、まさにこの接点にある所以でしょう。




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耳鳴りのこと

2017-04-27 18:06:09 | 雑感
私には昔から当たり前すぎて、人にほとんど言ったことのない事がいくつかあります。
例えば耳鳴りとか…
こんなものヘンな事でもなんでも無くて、誰だってあるもんでしょ?…違うの?
もしかして私だけ?…
ちなみに仕事仲間に訊いたら、「それは”メニエール病”の兆候だ」と言います。何だか知らんが、”目に見えーる”などお呼びではないだろう…耳の話をしているっつーのに…
これだから常識人はイヤになります。何でもないことを病気にするんです。
それが兆候ならもう重症もいいところです。物心ついた時から私には当たり前のことなんですから…
世の中にあんな当たり前のことが気になって眠れない人も居るらしい…そんなにオカシイ人になりたいんでしょうか?…これであなたはもう、不眠症、自律神経失調症そして統合失調症だ…医者はウハウハでしょうね(原因不明なんだからずっと要治療)。
常識人は、ま、置いとくとして非常識?なスピ系の人には常識ですよね。これには”キーン、キーン”系と”ブーン、ブーン”系とに大別されるくらいのことは…ハア…霊がどうの、こうのってか!
だから非常識人は困るんです。もう…お祓いだ、”ひーりんぐ”だ、とスピ屋はウハウハだろう…これはね、そういう事が起きているだけなんです。
私だけの?公平なる常識によれば、この”キーン”を仮に高周波と言い、確かある瞑想の先生もそう言っていましたが、意識と絶大なる関係が有るのです。
通常より意識が研ぎ澄まされている場合が多く、あの”ジンジン”感覚とも密接なつながりが有ります。(比例するようです)
前から書こうと思っていたのですが、これが最近(二年くらい前から?)顕著に強くなってきたように感じているんです。(私だけか?…当たり前過ぎて、敢えて書かなかっただけです)
一方”ブーン”というのは低周波であり、文字通り、低周波振動と相通じる感じのものです。
こっちは”医者はお呼びでない”とも言えず、風邪とか病気の兆候と関係もありそうです。前者と対照的に意識は鈍重になっている場合が多いです。
しかし、体は不調でも、意識が鮮明な時でもこういう場合もあり、一概に言えません。
ほっといたら治るのが普通ですが、気になったら医者にかかったらいいでしょう。
ところで…今、気が付いたのですが、”キーン”について書いていると実際に”キーン”というのが始まり、”ブーン”についても同様の事が始まるってのは一体、どういう訳でしょう。
”ブーン”の場合は、意識が鈍ってんだ!…と決めつけようとしたら、”違うよ!”とばかりに両方混じったような強いのが始まったりして…(私だけか?)
そこで又、超常識な事を一つ…耳鳴りって普通に言うけど…これって耳から聞こえまっか?
私にはそうは聞こえないんですがねえ…(私だけか?)
頭の真ん中くらいから聞こえてこないですかねえ…
如何に医者はもっともらしいことを言ってても、原因もその状態(彼らは症状と言う)も分からないんです。
私的には内的感覚、ヴァイブレーションと言っているものと関係があると思います。つまりは意識です。この意識のことといいまだ解明されてないことが沢山あるのです。
医学の何でも病の常識でも、スピ屋の何でも霊の非常識でも決めつけてはいけません。
私にはどちらもお呼びでは無い!…見えざる導師を呼びます…ジン、ジン…。(私だけか?)






















