人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍化する福音

2015-06-29 00:02:51 | キリスト教関連
宗教、信仰というのはどんなものか…教団特有の教義が有って、それに信従する…人がよく思い浮かべられる文句は”信じれば救われる”というものでしょう。…
この典型的な例は、前にも書いたようにキリスト教に見ることが出来ます。
しかし私が生まれて初めて、キリスト教と呼べるような集会に接したものは、それとは全く違っていました。
というより、何回かあったそうした出会いの中でも、それはもっとも強烈なカルチャーショックを私にもたらしたものなのでした。色々な意味で…
その小池辰雄先生の集会のことは忘れることが出来ません。
その場に入った瞬間、言葉で言い表せない力、波動が立ち込めているのが認められました。
これはもう具体的な体感的なものであるので、抽象的にそれを信じる必要など無いのです!
その中にあって、”OOを信じます”などというのは全くバカみたいなことなのです!
これは実際にそういう経緯を見聞きしていますが、キリストのキの字も知らないという人、聖書など一度も読んだことの無いという人でも、その回心(聖霊のバプテスマ)を受けてしまうという事もあり得ることです。
(私自身殆ど何も知らなかったも同然で、その場は何事も無かったですが、そうなる可能性はあり得ました。)
私がそこで感じたものは、前記したような宗教らしいキリスト教に反し、凡そ宗教らしくないもの、非宗教的なものだという事です。
キリスト教という括りがもう当てはまらない…(で、小池先生はキリスト道と言ってました)
何故って、信仰も修行も儀式も必要が無いのですから…その恩寵を受けるという事は無条件的なものであったのです。
(とは言ってもその集会では無教会にのっとって?讃美歌を歌ったり、聖書の講話もあるのですが、そうしなきゃ恩寵に預かれないというものでは有りません。)
この聖霊を強調する集会は一般には所謂ペンテコステ派が知られていますが、教理的に偏る面が強くて私は関心が向きませんでした。
直接経験というものが打ち出されれば、そこで自然と内的な確信が生まれる訳で、抽象的な教理を信じるという在り方は、後退するのが普通ではないかと思われるのですが、逆に狂信的になる傾向が見受けられます。
本当に上よりの力を受け入れれば、そのような条件的なものに捉われるという事が無くなっていくのではないでしょうか?
それは神の前では”自分は何者でも無い””無条件的なものは元々与えられている”という事が知らされるであろうからです。
それは”自分は無いんだ”、とか”神と一つなんだ”とか懸命に理解しよう、信じようとすることとは根本的に違います。
限界ある自分を超えて雲の如く(シェキナー)臨在してくるものがあり、理解も信も上からやってくる、そのものによって”そうなっている”ものを受け入れるだけです。
福音とは、神学などで難しく語られたりしますが、ごくシンプルにそういうものなのじゃないですか?
そこで人間を超えた次元が開示される…しかしそれは人間自身による成長でなく、土壌自体の変容でしょう。
キリスト・イエスは約二千年前、”これが満ち溢れる世界が来たぞ!”と告げたのです。
この事はしかし、この現実世界がどっか別の次元に移行してしまう事でなく、このまんまで中から化体して来るという感じがします。
死んだようなサナギから蝶が顕れるようなイメージです。
これを促す聖霊の働きは全く宗派性を超越したものです。無教会という有限的境界を突破しようとする思潮からこのような動きが起こったのも必然と言えます。
又、カソリックには元々普遍性、公共性という意味合いがあるのだそうですが、これは正しく隠されていた普遍世界が公になるという事を暗示しているではありませんか?
キリスト教はもう死に絶えてしまうのかも分からない…否宗教自体も同じ運命にあるでしょう。
しかし原初の福音は教会の外で普遍性へと歩み出した…人々に目覚めを促しながら…
教会もドグマも廃れる…しかし福音は限りある境界を越えて、この現世に浸透し始めているのを感じます…。
















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キリスト教は死んだか?

