人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

キリストと阿弥陀如来

2024-07-05 09:27:16 | キリスト教関連
私は、何度か言っているように、キリスト教的なものにとても惹かれることはあっても、クリスチャンになることは無かったのです。
イエスという数千年前の、異国の人間を“我が主“として受け入れ、呼びまつることなんてどうしても出来ない! あの人らは、何で“おお、イエス様!“なんて呼んだり出来るのか? 見たのか?、何かを感じるのか?、いや聖書や牧師の言葉を鵜呑みにしているだけではないのか?
それに、“イエス.キリストの名以外に我々が救われるべきものは与えられていない“、と来ては、絶対にそんな独善的なものは受け入れられません!
そんな私でも、そのキリスト教的な集会で、あの“御方“のみ手に捉えられてしまったことがあるのです。
それは、フレンド会でも小池先生亡き後のキリスト召団でもありました。
それは紛う方無き“あの御方、我が主“を受け入れた瞬間であったのです。パウロじゃないけど、“私が生きているんじゃない、私の主なるものが生きているのだ!“ということを実感させられたのでした。
その御方とは、イエス様?...そうじゃない!...キリスト?、そうじゃなさそうで、そうかもしれない?
とにかく、私の中に何の理屈も、わだかまりもなく、一つのものがスーッと入り、通って行ったのです。この御方は、そうなる以前からも、キリストの集会の外でもずっと我が主であり続けていたのだ!
それをキリストならそう呼ぶことに何の抵抗も感じません。なんてことは無い、私はずっと前からキリストを受け入れていたのではないか?
仮にそれが阿弥陀如来でも素戔嗚尊でも構わない…要するに本当に、私の主なるものとして感じざるを得ないのならば!
だから、私にはキリストとは固有名詞ではないのです。牧師や信者は何と言うか知らないけれど、イエスは違いますよ!
イエスは阿弥陀如来と言うのはやっぱりオカシイ!...阿弥陀様も固有名詞ではありません。
これは、イエスがキリストになったことと、法蔵菩薩が誓願が成就することによって、阿弥陀如来になったという、浄土教の教えとよく似ています。
ついでに言うと、イエスのみ名を通して祈るということも、阿弥陀仏への称名、念仏と似ていますね。ただ、それはキリストのみ名に何でならないのだろうと思うのは、ただの私のへ理屈でしょうか?
新約聖書によると、ナザレのイエスは、バプテスマのヨハネを通じて、水のバプテスマを受けてキリストになったのでしょう?
しかし、聖書記者は、どうもイエスは生まれた時から神の子、イエス=キリストであることを強調したかったからなのか、このキリストのイニシエーションというものを軽く捉えているようです。
私もずっとそう見ていました。あれはただ頭から水を浸す儀式なのだろう、と。
しかし、聖書をよく読むと、“聖霊が鳩の如くイエスの上に現れた“、とあるではないか?
ただの儀式なんかであろうはずがない!
これ以降、イエスの中にキリストが生きて、イエスを通してキリストが顕わになる、又聖霊のハタラキも顕わになったということではないでしょうか?
もっとも、仏典でも聖書でも、それが真実だろうと虚構だろうと、ただ書かれているだけのものとして、読んでたって何にもなりません。
自己の実存の現実に即したものにならなくては!
“我が主“が目の当たりに明らかなものにならなくては!
イエス=キリスト。これがどんだけ私に障壁となったことか!...それを自分のこととして受け入れられるのならいいでしょうが、そういう信仰命題をいくら信じてたってしょうがありません。
イエスにおいて、キリストと一つになったように、一人一人においてキリストと一つにならねば!
自己において、キリスト神我(真我)が実現しないならば、我々は本当には救われないのでしょう?
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我が主なるもの

2024-01-30 09:45:12 | キリスト教関連
多くのクリスチャンは、“イエスを信じないと救われない!“、と信じているのですか?
ホントに信じられないのに信じないとならないのですか?
いやもう、ホントに...ムチャクチャな話だとは思いませんか?
教会とは、多くの偽善者を作り出すところなのか?
だから私は、キリスト教にとても惹かれるところはあっても、ゼッタイにクリスチャンになんかなりたくなかったのです!
“私はウソをつけない人間なもので!“
正直、ずっと昔の、海の向こうの人のことなんか、信じ、受け入れることなど出来ません!...縁のあった福音集会で、このことをどうしても叫んでみたかった!...“御霊の促し“によってね!
「誰でも聖霊によらなければイエスを主であると言うことは出来ない」(使徒パウロ)
この英語の“lord“を“主“と訳してあるのは、実にスバラシイ!
もっとも、それは主君とか王侯のことで、信者は“僕“と呼んでいるような関係として捉えられているらしいですが...何と水臭い、他人行儀なことか!
それで、“キリストと一つにされる“、などとどうして言えるのか!
主とは、私自身の主となるもの、私に直結した大本の私、考えている表層の私を超えた私そのものでなくて何であろう!
実に思われた私を超えて、又内在したものに、真の、本来の自己が求められるのです。
これは、仏性、阿弥陀如来、禅宗の“無位の真人“、神道の“直日魂“、今日スピ界隈で普通に“真我“と呼ばれるものなどとも通じるものです。
つまり、“イエスに表れたキリスト“が真我なんだ!(思われた自分と直ちに同一視など出来ないが...)...それは言うまでもなく、本来超宗派的なものであるはずなのです。
このことを明らかにしてこなかったキ教は、全くどうかしているとしか言いようがありません。少なくともそれが同教が我が国でサッパリ振るわなかった大きな要因でしょう。
しかしながら、その我が主なるものの証は、“御霊“に感じていなければただの観念ごとに浮くだけでしょう。数多あるイエス論も仏性論もすべて空しい...
現実に我が主が臨んでいるかどうかが肝心なのです!
何度も言うようにこの神的な現臨という表現は、多くキ教から借りているのですが、これは、実際にその集会に参じた時にも、主として手島先生や小池先生、ベルジャーエフの本を読んだだけで(!)、そういうものを感じたことに依るのです。
ある意味では私にとってキリスト教とは聖霊教なのです。
何か理屈では分からない感応性がそこに感じられてなりません。
といって、キ教なら何でもそうなる訳では勿論ありませんよ!
おそらくそれらから、より夾雑物の無い、私に直結した、我が主なるものの息吹きが伝わるからなのでしょう。
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イエスと聖母マリア

