人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神ったものと愛

2024-10-02 10:08:19 | 
コ難く、ややこしい宗教やスピの道のことはひとまず置いといて、人生を悩み苦しみからなるべく自由に、幸福に生きるには、自分が愛してやまないもの、単純に好きなものがある、ということが大きいですね。
人生には苦難は付き物とはいえ、それがあることでいくらかでも苦難を引きずらず、軽減することが出来るでしょう。
私は生来から引きずりやすい質で、すぐ考え込んでしまう傾向があるのですが、一方では、何か惹かれるものがあると、トコトンのめり込む質でもあるのでした(これは、実に裏表の関係であることが分かります)。とにかく凝る...凝り性がどれだけ私を救ったか分からないくらいです。
音楽鑑賞(凝らなきゃ絶対たどり着けない、誰も知らない中南米音楽とか)、そして読書(これは、もう趣味のレベルを超えて、トコトン行かなければ絶対満足出来ない心持ちのままに、そう、あの”禁断の領域”へと入り込むことになるのです!)
幸福で居られるということは単純に、愛しているもの、好きなもの、夢中になるものがある、ということではないでしょうか?(これと紙一重のものに、依存症、中毒症といったものがありますが、実際に話を聞いても、それは止めたくても止められないから苦しいことなのです)
好きなことに夢中になっている人は、生き生きとしていて、年をとらないように見える。”何のために生きるのか?”、なんてコ難しいこと考える必要がありません。好きに生きているから生きている、そういう自分を生きているんだ、何が悪い?
まわりの”ああしなきゃ、こうしなきゃ、こうでなければ”、ということには関係無しに!...
そういう人は、多かれ少なかれ、そういう自分を愛し、受け入れているはずです。
何が正しい、かにが真実だと、コ難しいことばかりに思いが囚われていて、”神を、人を愛さなければなりません”、なんて歯が浮いたようなこと言っている人間とは大違いですよ。
神を愛しているのか、怖れているのかどっちだか分からんではないか?
間違ったことを思っては、やってはいないか...上からの目線を常に気にしていて、ホントは、好きなことがあるのに、それを打ちに引っ込めて...ああ、もうこりゃ精神分裂ではないか!
まず、自分を愛し、受け入れなければ、絶対に幸福に与ることは出来ないでしょう。
しかし、考える自分だけの自己は、他者の目と結びつくその自我性から自己そのものを受け入れることが中々出来ないのです。
これは、自分の思い、自我性を超えたものを受け入れることで開かれるのです。
それが神を受け入れることにつながるのです。
然るに、その神が怖れの対象になってしまっているのだから、救われようがないではありませんか?
ああ、愛なる神!...もう私は聞いただけで、ジッとしていられません。(又どうしてもこうなってしまうんだな...これは私の場合です。理屈無しに惹かれてやまない、最愛のものと言ったらそうなってしまう!...)
何であれ、あなたにとって最愛のもの、惹かれてやまないもの、好きで好きでたまらないものがあれば、幸福にならない方がオカシイです。
こういう意識の状態が、思いを、自我性を超えているということに他ならないのです。
その対象は何であれ...”なんだ、そんなもの!”、なんて他からの雑音なんか関係無いですよ!
どれだけ、あなたが無心に夢中になれるかどうかということが重要なのです!
それでも、私はその形ある愛する対象には、見えない、形なき対象なき最愛なるものが隠されていて、重ねられているのを感じているのですが...
誰でもそういうものは、神ったもののように感じているには違いないでしょう!...