2015-06-27 21:06:56 | キリスト教関連
以前、私はカソリックのシスターにこんなことをぶつけてみた事が有ります。
「最近はカソリックでも禅をやってる人が多いようですね、それって正しいことなんですか?…カソリックでもカリスマ運動ってのがあるんですね? あの異言とかしゃべっているやつ…あれは異端なんでしょ?」
するとそのシスターが言うには「福音の受け取り方、宣教の在り方は自由な筈です。何が正しくて、何が間違っているかなど人が決められることじゃあないでしょう」
いやあ、当然のことながら全く、その通りでありすぎる事です。
私はこの当たり前な言葉を聞きたくてわざと吹っかけてみたくなったのです。(意地悪!)
しかし私は同じことをプロテスタントの信者にぶつけてみたいとは思いません。何かきな臭い空気が起こりそうですので…
ヨーロッパ中世の暗黒時代を例に揚げるまでも無く、カソリック教会は長年信教を権力で牛耳ってきたという歴史が有りました。
そして信教の自由の実現に立ち上がったのがプロテスタントであったのはご存じのとおりです。
ところが60年代中頃の第二バチカン公会議を契機に様相が変わってきました。
当たり前でなかった旧教会が、当たり前のことを言い出した…これは実に画期的な事と言わねばなりません。
開かれた教会というものを打ち出し始め、それまでは考えられなかったようなユダヤ教、回教などの他宗派との対話といった試みがなされていったのです。前記の禅との関わりなどもこの流れから見られるようになったのです。
そして、もっと開かれていなければならないはずの新教各派は、完全に置いてけぼりを食わされた形となり、旧態依然のまま取り残されたといった感が有ります。
相も変わらず自称、他称の正統派が幅を利かせていて、今でも「私の信仰の在り方は正しいんだろうか、間違っているんだろうか?」と神経症気味の信者たちは、自分の人生なのに牧師先生の正統的判断に委ね続けている始末です。それが正しいかどうかは分かりませんが、(聖書に照らそうがどうしようが)内なる絶対者にたづねない限り、どこまでも”ああでもない、こうでもない”と、堂々巡りの繰り返しでしょう…
”イエスは神の子””三位一体””十字架の贖罪”これらの信仰のハードルをクリアーしなければ信者になれないのだと言う…
”僕には信じられなーい!”だったら止めりゃあいいだけでしょ? 実際にこのような人に会ったことありますが、それでも信者になりたいと言う、その心理が私には理解出来ません。
でもこのようなことは、全ての”信じる宗教”について言えるのではないでしょうか?
つまり、キリスト教(特に今は新教)に典型的な宗教の雛形を見ることが出来るかと思います。
宗教の名の下での戦争、弾圧…これらの殆どにキリスト教自体が関わって来たし、他宗教によるものでもキリスト教がらみの遠因が求められるものが多いです。
しかし、一体どうして教会はイエス時代からは全く似ても似つかないように変質してしまったのでしょうか?
私が思うにキリスト教は初期の頃から、現実世界と関わって来たからだと思います。そこからしばしば社会運動が生まれたようにです。(共産主義も、ナチズムも、そして我が国の天O絶対の国家主義も基教がらみの遠因で出現したようなものです)
この事はしかし霊性の希薄化を招く要因となってしまったようです。
そして今やネオ・ノンデュアリティなるものが台頭して来て”あんたたちの時代はもう終わった!”と通告をしているかのようです。
それが摂理であれば仕方のないことでしょう。
しかし信徒たちはどうして現世の諸々の魔的力にさらされながらも俗の中に入っていたのでしょう?大きなツケを残して…
イエスの福音は”神の国が来た!”で始まりましたが、神の国とはこの現実世界とは別のどっかの高次元の世界なんでしょうか?
いいや、私にはここを置いて他には考えられません。
神の国とこの堕落し切った現世…これは一つになる?
キリスト教が別のものに生まれ変わった時?…。









