人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ある愛の物語

2015-04-28 09:34:07 | 
人生には誰しも不測の事態というものが付き物ですね。
大切な人を亡くしたり、不治の病に侵されたり…
そんな渦中にある人には、なんて声を掛けていいかわからないですが、気休めみたいですが”
神が貴方と共にありますように…”という言葉くらいしか申し上げられそうにありません。
とてもじゃないですが”ただことは起きてるだけです”などと気の利いたことは言えません。
今や類型的になった感のある、人が不幸な出来事を引きずる傾向を指して”それは自我が勝
手に作ったストーリーに過ぎない”と言う観方が有ります。
ストーリー…それが無ければそもそも人生では無いですね。
個人も無く、山あり谷ありの出来事も無く…ただただどこまでも果てしのない空あるのみ…
それが我々の行き着く地点ならそれもいいでしょう。
それを心から望むという向きには、何も言いようがありません。
私だったら…何度でもエデンの園から脱走を試みることでしょう…

私の人生で過去のつらい、苦しい出来事(それは取りも直さず、固着した記憶に基づくもの
で、正しく自我が作っている訳ですが…)が魔法のように消えてしまった事が有ります。
ごく最近では昨年の暮、ブログを書いてる真っ最中、ちょっとした気づきが有りました。
それはしかし、魔法のように文字通りその出来事が消え失せた訳ではありません。
むしろその固まった記憶を超えて、より鮮明に浮かび上がったのです。
そして消えた! 苦しみが…つらさが…
より正確に言えば、その苦しかった出来事が全く違ったものに観られ、受け取られた…
という事なのです。
それまでその苦しい出来事は断片だった…苦しみというものが独立してあるものだと思い込
んでいました。
だがその時人生の全ての喜び、苦しみもとてつもない”愛” ”命”の内にあるという事に
気づかされたのです。
それまで私を常に責め苛んでいた、罪意識という”地獄の裁判官”殿もめでたくご退官と相成
りました!
私はその時もう一つの愛のストーリーの主人公なのでした。
それは今生ではもう会えまいと思っていた、生き別れになった命の親との劇的対面です。
もう、号泣…目汁、ハナ汁の大洪水です…。
このドラマでは、全くみじめに苦難に打ちひしがれている、放蕩息子である私の運命というも
のが不可欠です。
最初から悟っている人には縁が有りません!何というお気の毒な事だろうか…
ここに私が何度でもエデンの園から脱走を企てたくなる理由が有ります。
そして全ての苦難を背負っている方々には…
神が貴方と共にありますように…



