人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来の無教会精神

2021-12-30 10:26:38 | 求道、探究
ある全国的規模の、いや広く世界にも伝播している宗教的団体S会の国内の会員数は、実質十人くらいになってしまったのだそうです。
私がかつて関わっていた30年くらい前は、関西圏に4つばかりあったその支部のうち、私が所属していた一支部でさえ、男女合わせて(何故か男女で別れていた)そのくらい、いやそれ以上は居たかと思います。
私はこれまでそんなに有名でない、小規模の団体ばかり、いくつかの団体に関わってきましたが、どこも同じ状態じゃないかと推測しています。
これも浮き世の流れ...致し方のないことでしょう。
あの先生の、師の教え、道統は廃れてしまうのか?...それを後の人のために誤りなく伝えることが私の使命だったのではないか?...って、そんなものがあったら、今頃一人でここで好き勝手なこと書いて悦に入ってなどしてませんてi...
勿論、私は先師たちから人生を左右するほどの大きな道の伝えを受け、そのことをいくら感謝しても、したりないものを感じていますし、多分...ここでその感じたままのものが表わされているのでしょう。
それがどこまで誤りなく、正しいものかどうかは分かりませんが...
団体が正しいとしているものと合致しているか、どうかなど分からないし、第一(分かりきった話ですが)、各々の団体はそれぞれ違うことを説いているのだから、何が正しいかということに拘ったら、"しっちゃかめっちゃか"になるだけでしょう。
年末だし、ここで原点に戻ってみよう...もとより、私は団体との関わりを求めていたのではありません。
私一人の内なる求めから始まっているのです。その団体の教えを信じ、従おうとしたのでもありません。
神そのものを求めていたのです。神との接触、その直接体験...神をキリストと呼ぼうと、如来と呼ぼうと、それは形なき命である...それはその求める私自身と切り離されたものである訳がない...神体験とは実存体験と同じである...
それがどの団体に対するものであろうと、いやそれに関わろうと、関わるまいと、何十年月日が流れようと同じじゃあるまいか?
原点に立ち返る...それは時、ところを越えて一貫して息づいているものに立ち返るということに他なりません。これが蔑ろにされるなら、その団体が廃れようと無くなろうと感知するところではないでしょう。
とはいえ、私一人だけという有り様には勿論限界があり、そこに他との有機的交わりというものも求められてくるでしょうが、それもそうした原点、原態あってのものであるはずです。
一人一人の形なき命とのつながりあっての有機的つながりでしょう。
団体への寄りかかり、従属された思いからでなしに、私一人からという気概が無ければ、神とのつながりも他とのつながりも無いでしょう。
それは形として個人であっても、それは個人を超えたものに開かれたものとなり、又何らかの団体との関わりであっても、その生きたつながりは、各々の自由な精神から生まれるものです。
これが本来の意味での無教会の精神(いつからただの聖書研究会になったのか?)であり、それはキリスト教に限ったものでないのは言うまでもありません。
これがずっと私に息づいていた精神であり、だからこそ色々違う団体と関わることが可能だったのです。
私が特定の団体との関わりから離れて以来、知らないうちにそれらの衰退は加速して行っているようです。
これはその団体を超えて、そもそもそれが差し示していた、その向こうにある、一にしてすべてなる普遍的つながりが表に顕わとなる兆しではないかと思われます。
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分からないこと、分かっていること