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思いを超えた導き

2017-04-26 10:48:31 | ガイダンス
ある時、スブドの私が所属していた支部のヘルパー(同会の役職の一つで、主として霊的方面の事柄に携わる。リーダーではない)からこのような意味深な事を言われたことがあります。
「あなたはとてもガードが強い…」
これは私がスブドに疑念がもたげてきて、警戒心を強くしていた事に対する発言だったのか、それとも”見えざるガード”のことを言っていたのか、敢えて突っ込んで聞きませんでしたが、多分両方の意味だったのでしょう。
私は、集団的エクスタシーとか、憑霊的な事が懸念されるような集会に参じていても、その波のようなエネルギーに心身が飲まれてしまうようなことはほとんどありませんでした。
”見えざる導師〝の許可?無しによそから霊的なものが侵入したり、それに任せてしまう事は無かったのです。とは言っても”発動”する時はします。しかし身に覚えている限り”自発動”に限られていました。
というよりそういうものなんでしょ?この発動というものは…(これはあくまで自分の感じを言っているまでで、実際はどうなっているのか確かめたことも無く分からないことですが…)
他霊の意のままなんてのはオカシイし、アブナイでしょう。だからこそ見えざるガイダンスが必要なんです!
そして信じられているようなどっかの神サマとかが降りてきたり、憑ったりするんじゃない…リアルに実存するものが臨在する以外の何ものでも無いでしょう。この現臨によって、ここから離れることから守られるのです。
そして、守護霊とか言われてはいても、真実の自己と切り離されたものではないのです。
又、D会のM女史からはよく「あなたはいつも守られているのね…」と言われ、ある時など「それをじいっと聞こうとしているあなたが居る…そのお示しがあれば、全く他の声など聞かないで、テコでも譲らないようね!」などと言われたことがあります。
”見えざる導師!”…私がこういうものを知覚し始めた、昭和53年からの二年くらいの間のことは、何十年も経過したように感じられます。
当時私の周囲には、何かが見えたとか、異次元に移行したとか、オカルト指向の人たちが随分居ました。
”彼らが言っているのは、思い描くことが出来る、所詮この世の延長に過ぎない…一風変わった景色を眺めているに過ぎないのだ! 彼ら自体はどうなっているのか、聞いている私自体はどうなのか!…そこに本当に私が求めているものがあるのだろうか!”
このようなことを私はこの耳で声を聞くように聞いた訳ではありません。
内側で強く意識させられたのです。そして希求が起こってきます”このままではたまらない!自分自身に直接触れられる神、真実が欲しい!”…すると、すぐそれに呼応するようなものが与えられるのです。
それが書物を通してのものであっても、ジッとして居れないように魂に衝迫してくるのを覚えました。
今から考えると、特別な方法といったもの無しに、既にその片鱗に触れていたのを感じずに居れません。特別な事はしていませんでしたが、ただ意識的になっていたという事は言えます。意識が自ずと向かわせられるのです。
”そこに魂の平安というものがある”と感じられるからです。
この時分こうしたことが相次いでありましたが、深く考えた訳でも無くどうしてそういう風に感じられるのかが分かりません。
数年後、突如こういうことが私から離れてしまったように感じた時初めて”如何に私は導きというものを受けていたのか”ということを如実に分からされました。
私は何かをやろうとしたんじゃない、祈り心というものがあったのは確かですが、自ずとそうなったのです。
そしてここ最近、朝の目覚めの時など一際ジンジンと愛、ヴァイブレーションに包まれるのを強く感じています。

あの初めの愛のことも今によみがえる…ゆくところも知らずしてただ内なる導きに聞き、従っていた…若い情熱は失ったかもしれないが、当時は気付かなかった理解が与えられる…ただ、この感じ、この平安は全く同じもの
時間も思いを超えて…