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ありのままの、ありのままでない世界

2015-06-24 14:20:52 | スピリチュアル?
”神界、霊界は高い次元で、物質界はもっとも低い次元…”
スピ系では長いことこのような心霊学的階層の観方に刷り込まれて来たように思います。
果たして本当にそうなんでしょうか?
この見地では人間の心は物質以上のものだとされています。
でも何故特殊な人を除いて心、精神力で異常気象や地殻変動をコントロール出来ないのでしょうか?
又我々自身の不随意的な機能、内臓機能などを自由に動かせないのでしょうか?
心や精神というもの、ここでは一括して”思念”と呼ばせてもらいますが、この領域を心霊学では多く幽界と呼んでいます。
物質界に近いがより微細でより次元が高い階層らしいです。
だが、この領域には所謂幽界の生物、地縛霊、悪霊(私はレム睡眠の時は分からないですが、見たことありません)がウヨウヨ彷徨っているらしい世界、地獄界なども含まれてしまうらしいです。
この現世、物質界は地獄の沙汰とか、人間とは思えない鬼畜、サタンの所業と思しきことも時に見られることはあっても、恒常的にそうしたものと付き合わされている訳ではありません。
地獄的状態がずっと続く世界に比べたらこの世はまるで最高天国じゃありませんか?
私は以前、サタンや地獄の存在を信じている原理主義的クリスチャンに、「サタンとか地獄とかというのは我々の思念が作ったものだと思う」と言ったら変な風に誤解されてしまいました。
「あなたはなんてノーテンキなんだ!」と…しかし私がそこで言わんとしたことは、それらは想像の産物だという事でなく、文字通り思念によって造られたバーチャルな客観的に見えるもの…といった意味です。実際に苦しんでいる人たちにとっては「そんなのただの思い過ごしさ」なんて言葉は気休めにもならないでしょう…
でも日月神示にもあるようにこういう人は「無い悪魔と戦い、無い地獄に落ちているのぞ…」と言わざるを得ないでしょう。
これでいくと、この思念によって又天国だって造ることも出来るはずです。
しかし、それは本当の我々の永遠の帰るところかと言ったら疑問です。それはあくまでバーチャルな天国のはずですから…
どうも私には最下層の地獄の様態から最高神がおわす神界…低い次元から高い次元までの段階的階層があるとされる、この見地そのものが幽界的、思念界的なものに思えてなりません。
それは至高なるもの、究極なるもの、真善美のみが有る世界…そうしたものに肖りたいという、人間的なあまりにも人間的な心理が造り出したものではないでしょうか?この心理には一方では悪しき物質界からの解放といったことも底にはあるでしょう…
かくして人々はこぞって最高天国に少しでも近づこうと、終わりなき戦いを始めます。
そして天国だと思っていたものは容易に地獄に変貌します。こぞって戦いに駆られるからです。
ことは相対次元で行われる限り、この宿命はどうしたって付きまといます。
そしてまた、この裏では物質、肉体…これこそは諸悪の根源と見なされてきました。
感ずるに、どうして我々は下位なる?自然や肉体をコントロール出来ないのか?
それはニュートラルなものだからでしょう…言い換えれば”そうなっているもの””ありのままのもの”なのです。
良いも悪いも無く、高いも低いも無い…良いとか悪いとか高いとか低いとかいう思いが有るのです!それはちっともありのままではありません。
ありのままでいいのに、”ありのままでなければならない””個、分離など無い、無い”と言って個的に、分離に見えるものと分離し始める…
思念に捉われなければ、世界はどのようにでも見えるのに…この現世はスピリチュアルからの解放を要するのではないでしょうか?

年とると、この肉体がどうしてもいう事聞かなくって…解放されたいなんて思ってたら、こないだ意識が飛んで行きそうになり”戻らなきゃあ”と必死になり、どうにか戻ってこれました。幽体離脱から…これが有るって本当に落ち着いて有難いです…。
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ユダは語る4 ”私はこの地に戻ってきた”

2015-06-21 19:02:24 | 詩的文章
私はユダ、”生まれ出ない方がよかった”と言われたもの

かつての私にはこの世のことごとくが、他愛のないもののように思えてならなかった

主なる神の栄光にふさわしくないものは、全て滅び去るがよい!

トーラーに外れた異邦人どもは、外つ国に去りゆくがよい!

聖なる書に記されたとおりに、歴史は展開され、神の王国は成就する…

そう信じて疑わなかったのだ…

だがあの人の子の語ることはまるで違っていた

”神の国は故国、民族、信義を持たぬ者にこそふさわしい…寺院や会堂の外に居る者たち…

彼らの戦いはその日の糧のため、

彼らの楽しみは街中の野良猫のささやき、小鳥のさえずりと共にある…”

それは全く私の心の中を見透かしたようだった

そして私の隠された心の裏には、そのたぎるような信念の瓦解が始まりかけていた

ある時、私は主に訊いた”あなたは何故私を使徒に選んだのですか?”

主は答えられた…

”お前の中に燃え堕ちたトーラーの書が見える

 お前の中に焼け落ちた神殿が見える

 お前の中にダビデの星の失墜が見える…

 お前の中の選ばれた民は、異邦人にとって代わるだろう…

 古きものと新しきものの交点、その場こそはお前にふさわしい…”


何という呪詛に満ちた言葉であろう!