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神の愛の支配

2024-07-11 09:30:53 | 
神は何かは分からない...
いつも言うように、神の実体は分からないのです。
だけど、こうして書いているだけで、私の思いを超えたあるもののことは、ジンジン、アリアリと感じられるのです。
それを言葉で表せるもので、すぐ思い付くものとして、“愛、平安、リアリティ“という風に表しているのですが、それは別々に感じるものでなくて、三位一体というか、分けられないものなのです。これがこの一個なる私からは絶対に出て来る訳がありません。だから、これは神ったことなんです!
この神的なものを一つの属性で表すことなど到底出来ませんが、強いて表せば、私は“愛“を思い浮かべます。
愛があるところ、一個というものは無いのです。だけど、そこには他者性というものが前提になっています。その自他が一つになることが愛のハタラキなのです。それは勿論私と神の関係でもあるのですよ。
しかし、こういうことを未熟な私のこと、四六時中感じている訳では無いのです。そうなったら私は多分ラマナ.マハルシのようになれるでしょう?
もう、忘れる時は簡単に忘れちゃいます(笑)。特にH系に走るとか、短気を起こす時とか(要するにそれが私の弱点なんです)が多いのですが、もう、そうなったら神も仏も無い!(笑)
私と違って真面目な信仰者などが思っているであろうような、それを阻止する力がある訳でも無いし、そのお咎めというものも無いんだから簡単にそうなっちゃうんです(単に道徳心、克己心に欠けるだけなんでしょう?)。
神は万有を支配しているなんて言うけど、私は神に支配されているなんてことは、ほとんど感じていないのです。それを言うなら私は私の思い、欲望に支配されているんだ!
これが簡単に神、愛を忘れるということの全くの裏返しなのです。
ベルジャーエフは「神の力は、赤子よりも無力だ」と言いました。
それくらい、簡単に忘れる、又蹂躙することも出来る!...
だけど、本当は、ホント~には、泣く子、子猫には勝てないのです!
この力は一体何だ?!...それは全ての力学的な力というものを超えたものに違いない!
それに打ち勝つことは勿論、逃れることなど絶対に出来ようはずなど無いではありませんか!
そうなれば、私は私で無くなるだろう!...これは、そのもの無しでは私は実存出来ない、と言っているのですよ!
だから、簡単に忘れることは、簡単に戻ることが出来るという、これ又裏返しがあるのです。
この世界には権力や法の支配など、支配する、される関係というものがあります。
しかし、その根底には支配でない支配、全ての支配を超えた、愛の支配ともいうべきものがハタラいているのを感じずにおれません。
表層に隠れ、感じられなくなったとしても、無くなったのではない、根底に生きているものは、それに立ち帰ることが出来るのです。
神の愛の支配は、けっして廃れたことは無いのです。
神は、何か超絶的な力を持って世界を支配している、と信じ込んでいる人は多いでしょう。
真相は勿論分からないですが、私には、太古の昔、支配力ならぬ愛の支配によって神は世界を治めていたが、ある時代に別なる神(?)が、力の支配を持ってそれを蹂躙し、元の神に取って代わったということがあったように想像されるのです。
神と人間の分離は、その時から始まったのではないか?

ああ、私は何度あなたの愛を裏切り続けたか分からない...
でも、私の中にはしっかり、あなたのハートの文字が刻印されている...
段々鮮明になってゆく...表に顕わになってゆく...
あの御方と一つになれるかどうかは、誰も何ものも強制出来ない!...どこまでも私次第!
それが自由なる愛の掟!...

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愛は分けられないもの

2024-05-14 09:47:42 | 
幸福というものは、何かを得ることや、なることに置き換えられると、そうでないものに変質したりすると前回書きました。
しかし、ここんところ幸福について書いてきたことは、すべて”愛”というものに置き換えることが出来る、と私は思えるのです。
勿論、感じ方に違いはあると思いますが、愛を感じることは幸福であるし、逆も又そうなのではないでしょうか?
それは、共に形が無いものなので、どのようにも結び付くものではあれ...(しかし、愛は何かを得ることでは、もっとそれ自体得ることは出来ないものではあります。より即物的でないものと言えるでしょう)
そして、それ故形あるものに結び付くと、容易に変質してしまうということも重ねられます。
最愛の人であったはずが、”愛着”することによって煩悩、苦悩の種に変じてしまうように...
これは、もう幸福について言ったことと同じなんだ!
我々は、愛そのものがどういうものか、分からなくなってしまったのです!
失ったものはあまりにも大きい!...こう書いているだけで、ハートの辺りから言い知れぬ鼓動、律動のようなものが高鳴るのを感じるではありませんか?!
失った(ように思っていた)ものがよみがえったなら、どんなに、計り知れずに大きいことであるだろう!
だから、愛そのものを感じ、つながるには最愛のものを手放さなければならないのです!...って私はそんな自分が出来ないことを言おうなんて思っちゃいません。私はそんなこと一度も試みたことありません!
こういうことはね、”こうしなきゃ”、とか”こうあらねば”なんて思いからでなくて、自分の偽らざる感性に尋ねたらいいんですよ。出来るか?、そのように、あなたの心は動いてくれるのか?
私には最愛のものは常に最愛のものです。今のところ...それはお分かりのように、形ある、思い描けるものに違いありません。
だけど、そのものは形無きものと共にある...どっかでそれに溶け行ってしまったように感じているのです。
これは、その形はもう”ここにない”、だからこそそのように感じられる、ということは言えるでしょう。ここにあったら感じられるかどうかは分かりません。何分、形ある愛とは縁が無い者なので分かりません。
もし形あるものを通して、愛としか言いようのないものを感じたのなら、ずっと自分のハートに留めておくことが出来る...形あるものを通して形無き愛を感じることは可能なはずです。
形は変わるもの、変質してしまうもの...そうなったらそれを受け入れるしかありません。
執着すると、それで変質してしまいます。だけど形無きものに化されたものは、ずっとここに息づいているのです。それは、それを感じているあなた自身と切り離されてはいないのです。
で、何が最愛のものかって?...そりゃあ、異性だったり、ペットだったり色々でしょうよ!
それじゃ、最愛のものじゃないじゃん!...ごもっとも!...分からないです!、ただ好きで、愛しててしょうがないのです。分けることなんか出来っこないですよ!
分けられないから愛なんだ!
そういうものは、色々あるのでない、たった一つのものはあります!
それは..神!、本当の自分!
二つやん!...いや分けられない!...


