人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

起きたら起きていた!

2023-02-27 08:56:36 | 独語
今朝も目覚めたら起きていた!
起きたら起きていた!
愛、平安に包まれていた!...

先日あるブログを読んでいたら、”結果が先で原因は後”、というようなことが書かれていた...
なるほど!
何でそうなったのかは分からない...
とにかく、朝起きたらそうなっていたのだ!
”これは、神とか守護霊などが寝ている間にステキなことを仕組んでくれたのだ!”
”何であれ、起こることにはすべて縁起の法に因っているのだ!”
霊感者ならそういうかもしれない...
おシャカ様がそういうことを説いたかもしれない...
科学者は?...何かの必然?...偶然?
”純然たる”私には何だか分からない!
原因が何か考えたりする...
何か分かったことらしいことにしてみる...
すべては後付けのこと!
起きてみたら天地の事始めみたいだった!
そこに愛、平安があった!
始めにそれがあった、ということでいいのだろうか?
これが悪夢から覚めた時のように恐れや不安に覆われていたらどうなのだろうか?
受け入れたくない!
受け入れられない!
そう、現実に受け入れられないのだ!
生の焦点が定まっていないような...
私はそこに在ることが出来ないような...
何も始まってこないような...
これに先立つ本来的な何かがあるような...
愛、平安...
そこに安んじられるものかある!
私は在る!
そこにすべてが集まり
始まってくる...
私の天地の事始めに何があるのかは分からないが...
起きたら起きていたことは...
受け入れるしかない!


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”イン”

2023-02-25 09:27:39 | 人生の教師
「”私はキリストの内に、キリスト私の内に”、というのは形容的に言っているのですか?、形容じゃないですよ、現実ですから!、だからインの世界に入るのです」(小池辰雄)

小池先生はさかんに、”○○の中に入る、○○の中に”、ということを言われていました。
先生の場合は、キリストであった訳ですが、”信入、祈入...”といったように、とにかく入らなければダメなんだと!
この”イン”、というのは、”入る”ということでもありますが、すでに中に在るということでもあります。入って来るものがある!...それを受け”入れる”ことなんです。
これは、すべての宗教やスピ、精神的な道の焦点と言っても過言ではないでしょう。
何が焦点って、意識が自ずとある焦点に収斂されてゆくことでもあるんですから!...
思いを”入れる”...思いから離れる、意識的になる~意識世界に入る...それは同時に神、キリスト、如来といったものが、真向かいに顕わになるということなのです!...つまりはそういう現臨に在る、ということでしょう。
中に入らない、思いを超えた消息が分からないから、真偽の分からないことを妄想したり、エセ教師だとかに迷わされてしまうのです。インしてこないのは、アウトですよ!
そうして、いつまでも実存世界の外側、思念世界をグルグル回り続けているのです。
中に在るということは、神を傍観者のように見ていることじゃない!、いや見ているように感じない!...一枚、一如になっていることなのだから!
精神的な道では、否人生では、この”中に...”、という契機となるものに出会えるかどうかということが非常に大きいことです。
私などは最初、小池先生のそうした言葉に触れても、どうしたら中に入ることが出来るのか?、とか考えてしまったものです。
”これじゃ、アウトかな?”、なんて!...だけどどうしてもそのことが意識に植え付けられてしまったか、拭い去れないものを感じていたのです。
○○の中に入る、中に在る...きっと劇的に人生が変わるようなスッバラシイことに違いない!、と。もう、先生の書き物を読んでいるだけで幸福になっていました。
な~んてことはない!...私はすでに”入って来るもの”に捉えられていたのでしょう。
その中には、愛、平安、リアリティがあるのですから!
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導師としての神