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愛が無ければ何の意味も無い

2015-04-26 13:48:25 | 
いつもこうして言葉の制約を受けながら、気の向くままに書かせていただいている訳ですが、
ある一点で言葉をもってしては、どうしても伝えることが出来ないことのもどかしさを感じ
てしまいます。
それはワンネスだとか常人がたどり着けないような究極の真理などでしょうか?
いいえ、それは喜ばしきこと、愛を感じること、幸福感といったものです。
”個人は幻想だという事が分かった”…”ただ起こることが起こるだけだという事が分かった”…
そりゃあ、よかった!しかしそこに喜び、愛というものが無ければ一体何の意味があるでしょうか?
もし、苦難、悩みを解消したくて真理の探究をしているとしたら、このものに触れること自体でいつの間にか、その問題は無くなります。
究極の真理など、”クソくらえ”ではありませんか!
喜び…それは無条件の愛と共にあります。
もし、そこに”それで一体何の役に立つのだろうか”
といったことが問われるならば、もう無条件なものではなくなります。
逆に言えば無条件の愛に触れた時、そのような条件付けは全て黙ってしまいます!
黙って愛に落ちてしまうしかない…ということです。
私はこれまで人様の書かれているものに触れて、当然のことながら共感出来る部分、出来な
い部分というものが生じてくるのは、それぞれの人生、視点というものがある以上仕方ない
ことだと思います。
ただ殆ど例外なしに無条件で共感できる記述というものも有ります。それはその人が無条件
の愛に触れて、まあ、表現は多種多様ですが、宗教的回心というか無条件降伏をしたことを
述べているものです。
我々は、この一点において一つになれる! ”ああでなきゃならない” ”こうでなきゃならない”なんてのは、ホントにホントにバカみたいなものですよ!
私は今自分のこととしてこの事を書いているのですが、この無条件の愛と共にあったことか
らいつの間にか離れてしまうと、”真理に至るテクニック” ”真理に至る究極の教え”などと
いった自分の到達したとされるもの、自分の信念だとかがはびこるようになります。
もう、そこにはあの絶対との出会いの一瞬にあった、無条件の愛の領域から第二義的なもの
に落ちてしまうのです。
これはまたシャバで生きる事の宿命なのでしょうが…
(私が軽々しく言う”絶対”なる言葉は正しく無条件的なものを指しています。絶対境とは無条件にお手上げしてしまう事態のことです)
そのような手垢が付いたような押しつけがましい、宗教の教義の如きものに付き合わされる
身にもなった方がいいです。
”もうスピ系も精神世界もバカらしい! ヤ~メた!”というのが賢明かもわかりません。
ただ…どっかで感じられる喜ばしい風に触れながら、その途上で投げ出してしまうとしたら…
それは本当にオメデタイ話です!
神、絶対者、ワンネス…それについていくら考えていようと、それらは頭の中にしか実在しません。
”あなたは最初から悟っている”という教えもそうです。それは無条件の愛と共にあるのです。
だからと言って私は”マインドを落とせ!”とか小難しいことは言いません。
それについてではなくそれ(喜ばしきサムシング)あって考えるべきなのです。
要するに考えるのが楽しけりゃ、それでいいんじゃないですか?
人間はどうしたって、こうしたって楽しいことに赴いてしまうものです。そこに愛があるから…
以上小賢しい話終わり…






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ユダは語る2”為すべきことを直ちに為すがよい”

2015-04-24 09:29:49 | 詩的文章
私はユダ、”生まれ出なかった方がよかった”と言われたもの

あの悪魔に憑りつかれた男の永遠に語り続けられる”裏切り”には裏側があった…

私はユダヤの星の下に生まれた

物心ついた時から民族の宿命を背負わされていた

来る日も来る日も、その日の来るのを待ち続けた

約束のメシアの到来、神の王国の成就を…

私は悪魔に憑かれる以前から、民族の熱情に憑かれていたのだ

そしてあの”人の子”は現れた

彼の言葉はそれが現にならないうちから、侵しがたい現臨に満ちていた

私は信じて疑わなかった…私はこのものに出会うために生まれてきたのだ

だがある時主はそれを見透かしたようにこう言った

”もし、私がニセモノだったらお前はどうするかね”と

私はこう言い放った

”あなたを殺すかもわからない!”…

そして私はある瞬間、電撃のように悟った…まるで世界が終ったように感じた

神の王国はローマの獣類に蹂躙され、魔王に懐柔されるのだ!

こんな裏切りがあるだろうか!

そんなことになるのなら、彼らの手に落ちる前に…

ことは為されねばならない!

あの晩は、絶望的な幻滅に覆われていた

だが私の暗部には密かな衝動ももたげ始めていた

その虚無の淵の均衡は主のこの言葉によって破られた

”お前の為すべきことを直ちに為すがよい!”

そしてことは行われた…

後悔?…もし、それが為されなかった時、永遠の後悔に苛まされていただろう

生きることも死ぬことも出来ず…永遠の虚無の底に沈み続けていただろう…

私の決心…いや私はあの抗し難い主からの促しによって動かされたのだ!

そして…私は死んだ…あの身にも心にもこびりついていた熱情から救われたのだ

それこそは私の…主の時の到来だった!