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好きというのはロックだぜ!

2023-12-10 02:50:45 | 
いやあ、なんか流行に乗っかるっていうのは、私っぽくないんですけど、これはどうしても私の心を”揺さぶら”ずに置かないので、又調子こいてロックに乗っちゃおう!

”運命的に出会わなきゃ、心は動かない!”
人を好きになることは勿論、何かを好きになるということは、理屈じゃありません!
惹かれてやまないものがあるということは!...
愛といったことでもいくら抽象的に考えたって分からない、伝わりません!
これは、具体的にハート辺りが揺さぶられる(ロックされる)ことを言うのでしょ?
そう、させられるものがある!、それ無しにはそうなりません!
いつも言うように、考え、為そうとしている自分からはそうならないのです。
自分から、心を揺さぶろうとかするのはオカシイことでしょう?
最も惹かれるもの、最愛のものとの出会い無しには!...
しかし、現実にはそういう出会いの場というものも中々無いというのも事実です。
具体的な最愛の人とかなら特にね。
だけど、もっと具体的なことを言えば、そのように揺さぶられる場というか器というものは、既に自分の中にあるということなのです。
自分で持とうとするんで無しに!...
だからロックされる(揺さぶられる、捉えられる)ということが起こるのです。
ハートというのは、自動発火装置みたいなもので、何か元々そういう機能が覚えられているようなところがあります。
ということは、もう最愛のもの、惹かれてやまないものとは出会っているとも言えるのです!
少なくとも、私はそういうものを感じずに居れません。
ハートに火をつけようと促されるものがある、気付かせようとするものがある!
それは、もう”本来的な愛”としか言いようのないものです。(本来的ということは、思いを超えているので考えても分かりません)
本来的な愛こそは火種のようなもの!...

”僕は僕を嫌いじゃない、好きになってくれ!”
自分が嫌い、愛せないことは、本当は最愛の人、ものに会っても愛せない、心が揺さぶられることが無いのではありませんか?
本来的な愛が無いのではなく、それに気付いていないということでしょう。
難しく考えることはありません。
人間誰しも元々何かしらどうしても、どーしても好きなもの、惹かれてやまないものってあるんじゃないですか?
快楽、嗜好的なものじゃなくて、単純に好きなもの...
それを感じていたら、その自分を嫌いになるってことは絶対ないはず!
幸福に感じずに居れません!
そこに最愛の女神様が宿られているのでしょう!(これは私の言い回し)
ああ、もう最近そのアタックにますますロックされるようで!...
師走だというのに熱い訳だ!...




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愛は裏切らない!

2023-11-28 09:36:12 | 
一人の人を一途に思い続けていたり、最愛の人にしか関係を許そうとしない女性は何人か知ってるけど、そんな男などついぞお目にかかったことも聞いたことも無い!
居たとしても絶対に信用出来ない!
自分のことを思ったら...
一体、一日に何人の女にイロエロな気を向けてしまうことか?
どれだけ、無駄なエネルギーと時間を浪費し続けていることか?
仮に僕に“純愛を守る“という信念があったとして、目の前に艶やかな美女が現れたら、即座に泡のように消えてしまうこと請け合いだ!
純愛...
乙女たちよ、君たちはずっと幻想を抱き続けているのではないか?
よろずのことは無常...
人のこころは変わるものだよ!
愛は裏切るものなんだよ!
いや...それとも、君たちが守っているものは、最愛の人への愛だけではないのか?
君たちはそうと知らずに、その奥にある愛そのものを守り続けているのか?
最愛の人にそれが重ねられているのか?
その愛はずっと変わらないものなのか?
純愛というものは、恋愛と共に語られるものだけど、そういう何にも色を付けられない愛のことなのだろうか?
僕にはとてもそんなこと語る資格などないけれど...
時々は、そのようなものを感じることはあるよ!
いや、まったく感じられなくなっちまったら...
何かが終わる...いや、すべてが終わるかも!
そうなると、時々じゃ済まなくなってきて...
すべてみたいになってしまうんだ!
分かるだろう?
なんかの種みたいにあるのか無いのか分からないものが、パーッと広がって!
いつもイロエロな気になる度に、そんな愛を裏切ってるような気がする...
けど、愛は裏切らないんだ!
こんな僕でもまだそれを感じているのだから!

こういうことは男に話すだけ野暮というものだ!
野望しか頭に無い、何にも捧げられない生きものなんかに!
だから、君たちは天国にずっと近い!
君たちが居なければ世界はとっくに終わっているだろう!






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