2023-11-16 09:43:19 | キリスト教関連
キリスト.イエスは神の愛を強調して教えを説いたことは、クリスチャンでなくとも知っていることでしょう。
端的にイエスは愛なのであると!
しかし、私は疑問に感じてしまうことがあるのです。クリスチャンでないからでしょうか?
それは、女性ならともかく男性信者たちは、イエスにその愛の表れにすう~っと感情移入出来るか、ということなのです。
もっともイエスは人間を超えた神の子、従って男女の別も超えた存在であり、又聖霊と一つなのだから問題無いのでしょうか?
そうですね!…私の場合、聖霊感というか、その現臨感によって愛というものを実感するのであり、人間(でもある!)実際に会ったことも無い、イエスを思い浮かべることはほとんど無いし、あの御方の愛に抱かれるという感を持つことも無いのです。
イエスって、伝えられる人物像では、無精ヒゲを生やしていて、結構ワイルドな感じらしいじゃないですか?...何かなあ!...こんなこと言ってバチが当たるでしょうか?
こんな訳で、もし人間的な姿を思い浮かべることにより、愛を感じるとしたら、それは異性的なものを借りるというのが、自然なのではないでしょうか?
だから私は、カソリック教会に伝えられる聖母マリア崇拝というものは、こんなところから生まれて来たように思えてならないのです。
これは、神学的にイエスの、マリアの人格と神格?の関係がどうのこうのという理屈の問題じゃないのです。イエスの神人性をマリアに感じとってもいいではないのか?
カソリックの人たちは、あまり意識せずにそうしているのではないか?
そこへ行くと、日本神道はもっといいかげんな感じで、例えば男性神、素戔嗚尊を祭る神社には、その妻神、稲田姫と一対にして、祭られているケースが実に多いのです。
神の世界では夫婦はより一体になるのか、又これには出口王仁三郎師のその男女一体神観の影響もあってか、私には特に素戔嗚尊を思念して愛を感じる時には、その女性性に感じていることはごく自然なことなのです。
“キリスト教は、そんな偶像的な礼拝などしない“、な~んて、これ又そんな理屈の問題じゃないですよ!、神の愛を感じるかどうかと言うことは!
一方、イエスの救世主としての側面は男性性として感じられるのは言うまでもないでしょう。
肉体は男で、ミタマは女なのか?(大本では変性女子という)
イエスの裏側から現れるマリア(それは、一部で囁かれている、イエスの妻だったとされる、マグダラのマリアかもしれない?)...
やはり、私はイエスにも素戔嗚尊(ちなみに王仁師は、“イエスは素戔嗚尊の分かれである“、と説いています)にも、神人一体のみならず、男女一体のその神人性を感じてなりません!
これは聖霊、現臨によってそうならざるを得ないのです!...
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イエス最後の言葉