私はダマスコ以前のもう一つの、知られざる回心の出来事の証人なのだ


だから主からの促しを遮ってはならない

狡猾な裏切り者の手引きに落ちないうちに…

”為すべきことを直ちに為すがよい”















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絶対的に相対的な話

2015-04-21 20:12:06 | スピリチュアル?
ある時、近くの公園で猟奇事件が起きていました。血まみれの惨死体が発見されたのです。私はハッキリ見ましたから…
小鳥の惨死体。そしてその傍らで何事も無かったかのように寛いでいる容疑者…ペロちゃんです。
私はあの天使のようなペロちゃんが犯人とは信じたくなかったのですが、時々私のヒザで寝ていたと思ったら、突然目つきが変わりダッシュして小鳥を追っていた事が有りました。その時のペロちゃんの表情といったらまるで邪悪の権化です。
でも仕方がない、これがニャンコの二つの顔なんですから…そして又いつもグターッとしてるのかと思いきや、なんという瞬発力なのでしょう。
世間ではネコは執着深い動物だと言われていますが、よく観察してみたらあんなに飽きっぽいヤツは居ません。
エサを食べ残したりしますし、とにかく移り気なのです。
ネコも私?も一面的な観方だけで判断すると、頭がぐちゃぐちゃになりますよ!
そして精神世界の話も…
近年よく今世界は統合に向かっているんだと言われています。
しかし、どっかで統合されている一方で、どっかでは分裂の様相を見せてたりします。
ワンネスに目覚める人が増えていると言います。個我は幻想だと気づいたとか…全ては一つだとか…
だがオンリーワンの個性の開花を強調する人もいます。
何しろ数学の世界のように、数式だとか定理だとかがものを言う世界と違うので、多面的な観方、アプローチが必要です。
証明も出来ない事が多いので、主観的(とされる)表現も多くなりがちです。
言葉で言い表せない直観を得たことのある人であれば、ほとんどの場合表現する上で言葉の限界に突き当たってしまうことでしょう。
ハッキリしていることは、このように言葉を借りなければならない、という制限された条件下で表現せざるを得ないという事です。
にも拘らず、ネットなどを通じて”私やあなたという個人は居ないのです!”と全くミもフタも無い言葉が平然と語られています。
これが、その人自身の直覚し得た境地の表明といったものであれば(この発信者の言葉に従えばそういう人は存在しないことになるのですが)全く他人がどうこう言うべきことも、否定することもないでしょう。
ことにそれがその人の絶対境のようなものであれば、こちらが共感出来る、出来ないに関わらず尊重されるべきものだと思います。
私がいつもそのような言葉に接して腑に落ちないことは、それが時として全く一方通行で独りよがりのような話が”信仰表明”のように語られる点です。
”これが真理なんだ、それ以外は幻だ”と暗に他者に”信じて欲しい”と訴えているように感じるのです。
このような方を通じて多くの方に気づきを得る契機が与えられることは、それはそれで意義のあることだと思います。
ただ、一方で”頭がぐちゃぐちゃになりそう”だとか混乱もまた起きているようなので…
(迷ってるときは自分で考えて結論を出そうとしないで、いったん手放してしまうことをお勧めします)
何時の時代でも問題が起きるのは”自分の観方だけが正しい”という表明が幅を利かせるためです。
一種の絶対境に預かると”もうこれっきゃない!”という心理がはたらくのも私はよく分かります。
でもこの場はそれが夢だろうと幻だろうと、幾多もの絶対者がひしめき合っている相対的現実なのです。
だからこそ、私はつとめて他者(私とか他人が居るかどうかはさて置き)の絶対的なものは尊重したいと思っています。
グダグダ言いましたけど、話は簡単ですね。”色々な観方が有ってもいい”ということです。
精神世界(と言っておこう)は今、曲がり角に来ているようです。
あの”ウンコクサイ”人も霊・現の二者は統合されてしまったようですし…
これからはますます、多面的理解というものが必要になってくると思います。
ものの表裏というものが明らかになってくるであろうから…
すなわち人生の裏側、世界の裏側がフタ開けされるであろうから…
それは他の誰でも無い、あなた自身の問題です…。
(別に信じなくてもいいですよ!)














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”みんな起きたか!”