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スブド❽ー忘れ得ぬ人たちー

2017-04-23 17:20:44 | 秘教、その他団体
平成2年頃でしたか、スブドの全国大会の折、混乱に陥った会員を優しくなだめ、鎮めていた人が居ました。
何か癒しに満ちた波動が傍らに居た私にも伝わってきました。
この人からはある面で私も助けられたことがあります。別の全国大会の時、何人かの前で、彼がスブドのラティハンについて…
「ラティハンにはどちらが上とか下というものは無い、皆同じなのではないか」
「ラティハンは一人一人違うものだ、人と比べても意味はない」
と…ともすると全く正反対の意味とも取れるようなことを、二日にまたがって述べられたのです。スブドに疑念が生じて迷っていた時のことで、一瞬光が差し込んできたようにモヤモヤしたものが消えてしまったのです。(もっともそれは長続きしなかった訳ですが…)
上記の言葉はスブドに限らず、すべてのスピリチュアルな道に通底した指針となり得るものとして、ずっと私の記憶に留められています。
この人が日本におけるスブドの歴史と共に歩んできたと言っても過言ではない、Tさんです。
そして、ずっと後になって10年くらい前、Tさんの「魂の究極の旅」という著書を読む機会がありました。
それによると、氏はスブドと出会う以前に神秘体験に預かっていたというではありませんか!…これは初めて知ったと同時に、やはりそうであったか、とも感じました。というのも何となく以前から氏からはスブド、バパ・スブーにベッタリでない、ある香りを感じていたからです。
実際にこの書は、当然のことながら氏の人生の中心を占めるであろう、これらについて多く割かれてはいますが、それに捉われない、自由な感性というものも十分伝わってきます。
氏が”原体験”について述べているところで、古今東西の有名無名の体験者が違う言葉、表現で言い表すその内実は、あるいは同一のことを共有しているかもしれないことを示唆していることなど、とても共感出来ました。先の氏の言葉にもこの辺りの消息が伺えるでしょう。
そして同書で知ったことで、スブドに入った目的はその至福の時を取り戻そうとしたことだったこと…
霊的修練で起こり得る、いわゆる憑霊現象に対し、危惧を抱いたこと…実に他人ごととは思えません(笑)
Tさんとはそんなに深く交流を持ったことは無かったですが、それ次第によっては私とスブドとの関わりも違ったものになっていたかもしれません。

昭和61年秋名古屋方面でのこれまた全国大会が終わった後、私の友人だった大阪の会員Mさんのたっての希望でHさんという、名古屋方面の支部の人たちから聖者の如く慕われている人と会う機会が有りました。
とてもややこしいのですが、この人はスブドの組織からは離れている個人会員なのです。
そして特別なリ-ダーという存在は置かないはずのスブドにあって、その支部の人たちのその人への傾倒ぶりには尋常でないものがあり、違和感を覚えました。
この方の生業が歯科医だったこともあってか、H先生と呼び親しまれていました。
そのH先生には、事前にいくつか噂を耳にしていました。京都鞍馬に因縁を持つ神のお告げを受け、ラティハン中にその神託が発せられるとか…超能力的な方に傾いてしまったとか…
私にはしかし、その類の話は一切無かったという事もありますが、そういう奇をてらうような印象は全く感じませんでした。
むしろ「私はバパの信者じゃありません…ラティハンで私はより私らしくなるだけです…」と、至極もっともな事を述べられていたのです。
そして「ラティハンを規則正しくやっていれば、いいってもんじゃない、コンヴァージョン(主としてキリスト教で言われる聖霊による回心)という事が大事なことです!」
私はこの言葉を聞いただけで、身が震えて来そうになりました。私自身も普段からそう感じていたことをズバリと言い放たれたからです。
そこは先生の自宅の一室だったのですが、ずっといつものスブドの雰囲気とは違う、敬虔さに誘われるようなヴァイブレーションが感じられたのでした。
それにしても詳しい経緯は分からないけれど、どうしてこういう人がスブドの組織の外に置かれなければならないのか?
先生を取り巻く支部の人たちの尋常でない有り様ともども考えさせられる事でした。
たった一度の出会いでしたが、忘れられない想い出です。
先のTさんともども、その忘れられない印象と共にあるのは、ある種の精神的感応です。
私はここでスブドについてシンラツな事を好き勝手に書いてしまいましたが、個的な具体的な人格的な関わりには適応できないのは言うまでもありません。