2022-09-28 09:30:54 | キリスト教関連
新約聖書マタイ伝によると、イエスは、十字架刑により自らの最後に向かう時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、神よ、何故私を見捨てられたのですか?)」と叫んだ、とあります。
私は、初めてこれを読んだ時、神の子イエスといえども、断末魔の叫びをしてしまうのだなあ、などと思ったものです。
これには昔から諸説があり、中には“神人一体の境地にいるイエスがそんな言葉など発するはずが無い!、何か歪めれて伝わったに違いない!”、という人もおります。
真実のところは、イエスに聞かなければ分かりません。
イエスの身にならなければ...な~んて、そんなのまっぴらゴメンです!...人間なら誰だってそう思うでしょう?
あんな残忍な刑などやる方も人間とは思えません。
この言葉は、旧約の詩篇の一節にあるそうですが、今わの際にそういうことを諳んじたりするのでしょうか?、しかもその言葉だけを?
やっぱりそれは、思い極まって発せられたように感じます。
イエスの”当たり前に”弱い、人間心から出されたのではないでしょうか?
しかし、それはイエスの本心だったのでしょうか?
何故なら、その直前まで隣で共に十字架にかかろうとしている者に向かって、「お前さん、今日パラダイスにあるんだよ!」と諦観、すべてを任せたような心境を表していたからです。
だけど、人間というものは、この機に及んでなお、否、最後の際だからこそ、分裂するものです!
私だったら多いにあり得ますとも!...”おい、俺が一体を何をしたって言うんだ!”、とか”た、頼む、い、命だけは助けてくれえ!”、とか人間ばかりか神に向かっても、そういうこと言うんじゃなかろうか?
イエスは、敢えてそうした弱い人間心というものを吐露したのではないでしょうか?
何のために?...我々当たり前に弱い人間のために!...
イエスは、人の子と呼ばれました。人の子という意味にも諸説があるようですが、私は、普通にイエスといえども人の子、イエスだから人の子でいいと思っています。
イエスは、人間というもの、この矛盾した、得たいの知れない生き物を象徴している存在だったのではないでしょうか?
それは、人間はどこから来て、どこへ向かい、帰るのか?、ということも示されていたのでしょう。
イエスは、神の子と呼ばれました。が...人の子でもあった!
だから、普通に笑い、泣き、怒るという人間らしい生き方をしていたのです。
そして、最後の最後には、分裂し、神をも否定するような心情も見せる。
しかし、本当に神のみ手にあり、全託の境地にある者からは、ああいう言葉は発せられないでしょう。
それは、本当の最後の言葉であるはずは無かったのです!
本当の最後の言葉は...「我が霊をみ手にゆだねます」...だったのです。
最後の最後にはそうならざるを得ない...
そこにすべての人間の行き着くところが示されているのではないでしょうか?!
コメント (3)
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キリスト教の外のキリスト

2022-09-09 11:01:26 | キリスト教関連
何度も言うように私は、キリスト教徒ではありません。
手島先生や小池先生など、キリスト者とされる方から多大な影響を受けて来ましたし、キリスト教っぽい?いくつかの団体と関わったこともありますが、なりたいと思ったことは一度も無いのです。
その独善性の強いキリスト教会にあって、割りと寛容な在り方を持った団体の中で私はずっとノン.クリスチャンを通して来ました。
要するに私は、“キリスト教のキリスト“を一度も受け入れたことが無いのです。この先もずっとそういうことは無いのである!
ただ、教会とか教義、教典など、そのキリスト教を取り巻き、形成している諸々の要素を取り払ったところに浮き彫りにされるであろう、キリストそのもの...その関わりから言えば、私はずっとキリスト教信者ならぬ、キリスト信者だったかもしれません。(信者という言い方は虫唾が走るほどキライなのであるが...)
少なくとも、私の実存とそのものとの間に、何ら障壁となるもの、抵抗感といったものは感じません。
いや、むしろ抗し難い、理屈を超えて、惹かれてやまないものを感じざるを得ません!
ヒタヒタと何かが臨み、私の外も中もそのものに満たされてゆく...そうです。そのキリストは現臨と共にあるのです!...
この現臨感というものは、多く先の先生たちから学ばされたことは確かなことです。その実存的関わりについてはベルジャーエフに多く負っています。
そうしていつの間にか、その現臨というものが私の実存と切り離されないものになってしまったのです。
断じてそれは、教会の御用達教義から受けたのでも、熱心な聖書読者でもない私が、その“誤謬無きみ言葉“から受けた訳でもありません!
ここで言っているキリストには、それら私の実存との間に介在する何ものも無いのです。
かつて、小池先生亡き後の集会や、クエーカーの集会において私を捉え、感応させたものは、そのキリスト教の外なる、“色の着いていない“キリストだったのでしょう。
と...このように書いて行くと、あるキリスト者などは、“アーメン、わが意を得たり“、と思って喜ぶかもしれません。
しかし、よく考えてみて下さい、キリスト教の外のキリストとは、もはやキリストとは呼ばれないものなのかもしれないのですよ!
仮に、阿弥陀如来にその現臨を強く感じることもあるかも分かりません。神道的な神の“み顕れ“を感じるかもしれません。(私の場合?...キリスト教的なものから多く負っているのは確かなのですが...切り離されない、分けられないですね...)
何であってもいいが、何であってもよくは無い!...現実にそれが臨むことが肝心なのです!
つまり、キリスト教の外のキリストとは、あらゆる宗教宗派を超えているのです。
それは“自己を超えたもの“との二重の意味で、超越的なのであり、自己の、我々の思いを超えたものを頂くということに尽きるでしょう。それは又自己実存と切り離されないものなのです。
特定の呼び名に囚われない、本来名付けられない現臨にあって、自己は自己でありつつ、普遍性へと開かれるでしょう。個的なものと普遍的なものは切り離すことは出来ない!
その境位から宗教対立は夢と消えて、宗教が本来指向していた、普遍調和世界が開かれてゆくでしょう...。
このようなことを呼び覚ますものは、私の中の普遍的なキリストなのでしょうか?

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