2021-12-28 12:02:53 | 雑感
ここのところ、減少し続けていたコロナ感染者数が、数日前から増加の兆しがi...
年末年始を迎え、昨年のような爆発的増加を見せるのか?
さらには、不気味に広がりを見せ始めた新株の動き...
うーん、分かりませんi
コロナについて私は、一貫して"分からない"で、通してきました。分からないんだからしょうがないi
分からないってのは、不安ですね。だから、多くの大衆は、色々飛び交っている中で、自分が信じやすい情報に飛び付き、何か分かったつもりになって安心を得ようとするのでしょう。
しかし、例えばワクチン反対を、マスコミはその有害性を隠している、と陰謀論を交えて説えている人たちというのは、何か安心を求めているのでしょうか? 不安な今の状態よりもっと不安な事態になったら大変だ、と周囲にその情報を拡散しているようです。
要するに心持ちが負性になっているのです。
もっと分からないのは、その中に"世界平和の祈り"を祈り続けている人間が居るということです。
ワクチン肯定派、マスコミ、医療関係者、さらにはその背後に居るのか、どうか分からない闇の勢力...どれだけ敵が居るのか、どこに安心があるのか、テンデに分からない...さらには何十年後には人類が半分になるとか、ならないとか信じているらしい...一体何の世界平和なのでしょうか?
私は特別、そういうことに関わっていないので、どうでもいいとはいえ...五井先生が生きていた時代には考えられないことですi
"今より不安になったら、どうしよう"...こういう、心が負の状態になっている時は、現在が不安で、安らぐことが出来ないのでしょう。
私にはコロナのことも、ワクチンのことも分からない...素人なんだから当たり前でしょう。分かったようなこた、言える訳ありません。
そんなだから、医師などの専門家、マスコミ、あるいは政府からの情報はどこまで信用していいか分からないですが、こういう状況下では特にそれらをある程度信用しないことには、マトモに生きていけないでしょう。
まるで闇夜に生きているようなものです。それには分かっているものを頼りにするしかありません。
それは、神です...って、私はそれも分からないで通してきたのでした。分からないですよi
だけど、それが何に依るのか分からないけど、それに意識が向かうと、心が安らぐってことは感覚で分かる、ってこともずっと言ってきたことです。
それが何であるかなど知る必要がありません。心が安らぐから...
だから、分からないものを分かったように言う必要がありません。まして、それで不確定な不安が増殖されるようなことなどi
といっても、やっぱり不安になる時はどうしてもなりますね。ちょっとした風邪の症状が出たりなんかしても...
そういう時は、風邪の症状が出たことを認めるしかありません。受け入れることです。それが分かっていることなんだから...
万が一、コロナにかかっちゃったら、それも認めるしかありません。それで死ぬと決まった訳じゃないし...
少なくとも、分からないことを色々妄想して不安と絶えず戦い続けるより、ずっと心の負担にはなりません。受け入れた瞬間、不安からは離れられます。
いや、思いを超えた安心に与るかもしれません。
現実を受け入れることは、現臨を受け入れることにつながるのですから...
これが私のウイズ.コロナ生活...なんちゃって...分かっているのは、この年の瀬もウイズ.ビンボー生活ってことです(トホホ)...。
コメント (8)
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トラワレを超えたトラワレ

2021-12-26 09:36:21 | 独語
私は仏教徒には向いてない
無念無想...絶対ムリi
無常、無情(?)...
何か心に衝撃を受けると、いつまでも引き摺ってしまう
喜怒哀楽の感情が激しい
可愛い、可哀想、面白い、このやろーi
"トラワレちゃいけませんよi"
"考えてちゃダメですよi"...
そういうことを他に向けて言ってるつもりは無いのだけど、言わそう、言わそうとする心の声は感じている...
多分、そういう私自身に向けられているのだろう...
そうすると...ほら、トラワレ、考えちゃうんで...
向ける方を変える...イヤ、変わっちゃうi
あったり前のことだけど、ありのままの思い、感情がそっちに向かう、向いちゃう...
何を思っている...感じている?
可愛い、可哀想、面白い、このやろーi
思っている、感じているのはそのままでも...怒りは収まるのは確かだが...消える訳じゃない...
しかし...重くのし掛からない、負担にならない...
まだ引き摺っているんだろうか、トラワレているんだろうか?
引き摺ってようと、トラワレてようと、どっちでもいいi
苦にしてないから...
あの御方のイキがかかっている...
その中で思っている...
あれ、思ってたと思ったが(?)...どうでもいいやi
ずっと感じてはいる...
いつから、こういう自動転換装置が作動するようになったんだろう...
いつまでも考え、トラワレる私は相変わらずなのに...
きっと、私がトラワレてると思っているものより、はるかに大きな、強力なものにトラワレているのだろう...
私を苦しめる生来の欠点は、多分直らないだろう...
直そう、という気が無いみたいだから...
その欠点無しには、あの至福には与れないだろうから...
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与り知れないもの