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希求と幻滅

2017-04-21 11:22:06 | 回想
私はこのブログで宗教的精神的遍歴のようなことについて書いていますが、何とそこに私の矛盾し、分裂した性向を映し出していたことでしょう…。
”きっとここに私が求めてやまないものがある、どっかに普遍的真理を伝えている団体が存在しているに違いない!”と思い立ってその門をくぐってみたものの、次第に意に満たないものを感じ、幻滅感がもたげてきて遠のいてしまうのです。こういう事を性懲りも無く繰り返してきたのでした。
自分の外にそうしたものを求めるというのは、幻影を追いかけているようなことでしょうか?
”求めてやまないものを見つけた!”と実感されるのは、多くの場合そのグループの中心人物の著書なりに触れ、ある種の精神的感応を受けた時です。
そしてその具体的現実的展開である集会に参じようと赴く訳ですが、どうも内なる印象とは違うものがある…何がスレ違ってしまうのか…ことにそこに通気性を欠いた、この世的な相対観捉われた有り様が感取された時、私に抗しがたい反感がもたげてきて、この事を巡って人間的な軋轢も起こったりして、自分からその関係を断ち切ってしまう事を平然とやったりしてきたのです。
これは私の業、弱さなのでしょう。私は日常の多くの場合、孤独を好み、人との関わりを遠ざけています。
この事はおそらく私が物心付いた時から、疎外感というものを感じた事と無関係ではないでしょう。そして複雑な家庭環境とも…
この世のあらゆる相克、不調和…大は国際間の戦争から小は隣人とのイザコザに至るまで、人間関係の縺れに起因してないものは無いではありませんか!
”人間関係はかくも呪われている…災いの種、遠ざけるべし!”
しかし…このように私に幾つかの精神的団体に惹きつけたものは何だったのでしょうか?
人間の集まりに他ならないのです。その中に生き、ハタライているものを見ようとしていたのです。
これは、私が人生の裏側に踏み入れた際、内なる普遍的共同体、有機的つながりというものを垣間見せられた時、このものによってその希求が呼び覚まされていることをハッキリ示されたのです。これは、それ以前から私の内部で息づいていたのです。
もし精神的道の根幹を成しているものが神と人間との関わりばかりというのなら、ややこしい人の群れに身を投じる必要など無いでしょう。
瞑想や祈りなら一人でも出来るし、神的なハタラキに預かることも出来ます。
でも…どうしても満たされないものが残るのです。
そのままでは、神的ハタラキの具体的、現実的展開を見ることが出来ないからです。
それはどこに表れるのでしょうか?…人と人の間に他なりません。見えない神のハタラキは見える人間を通して顕わになるのでしょう。
私は結果として、どの団体にも安息の地を見出すことは出来ませんでした。結局見える形としてのいかなる教会も私にとっては幻想だったのかもしれません。
しかし…それは幻滅と挫折の中に霞んでしまっているようであっても…私は目の当たりに見たのです!…実感したのです!
人と人の間に有機的なハタラキが立ち上っているのを…
D会にも、クエーカーの集会にも、そしてあの忌まわしき?スブドにも垣間見られたのです。
それはほんの一瞬涸れた泉から水が噴き出したようなものだったかもしれません。
どうして顕れ出たのかも、どうやってその喜ばしき状態を保持出来るかどうかも分かりません。それが人の思いを超えてハタラクという所以なのです。
そして、そこにはD会やクエーカー、スブドといった固有の集団は存在せず、見たままにはどんな小さなものであっても、それらを超えた一つの普遍に開かれた有機体の表れというものを感じずに居れませんでした。
それはあの内なる普遍共同体のそのままの顕現という訳では無かったですが、その息吹の片鱗は確かに伝わってきました。
私は、そういうものに預かっていながらも、自分からそのつながりを絶つようなことをしてきたのかもしれません。人はどう感じたかは分かりませんが、私は彼らを裏切ったのかもしれません。しかし、私も裏切られたと感じたのです。
その天的なものの有り様が覆い隠され、変質させられるのに我慢がならない気持ちにさせられたのです。
私はただ、どうしても、こうしてもあの天的世界のことを裏切る訳にはゆきません。私が私でなくなりますから…
私の精神的遍歴にはかように大いなる無駄、試行錯誤、幻滅、挫折がありました。
だが、私は内なる希求に従い、ほんの一瞬ながらも、その出どころ、源泉に触れることも出来たのです。
今後のことはどうなるかわかりませんが、すべては内なる生命の故だったことを思い起こせば、後悔などあろうはずはありません…。


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