2023-02-24 09:35:06 | ガイダンス
私はここで神のことを何度も書いています。
別に神というものに囚われる必要は無いんですけれども、自分の思いを超えた、超越者、他者的なものとしてそういうものを言い表しているのです。
この理由も何度も触れているように、思っている私のみからは、思いを超えることも、そこにある意識次元に開かれることも、目覚めることも、光が差し込む(エンライトメント~悟り)ということも無いからです。
普通に考えても分かることじゃないですか?!...しかし、こんな肝心なことが案外自覚、認識されてないようなんですね。
我々は、西田哲学で言っているような絶対他者、絶対無になければ、向き合わなければ、ゼッタイに悟り的な無性、空性に与ることが出来ないのです!
そうでなければ、”私は無になりました!、何にも思ってません!、私は悟ったのです!”、と思い込むだけなのです!
こういう人間てのは、実に鼻つまみもので、異臭プンプンじゃありませんか!
むしろ、普通の人間よりもうんと自我性が強固に思えて来ますよ!...こういうのを魔境と言うのでしょう?
思おうとする、為そうとする自分が先走ってしまい、”神的なものにあって”、ということが抜け落ちるからそうなってしまうのです。
だから、”悟りだ、覚醒だ、完全覚醒だ(バカ言ってんじゃねえ、っての!)”、なんてことよりも自我的な思いから離れることの方がはるかに重要なことなのです。
だからだから、自分からはどうにもならないから、神にあって、神に思いを入れる、ということがある訳です。私”が”悟った、なんだというのは余計なことなのです。
悟るためとか、無になるためとかに囚われるのでなく、常に神に意識を置いているだけで平安でいられる...現実に、人一倍自意識が強い私には分かる...私”が”という線からはどうしてもそうなりません!
どこまでも、神に在ることが主眼なんです。
この辺りのことは、私には西田哲学なんかは難しくて手につかないでしょうが、五井先生の”消えてゆく姿”、又特に小池先生の”十字架”の教えに接したことがとても大きかったのです。
こう考えると、精神的な道においては、”導師”の存在というのは不可欠だと思いますね。
まあ、普通は導師と言えば、当たり前に肉体を持った人間のことなんでしょうけど...
ラマナ.マハルシなんかは、そうとは限らないと言っております。
そのとおり!...あなたの現前に絶対他者、絶対無として臨んでいるものこそは、導師ではありませんか?!...見えざる導師!
”見える”導師には、”私は完全に悟っているんです!”、なんていうエセもいっぱい居て迷わされますが、絶対他者として現臨する、導師としての神は、出会った瞬間に思いを超えて、その宿命的なものを示されます。それ自体がエンライトメントと言ってもいいのです!
だからこそ、いつも神に思いを向け、神に在ることが大事なことなのです!

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神との回路

2023-02-23 09:31:08 | 
“ネガティブなことを思うのはやめて、ポジティブな思いに切り替えよう!
怒りや暗い気持ちは抑えて、明るく笑おう!“
私はここで、このように自分の心の持ち方を変えるようなことはほとんど言ってません。
自分の経験に即したことなのですが、心からそういう気持ちになったことも、変わったこともほとんど無いからなのです。
“いや、そこを気持ちをもっと強く持たないと!...“なんて言われても...だから気持ち自体がそうならないんだって!
勿論、ネガティブな思いでいることも、怒りや暗い気持ちでいることは、けっしていいとは思いませんよ!
余程私の心は、“心の鍛錬”をするには捻れているのでしょう?
じゃ、自分で自分の心をどうこう出来なきゃどうすればいいのか?
神を思えばいいのです!...神に意識を向けるとか、分かりやすく言うと、そういうことを言っているのです。
五井先生流に言えば、神に思いを投げ入れてしまうこと...祈るということも、思う、意識を向けるといっても同じことです。
それで気持ちがポジティブになれるか、暗い、荒んだ気持ちが晴れるかどうかは知らない...知らないんだけど、自ずと安らぎ、平安に満たされます!
心を変えるために、ってことも勿論無くはないのですが、この場合は神を意識することが重要なのです。だから、知らない!...だけどそれで平安に導かれない訳が無いのです!
心を変えようとしたって、黒を白く変えられないように、ならんものはならないですよ!
最初は神を思うというと、自分で思おうとしてしまうかもしれないけれど、何か“開かれる”という感じがしてきたら、自分の思いを超えて、神的なものが臨んで来るのが分かるようになるでしょう。
開かれる、というのは神との回路みたいなもので、そこから神的なエネルギーが流れてきたり、交流がもたれりするあるもののことです。
一度、それが開かれてしまえば、思おう、やろうとしなくても、“自ずから“という感じになります。
実を言いますと、向けられないこともそりゃあるし、今でも”そんなバカな?“、な~んてことも思うこともあるんですよ!
だけどだけど...“んなことがあるのか!”、ってことを何回も感じさせられているのです!
自分の思いを超えて、っていうのはこういうことなのです。
私なんかは、“そんなの当たり前だ、百発百中だ!”、なんていい気になってるより“そんなバカな!”と思ってた方がいいからそうしてんですよ?...
”百発百中?...そうかな?...きっとそうだろう?...ふはははっ!“
自分で書いててウケてます!
要するに、自分の思いに取り込んだり、自分で自分の心をどうとかするんじゃなく、根本的なことは、神に意識を向けることに重きが置かれているということです。
だから自ずと意識が向いてしまうのでしょう!...

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春と木

2023-02-21 02:37:58 | 詩的文章
春が来る...
枯れた木に芽が出る
枝が伸びる
葉が生える
花が咲く...
死んだような木に
無駄に立っているような木に...
それとも...
無駄な葉や枝を落としていたのだろうか?

春が来る...
元々枝も葉もある木
常緑樹...
枯れることがない!
無駄がないのか?
進歩が早いのか?
枯れることより優れているのか?
変わらない!
早い遅いも
進歩も退歩もない!
変化がないのが無駄なのか?

春が来る...
一斉に来る!
来るものは来る!
木には枝が伸び
葉が生え
花が咲く...
伸びていた枝
生えていた葉にも
新しい春が来る!
木々たちはただ...
受け入れているだけ...



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