これにより、私の決心は定まったのだ…

人の子がローマ人の手に渡る前に、せめて同胞に売り渡そう、と…

銀貨30枚で…

しかし、私には主が言われた本当の意味が分からなかった…

私はわが主を裏切った…わが同胞をも裏切った…

私の思惑もはずれ、主はローマ人の手によって葬られた…

私は全ての依りかかるものを失ってしまった

絶望の果てに、全てを覆い尽くす闇から蘇った時…

私は見た! 全く他愛のない野良猫の戯れのうちに

神の栄光の現れるのを…

仮初のように思えたことごとくが光り輝いているのを…

私は知った! ここには聖なるものも他愛のないものも無いのだ…

私はこの地に戻ってきた… 











 


 

 












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シェキナー

2015-06-20 20:27:48 | 哲学・思想
毎年今頃になると、おなじみになるのは観測始まって以来レコード破りという大雨、豪雨の報道です。
これをもたらしているものの多くは、不安定な大気により、発生するという積乱雲によるとのことです。
地震といい、火山噴火といい、集中豪雨といい、我々の生活を脅かすものものには、どうも私の内にある心象を想起させるものが多く、複雑な思いに駆られるのですが…
私は物心ついた時から今でも、夏の夕暮れ時などに異様なまでの景観をもたらす、あの入道雲を見る度にある種の驚嘆、昂揚感といったものを覚えます。
不思議なのは、朝全くその兆しが無かったものが、午後突如その偉観を表すことです。
そして又、一体、あの巨大な化け物はどうなったら出来るのだろう…あのすさまじい雷、嵐は何によってもたらされるのだろう…
入道雲こそは私にとって脅威、神秘の象徴なのです。

シェキナー。これはユダヤ教で神の臨在を表す言葉です。
諸説が有るようですが、雲が立ち込めてくる様を、この言い表し得ないものの顕現として象徴しているそうです。
実に言い得て妙です。そこでは神の遍在と共に内在という意味合いもあるとのことです。
私が受ける感じとして、どっからかモヤモヤーッと揺らぎが生じ、何か時間と空間の境目、自分の外側、内側を隔てる壁がぼやけ始める…そして下降、上昇の気流(これは上から来る、中から出てくるものの喩えです)を通し、我々の命そのものとして生きて働く力の現れ…といったものです。
とにかく私は信じるべき特別な信条、ドグマなど持ち合わせていませんので、神は超越的なものなのか、内在しているものなのか、人格的なものなのか、非人格的なものなのか、多神なのか、一神なのか…如何なる断定的決めつけ事には応じかねます!
ただ神は雲のように変幻自在であり、我々の意識の有り様に応じて示現して下さるものと理解しています。
そして示されたことはただ受け入れるしかありません。
人の手になる宗教的信条は二義以下のものとして却下せざるを得ません。
臨在と言う…ここに恩寵、愛というものが否応なく感じ取れるではありませんか?
それは抽象的な言葉、文字では無い、具体的な”このものと分かち難くある”という実感です。
それは、我々の側で神を求める、近づく、理解しようとする必要は無いという事です。
だがこの意味は軽く考えられるべきものではありません。
一度でも抑えがたく神を求めたり、人生の苦難を味わったことの無い人間には、おそらく何も心には響いてこないでしょう…
あくなき希求の、挫折の、苦難の涙…それらは覚えられているのです。
それは我々の知らないところで、別の生き物のように成長しているサムシングの養分となり、花開く時節を待っているのです。
モクモクと地表から天高く立ち上る積乱雲は、時に竜巻を逆に地表に降ろします。
それはあたかも天と地を結ぶ柱のようです。
シェキナー。これこそは神と我々との架け橋ではありませんか?
求め、得る、知る…人間的なあまりに人間的な次元は終わり、求めようとしたもの、得ようとしたもの、知ろうとしたものそれ自体が、我々と共にある…真人、神人の次元が今開かんとしているようです。
唯一の神が存在すると言う、すると対立するかのように様々な神が唱えられて来ます。
何が正しい神なのか誰にも決められません!
空と言う、無と言う、何にも無いのですか…誰が決めたのですか?
有るとか無いとか…我々の思議から”こうである!”などとは言えません
有無を超えたもの、顕現してくるもの…シェキナーがあるのです!

雲間から呼び声がする…
大地からも呼び声が発せられる…
そして…シェキナーが立ち込める…。
 
 
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