2015-04-19 22:18:54 | スピリチュアル?
「人は皆最初から悟っているんです。」こういった言葉が今巷を賑わせていますね。
これはある面真実だと思います。ただこのシャバでアクセクと”毎日ご苦労さん”なことに明け暮れている我々にとって何が重要かといったら、このなんてこたアない日常の意識=顕在意識にそれが示されない、という事だと思います。
要するに意識にフタ閉めがされていて通じが悪いのですね。
ただ、それだけのことだったら他人事みたいですけど、別にどうってことないことだと思います。
特にいつも神とかサムシングに意識を向けていて有難く生活している人などは…別に悟りだの覚醒だのってことに触れなくても、神、サムシングと一つになるという事がどういう事かどっかでわかっている筈なのです。
それに明日にでもゲリラ豪雨かなんかで地下にドッと水があふれて、マンホールのフタを押し上げてしまう事だって在り得ることです。
でもどんな神様でも、禁断のクンダリーニ・ヨガ指南書をもってしてもどうにもならない事が有ります。
それは…ハナっからそれを求めてない、発心とか、菩提心いうものが無いという事です。
全く当たり前すぎてアホらしい問題ですが…
私は何かの宗教的、精神的集まりなどで、”アッ、この人はある確信的な体験に預かっているな”と思われる人を目敏く見つけたりするのですが、又そうでなくても意識がそっちに向いている人というのは大体わかります。
そういう事に関した話をしたら、まず話をそらそうとせず、なにより目つきがヘンです(笑)お互い様ですけど…
一方、全くそちらに関心が無い、いや抵抗しようとしている人も…これはすぐわかります。
そういう話をしてみると、なんとか違う話にそらそうとし、段々顔が青ざめだし、ホホの辺りが引きつってくる(笑)
そのうち、”アッ、急用を思い出した!失礼します!”(笑)…
しかし、これはそういう人でも表面意識の底に何があるのか、本能的(と言っていいのでしょうか?)わかっているという事を物語っているのではないでしょうか。
ただ、それがまだ意識の表面と内奥とにギャップがあって、上ってこないというだけのことです。
又それとは別に今、抱えている問題から逃れたいからという切実なもの…これは…純粋な発心じゃないようだけど、アリなんじゃないですか?
「悟りを求めているのは自我です!」ハイ、そうですね…苦難にある人はこの終わりなき日常でその自我に埋没して苦しんでいるのです。
実際にそういう苦しみの渦中にある人に対し、私は到底そんな悟ったようなことは言えません。
人が苦しんでいるのは、ある意味機能不全に陥っているわけで、そこから回復しようというのはごく自然な事だと思います。
この世の生あるものには、すべて還元作用というものが有ります。
命の根源へと帰ろう、という根源的意志です。
もう”ああ言ったり、こう言ったりするのはみんな自我なんだ”という当たり前のことに気付くべきなんじゃないですかね。
どうしたって、この世というものは自我の王国なのです。
それが良いも悪いも無い…何が悪いかって一面的な観方しか出来ない、と言うのが悪い…これが自我性のサガなんでしょうけど…
”私は悟っているから達観してるんだ”なんて”自分は違うんだ”と思おうとしたってそうはいかない…
このシャバに厄介になってるものはみんな同じ穴のムジナです。
「皆悟っている、現実に起きているのは皆幻想です、時間なんて無いのです。元々ワンネスしか無いんですから…」普段、そう言っている人でも「世界は徐々に調和に向かっているのです。」などと、時間のプロセスとか、あるべきでない世界があるべきものに変容することについて、語っていたりするのがその証拠です。地球卒業志願者でない限り…
もう、目覚めちゃった人、これから目覚めようという人、そんな気などハナっから無いフリの人…みんな同じ土俵にいるのです。
より高いレベルとか、深いとか浅いとかいう、さも”これは違うんですよ”というエゴをくすぐる言葉に騙されちゃいけません!
目覚めとかいうのは、そんなケチな人間の分際のことじゃないのです!
朝になり、太陽が昇れば、どこで何をしていようと同じ光に預かるのです。
アセンションだとか、色んな尾ひれがまとわりついた言葉は使いたくないのですが…
みんな出そろったところで、誰にも等しく夜明けは来ちゃいます!

”みんな起きたか!”という合図とともに…。



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