2021-12-24 10:05:00 | 現臨、ハタラキ
私がいつもくどいように言っていることは、自分が思っているだけの世界からは、自分のことも、世界のことも何も分からないということです。
"思いを超えた..."というのは、何も形而上の何か(超越というとそのように受け取られてしまうようですが...)を持ち出すようなことじゃなく、要するに思われた世界だけからは与り知れないもののことです。
神、聖霊とか...仏教においては、これは玉城康四郎先生が強調され、キリスト教の聖霊とよく比較されていたように、"ダンマ"ということが出来るでしょう。
仏陀は、形而上の存在については、語らなかったようですが、ダンマというものはどうなのか?
それは仏陀に内在していた智慧が発現した、と言えるかもしれませんが、超越したものだろうと、内在したものだろうと頭脳智では与り知れないものには違いないでしょう。
このことを、いつも考えている自分から抜けることの出来ない、自分の現実に即してみたらいいでしょう。
一体、どうやって、仏陀は縁起観のような世界に目覚められたのでしょうか?、どうして思いの断滅などということが可能なのでしょうか?
仏陀は頭脳智で考え抜いた末にそうしたものが開かれたのでしょうか?...なら、あなたの現実に即してやってみたらいいでしょう。頭がパンクしても知りませんが...
"気付き"ということを一つとっても、思いを超えたものの消息が分かるのではないですか?
与り知れないもの...それは、この世が見ることも、聞くことも、理解することも出来ないもののことなのですi
聖霊、ダンマ、私的には現臨...それが何であるかは分からないし、知る必要もありません。
だから、"聖霊は真理のみ霊である"とか、"それは愛である"とか語られることはあっても、存在論、実体論として語られることは、聖書にはほとんど無いのです。
これはダンマについても仏陀は、それが何であるかについては無記であったのです。
所謂心霊学では、背後霊とか守護霊とか、それが何である、こうであるとかの客観的説明は成されていますが、聖霊についてはノータッチのようで、同じ霊でも全く範疇を越えているという感じです。
要するに、出来ないんですi...何故かというと、自分の実存と直に関わるものだからでしょう。
聖霊、ダンマは自分が受けて、与って初めて分かるものだからでしょう。
これは、その実存というものと同様でしょう。だから、私自身の生の実存は、所謂実存主義哲学を笑うしかないi
そして、私はこの与り知れないものについての、分かったような屁理屈(例えば聖霊、神のロゴスのことをただの言葉に置換してみたりなど)に接すると激しい憤りを覚えます。手島先生と化してしまいそうですi
与り知れないものについて、私が強く感じているのは、恩寵というものです。恩寵というものをこれっぽちも望んでいない人間のゴタクなど耳が、いや私のすべての実存が汚されるばかりではないかi...そんな人間などさっさと地獄へ落ちろ、ではないかi
恩寵無しに今の私はあり得なかった...恩寵だけで生きているような私が、そんな言葉を発してしまうのでしょう。
恩寵は望むものに与えられるでしょう。それを望まない人間は、恩寵を望むことがどういうことかも分からないでしょう。
それは、自ずと頭が低くならざるを得なくなる、ということですよi
このこと自体がどんなに自他共に救いになることだろうか?i...少なくとも、そこから新しい何かが始まって来るのですi
それは知らずして、与り知れないものに与ることに他なりません。
それは私の、あなたのすべての実存の喜びとなるものに違いないでしょう。
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自分を受け入れ、神を受け入れる

2021-12-23 12:18:56 | 求道、探究
"ありのままの自分を受け入れること"
このことは、度々言っているように、精神的な道においては勿論のこと、日常生活、今神経症など心の病を抱えているような人にも、とても有効なことなのです。
というより、そうでなきゃあなたは生きてないでしょ?...
ありのまま...殊更説明しなきゃならないのは全くどうかしてます。
逆に言うと、世の中なんかおかしい、生きづらい、行き詰まっている、問題がいっぱいのように感じるのは、ありのままになっていないということでしょう。だから、それを変えてありのままを受け入れなければならないのです...って、そうじゃないですよi
自分が弱く、問題だらけで、どっか病んでいたら、その自分を受け入れるということです。そこからしか何も開かれてこないでしょう。
自分を変えなければi...と、自分の力でそうしようとする...一時は信念の力みたいなもので、変わったように感じても根本的には変わらない...でも"変わらなきゃi"、という思いが先走り、その思いが重くのし掛かる...そして対人にも"自分は変わったのです、進んでいるんです、正しい方向に..."になどとポーズを取る、そして自分自身をも誤魔化し続ける...
変わらんのなら、変わらんでいいじゃないかi、そうなっちゃってんだから...お天道さんに投げ出すつもりで自分に向き合ってみる...お天道さんは自分の一念で変えることは出来ない(お"不動"さんの自分も)、ゆだねるしかない...これは、一種の開き直りみたいなものです。
そうです。そうすると、何かが開かれる感じがして来ませんか? 自然に...(こういう神経症的プロセスは、私自身が経験していることに他ならないことで、私は自分で自分を変えようとして、変わったことなど一度もありませんi)
日光に照らし出される、照らされる、投げ出されるまんまが、ありのままを受け入れること...そう、これは私が"照明に与る"、と言っていること、ひいては"現臨にある"、ということと同じことを言っているのです。
ここでは分かり安く、ただ、受け入れること...しかし、ありのままでない状態なことの多い、今の世の中にあって、こんな当たり前であることが困難になっているのかもしれません。
自分で思い、自分が行動しなきゃならないと、その思いが強く、弱い、ダメな自分を受け入れられない...というより、罪の意識がそうさせるのか、それに向き合うのを拒み続けているのでしょう。
今や、自己否定の、他者も否定される、行きどころの無い、地獄の思いでいっぱいi...救いようのない世の中ではないかi...強がりのポーズなんかしてる場合じゃないですよi
もう、自分を超えたものに寄り頼むしかないのではないか?(いつまでも救いを求めるのは弱い心だ、とか思っている人間には永久に分からないでしょう)
というか、そうなっているからこそというか、私は、日々そういうものを呼び求めれば、すぐ応答してくるようにも、見えない導きが我々に近しくなって来ているのを感じてこれを書いているか、書かされている次第なのですが...神を受け入れることは、自分を受け入れることであり、逆も又然りなのです。
神の恩寵の光は、ありのままの自分を映し出すものに他ならないから...ありのままの自分とは、顔を背けたくなるような自分ばかりじゃなく、まるごとの、すべての自分のことですよi。
神のことと自分自身のことは、ますます切り離されないもののように感じて来てなりません。
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